福
「ほら、枝折ちゃん、あ~ん」
とろとろのフレンチトーストを一口大に切って、フォークで枝折に差し向ける。
「は?」
枝折は、汚いモノでも見るような目で、僕を見た。
「いや、久しぶりの兄妹水入らずの朝食だから、サービスしようと思って」
「そういうの、いいから」
枝折はそう言って、食事を続けた。
「枝折、どうしたんだ、反抗期か? ほら、前みたいに、あ~ん、って」
僕が振ってみるのに、
「前から、こんなことしてないし」
枝折は至極、冷静だ。
全然、乗っかってこない。
「しょうがないなあ、じゃあ、私が食べてあげるよ、はい」
花園がそう言って、目を瞑って口を開く。
顔を僕のほうに持ってきて、おねだりした。
「これは受験生の枝折ちゃんへの特別サービスだから、花園ちゃんは駄目」
「けち! けち兄ちゃん!」
僕と花園がそんな遣り取りをしていたら、枝折が口の端を二ミリくらい上げた。
よかった。
枝折はすごく、楽しんでいる。
受験勉強のほうも順調そうだし、ナーバスになってなくて安心した。
僕が受かった高校だし、元々枝折が落ちるわけないんだけど。
「いってらっしゃい。車に気を付けるんだよ。変な人について行っちゃ駄目だよ」
僕はそう言って二人を送り出した。
「………」
「ハイハイ、分かってるって」
枝折と花園は、そんな感じで家を出て行く。
ここのところずっと朝練で忙しかったから、久しぶりに妹達の見送りが出来た。
これも、ヨハンナ先生と弩が、僕に休暇を与えてくれたおかげだ。
僕は、ゆっくりと、始業時間ギリギリで登校して教室に入る。
そしたら、新巻さんが一人だけセーラー服じゃなくて、ジャージ姿で教室にいた。
「はい、みんなおはようー」
やがて教室に入ってきたヨハンナ先生も、皺が寄ったスーツに、洗いざらしみたいなシャツを着ている。
僕は一瞬で悟った。
寄宿舎で、なにかあったんだと。
出席をとる先生を凝視したら、先生は僕から目を逸らした。
先生の金色の髪にもあんまり櫛が入ってないみたいだし、多分、先生と弩が僕の代わりに引き受けた家事で、なにかあったんだろう。
一時間目が終わった休み時間で、新巻さんに何があったか訊いてみた。
「まあ、ちょっとね」
新巻さんはそんなふうに言う。
冷静沈着な新巻さんが、「ちょっと」って言うってことは、かなり大変なことがあったと思われる。
放課後、僕は覚悟しながら寄宿舎に行った。
掃除は行き届いているし、玄関や廊下は、別段、混乱した様子はない。
ところが、主に僕の持ち場であるランドリールームに行ってみると、そこが混乱を極めていた。
洗濯かごや洗濯ネットがあちこちに散らかってるし、洗剤や、柔軟剤のキャップが開けたままで、洗濯機の上や、床の上に無造作に置かれていた。
焦げたアイロン台が放置してあるし、アイロンのあとがついた制服のスカートが落ちている。
ランドリールームの窓から裏庭を覗くと、木々に洗濯紐を渡して、無数の洗濯物が干してあった。
その中で、ジャージ姿の弩が、夢中になって洗濯物を干している。
寒い中、腕まくりして爪先立ちで、一生懸命、洗濯物を干していた。
しばらく窓から弩の洗濯を見ていたら、洗濯かごを持った縦走先輩が、ランドリールームに入ってくる。
先輩は弩の洗濯を手伝ってくれていたらしい。
「先輩、これ、どうなってるんですか?」
新巻さんが教室でジャージを着ていたことも含めて、縦走先輩に訊いてみる。
ああ、あれなって、先輩は肩を竦めてから言った。
「ランドリールームに、全自動洗濯機と二槽式洗濯機があるだろう? 弩は、二槽式のほうで洗濯をして、脱水という概念を知らずに、ポタポタと水が滴る状態で、洗濯物を干してしまったんだな。そしたら、昨日曇ってたこともあって、いつまでも乾かずに、夜の寒さで、凍ってしまったんだ。朝になったら、セーラー服やパンツの氷漬けが出来ていた」
先輩が、笑いながら言う。
無難に全自動のほうで乾燥までやれば良かったのに。
それに、「脱水という概念」って……
「みんな代わりの制服があったから良かったんだが、新巻の代わりの制服は、ヨハンナ先生がアイロンをかけるときに跡をつけてしまってな。仕方なく、今日はジャージで登校したんだ」
縦走先輩がランドリールームの混乱を説明してくれた。
ヨハンナ先生はきっと、アイロン掛けのときに当て布をしなかったんだろう。
「弩、手伝おうか?」
裏庭から戻ってきた弩に訊くと、弩は大きく頭を振った。
「ヨハンナ先生は職員会議だし、手伝ってもいいだろ」
「先輩は休暇中なんですから、大人しくコタツでミカンでも食べててください」
弩はそう言って、僕を自分の部屋に連れて行く。
僕をコタツに入れて、ミカンとホワイトロリータが入った菓子盆を寄越した。
「ここで、ゆっくりしていてくださいね」
弩はあくまで、僕に手を出すなという。
「はいはい、分かったよ」
諦めて弩の部屋でみかんを食べた(ホワイトロリータには手をつけないでおいてやった)。
食べ終わって、コタツに入ったまま、寝っ転がったりしてみる。
床を通じて、古品さん達がレッスンをする音とか、主夫部部員が忙しく家事をして歩き回る振動が、微かに伝わってきた。
僕は、我慢できなくなって、コタツを出る。
弩のタンスの引き出しを開けてみた。
タンスの中は、僕が最後に見たときから、少し乱れている。
弩のパンツの畳み方とか、いつもと違うし、弩が穿く毎日のローテーション通りに並んでいない。
ああ、畳み直したい。
きちんと整理したい。
僕がそんなふうに考えながらタンスの中を見ていたら、
「先輩、女子高生のタンスを開けて、苦悶の表情を浮かべないでください!」
僕の様子を見に来た弩に言われてしまった。
「大人しくしててくださいよ」
そう、釘を刺される。
何もしないで休んでるのが、こんなに苦痛だとは思わなかった。
休みをもらったんだし、外に出掛けたり、ゲームでもやってればいいと思ったけど、なんだかそれも乗り気がしない。
弩の部屋のコタツでぐだぐだしながら、二月のカレンダーを眺めていたら、僕は、ふと思いついた。
僕が何か思いつくと、ろくなことがないけど、思いついてしまった。
それを実行すべく、僕はさっそく、台所の御厨のところに行く。
「御厨、この前、味噌仕込んだときの、余りの大豆あるよな?」
僕は夕飯の支度をしている御厨に訊いた。
「はい、ありますけど」
「ちょっともらっていいか?」
「はい、いいですよ」
御厨は冷蔵庫から大豆を出してくれる。
「先輩! 料理しちゃ駄目ですよ! 料理も家事です!」
僕が動き出したら、それを察知した弩が飛んできた。
「料理はしないから」
僕は弩に言う。
それでも弩は疑うような目で見ていた。
「中華鍋借りるぞ」
僕は中華鍋をコンロにかけて、よく洗った大豆を入れる。
「やっぱり、料理じゃないですか!」
弩が文句を言った。
「いや、これは料理じゃない」
「駄目です。先輩また、屁理屈で私を丸め込もうとしてるんですね」
弩が言って譲らない。
「分かった分かった。じゃあ、弩がやってくれ。こうやって、木べらで焦がさないように大豆を炒ってくれ」
僕は手本を見せて、弩に説明した。
「はい?」
弩はきょとんとしている。
「いいから、豆を炒るんだ」
「はい、分かりましたけど……」
わけが分からない様子の弩に、豆を炒らせた。
「弩、弩の部屋のサインペンとか、色鉛筆借りるぞ」
その間に僕は別の仕事をする。
「いいですけど、お絵かきでもするんですか?」
木べらで豆をかき回しながら、弩が首を傾げて訊いた。
「まあ、そんなところだ」
僕は弩の部屋に戻って、机の中からサインペンと、色鉛筆を出す。
寄宿舎の事務室からコピー用紙を持ってきて、そこにサインペンで絵を描いた。
それに色鉛筆で色を塗ったら、要らない段ボール箱に絵を描いたコピー用紙を貼り付けて、サインペンの縁取りに沿って、カッターで切り抜く。
目の部分に二つ穴を開けて、耳の部分にゴムを通した。
こんな工作をしたのは、久しぶりだ。
「先輩、お豆、炒りましたけど」
弩がそう言って、炒った大豆をステンレスのボールに入れて、持ってくる。
豆が入ってるのが升じゃないのはちょっと興ざめだけど、まあ、これでいいだろう。
「弩、これをかぶれ」
僕はそう言って、作ったばかりの「お面」を弩にかぶせた。
「なんですか?」
弩はまだ、事態が飲み込めていないみたいだ。
お面をかぶった弩を、寄宿舎の玄関に連れて行く。
「よし、そこに立っていろ」
僕が言うと、
「はい」
弩はわけも分からず頷く。
僕は、ボールの中から豆を一握り、手に取った。
振りかぶって、
「鬼は外ー!」
大声を出して、弩に豆をぶつける。
「ふええ」
鬼のお面をかぶった弩が言った。
二本の角を生やした、赤鬼だ。
「弩、ふええとか言う鬼はいないぞ、もっと、怖い感じで」
「はい?」
「鬼は外!」
もう一度、僕は弩に投げつける。
「ふええー!」
弩がサンダルを突っかけて、玄関から外に逃げていった。
だから僕も、ボールを持って弩を追いかける。
「鬼は外ー!」
寄宿舎の前庭で、鬼のお面をかぶった弩を追いかけ回して、豆をぶつけた。
二階の窓から、勉強を休憩した鬼胡桃会長と母木先輩が見ている。
なんだ、いつものリクリエーションね、って感じで、執筆中だった新巻さんも部屋の窓から見物した。
現像作業中だった萌花ちゃんが、カメラを持って飛び出して来る。
そして、楽しそうに僕と弩の豆まきを撮った。
静かな寄宿舎とその林が、俄に騒がしくなる。
もし、この辺りにまだ鬼がいたとしても、これで逃げ出しただろう。
二階の窓から、鬼胡桃会長が、
「ご苦労さま」
って、声をかけてくれた。
母木先輩も、親指を掲げている。
受験生もいるし、縁起物のこういう行事はやっておいた方がいいと思った。
僕は暇に任せて、こんなことを思いついた。
散々、弩を追いかけ回して鬼を払ったところで、弩の鬼を許してやる。
「先輩、もう! 酷いです」
僕の手作りお面を外しながら、弩が言った。
「ごめん、ごめん」
僕はそう言って、お面をかぶって乱れた弩の髪を手櫛で直してやった。
弩は抵抗せずに僕に身を任せる。
「ほら、弩、16粒食べろ」
ボールに残しておいた豆を、弩に勧めた。
「はい、年齢の数ですよね。知ってます」
弩はそう言うと、ぽりぽりと、小動物みたいに豆を食べる。
僕も、弩と一緒に17粒食べた。
御厨が味噌のために選んだこだわりの豆だったからか、味が濃くて美味しかった。
外にまいた豆も、林にいるリスとか小動物の餌になるんだろう。
炒り豆は、弩と二人で寄宿舎の住人に配って回った。
「あのう」
そんなふうにドタバタしていたら、寄宿舎の玄関に、我が校の生徒、四、五人グループの女子が来る。
「ちょっと、よろしいですか?」
鬼が去って、来たのは女子という福だった。