あと2ミリ
「篠岡君、ちょっと、国語科準備室まで来なさい」
四時間目の授業が終わって、これから昼食だというときに、ヨハンナ先生が僕を呼んだ。
「はい、分かりました」
僕は返事をする。
ヨハンナ先生は教室では僕のこと上の名前で呼ぶし、他人行儀だ。
クラスメートから、お前なにやらかしたんだ、って感じの視線が僕に注がれた。
同じクラスの新巻さんも僕を見ている。
「すぐに来なさいね」
ヨハンナ先生はそう言って、颯爽と教室を出て行った。
金色の髪を後ろでまとめて、紺のスーツをピシッと着たヨハンナ先生。
教室でスーツの時のヨハンナ先生は、こんなふうに凜々しくてカッコイイから困る。
でも、いきなり呼び出しってなんだろう?
もしかしたら、あれのことか。
主夫部顧問のヨハンナ先生に諮らずに、僕達だけでサッカー部と野球部のマネージャーを手伝うって決めたこと。
先生はそれを怒ってるんだろうか。
そういえば、昨日の放課後、先生は何かよそよそしい感じだった。
僕を避けるように、コソコソしてた。
国語科準備室って、あまり使われることがなくて、今では倉庫代わりになっている部屋だ。
普段、誰も寄りつかない。
そこで、説教でもされるんだろうか。
「先生、篠岡、参りました」
僕は、先生から少し遅れて、国語科準備室に入った。
普通の教室の四分の一くらいの広さしかない準備室は、薄暗くて寒々としている。
両側の壁が本棚で、奥に窓がある部屋には、ヨハンナ先生しかいなかった。
部屋の真ん中にテーブルがあって、そのテーブルの横に、両手を後ろに組んだヨハンナ先生が立っている。
「そこに座りなさい」
僕は、先生にテーブルの前の椅子に座るよう促された。
こんな部屋で何されるんだろう。
やっぱり、説教されるのか。
「ほら! 塞君。先生の手作り弁当だよ!」
ヨハンナ先生が後ろ手に隠し持っていた包みを出した。
「へっ?」
先生は、まだ糊が利いた青いギンガムチェックの弁当包みを、僕に差し出す。
そうか。
僕が寄宿舎での家事の休暇をもらって、今日の僕の昼食は、ヨハンナ先生が作る当番だったんだ。
「あ、ありがとうございます」
僕は戸惑いながら包みを受け取った。
「ほら、座って座って」
先生が椅子を引いて、僕はテーブルに着いた。
包みを開けると、中から、飴色の漆器の弁当箱が出てくる。
箸と、お絞りも入っていた。
漆器のお弁当箱とか、外観は凄く凝っている。
「蓋、開けてみて」
先生が言た。
ヨハンナ先生が作ったお弁当か。
嫌な予感しかしないけど……
僕が覚悟して蓋を開けると、そこには、目に鮮やかで、豪華なお弁当があった。
中にチーズが入ったハンバーグ。
半熟ゆで卵を豚肉で巻いた肉巻き卵。
大きなエビがゴロゴロしてるエビチリ。
ひじきの五目煮。
アボカドと蟹、ホタテを、わさびマヨネーズで和えたアボカドサラダ。
ブロッコリーにプチトマト。
ご飯には、昆布や松の実が入ったふりかけがかかっている。
「これ、本当に先生が作ったんですか?」
僕は訊いた。
「ええ、そうよ。確かに、御厨君の助けを借りたことは否定しないけど、実際に手を動かして作ったのは私だよ」
先生が言う。
見かけは100点に近い。
問題は味だ。
「いただきます」
僕は手を合わせた。
「はい、召し上がれ」
箸を取ると、先生が水筒からお茶を注いでくれる。
緊張しながら、まず、ハンバーグを一口。
「どう?」
先生が訊いた。
「お、美味しいです」
先生が隣の椅子に座って、テーブルに頬杖して、ゼロ距離で見つめてたら、そう答えるしかない。
まずいなんて言えない。
でも、実際、お弁当は美味しかった。
半熟卵はとろとろだし、エビチリの辛みも丁度いいし、ハンバーグは冷めていても柔らかい。
砂糖と塩を間違えたとか、そういうテンプレみたいな失敗を予想してたのに、普通に食べられるばかりか、僕が今まで食べたお弁当の中で、十本の指に入るくらいに美味しかった。
だけど、この食材、ちょっと豪華すぎる。
アボカドサラダの蟹肉は、カニ缶を使っていた(僕なら、カニかまを使う)。
ご飯にかかってるふりかけ、これ、錦松梅だ。
冷めたハンバーグが柔らかいのも、ブランド牛の挽肉を使ってるから、油の融点が低いんだと思われる。
「先生、このお弁当作るのに、いくらかかりました?」
僕が訊くと、
「あはははは」
ヨハンナ先生は笑って誤魔化した。
この食材、主夫感覚で計算すると、揃えるのに五千円以上、かかってるんじゃないだろうか。
食費を無視して最高の食材を集めた、休日のお父さんが作る料理って感じか。
でも、先生が僕のことを考えてこんなお弁当を作ってくれたと思うと、正直、嬉しい。
ずぼらな先生が御厨に料理習ってるところを想像して、感動した。
「本当に美味しいです」
僕は一口一口、噛みしめて食べる。
「まあ、私がちょっと女子力を発揮すれば、こんなものよ」
先生が言った。
普段からその100分の1でも発揮してくれれば、四十代の中年男性から脱却できるのに。
そんなふうに先生に見つめられながらお弁当を頂いていたら、
「あれぇ、塞君、エビチリのチリソースが、お口の端に付いてるよ」
ヨハンナ先生が言った。
「ほら、先生、とってあげようか?」
先生がそう言って、僕の口の端を、右手の小指で拭った。
なんか、くすぐったい。
「指だと、全部取り切れないな」
先生が言った。
「大丈夫ですよ、あとで、自分で拭きますから」
なんか、狭い部屋に二人っきりだし、先生がすぐ横に座ってるし、恥ずかしい。
「ううん、とってあげる。ちょっと待って」
先生がそう言って顔を近づけてきた。
先生、えっ、ヨハンナ先生?
えっ?
指じゃなかったら、なにで拭うんだろう。
先生はハンカチとか、ティッシュペーパーとか持っていない。
ただ、顔を近づけてくる。
唇……
だって、唇とかそれじゃあ、僕達キスして……
「じっとしてて」
先生の吐息が顔にかかる。
先生の唇が、僕の口の端に触れそうになった、その時だ。
ドンドンドン!
ドンドンドン!
国語科準備室のドアが、乱暴にノックされた。
「失礼します!」
ドアを開けて誰か入って来る。
ヨハンナ先生が、さっと、僕から離れた。
あと、2ミリくらいだった。
「あら、新巻さん、なあに?」
部屋に入って来たのは、新巻さんだった。
制服姿の新巻さんが、ドアの前に立っている。
「はい、ちょっと授業のことで分からないことがあったので、質問に来ました」
新巻さんが言った。
「質問、ああそう」
先生が、ちょと上ずった声で言う。
新巻さんは、テーブルで弁当を食べている僕を見た。
「ああ、篠岡君いたのね。篠岡君がここにいるなんて、知らなかったわ。あー私、全然、知らなかった。ああ、びっくりした。それはもう、驚いたわ。青天の霹靂だわ」
新巻さんが言う。
その言い方が、世界で一番平坦な場所と言われる、ウユニ塩原くらい、平坦だった。
「新巻さんたら、本当に、お昼休みまで、勉強熱心だこと」
先生の拳が握られている。
血管が浮き上がるくらい、強く握られていた。
「いえ、先生のご指導が素晴らしいものですから、こうやって、先生を慕って、昼休みも来てしまうんですよ」
新巻さんが言って、先生の前に立つ。
言葉だけなら教師と生徒の和やかな会話なのに、なんか、二人、火花が飛び散っていた。
二人の視線の間にこの半熟卵入れたら、固ゆでになりそうだ。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
「塞君、私達は落ち着いているわ」
ヨハンナ先生が言う。
「そうよ、篠岡君。私達はとってもフレンドリーよ」
新巻さんが言った。
言葉とは裏腹に、二人はガンを飛ばし合っていた。
二人とも、口だけ笑ってるけど、一歩も引かない姿勢だ。
僕は、急いでお弁当の残りをかき込んで、「ごちそうさま!」を言って、慌てて国語科準備室を出る。
恐ろしい空間だった。
これが、噂に聞く修羅場ってやつか(僕とヨハンナ先生、新巻さんは付き合ってないから、修羅場ではないんだろうけど)。
教室に逃げ帰ったら、僕の席に女の子が来ていた。
「あっ、篠岡先輩!」
サッカー部マネージャーの宝諸さんだ。
昼休みに僕を訪ねて来たらしい。
クラスメートが、ニヤニヤと冷やかしの目で見ている。
違う、これはそんなんじゃないんだ。
「これ、チョコレートを配る部員のリストです。サッカー部と野球部、両方まとめてきました」
宝諸さんがそう言って、僕にコピー用紙を渡す。
作るチョコレートがどれくらいの量になるのか、見当を付けるためにお願いしていたのだ。
宝諸さんから受け取ったリストを見て、僕は愕然とする。
「部員って、こんなにいるんだ……」