泥水
僕は、全力で走った。
ヨハンナ先生の車を追いかけて、全力で走る。
学校の敷地に沿って続く道には、昨日の雨で、所々に水溜まりが出来ていた。
僕は、水溜まりを踏んで水しぶきを上げる。
だけど、靴が濡れるのなんて気にしてられない。
「先生!」
僕が走りながら叫んでも、車のスピードは落ちなかった。
それどころか、先生が強くアクセルを踏んで、車はさらに加速していく。
後ろから見る先生の車、青いフィアット・パンダの後部座席には、たくさんの荷物が積んであった。
段ボール箱や、洋服や、書類の束、本の束。
学校を去る先生が、職員室やロッカーから引き上げた荷物だ。
「先生! 行かないでください」
僕の声は、車に乗っている先生の耳には届かなかった。
でも、先生がバックミラーで僕をチラッと確認したのは分かる。
僕が走って追いかけてるのに気付きながら、先生はアクセルを緩めなかった。
僕と先生の距離は、どんどん広がっていく。
それでも諦めないで先生の車を追いかけてたら、僕の足がもつれて、転んでアスファルトに手を突いた。
僕は、そのまま前転するような形で、道路上に仰向けになる。
ちょうどそこに大きな水溜まりがあって、僕は泥水を被った。
泥水は口にまで入ってきて、口の中に苦い味が広がる。
仰向けになって上を見ると、空にはオレンジ色の雲が浮かんでいた。
転ぶって新巻さんの台本にあったから、制服の下に目立たないようにサポーターとタオルを入れてこのスタントに備えてたけど、それでも膝と踵が痛い。
路上に仰向けに倒れた僕は、顔を歪めながら上半身を起こした。
台本にあったように、痛そうに足を押さえる。
フィアットのブレーキランプが点って、先生が急ブレーキを掛けた。
ドアを乱暴に開けて、車から先生が出る。
先生は路上に車を乗り捨てたまま、こっちに走ってきた。
いつもの紺のスーツ姿の先生。
今度は、先生が金色の髪を振り乱して走る番だ。
ヒールの靴が邪魔だから、先生はそれを脱ぎ捨てて走ってくる。
「塞君!」
ヨハンナ先生が倒れている僕を助け起こした。
「もう、無茶したらダメじゃない!」
先生はそのまま、膝立ちの僕を胸の中に抱きしめる。
ぎゅっと抱きしめた。
ヨハンナ先生は、めちゃめちゃ柔らかい。
今までだって、先生をお姫様抱っこしたり、毎朝、髪を梳かして、先生には触れてるけど、転んだところを抱きしめられた今は、顔の周りが全部ヨハンナ先生だった。
柔軟剤の香りと、香水と、先生の汗の匂い、それらが混ざったむせ返るくらいのヨハンナ先生の匂いがする。
萌花ちゃんのカメラは、望遠レンズで遠くから僕達を撮っていた。
周りに誰もいないから、これが撮影だってこと忘れてしまいそうだ。
ってゆうか、先生に抱きしめられてたら、もう、撮影とかそんなことどうでもよくなる。
そんなこと考えられなくなった。
僕は、ヨハンナ先生の背中に手を回した。
僕の方からも、先生を強く抱きしめる。
僕が抱きしめたら、ヨハンナ先生も、もっと強く僕を抱きしめた。
「これ、演技じゃないからね」
突然、ヨハンナ先生が僕の耳元でそんなことを言う。
えっ?
ええっ??
えええっ!!!
マイクも付けてないし、撮影用のマイクは遠いから、その声は僕以外には聞こえなかったと思う。
僕が先生の言葉にぼーっとしていると、
「カットー!」
弩の一際大きな声が響いた。
ディレクターズチェアから立ち上がった弩が、拍手をしながら歩いてくる。
制服のセーラー服で、首から黄色いメガフォンを提げた弩。
弩を追うように、主夫部と寄宿生の他の撮影スタックも、僕とヨハンナ先生の方に歩いてきた。
ヨハンナ先生がようやく僕を放して、膝立ちだった僕は立ち上がる。
立ち上がっても、まだ、クラクラしていた。
「最後までヨハンナ先生の演技、完璧でした。先輩も、ここにきてやっと役者らしくなりました」
拍手しながら弩が偉そうに言う。
でも、怒る気はしなかった。
「これで全ての撮影が終わりました。まだ、編集とか、チラシ作りとか、上映会場の設営とか色々あるけど、とりあえずみなさん、お疲れ様でした」
弩がそう言って深々と頭を下げた。
そこにいる全員が、拍手で応じる。
新巻さんも、萌花ちゃんも、宮野さんも、北堂先生も。
錦織も、御厨も、子森君も、みんな、笑顔で拍手していた。
「みなさん、監督として未熟な私についてきてくださって、本当にありがとうございました」
そう言って顔を上げた弩が、涙を流している。
両方の目からポロポロと涙を流していて、鼻水も垂らした。
「もう、なんで弩さんがそんなに泣くの」
横で見ていた新巻さんが、弩の頭を撫で繰り回して抱きしめる。
新巻さんも、ちょっともらい泣きしていた。
萌花ちゃんや宮野さん、御厨も目を潤ませている。
新巻さんに抱きしめられて、弩が火のついたように泣き出した。
弩は監督として、そして、この映画を撮るってアイディアを出した者として、責任を感じていたんだろうか。
相当なプレッシャーになっていたのか。
それとも、この涙にはもっと別の感情があるんだろうか?
「ほら、弩」
子森君がそう言って、弩にティッシュペーパーを渡した。
弩はボロボロ泣いたまま、鼻をかむ。
でも、後から後から涙も鼻水も出てくるから、きりがない。
弩は鼻の下を真っ赤にして鼻をかんだ。
鼻水垂らしてるけど、今の弩は逞しく見える。
弩も、徐々にその才能を開花させているのかもしれない。
「それじゃあ、今日は小打ち上げで、ご馳走作りましょうか?」
御厨が言った。
「賛成!」
「いいね!」
「待ってました!」
みんなが口々に言う。
さすが、パーティー好きの民族だ。
「今日は、ビール一本じゃなくて、お酒解禁でいいよね」
ヨハンナ先生が僕に訊いた。
「まあ、いいですけど」
僕は答える。
ヨハンナ先生は、いつもの先生に戻っていた。
僕を抱きしめて、「これ、演技じゃないからね」って言った、さっきの先生じゃない。
さっきのはなんだったんだ。
先生に抱きしめられて、甘い香りの中で、僕は幻聴でも聞いたんだろうか?
これから打ち上げだって、うきうきしながら片付けてたら、そんな僕達の様子を、黒ウサギの着ぐるみがビデオカメラで撮っていた。
僕が見ているのに気付くと、黒ウサギはゆっくりと手を振って、そのままビデオカメラを回し続ける。
あの黒ウサギ、神出鬼没で校内のあらゆるところに現れては文化祭の準備をする生徒を撮っている。
あの映像、何かに使うんだろう。
ちょっと謎だ。
「さあ、塞君、私達泥だらけだから、先にシャワー浴びてこよう」
ヨハンナ先生が僕に言った。
確かに、僕達は水溜まりで演技して、泥だらけだ。
「どうする? 二人で一緒にシャワー浴びてもいいけど」
先生が言って、それに返事出来ない僕をみんなが笑った。
やっぱり、さっきの先生とは違う、僕をからかういつもの先生だ。
大人の女性って、こういうふうに感情をクルクルと変えられるものなのかな?