青い梅
今日の晩酌のおつまみは、枝豆にすることにした。
夕飯の買い物に行った帰り、道端にある畑の無人野菜売り場で、農家のお爺さんが、おいしそうな枝豆を売りに出しているのを見付けたのだ。
ふっくらと中身が詰まってるし、なによりも採れたての瑞々しい枝豆だった。
使える食費は決まってるけど、ビールと一緒にこれを出したときのヨハンナ先生の笑顔を想像したら、思わず自腹を切って買ってしまった。
豆がたくさん付いたままのやつを三本。
一本100円で、計300円なり。
ヨハンナ先生はこんな小さなことでも感動してくれるし、キラッキラの笑顔で答えてくれるから、その笑顔を見られるなら、こんな出費は痛くない。
これだけあれば、寄宿舎の女子達みんなで食べられるくらい茹でられるし。
男子高校生が枝豆を買うのが余程珍しかったのか、脇で作業していた農家のお爺さんが、一本オマケしてくれた。
他に新鮮な野菜もあるし、今度から、買い物帰りには毎日ここに寄ってみることにしようと思う。
寄宿舎に帰って、僕は早速、台所で枝から豆をもいだ。
玄関や階段ホールでは、名探偵の女子達が、相変わらず、この館の謎を調べ回っていて、その声が台所まで聞こえてきた。
新巻さんと宮野さんに、弩と萌花ちゃん。
姉妹みたいに仲が良い女子達の楽しそうな声がする。
ヨハンナ先生の部屋から時折聞こえる風鈴の音と、林から聞こえる蝉の声、そして女子達の声を聞きながら、僕は豆をもいだ。
寄宿舎の午後は、平和な時間が流れている。
枝からもいだ豆を塩で揉んでいたら、台所に新巻さんが入って来た。
アイスブルーの、ノースリーブワンピースの新巻さん。
「ねえ、お母さん、何か飲み物欲しいんだけど」
新巻さんは、僕の顔を見てそう言った。
ん? お母さん?
僕が首を傾げると、新巻さんがハッとして目を見開く。
自分の言葉を反芻して、間違いに気付いたみたいだ。
「えっと、あの、うん、違うの! わっ、忘れて! 今のは忘れて!」
新巻さんの顔が一瞬で真っ赤になって、バタバタと手を振って慌てた。
「新巻さん、今僕のこと、お母さんって呼んだ?」
僕は、意地悪したくなって訊いた。
「だから、違うんだってば! 間違えたっていうか、自然に口走っちゃっただけで、ホント、間違いだから!」
慌てふためく新巻さんが可愛い。
「あっ、あなただって、小学生のときとか、学校で担任の先生のこと間違えて『お母さん』って呼んじゃったりしたこと、あるでしょ! それよ、それ!」
新巻さんが早口で言い訳した。
「確かに、そういうことはありますけど……プークスクス」
僕がわざとらしく笑うと、新巻さんは「もう!」って、手をぐるぐる振る。
これはあれだ。
新巻さんって、普段クールだけど、攻められると可愛くなるタイプだ。
「ねえ、このことは、他のみんなには黙っててよ」
新巻さんが、もじもじしながら言った。
「このことって、なんですか?」
僕は、すっとぼけて言ってみる。
「もう! 私が篠岡君のこと、『お母さん』って呼んだことは、誰にも言わないで!」
新巻さん、あんまり大声出すと、玄関のみんなに聞こえちゃいます。
それにしても、意識しない状態で、自然に「お母さん」って呼ばれたことに、男子高校生の僕は喜んでいいんだろうか?
主夫を目指す者としては、喜ぶべきなんだろう。
「ちょうどいいから、飲み物はみんなの分も持っていきます。ちょっと待っててください」
僕が言うと、新巻さんは「そう、ありがとう」って逃げるみたいに玄関に戻った。
僕は、御厨が作っておいてくれた青梅シロップを薄めて、梅ジュースを作る。
氷を入れてキンキンに冷えたグラスを人数分、お盆に載せて玄関まで持っていった。
「さあみんな、一休みしましょう」
僕は、昼寝のときのように玄関にござを敷く。
「はーい」
汗ばんだ女子達は、素直にござの上に並んだ。
ござの上で、梅ジュースで一服する。
「すっぱーい!」
一口飲んだ弩が、口をすぼめた。
目を瞑って、顔をくしゃくしゃにしている。
「酸っぱいけど、おいしい。疲れがとれますね」
萌花ちゃんは氷のグラスをおでこにくっつけて、涼を味わった。
新巻さんはグラスを傾けながらも僕をチラチラ見て、「あのことはみんなに言わないでよ」って、目で言う。
僕は、「大丈夫、言いませんよ」って目で送った。
「わあ、この梅ジュースの味って懐かしい、お婆ちゃんの味です!」
宮野さんが言う。
お、お婆ちゃんって……
新巻さんに母さんって言われたまではいいけど、お婆ちゃんは言い過ぎだ。
「それで、調査の進み具合はどうですか?」
気を取り直して、僕は訊く。
「はい、この階段の壁に埋め込まれたレリーフを調べたんですけど、バルコニーのレリーフみたいに、押せそうなレリーフが何枚かあったんです!」
宮野さんが興奮した声で言った。
宮野さんによると、レリーフを一枚一枚丁寧に見ていったら、ほんの僅か壁から浮いていて、動きそうなレリーフを見付けたと言う。
「そうなの。もしかしたら、これが私達が探していたパズルかもしれない」
新巻さんも、興奮が隠しきれない。
「それで、さっきからレリーフを押してみてるんですけど、まだ一ミリも動きません。二つ同時に押したらどうかとか、三つ同時に押したらとか、バルコニーのレリーフを同時に押したらどうかとか、色々試してるんですけど、だめでした」
弩が言う。
「動きそうなレリーフは幾つもあるから、どれを押すかは何パターンもあって、それを試さないといけないかもね」
腕組みして新巻さん。
「押す順番が問題なんじゃないでしょうか?」
萌花ちゃんが言う。
「押してだめだったら、引いてみたらどうですか?」
僕は、何気なく言った。
「えっ?」
みんなが初めて気付いたみたいに、僕の顔を注目する。
「それは、試してなかった」
新巻さんが言って、みんなが階段を上ってすぐのレリーフに取り付いた。
宮野さんが一枚のレリーフの縁に指を引っかけて、引いてみる。
けれど、レリーフはびくともしなかった。
そうやって壁の他のレリーフを何枚か試していたら、一枚のレリーフが、三ミリくらい、スッと前に動いた。
僕達はみんなで顔を見合わせる。
みんなでレリーフの縁に手を掛けた。
「それじゃあ、いくわよ」
新巻さんの号令で、そのままみんなで力を入れて引いたら、レリーフがすぽっと抜ける。
レリーフが抜けて、僕達は階段の下に落ちそうになった。
レリーフが抜け落ちた壁には、ぽっかりと四角い穴が開いている。
20×20㎝の一枚の板だと思っていたレリーフは、奥行きがある立方体だった。
立方体の、木の箱だったのだ。
「やったぁー!」
女子達がお互いに抱き合う流れに巻き込まれて、僕もみんなと抱き合った。
みんなに抱きつかれて、おしくらまんじゅうみたいになって、ちょっと苦しい。
女子達からは、汗と柔軟剤の匂いがした。
爽やかな夏の匂いだ。
どうやら僕達は、謎に繋がる鍵を見付けたらしい。