親指を噛む
朝起きて、昨日みんなが着ていた水着を干した。
潮風に当たるから、他の洗濯物は乾燥機を使ったけど、水着だけは屋上デッキの太陽の下に干す。
青空の下を泳ぐビキニが、どこか嬉しそうだった。
別に僕は、幾多の洗濯修行の結果、洗濯物の気持ちが分かる特殊能力を得たとか、洗濯物の声が聞こえるとか、そういうことではない。
ここで聞こえるのは、心地いい波音だけだ。
「先輩、おはようございます!」
干し終わって水着を眺めていたら、弩が屋上に顔を出した。
「おお、おはよう」
昨日は夜遅くまでみんなでトランプしてたから、他の女子達はまだ寝ている(ヨハンナ先生主催のラジオ体操は消滅して久しい)。
「気持ちのいい朝ですね」
弩がそう言って伸びをした。
手を大きく空に突き上げる。
弩の長い黒髪が、風になびいた。
「よく眠れたか?」
「はい! 昨日は海でたくさん遊んだので、ぐっすり眠れました。ほら先輩、日焼け止め塗ってたのに、ビキニの跡、ついちゃったんですよ」
弩がそう言って、着ていたTシャツの首元から、ビキニの紐の白い跡を見せる。
そのシチュエーションに、ちょっと感動した。
女子に日焼けの跡を見せられるって、男子高校生が憧れる夏休み明けのちょっと気になっているクラスメートからされたいこと12位くらいじゃないだろうか。
「弩、配膳を手伝ってくれるか? 天気もいいし、この屋上デッキで朝ごはん食べよう」
「はい、手伝います! 海を見ながらの朝ごはん、気持ちよさそうですよね」
弩の声がいつもより二段くらい弾んでいる。
屋上デッキにテーブルを出して、テーブルの周りを覆うように、頭上に日よけのオーニングを張った。
弩と二人で、テーブルに朝食の皿を並べる。
配膳をしながら、ふと、枝折と花園、二人の妹の顔が脳裏をよぎった。
「先輩、どうしたんですか?」
手を止めた僕に、弩が訊く。
「うん、なんか、枝折と花園もここに連れてきてやりたかったなって」
二人の分も用意して、みんなでわいわい食べたかった。
「久しぶりに御両親が家に帰って来るんでしたっけ?」
「ああ」
母と父を迎えるために、今頃二人は、祖父母のところから家に帰る支度をしてると思う。
二人とも、お兄ちゃんと離ればなれで寂しいって、毎晩枕を濡らしていただろうし、両親の帰宅が重ならなければ、ここに連れてきてあげたかった。
「先輩も、お母さんとお父さんに会いたいんじゃないですか?」
弩が訊く。
「ああ、会いたいな」
それは、マザコンとかそういうことではなく。
「だけど今は、弩達と一緒にいたいんだよ」
「えっ?」
「だってみんなは、僕の妻だからな。妻の幸せを一番に考えるのが、主夫だから」
僕が言うと、弩が「ふええ」って急に慌てだした。
「先輩は鈍感なのに、時々ドキッとすることを言うから、ずるいのです」
弩が、べーって舌を出す。
僕はそんなにドキッとすること言っただろうか?
弩に手伝ってもらったから、朝食の準備はあっという間に終わった。
「こうやって、洗濯したり、朝食作ったり、やっぱこれがリア充の夏休みって感じだよな」
僕が言うと、
「全然違うと思いますけど」
弩がつれない返事をする。
「さあ、お寝坊さん達を起こそうか」
僕達は、二階で寝ている眠り姫達を起こしに行く。
朝食の後で、二日目も僕達はプライベートビーチでまったりと過ごした。
あれだけ言葉を並べて恥ずかしがっていた新巻さんも、すっかりビキニに慣れている。
「篠岡君、ちょっと背中のところ塗って。手が届かないの」
僕に、海に入って落ちた日焼け止めクリームを塗り直させるくらい、慣れていた(慣れすぎだと思う)。
「はい、それじゃあみんな、一人ずつ写真撮りますよ」
ちょっとコテージに戻っていたと思ったら、萌花ちゃんが、カメラを提げて浜に下りてくる。
「みんなのビキニ姿、グラビアアイドルみたいに撮っちゃいます」
萌花ちゃん、フルサイズのデジタル一眼二台体制でノリノリだ。
「そういうことなら、私がお手本を見せてあげるわ」
ヨハンナ先生が、ビーチチェアーからすくと立ち上がった。
先生は、萌花ちゃんのカメラの前で髪を掻き上げるポーズをする。
先生の髪が、パラパラと指の間から零れ落ちた。
挑発するような視線をレンズに向けるヨハンナ先生。
もし僕がその視線の直撃を受けていたら、即死だったと思う。
「あっ、そういうわざとらしいのはいいですから」
萌花ちゃんがカメラを下ろした。
「なによぅ、もう!」
先生は不満げだ。
「先生は、自然にしていても十分セクシーですから」
萌花ちゃんが持ち上げる。
「まあ、それもそうね」
先生……否定しないのか。
ヨハンナ先生が黒いホルターネックの水着で浜辺を歩いたり、ビーチチェアーに寝そべる姿を萌花ちゃんが撮った。
先生が波打ち際に座って空を仰いだり、科を作って振り向くところに、パシャパシャとシャッターが切られる。
「綺麗ですぅ」
女子達全員が見とれていた。
それには完全に同意する。
「じゃあ、次、弩さん」
萌花ちゃんが呼んで、
「はい!」
って弩が波打ち際に走る。
弩のピンクのビキニの、胸元のフリルが揺れた。
「弩さん、自然なポーズでね」
萌花ちゃんが言うと、弩がいきなり四つん這いになる。
弩、女豹のポーズをするな!
萌花ちゃんに怒られて、結局弩も自然なポーズで写真を撮った。
打ち寄せる波を蹴ったり、後ろ手を組んだり、女の子座りで砂に相合い傘を書いたり、初々しいアイドルみたいだ。
「それじゃあ次は、宮野さんね」
萌花ちゃんに言われて、体がカチコチの宮野さんが、波打ち際に歩いていった。
宮野さん、右手と右足、左手と左足が一緒に出てるけど大丈夫か?
「ほら、宮野さんはもっとセクシーなポーズして」
緊張で強張っている宮野さんに、萌花ちゃんが投げかけた。
「はい」
宮野さんは返事をすると、足を開いて、胸を張り、拳を固めて立つ。
宮野さん、仁王立ちは、セクシーポーズとは言わないから。
そんなふうに固まっていた宮野さんも、萌花ちゃんの投げかけでシャッターを重ねるたびに、柔らかい表情になっていった。
最後の方になると、波と戯れる自然な顔で写真に収まる。
やっぱり、萌花ちゃんは写真のプロだ。
「萌花ちゃん、みんなの写真のデータなんだけど……」
(コピーさせてくれないかな)
僕は萌花ちゃんに念を送った。
すると、
(先輩、分かってますよ)
萌花ちゃんが、ぐっ、って、親指を立てて合図してくれる。
ありがとう。
そしてありがとう。
そのデータ、『世界の昆虫』フォルダに入れて、一生大切にする。
「さあ、それじゃあ、次は篠岡先輩の番です」
萌花ちゃんが、僕にカメラのレンズを向けた。
「はっ?」
なんだそれは?
「いつも先輩を撮ってる、普通の男子高校生シリーズの特別編で、今日は水着姿を撮りまーす」
萌花ちゃんが言う。
僕は、なぜか反射的に手で胸を隠してしまった。
「篠岡君、あなたに拒否権はないわ」
「先輩、逃げられませんよ」
「覚悟を決めましょう」
女子達が、口々に言う。
そんな、僕の水着の撮影風景なんて描写して、ブックマークとかフォロー外されたらどうするんだ!
ん?
んん?
ブックマークってなんだ?
フォローってなんだ?
混乱していて、わけの分からないことが頭に浮かんでしまった。
「もう、観念するしかないわね」
ヨハンナ先生が言った。
「はい、先輩、撮りますよ」
萌花ちゃんがシャッターを切る。
僕が浜辺に座って水平線を眺めているところとか、波打ち際を走ってるところとか、たくさん写真を撮られた。
一度海に入って、上がるところ、水が滴るところ、太陽に焼かれて肌に玉のような汗が浮き上がるところを撮られる。
最初、恥ずかしかったけど、パシャパシャと次々に切られるシャッター音を聞いてると、段々、気持ちよくなってきた。
撮られることに喜びを感じている自分がいる。
「先輩、いいですよ! すごくセクシーです!」
萌花ちゃん、のりのりである。
僕は、調子に乗ってカメラに向かってウインクとかしてしまった。
口の端で、親指とか噛んでしまう(出来心なんです、すみません!)。
「萌花ちゃん、そのデータ、後でコピーさせてね!」
ヨハンナ先生が言った。
先生、ストレート過ぎる……
それに、僕の水着写真のデータなんて、どうするんだ!
そんなふうにして、撮影会は夕方まで続く。
僕達は、今日も一日中、遊び続けた。
「それで今夜はどうしますか? また、昨日みたいにトランプ大会ですか?」
夕焼けの浜辺で、新巻さんが訊く。
「私、浜辺で花火がしたいです!」
弩が手を挙げて言った。
「そうね、でも、花火は最後のほうにとっておきましょう。ここから帰る最後の夜に、盛大に花火しましょう」
ヨハンナ先生が諭す。
確かに、花火はこの夏最後の思い出にとっておいたほうがいいかもしれない。
「それじゃあ、今夜は何をするんですか?」
萌花ちゃんが訊く。
「夏の夜にすることっていったら、決まっているじゃない」
ヨハンナ先生が不敵に微笑んだ。
「き・も・だ・め・し!」
先生が、そう言ってウインクする。
夏の夜には、肝試しするって決まっているらしい。