手を繋ごう
「それじゃあ、枝折ちゃん、頑張ってきて」
花園がそう言って、枝折をハグした。
「うん、頑張ってくる」
枝折はハグしたまま、ぽんぽんと花園の背中を叩いた。
家の玄関で、姉妹が少しのあいだ寄り添う。
自分の妹だからって部分を差し引いても、慈愛に満ちていて、美しい光景だ。
「じゃあ、行こうか」
枝折の高校受験当日、学校が試験会場になって休みの僕は、枝折を学校まで送っていく。
「お兄ちゃん、その手はなに?」
玄関で僕が枝折に手を差し伸べていたら、枝折が眉間に皺を作って言った。
制服にネイビーのダッフルコートで、僕の手編みの赤いマフラーを巻いている枝折。
「なにって、手を繋いで一緒に学校まで行こうってこと」
僕は言う。
「そういうの、いいから」
枝折は、けんもほろろだ。
「枝折ちゃんのこと、見送りたくても見送れない母さんと父さんの分まで、枝折ちゃんの世話焼いてあげたいしさ」
僕が言っても、枝折は見向きもしない。
「ほら、行くよ」
逆に枝折はそう言って、一人で先に玄関を出た。
「ああ、待って」
僕は慌てて枝折を追いかける。
昨日の天気予報では、朝方、雪が降るかもしれないってことだったけど、空は薄曇りで、なんとか持ちそうだ。
普段の通学路を、自分と同じ高校を受験する妹と歩くのは、なんだか変な気分だった。
枝折の成長を実感する。
実際、枝折の背も高くなっていて、並んで歩いていると、前は見えていたショートボブの真ん中の分け目が、見えなくなっていた。
そのうち、背丈を並ばれてしまうかもしれない。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「いや別に」
「もう、早く、行くよ」
これでは、どっちが送ってもらってるのか、分からない。
校門の周りは、同じように家族に送られて学校に来た生徒や、中学校単位で列を成して来る受験生で、ごった返していた。
「それじゃあ、頑張って」
僕はそう言って、枝折を送り出す。
「うん」
枝折は小さく頷いた。
「大丈夫、枝折ちゃんなら落ち着いて試験受ければ、絶対合格だから」
僕だって、受かったくらいだし。
「分かった。行ってくる」
枝折は、そう言って校門をくぐるかと思ったら、振り返って僕のところに戻って来た。そして、僕の胸におでこをくっつける。
「どうした? 枝折」
「ううん、なんでもない」
普段から冷静で、何に対しても動じない枝折も、不安でたまらなかったんだろう。
枝折は、そのまま、三十秒くらい、僕の胸におでこをくっつけていた。
「じゃあ、行ってくる」
そう言って、僕の胸からおでこを離す。
「寄宿舎で待ってるから、試験終わったら来るんだぞ」
「うん、分かった」
枝折は今度こそ、校門をくぐって試験会場に向かった。
その背中が見えなくなるまで、僕は頑張れって、枝折に念を送る。
枝折を見送ったその足で、僕は寄宿舎に向かった。
学校が休みになってるから、寄宿舎には寄宿生全員がいる。
鬼胡桃会長と受験勉強をする母木先輩も、錦織も御厨も来ていて、主夫部もみんな揃っていた。
ヨハンナ先生だけ、試験の監督で仕事中だ。
玄関でコートを脱いでいたら、弩がちょこちょこ走ってきた。
「枝折ちゃんを見送って来たんですか?」
弩が僕に訊いた。
「ああ」
「大丈夫、枝折ちゃんなら絶対合格しますよ」
弩がそう言ってくれる。
「そうだよな。春から枝折は弩の後輩になるから、よろしくな。弩先輩!」
「ふええ」
この、ふええとか言ってる弩が先輩になるっていうのも、相当感慨深い。
「先輩、チョコレートの試作品、味見してください」
台所に行ったら、御厨に頼まれた。
御厨は、黒い円盤状のチョコレートを皿に載せて持ってくる。
見た目は、アイスホッケーのパックを縮小したみたいだ。
「中に、レモンと蜂蜜多めで作ったジャムを入れてあります。食感を残すように、刻んだレモンピールも入れました」
御厨が言う。
食べてみると、パリッとした外のチョコレートの層と、中の生チョコっぽい層、そして、とろっとしたレモンジャムの層の、三層構造になっていた。
口に入れると、外のチョコレートと中の蜂蜜の甘さ、レモンの酸味が絶妙だ。
最後にレモンピールが口に残って、それを噛む感触も楽しい。
「これ、中のジャムに生姜も入ってる?」
「はい、少しだけ入れてあります」
舌にぴりっとした感覚は、それか。
「うん、さっぱりして美味しい」
「それじゃあ、この方向で、もっとブラッシュアップしますね」
御厨はそう言って試作に戻った。
今のままでも十分美味しいのに、もっと高みを目指す御厨の向上心には、脱帽する。
普段なら、僕もここから家事に取りかかるところだけど、今はそれが禁止されていて、何もできない。
なんだか、そわそわして落ち着かなかった。
枝折のことがあるから、家事に打ち込んで時間をやり過ごしたかったけど、それができないのだ。
よし、こういうときは、気持ちを落ち着かせるために、弩にちょっかい出してこよう(使命感)。
弩は裏庭で洗濯物を干していた。
未だに乾燥機を使わないのは、天日干し派の僕を踏襲してるんだろうか。
「おーい、弩」
「なんですか、先輩?」
「ぷにぷに」
洗濯物を干していて両手が塞がってるのをいいことに、後ろから手を伸ばして、弩のほっぺたをつまんだ。
力を入れたり、抜いたりして、弄ぶ。
「は、はの、せ、せんはい。や、やめてくらはい」
つままれた状態で、弩が言った。
「やっぱ、弩のほっぺたは、ぷにぷにだな」
「はのはの、うれひいんれすれど、ほひごとがれきらいので」
「やっぱ、暇なときは弩にちょっかい出すに限るな」
そうやって5分くらい、しつこくほっぺたをいじくり回していたら、
「もう! お洗濯の邪魔しないでください!」
怒られた。
「ほら、先輩は、コタツでミカンでも食べててください!」
そう言って、弩は僕を自分の部屋に連れて行く。
僕はコタツに座らされて、菓子盆を渡された。
「ここで、大人しくしててくださいね」
弩はそう言い残して、部屋を出て行く。
ああ、つまらない。
仕方ないから、言われたとおりミカンでも食べようかと、菓子盆に手を伸ばした。
菓子盆の中には、ミカンと、そして当たり前のように、ホワイトロリータが十数本、入っていた。
まったく、弩はどこまでホワイトロリータ好きなんだ。
そんなことを考えながら菓子盆に入ってるホワイトロリータを見てたら、悪戯を思いついた。
僕は、弩の部屋を出て、近くのコンビニまで一っ走りする。
コンビニから帰ると、菓子盆に入っていたホワイトロリータの包み紙を全部剥いて、中身をコンビニで買ってきた同社のお菓子、「ルマンド・ホワイト」と入れ替えた。
見た目が同じだから、一見、区別がつかない。
洗濯を終えて、コタツに入って、ホワイトロリータだと思って包みを開け、口に運んだ時の弩の驚きが目に浮かぶ。
きっと、「ふええー」とか言って、ひっくり返るだろう。
ちょっと可愛そうな気もするけど、ルマンド・ホワイトも美味しいし、まあ、いいか。
って……
空しい。
悪戯をしておいて、急に空しくなった。
これだけのためにわざわざコンビニまで行ったりして、何やってるんだ。
僕は、コタツに入ったまま、床に敷いてある毛足が長いラグに寝っ転がった。
ここは本当に静かだ。
外界の音が殆ど聞こえないし、時間が止まったみたいだ。
微かに聞こえる古品さん達のレッスンの振動も心地よくて、眠りを誘った。
枝折が試験中だし、みんなが家事をしてるのに、僕だけこんなふうにだらだらしてていいのかって、思ったけど、目蓋が下りてきて眠気に抗えなかった。
僕はそのまま眠ってしまう。
どれくらい経っただろうか、目を覚ますと、僕の体に毛布が掛けてあった。
「先輩、起きましたか?」
ドアを開けて、弩が部屋に戻ってくる。
「ああ、弩は、洗濯終わったのか?」
僕は起き上がった。
「はい、終わりました」
弩が言って、コタツに入る。
弩からは、仄かに柔軟剤の香りがした。
これは「ハミング Neo・ ベビーパウダーの香り」だ。
「毛布掛けてくれたの弩か?」
「はい、先輩が風邪をひくといけないので掛けておきました。もう、コタツで寝たら駄目ですよ」
弩が、お茶を入れながら言った。
僕の分も入れてくれる。
「うん、そうだな。ありがとう」
なんか、さっき、ほっぺたとか弄っちゃったけど、今日の弩は、凜々しく見えた。
「こうやって、毛布掛けてくれたり、お茶入れてくれたり、洗濯が出来るようになったり。弩も、日々進化してるな。将来、主夫である弩のパートナーが、風邪とかで倒れることがあっても、その時は弩が家事を回せるんじゃないか?」
「そそそ、そんなことないです。わわわ私なんてまだまだ……」
そうだった。
弩は褒められると弱いタイプだった。
「今回、弩とヨハンナ先生に休ませてもらって、僕は、あらためて家事をしたいんだって分かったよ。それに気付かせてもらったし、体力的にも回復したし、枝折の世話もしてあげられたし、本当に二人には感謝してる」
僕はそう言って頭を下げる。
「先輩、頭を上げてください! 私達こそ、普段から先輩に感謝しています。それに家事を代わって、先輩達の大変さが分かりました。だから、これからもよろしくお願いします」
弩も頭を下げた。
この部屋は、お互いを慈しむ幸せな空気に包まれる。
「先輩、お茶飲んでください、冷めちゃいますよ」
弩が言った。
「ああ、頂く」
僕は、お茶を口に含む。
その前で、弩が、菓子盆の中のホワイトロリータに手を伸ばした。
あ、まずい。
それは……まずい。
カリッと、ホワイトロリータの包みに入った「ルマンド・ホワイト」を囓った瞬間、弩の顔色が変わった。
「先輩、なにしてくれてるんですか? こんな悪戯して、ただで済むと思ってます?」
弩さん、声色まで変わっている。
低い、ドスの利いた声だ。
逃げようとするところを、弩さんに背後から襲いかかられた。
そうだ、僕は弩さんが柔道の使い手だってこと、忘れてた。
弩さんに後ろから首に手を伸ばされて、裸絞めされる。
弩さんはタップしても許してくれなくて、意識が飛びかけた。
「な、中身は、ホワイトロリータの中身は取ってありますから」
その場所を教えて、僕は、なんとか弩さんに許される。
本当に、ホワイトロリータの恨みは恐ろしい。
「ただいま!」
三時半過ぎ、試験を終えた枝折が、寄宿舎に来た。
弩さんの髪を梳かさせてもらっていた僕は、それを途中で投げ出して、玄関に急ぐ。
「どうだった?」
「うん、実力は出せたよ」
枝折が言った。
「そうか」
無表情な枝折の顔を見て、弩さんをはじめ、そこに居合わせた寄宿舎の住人は心配してるけど、口の端が2ミリくらい上がってるから、枝折は相当自信があるんだと、僕は安心する。
「それじゃあ、また」
枝折は明日まだ面接があるから、僕は今日、これで帰らせてもらった。
枝折を送って、家に帰る(決して、弩さんが怖いから逃げ帰るわけではない)。
林の獣道を抜けた辺りで、枝折が僕に手を差し伸べてきた。
「んっ!」
枝折はそう言って、僕に手を伸ばしたまま、動かない。
「えっ?」
「繋いであげるよ、手」
枝折が言った。
「手を繋いで、一緒に帰ろう」
枝折がぶっきらぼうに言う。
僕は、枝折の手を取った。
枝折の冷たい手を、ぎゅっと握る。
「今日だけだからね」
枝折が言った。
「うん、ありがとう」
まだ明日面接があるけど、試験が無事に終わって枝折も安心したって感じが、手から伝わってくる。
僕達は、久しぶりに兄妹で手を繋いで帰った。
空から小雪が舞ってきたけど、全然寒くない。
家に帰って玄関を開けて、僕達が手を繋いでるのを見たら、花園が「ずるい!」っていいながら僕達に飛びついて来ると思う。
そうしたら、三人で手を繋ごう。