ブラックボックス
「まだ、ですかね」
弩が言った。
「まだ、だな」
僕が返す。
僕達主夫部は、「超常現象同好会」の部室の前で、待機している。
僕も、錦織も御厨も、弩も子森君も、全員がエプロンに三角巾、手にはゴム手袋をはめていた。
顔は、目にゴーグル、口にはマスクの、フル装備だ。
母木先輩が残してくれた高圧洗浄機や、先輩が開発に参加した洗剤、スペクトラムXXXマーク3も持ち出している。
主夫部がこんなふうにフルアーマー状態で掃除に臨むのは久しぶりだった。
ちょうど一年前の、ヨハンナ先生のマンション以来かもしれない。
あの時はまだ、主夫部が部活として成り立ってなかったけど。
僕が一人で「超常現象同好会」の部室を掃除すると言ったら、他の部員全員が「ずるい」と言って、付いてきた。
こんな掃除のし甲斐がある物件は滅多にないから、部長一人が独占するのはずるいって、みんな口々に言った。
妹の枝折の生活環境をどうにかしようという、僕の個人的な理由でここを掃除することになったから、一人でやるつもりだったけど、みんなの意向を受けて、この掃除は主夫部の正式な活動になった。
我が部員ながら、こんなに家事欲に溢れている部員には感動する。
「まだ、ですかね」
弩が言った。
「まだ、だな」
僕が返す。
それ程に僕達は前のめりになってるのに、僕達は部室の前で、もう十分以上待たされていた。
日直の仕事が終わった枝折も駆け付けて、「超常現象同好会」の部室の前で待っている。
中で、部長の拝さんがなんかやってるみたいなんだけど……
「お待たせ、もういいわよ。存分に掃除して」
結局、三十分待って拝さんが部室から出てきた。
セーラー服で、いつも通り肩に謎の黒猫のぬいぐるみを乗せている拝さん。
拝さんと一緒に、もう一人の部員、笛木君も出てくる。
笛木君は、同級の三年生で、オールバックにしたツーブロックの髪に無精髭の、ちょっとワイルドな奴だ。
制服のネクタイを絞めずに、開襟シャツを着ていて、そのことでしょっちゅう先生達に注意されている。
細身で、開襟シャツの襟元からくっきりと鎖骨が見えていた。
「遅くなって御免なさいね。使役してる使い魔を、余所に移して来たの。掃除の間に、あなた達に悪戯したら大変だからね」
嘘かホントか、拝さんはそんなことを言う。
前髪で目が隠れているから、冗談で言ってるのか、本気で言ってるのか、表情が読めない。
「それじゃあ、二人は終わるまで、主夫部の部室でお茶でも飲んでいて。ほら枝折、二人を案内して」
僕達主夫部で話し合った手筈通り、枝折に拝さんと笛木君を主夫部の部室に案内させた。
掃除する間は、お茶と、御厨が作ったスイーツで、二人を部室に釘付けにしておく作戦だ。
二人にうろうろされて、掃除を邪魔されたらたまらない。
「篠岡、もし部屋の中で幼女の声が聞こえても、それに返事をしたら駄目だぞ。もし聞こえても、無視して聞こえないふりをしていろ」
笛木君は部室を出るとき、僕にそう言い残して行った。
なんだよ、幼女の声って……
ともかく、二人に部屋を出てもらって、掃除を始める。
まず、レールにゴミがたまって中々開かない窓を力尽くで開けて、外気を入れた。
窓から新鮮な空気が入って、部屋に充満していたお香の匂いがドアの方に抜けて行く。
その窓ガラス自体が煤けていて磨りガラスみたいになってたから、錦織が窓枠から外して、外でスペクトラムXXXマーク3を吹きかけて丁寧に洗う。
窓を開け放した後で、テーブルや本棚に叩きをかけると、長年降り積もった埃で、すぐ横にいる弩の顔も見えなくなった。
ゴーグルとマスクで完全防備してきて良かった。
これを枝折が吸い込んでいたらと思うと、ぞっとする。
煙幕みたいな埃が外に排出されるのを待って、本格的に掃除を始めた。
テーブルや床に積んである本を、とりあえず外に出す。
溶けた蝋で埋まった銀の燭台も掘り出して、弩が磨いた。
ホルマリン漬けの爬虫類の標本や、頭蓋骨のレプリカ(たぶん)も、磨いて、棚にディスプレイする。
物を片付けて漸く見えてきた床を丁寧に磨いた。
蝋燭やお香で、壁も煤けていたから、クリームクレンザーで磨く。
煤で壁に同化していたカレンダーを外してみると、それは1992年のものだった。
この同好会って、そんなに歴史があるんだ。
もしかしてその頃から掃除されてなかったら怖い。
体中が痒くなってきた。
窓に掛かっている暗幕みたいな重たいカーテンは、外して洗うことにする。
椅子は以前、僕達主夫部が、文化祭のとき家具店から借りてきて、ぼやで買い取った物に変えた。そっちは煤も落としてあるし、新品同様だ。
埃まみれのシンクや、お茶道具も洗って使えるようにする。
これで枝折もこの部室でゆっくりとお茶が飲める。
テーブルの下にあった一抱えある木箱を片付けようとしたら、「ビリッ」って音がして、箱に貼り付けてあったお札のようなものが剥がれてしまった。
黒々とした埃まみれの古い箱で、全部の面に繊細な彫刻が施されている。
彫刻のモチーフは、羊の頭部を被った人間で、それが無数に彫られていた。
お札には、梵字のような文字が赤で書いてある。
お札が剥がれて箱の蓋が少し開いたから、僕はすぐに閉めた。
おどろおどろしい箱にお札って、一体、この中に何が封印されていたんだろう。
ちょっと、寒気がした。
よし、見なかったことにしよう。
僕は、閉めた箱の蓋に、両面テープでお札を貼り直しておいた。
結局、「超常現象同好会」の部室を掃除するのには、二日かかった。
逆に言えば、数年間蓄積した汚れを、我が主夫部は二日で片付けた。
これも、母木先輩の指導と、スペクトラムXXXマーク3のおかげだ。
「篠岡君、ありがとう。部屋が綺麗になったって、彼女達も喜んでるわ」
二日ぶりに部屋を明け渡したら、拝さんが言った。
んっ? 「彼女達」ってなんだ?
「超常現象同好会」の部員は、拝さんの他に、笛木君と、枝折のだけの筈だけど。
「ところで、篠岡君、テーブルの下にあった黒い木の箱は開けなかったわよね」
突然、拝さんが訊いた。
僕に顔を近付けて迫ってくる。
「えっ? うん、開けてないけど」
僕は恍けた。
「そう、良かった。あの封印が解かれて箱が開いてたら、この世界が終わっていたところよ」
拝さんがさらっと言う。
えっ?
本当は、封印を剥がして、ちょっと蓋を開けちゃったけど……
「枝折ちゃんも分かったわね。あの箱は、絶対に開けちゃ駄目だよ」
拝さんが、新入部員の枝折に言い聞かせた。
余程、重要なことらしい。
今のところ、世界はまだ終わってないみたいだし、まあ、いいか。
笛木君も戻ってきて、綺麗になった部屋を隅々まで観察していた。
「ただいま。大人しくしてたか?」
笛木君、だれもいない壁に向かってなんか話しかけてるけど、あれはどういう意味なんだろう。
「それじゃあ、枝折ちゃんはここで預かるから」
拝さんが言った。
不安でたまらない。
可愛い妹を置いていくには、不安すぎる部活だし、不安すぎる先輩二人だ。
「お兄ちゃん、じゃあね」
枝折はそう言って手を振る。
口の端が一ミリ上がってるから、枝折は、すごく楽しそうだ。
僕は、時々、掃除をするといってここに枝折の様子を見に来ることに決めた。
なんなら、毎日ここに掃除に来たっていい。
いや、必ず来よう。