ぽろぽろ
「終わったー!」
新巻さんが、部屋から出てきた。
既に出来上がっていた原稿を、最後まで、何度も何度も推敲していた新巻さんが、新作を書き上げて部屋から出てくる。
新巻さんは昨日の金曜日から徹夜してたみたいで、髪がぼさぼさで、目もしょぼしょぼだった。
担当編集者の能登さんに原稿を送信して、これで新巻さんは一仕事終える。
これから本になるまで、まだまだ何度も書き直すことになるんだろうけど、まずは一安心だ。
「ちょっと、シャワー浴びてくる」
新巻さんがふらふらの足で風呂場へ向かうから、弩が肩を貸して支えた。
新巻さんは、12ラウンドフルで戦ったボクサーみたいに疲れ果てている。
「新巻さん、朝ごはん食べますか?」
御厨が訊いた。
新巻さんの部屋の前には、主夫部全員が待機している。
「うん、ちょっとお腹に何か入れたい。そして、泥のように眠りたい」
新巻さんが言うと、御厨が台所に急いだ。
僕は着替えとタオルを用意した。
錦織は新巻さんのベッドのシーツや枕カバーを替えてベッドメイクする。
子森君は、紙切れやエナジードリンクの缶が散乱した新巻さんの部屋をパパッと掃除した。
部屋の空気を入れ換えて、新巻さんお気に入りのアロマで部屋を満たす。
ここまでの作業を、僕達は会話を交わすことなく、目配せだけで行っていた。
技術的な面では、主夫部の練度はかなり上がっている。
「お兄ちゃん達、魔法を使ってるみたいだねぇ」
ひすいちゃんを抱いた北堂先生が、笑いながら言った。
「だーだ」
って、ひすいちゃんも頷く。
寄宿舎は、平和な朝を迎えていた。
今日は夕方から、新巻さんのご苦労さん会と、アンネリさんの歓迎会が開かれる予定だ。
アンネリさんが来てから、もう一週間も過ぎちゃったし、来週には送別会だけど、宴会をするための方便みたいなものだから、会の名称はどうでもいいのだ。
「あれ? ヨハンナ先生とアンネリさんは?」
僕が、辺りを見渡して訊いた。
さっきから、先生とアンネリさんの姿が見当たらない。
特にヨハンナ先生は、新巻さんの原稿のことで大いに気を揉んでいたのに、なぜか姿を見せなかった。
さっきみんなで朝食を食べたときは二人共いたから、部屋で二度寝でもしてるんだろうか?
ヨハンナ先生に「新巻さんが原稿を上げましたよ」って報告しようと思って、僕が先生の部屋のドアをノックしたら、中からアンネリさんが飛び出してきた。
「もう、お姉ちゃんなんか、大っ嫌い!」
アンネリさんが、部屋の中にいるヨハンナ先生に向けて、大声を出す。
花柄の白いワンピースの上に、ライトグレーのカーディガンを羽織ったアンネリさん。
「何言ってるの! アンネリ、ちょっと待ちなさい!」
部屋の中からヨハンナ先生も出てきた。
カーキ色のカーゴパンツに、白シャツのヨハンナ先生。
ドアの前でヨハンナ先生とアンネリさんが対峙する。
騒ぎを聞きつけて、寄宿生と主夫部部員も、先生の部屋の前に集まった。
「あの、どうしたんですか?」
アンネリさんとヨハンナ先生の間に挟まれた僕は、二人を落ち着かせるために、ゆっくりと、なるべく低い声で訊く。
「なんでもない。これは、姉妹の間のことだから」
ヨハンナ先生とアンネリさんが、同時に言った。
二人は僕を見ずにバチバチと視線を戦わせている。
「なんでもないようには、見えないんですけど……」
一触即発で、今にも二人で殴り合いをしそうだった。
「そうだ、丁度よかった塞君。これから二人でデートに行きましょうか?」
アンネリさんが、ヨハンナ先生を見たままそう言う。
すると不意に、僕の腕に自分の手を絡ませた。
アンネリさんが僕にぴったりとくっついてくる。
一瞬、心臓が飛び出るくらいびっくりした。
「二人で、ラブラブな土曜日を過ごそうよ」
アンネリさんはそう言って、腕を取ったまま、僕を押して玄関に向かおうとする。
「ちょっと、アンネリ、なにをふざけてるの!」
ヨハンナ先生が止めようとした手を、アンネリさんは振り払った。
弩や、寄宿舎の住人、主夫部部員が呆気にとられて固まっている。
「私、ここも出て行くから、今日から、塞君の家に泊まる。お姉ちゃんと一緒の部屋なんて、もうやだから!」
アンネリさんは吐き捨てるように言って、僕を連れて玄関まで歩いた。
アンネリさんは靴を履いて、玄関を出て行こうとする。
腕を取られたままで、僕もなんとか靴を履いた。
「ちょっと、アンネリ、待ちなさい!」
ヨハンナ先生が僕達の背中に呼びかける。
僕は、後ろを向いて、ヨハンナ先生やみんなに向けて、大丈夫、僕がちゃんとアンネリさんを落ち着かせますから、って、目で訴えた。
それが上手く伝わったみたいで、裸足で玄関を出たヨハンナ先生が、僕達を見送る。
僕達は校舎裏を通って、教職員用の駐車場がある裏門から校外に出た。
そのまま、アンネリさんは僕を駅の方に引っ張っていく。
というか、腕を取ったまま、押していく(なんか、腕に当たってますけど)。
「なに、私とデートじゃ、不満?」
怒ったままの顔のアンネリさんが言った。
「いえ」
むしろ、光栄なくらいだけど。
先生より幼い顔のアンネリさんも、怒ると凜々しい顔になって、ヨハンナ先生そのままだ。
僕達は、駅前の商店街まで歩いた。
土曜日だから登校する生徒は少ないはずだけど、こんな場面を誰かに見られたら、僕は、月曜日、命がないかもしれない。
ファンクラブまで出来たアンネリさんの支持者に、なにをされるから分からない。
「ここ、入ろう」
アンネリさんが、一件の店を指した。
パステルブルーの壁に白い窓枠の、可愛らしい店だ。
そこは、僕一人だったら絶対に入れないような、ケーキ屋さんだった。
店内は、四人掛けのテーブルが五つあって、後はカウンター席に三人座れるくらいの広さだ。
店内のテーブルや家具は真っ白で、壁はブルーと白のストライプだった。
僕達の他に客は二組いる。
二組とも、女子の仲良しグループって感じで、おしゃべりしながらケーキを食べていた。
幸いなことに、我が校の生徒らしき女子はいない。
ウエイトレスさんに案内されて、僕とアンネリさんは奥の席に向かい合って座った。
こんなお店に入るだけでも緊張するのに、アンネリさんと一緒だともっと緊張する。
お客さんやウエイトレスさんに、あんな美人と、あんな変な奴が一緒って、どういうこと? って思われてたらどうしよう。
きっと、なにか弱みを握られてるんだよ、とか、話してたらどうしよう。
僕の、自意識過剰だろうか。
席についてメニューを見ていたら、突然、アンネリさんが泣き出した。
アンネリさんの青い瞳から、ぽたぽたと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「あっ、あの、アンネリさん?」
僕は、どうしていいのか分からなかった。
思わず立ち上がろうとして、テーブルに股をぶつける。
年上の女性に目の前で泣かれて、僕はそれに対処する方法を一切持ち合わせてなかった。
いや、こんなふうに泣かれたら、同級生だって、年下の女子にだって、対処法は持ち合わせてないけど。
アンネリさんは嗚咽を漏らしている。
他のお客さんの視線が、僕に刺さった。
これじゃあ、まるで僕がアンネリさんを泣かせてるみたいだ。
あんな変な奴が、金色の髪の美人を泣かせて、って、思われてるのかもしれない。
親でも人質に取ってるんじゃないのって、通報されたらどうしよう。
「アンネリさん」
僕は、ハンカチを渡した。
アンネリさんはそれで涙を拭いて鼻をかんだ。
だけど、涙は次々に溢れてくる。
「ゴメンね」
アンネリさんが言った。
僕はこれから、一体どうしたらいいんだ……