最後の夏
「それじゃあ、お兄ちゃん行ってくるから」
玄関で僕が言うと、枝折と花園、二人の妹が、
「いってらっしゃい」
って、涼しい顔で言った。
枝折は斜に構えてるし、花園はいかにも付き合いって感じで手を振る。
「それだけ?」
僕は二人に訊いた。
「んっ? それだけって?」
花園が眉をひそめて訊き返す。
「いや、これからしばらく兄妹が離ればなれになるんだよ。もっとこう、抱き合って泣きながら別れるとか、『お兄ちゃん、行かないで』ってすがるとか、あるのかと思って………」
大好きなお兄ちゃんと別れるんだから、二人も辛かろう。
きっと昨晩は、ベッドで血の涙を流したに違いない。
「だって、夏休みのあいだ、別れるだけでしょ?」
枝折が冷静に言った。
口の端は一ミリも下がっていないし、上がってもない。
「まあ、そうなんだけど……」
これから僕は、寄宿舎で生活するために家を出る。
主夫部の夏合宿として、寄宿舎で家事をする。
寄宿舎に泊まり込む。
僕が家にいないあいだ、枝折と花園は、夏休みを田舎の祖父母の家で過ごすことになっていた。
お盆過ぎには、久しぶりに母と父が帰って来られるみたいだから、それまで母方と父方、両方の田舎でお爺ちゃんお婆ちゃん孝行をするらしい。
可愛い孫が来るってことで、祖父母も楽しみにしていた。
「数週間したら、どうせまた会えるし」
枝折は数週間って簡単に言うけど、そんなに長く兄妹が離れたことはないから、不安でたまらない。
夜中に突然、僕が花園のほっぺたすりすりしたくなったら、どうするんだ。
「もう、お兄ちゃんは妹離れしなさい!」
花園に言われた。
「大体、お兄ちゃんは主夫になるとか言ってるけど、そうなるとお婿に行くんだし、花園とも枝折ちゃんとも離れないといけないんだよ。家を出るんだよ。分かってる?」
花園が、ほっぺたを膨らませて言う。
「大丈夫、心配するな。お兄ちゃんは、花園ちゃんも枝折ちゃんも連れて、お婿に行くから」
「いや、心配するなって、そっちのほうが余計に心配だよ!」
二人に突っ込まれた。
「お兄ちゃんと結婚してくれる上に、二人の妹まで面倒見てくれるって、どんだけ聖人だよ! 或いはそれ、詐欺師だよ!」
花園が言う。
僕と結婚してくれる人は、聖人か詐欺師なのか……
「冗談はさておき、最後に抱き合ってから別れよう」
僕が提案すると、
「全然冗談をさておいてないよ!」
今日の二人は、突っ込みが厳しい。
口では色々言うくせに、僕が手を広げたら、二人とも近づいて来た。
僕達は三人で肩を抱き合う。
「何かあったら、すぐに連絡するんだよ」
僕は言った。
連絡があったら、たとえどんな状況にあろうとも、飛んでいく。
「分かってるって」
花園が言って、僕の背中を叩いた。
「もう、お兄ちゃん力入れすぎ、痛い」
枝折が言う。
母や父がいなくて寂しいとき、僕達はいつも三人でこんなふうに支え合ってきた。
もし、僕が本当にお婿に行く日がくれば、こんな別れが本物になるんだろう。
そう思ったら、ちょっとだけ切なくなった。
「それじゃあ、いってきます」
僕は、リュックサックを背負って、スーツケースを引いて、家を出た。
「いってらっしゃい」
結局、二人は門で僕が見えなくなるまで見送ってくれる。
花園は、角を曲がって見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「先輩! いらっしゃい!」
悲しい別れのあとに、僕を笑顔で迎えてくれたのは、寮長の弩をはじめ寄宿舎の住人だった。
弩に、新巻さんに萌花ちゃん、宮野さん。
そして、ヨハンナ先生に北堂先生、ひすいちゃん。
全員そろって、玄関で僕を迎え入れてくれた。
「待ってたよ」
ヨハンナ先生が言う。
「夏休みの間、よろしくお願いします」
僕は、丁寧に頭を下げた。
親しき仲にも礼儀ありだ。
「こちらこそ、よろしくね」
ヨハンナ先生が言って、みんなが拍手してくれる。
ここには毎日来てるし、みんなとは毎日顔を合わせているのに、照れてしまった。
あらためて挨拶するのは無性に照れくさい。
「それで、篠岡君はどこの部屋を使うの?」
ヨハンナ先生が訊く。
「どの部屋も綺麗にしてますから、どこでもいいですよ」
弩が言った。
綺麗にしてるのは僕達なんだから、それは解ってるけど。
「私の隣の105号室にしなよ。それなら襲いやすい……あっ、いえ、朝、起こしやすいし」
ヨハンナ先生が言った。
今なんか、不穏な言葉を発して、言い直したような気がするけど、気のせいだろうか?
「私の隣の部屋でもいいですよ」
弩が言う。
弩の隣の部屋、111号室は「開かずの間」だったし、何もなかったって分かってるけど、やっぱり、ちょっとそこで寝るのは気が引ける。
「二階は、私と宮野さんしかいないし、空いてるからいいんじゃない? 二階にすれば?」
新巻さんが言った。
「台所とかに近い方がいいから、やっぱり一階じゃないですか?」
萌花ちゃんが言う。
「まあまあ、みんな、僕を取り合うのは止めてください」
ふざけて言っただけなのに、みんなに睨まれた。
話し合った結果、結局、201号室、寄宿舎の一番端っこの部屋に住むことで落ち着いた。
みんなの部屋から離れたところだ。
僕は、201号室にスーツケースを運び込む。
倉庫にあった文机と、先生が車で運んでくれた布団を入れて、服をハンガーに吊せば、夏の間お世話になる僕の部屋が完成した。
「それじゃあ、とりあえずお茶でも飲みましょうか?」
ヨハンナ先生が言って、僕達は食堂に集まる。
みんなでテーブルを囲んだ。
いつもより人数が少なくて、こぢんまりした感じでそわそわする。
「今度は篠岡君の歓迎会もやらないとね」
ヨハンナ先生が言った。
「先生、お酒飲みたいだけですね」
弩が言って、みんなが笑う。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「お茶、出てきませんね」
沈黙を破ったのは、弩だった。
あっ、そうだ。
御厨がいないんだった。
「お茶、入れてきますね」
僕は席を立つ。
今まで特に何も言わなくても、飲みたいときにスッとお茶が出てきたのは、御厨がそれを自然にこなしていたからだった。
今日からは、僕がそれを一人でやらなければいけない。
自覚が足りなかった。
三年生の夏休み、部活の集大成として、僕はこの寄宿舎の女子に何不自由ない生活を提供する。
最高の環境を用意するのだ。
それは、野球部員が最後の甲子園に挑むのと同じ覚悟で。
麦茶を入れて羊羹を切りながら、僕は、お茶を飲んだら早速夕飯の支度に取りかかろうって考えた。