一触即発
「篠岡君、男同士の話をしよう」
弩のお父さんが、僕の肩に手を置いた。
弩のお父さんからは、ダージリンティーのような上品な香りがする。
普段、柔軟剤の香りに囲まれている僕が嗅いだことがない、大人の香水の香りだ。
「先生と花園ちゃんは、ちょっと待っていてください。まゆみ、二人のお相手していて」
お父さんは、みんなにそう言い残して、僕の背中を押す。
物腰は柔らかかったけど、僕の肩に置いた手には力が入っていた。
僕は、半ば強引に連れて行かれる。
二人で母屋の長い廊下を歩いた。
「あの、どこに行くんですか?」
僕は、恐る恐る訊く。
「まあ、いいからいいから」
お父さんは笑顔で言って、僕の背中を押した。
やな予感がする。
その優しい笑顔が、逆に怖い。
さっき、弩とお父さんが二人っきりで話してたけど、あのとき弩が、僕に寄宿舎で意地悪されてるとか、お父さんに訴えてたらどうしよう。
僕が、弩のホワイトロリータをルマンド・ホワイトに入れ替えたり、弩の靴下を裏表逆にして畳んだり、夜中にスマホで飯テロ動画を送りつけたりした悪戯が、お父さんにバレたのかもしれない。
そうだったらマズい。
一発くらい、殴られるのかもしれない。
僕が連れて行かれたのは、二階の厨房だった。
本格的なレストランみたいに、業務用の大きな冷蔵庫や、ステンレスの厨房機器が揃った調理場に、僕を導く。
「君達、ちょっと席を外してくれるかな?」
お父さんは、厨房で片付けをしていた二人のメイドさんを人払いした。
メイドさんは、「はい」と頭を下げて、そそくさと出ていく。
メイドさんがいなくなると、お父さんは上着を脱いだ。
ワイシャツの袖のボタンを外して、腕まくりする。
水道で、手を丁寧に洗うお父さん。
タオルで手を拭いたお父さんは、包丁差しから一本の包丁を抜いて、手に取った。
包丁を握って、僕を見て微笑む。
「あの、すみません!」
僕は、顔が膝に着くくらいに腰を曲げて、頭を下げた。
「僕は、そんなつもりじゃなくて、つい、まゆみさんが可愛かったから……」
殴られるくらいならいいけど、包丁はマズい。
「なにを謝っているんだ君は?」
お父さんは、不思議そうな顔をしていた。
「君は、まゆみに何かしたのか?」
「いえ、なにも……」
藪蛇だった。
だけど、悪戯のことで、怒ってるんじゃないの?
するとお父さんは、冷蔵庫を開けて中から油揚げを出した。
「今から君に、我が弩家に伝わる、いなり寿司の作り方を教えようと思う」
お父さんが言う。
「へっ?」
僕が呆気にとられていると、お父さんは包丁で油揚げを半分に切って中を開いた。
それを熱湯でさっと茹でて、油抜きする。
「私はこの作り方を、お義父さんから教えてもらったんだよ。女系家族のこの家で、いなり寿司は、婿に入った者の、父親の味、とも言える存在なんだ」
お父さんは言う。
なんだ……
完全に僕の勘違いだった。
お父さんは、僕に料理を教えようとしているだけだった。
殴られるだとか、包丁で切られるだとか想像していた自分が恥ずかしい。
「お料理、されるんですか?」
僕は訊いた。
「ああ、私は料理の腕には自信があるよ」
お父さんが言う。
「なんたって、半分、主夫みたいなことをしていたからね」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。まだ、まゆみが生まれる前のことだけどね。彼女と一緒に世界中を回って、彼女のために世話を焼いていた。忙しくなって、グループ企業の一つを任されて、私も働くようになったから、一緒にはいられなくなったけどね」
お父さんが、どこか寂しそうに言う。
「妻に会ったことはあるよね?」
お父さんが訊いた。
「はい。以前、お目にかかりました」
弩の見舞いに来たときに会った。
弩のお母さんは、凜としていて、颯爽とした女性だった。
「あんなふうだけど、実は、だらしなくて、家では服を脱ぎ散らかして、キャミソール一枚で歩き回っているんだ。僕がいないとなにもできなかった。料理だって、彼女はゆで卵も作ったことがないかもしれない」
お父さんは、声を潜めて秘密を教えてくれる。
ぼくは、大弓グループの代表取締役会長兼CEOの重大な秘密を知ってしまった。
でも、あれ? だらしなくてキャミソール一枚でふらふらしてるって、まるで、誰かさんみたいだ。
「君は、主夫になりたいんだろう?」
お父さんが僕に訊いた。
僕は「はい」と頷く。
「私も、主夫になりたかったな。彼女はそれくらい、興味深い存在なんだ。ずっと側にいて、ずっと隣で世話をしていたかった。そんな人生もあったかな」
お父さんが、遠い目でしみじみと言った。
「でも、なんで僕に教えてくれるんですか?」
僕は訊く。
家に伝わるレシピって、そんな大切なことを僕なんかに教えていいんだろうか?
「なんでって、君は、寄宿舎でまゆみの世話をしてくれてるんだろう? 帰ったら、時々まゆみに作ってあげてほしいんだ。あの子はこれが好きだったから」
お父さんが言う。
その横顔は、どこか寂しげだった。
最愛の娘である弩と、中々一緒にいてあげることが出来なくて、お父さんも辛いのかもしれない。
「それに、将来、役に立つこともあるかもしれないからね」
お父さんは冗談めかしてそんなふうに言った。
「なんたって、まゆみは、電話でも、メールでも、君のことばかり報告してくるんだ。父親として、嫉妬するくらいさ」
お父さんはそう言って笑う。
そんなことを言われて、お父さんの前で、どんな顔をしたらいいのか、分からなかった。
だから僕はなぜか「すみません」って謝ってしまった。
僕は、お父さんが教えてくれるいなり寿司のレシピと手順を、丁寧にメモする。
油揚げをつけるタレの、醤油やみりんの銘柄、量、出汁の取り方。
ご飯の炊き具合や、混ぜるお酢の銘柄、混ぜ方、入れる胡麻の種類、全部教わった。
そして、弩家のいなり寿司の秘伝は、味を染みこませた油揚げを、すし飯を入れて包む前に、一度七輪で焼いて、焼き目をつけるところにあることも習う。
厨房は、タレが焦げる香ばしい匂いと、お酢の匂いで一杯になった。
出来上がったいなり寿司は、焼き目と照りが綺麗で、見るからに美味しそうだ。
「まゆみのこと、これからもよろしく頼むよ」
最後にお父さんはそう言って、僕に握手を求めてきた。
ぼくは、「はい」と答えて、その手を握り返す。
お父さんと一緒に作ったいなり寿司を持っていくと、弩は「わぁ」って声を上げて喜んだ。
さっき、ランチを食べたばかりなのに、十個くらいペロリと平らげてしまう。
だけど、お父さんがここにいられるのは、そこまでだった。
さっきから、秘書らしき紺のスーツの男性が頻りにお父さんに耳打ちしていた。
これでもお父さんは、だいぶ無理をしてるのかもしれない。
「お父様、戻ってください。私は、大丈夫ですから」
弩が言った。
お父さんを困らせないように、弩は満面の笑顔だ。
「それじゃあ、楽しんでいってください。これからもまゆみをよろしくお願いします」
ヘリポートで、お父さんは、そう言って深く頭を下げた。
「責任を持って、お預かりします」
ヨハンナ先生が、礼を返す。
「まゆみ、またな」
お父さんが言って、弩が無言で頷いた。
「篠岡君!」
お父さんは僕に親指を掲げる。
ヘリポートに駐機してある弩家の自家用ティルトローター機。
お父さんが客室に入って、ハッチが閉まった。
と、同時にローターが回り出す。
風圧が凄くて、僕達は、ヘリポートの横の小屋に逃げた。
ローターを上に向けた白い機体は、そのまま、ゆっくりと空に上がる。
やがて上空でローターを斜め前に向けて、滑るように飛んで行った。
だいぶ急いでいたのか、すぐにローターを真横にして、轟音を残して飛び去る。
水色のワンピースにカンカン帽の弩は、機体が消えた方向をいつまでも見ていた。
「よし、それじゃあ、鍾乳洞探検行きましょうか? 夕飯のバーベキューまでにお腹空かせておかないとね」
機体が完全に見えなくなったあとで、ヨハンナ先生が弩の肩に手を置いて言った。
「やったーバーベキューだ! やっぱゴールデンウィークは、バーベキューだよね!」
花園がはしゃぐ。
弩を元気づけようとして、花園はいつも以上にはしゃいでいた。
我が妹ながら、よく出来た妹だ。
それにしても、家の敷地内に、鍾乳洞まであるなんて……
結局、ゴールデンウィーク最後の日まで、僕達はこんなふうに弩の家でのんびりと過ごした。
弩のおかげで、贅沢な休日を過ごせた。
最終日に、執事さん達に玄関まで見送ってもらって、僕達は先生の車で、寄宿舎まで帰る。
たぶん、休み癖が抜けないヨハンナ先生が、ゴールデンウィーク開けに学校行きたくないとか言いそうだから、僕は明日は少し早く家を出て、ヨハンナ先生を起こしにかかろうと思う。