卒業
「鬼胡桃統子」
体育館に、男性教師の声が響いた。
「はい!」
会長が澄んだ声で返事をして、立ち上がる。
目に鮮やかなボルドーのワンピース。
一つの皺もないそれを着た鬼胡桃会長が、背筋を伸ばした美しい姿勢で、嫋やかに歩いた。
そのまま悠然と階段を上がって、壇上で校長先生から卒業証書を受け取る。
その優雅な仕草に、来賓や父兄からため息が零れた。
一年前は生徒会長として、全生徒の畏怖の対象だった鬼胡桃会長が、今は優しい笑顔をしていて、メイクもすっぴんに近い。
でも、その威厳は少しも失われてなかった。
今日、この日、我が校では、全校生徒に先生方、そして父兄や来賓を招いて、卒業式が執り行われている。
三年生を祝福するように空は晴れ渡っていて、雲一つなかった。
気温も高くて、式が行われている体育館は、ぽかぽかと暖かい。
パイプ椅子の列の中で、僕は卒業証書を受け取る三年生を見守っていた。
「母木幹彦」
やがて、母木先輩の順番が回ってくる。
「はい!」
先輩がすっと立ち上がった。
辺りが少しざわつく。
先輩を見る女子達の目が、ハートになっていた。
先輩は軽やかに階段を上がって、卒業証書を受け取る。
ステージから降りる階段の途中で、先輩が白い歯をチラッと見せたけど、それだけで五十人くらいの女子が失神したと思う。
「縦走美和」
そして、縦走先輩の順番になった。
「はい!」
立ち上がった縦走先輩に、女子達の目も、男子の目も、みんなハートになっていた。
僕がアイロンをかけてパリパリに仕上げたセーラー服を着てくれている縦走先輩。
先輩は、堂々とした仕草で卒業証書を受け取った。
男女問わず、自分に向けられる視線に先輩は照れたみたいで、頭を掻く。
頭を掻いただけで、僕の隣の女子が「カッコイイ」っていうんだから、まったく、どうなってるんだ。
ステージから降りてきた卒業生に、卒業証書を丸めて筒に入れて渡す役は、袴姿のヨハンナ先生がやっていた。
紺の袴に淡い桜色の着物、金色の髪をアップにした先生は、控えめだけど、式に厳かな空気を送っている。
やっぱり、教師でいるときの先生は、凜としていた。
この場所に、古品さんがいないのが残念だ。
古品さんはどうしても抜けられない仕事が入って、卒業式に出ることができなかった。
それが終わり次第、駆けつけて、後で校長室で一人で卒業証書を受け取るという。
なんか、仕事で卒業式に出られずに一人で校長室って、本当に売れっ子アイドルみたいだ。
式が終わると、鬼胡桃会長も母木先輩も縦走先輩も、大勢に囲まれてしまって、中々近付けなかった。
同級生や下級生、生徒会や部活の後輩なんかに囲まれて、花束を渡されたり、写真を頼まれたり、寄せ書きを頼まれたり。
みんな、先輩達を離そうとしない。
僕は、その間を縫って、「おめでとうございます」って一言だけ送るのがやっとだった。
「ありがとう」
僕にそう答えてくれた鬼胡桃会長は、渡された無数の花束で埋もれていた。
「うん、ありがとう」
母木先輩はブレザーのボタンが腕のボタンまで全部なくなってたし、ネクタイも、持って行かれて、ワイシャツのボタンが二つなくなって、胸がはだけている。
「おう、ありがとう」
縦走先輩の周りでは、たくさんの女子や、男子が泣いていて、先輩は、終始、頭を掻いていた。
「先輩達と、全然お話できませんね」
体の小さな弩は、輪からはじき出されたみたいだ。
「僕達にはまだ寄宿舎の送別会とかあるから、今日はみんなに譲ろう。みんな、先輩達と別れるのが辛いんだよ」
僕が言うと、「そうですね」と、弩が寂しそうに言った。
こんなに慕われている先輩達と、部活をしたり、一緒にご飯食べたり、一緒に寝たり、いろんなところに出掛けたり。
この一年、そんなことが出来たかと思うと、なんだか誇らしい。
結局、先輩達は、みんなに囲まれたまま、校門を後にした。
これから部活とかクラスの打ち上げに引っ張り回されるんだろう。
「帰るか」
「はい」
僕と弩は、どこか寂しさを感じながら、寄宿舎に帰った。
寄宿舎に帰ると、
「あー、もう、これきついよ」
ヨハンナ先生がそう言って、着物や袴を脱ぎ散らかして、スリップ一枚になっている。
さっきの、卒業式でのあの凜としたした佇まいは、なんだったんだ。
とりあえず先生に服を着せて、着物や袴を片付ける。
アップにしていた髪を解いて、梳いてあげた。
先生は蚤取りされる猫みたいに気持ちよさそうにしている。
夕方になって、古品さんが寄宿舎に来た。
仕事場からマネージャーの車で送ってもらった古品さんは、ここでセーラー服に着替える。
僕がパリパリに仕上げたセーラー服を渡すと、古品さんはそれを着て校長室に急いだ。
「おめでとうございます」
卒業証書を受け取って戻ってきた古品さんには、錦織がそう言って花束を渡す。
僕達は、食堂で古品さんを拍手で迎えた。
「ありがとう」
涙目だった古品さんが、花束を受け取る。
「まさか、卒業出来るとは思わなかったよ」
鼻声の古品さんは、そんなことを言った。
別に自惚れているわけじゃないけど、確かに、僕達がここに来なかったら、古品さんはとっくに退学していたか、今も寝るためだけにこの寄宿舎に帰るような生活をしていたと思う。
ぼさぼさ頭で、今頃起き出してたんじゃないだろうか。
一年の間に環境は目まぐるしく変わった。
「夕飯、食べて行かれますか? 先輩の分、すぐに用意できますよ」
御厨が訊いた。
「ううん、私、すぐ戻らなくちゃいけないの」
古品さんが言う。
これから帰って、またラジオ番組の出演があるらしい。
「それで、ちょっと、錦織君、いいかな?」
古品さんが、錦織を呼んだ。
「はい、なんですか?」
錦織が古品さんの前に出る。
「さてと、それじゃあ、私は仕事に戻ろうかな」
新巻さんがそう言って、席を立った。
「私も、今日撮った卒業式の写真、さっそくプリントします」
萌花ちゃんも、食堂を出て行く。
「そうだ、僕、明日の仕込みをしないと」
御厨が台所に向かった。
なるほど、そういうことか。
「弩、宿題、分からないところあるって言ってたよな。教えてやるよ」
僕が弩を誘う。
「えっ? ああ、はい、そうでした。お願いします」
弩は僕の意図を察して従った。
「私はもう少し、ここで飲んでいくわ」
ヨハンナ先生は、そう言って晩酌のグラスを傾けている。
先生、空気読みましょう。
「弩、やっぱり、僕より先生に教えてもらったほうがいいよな。先生行きましょう」
僕は、先生の腕を引っ張って立たせた。
「そうですね、私、先生に教えてもらいたいです」
弩が逆の腕を引っ張る。
「いやよ! もう、今日は教師は閉店よ!」
「いいから、行きましょう」
テーブルにしがみつこうとする先生を、無理矢理食堂から連れ出した。
食堂の中に、古品さんと錦織を二人きりにする。
「ああ、そういうことか」
食堂を出て、先生、やっと気付いたみたいだ。
「錦織君、古品さんにベタ惚れだもんね」
先生がそう言って、ドアの隙間から、食堂の中を見る。
「ほら先生、趣味悪いです。行きますよ」
僕は、口ではそう言いながら、気になって先生と同じように中を覗いてしまった。
弩も、僕の下に入り込んで、食堂を覗く。
すると、自室に戻ったはずの新巻さんも萌花ちゃんも、台所に行ったはずの御厨も、反対側のドアから中を覗いていた。
まったく、みんな物見高い。
まあ、人のことは言えないんだけど。
食堂に二人っきりになった古品さんと錦織は、なんだか気まずそうだった。
そのまま、少しの間、沈黙が続いた。
今の古品さんは、メイクも落としてるし、眼鏡をかけて、おでこを出していて、「ふっきー」じゃない古品さんだ。
いつも、この寄宿舎にいる古品さんだ。
「錦織君、あのね」
古品さんが切り出した。
でも、それを遮るようにして、
「先輩、僕、最近、面白い地下アイドルユニット見つけたんです」
錦織が言う。
「えっ?」
唐突だったから、びっくりして古品さんが訊き返した。
「その子たち、『Party Make』がまだ『ぱあてぃめいく』だった頃みたいに、荒削りだけど、キラッと光るものを持ってて、僕、今、その子たちに夢中です」
「そう、なんだ」
「だから僕、今、その子達を追いかけていて、もう、前みたいに、『Party Make』を追っかけて全国を回ったり出来ないかもしれません」
「そう、なの」
「はい。だけど、『Party Make』は大丈夫ですよね。今の人気は本物だしだし。ファンも一杯増えたし」
「ううん、私達はまだまだ……」
古品さんはどう答えたらいいのか分からなくて、戸惑っていた。
「先輩は、『Party Make』の『ふっきー』として、ファンを大切にしてください。みんなの『ふっきー』でいてあげてください。みんなのアイドルでいてあげてください。変なスキャンダルとか起こしたら、ダメですよ」
錦織が言う。
「うん、そうだね」
古品さんの目から、涙が一粒零れた。
「いままで、ありがとう」
古品さんがそう言って、二人は握手をする。
固い、固い握手で、ハグしたり、抱き合ったりするのより、心が通じてるんじゃないかと思った。
そこでヨハンナ先生がドアを閉める。
これ以上見たら悪いって思ったんだろうか。
「誰かさんと違って、格好いいね」
新巻さんが言った。
「本当ですね。自分から、さっと身を引くなんて」
萌花ちゃんも、涙目になっている。
御厨が鼻をすすった。
錦織が、古品さんに恋をしていたのは間違いない。
衣装を作ったり、全国を飛び回ったり、それには「Party Make」ファンであるってこと以上の感情が、錦織にあったのは確かだ。
でも、アイドルになるっていう、古品さんの夢のために、錦織は、潔く、身を引いたんだろう。
多分、新しいアイドルを見付けたとか、それも嘘だ。
多分、これからもずっと「Party Make」を応援し続ける。
「でも、悔しいけど、はっきりしないその誰かさんの優しいところが、好きなんだけどね」
ヨハンナ先生がそんなことを言った。
弩が、うんうんと頷いている。
その誰かさんっていうのが僕なら、僕にはそんなこと言ってもらえる資格はないと思う。