月
「弩、もう諦めろ」
僕はそう言って、弩に手を伸ばした。
弩は僕の手から機敏に逃れて、こたつの脇を抜け、ドアから廊下へ出ようとする。
だから僕は、弩より先にドアの前に立って進路を塞いだ。
「先輩、どうしたんですか?」
弩が、悲愴な顔をしている。
ドアを塞いだ僕は、にじり寄って弩をベッドの方に追い込んだ。
「なんでこんなことするんですか! 先輩、どうしちゃったんですか? こんなの、篠岡先輩じゃありません!」
弩が大きな声を上げる。
「大丈夫、抵抗しなければ、痛いことしないから」
僕が距離を詰めると、後ろ向きに下がってベッドまで追い込まれた弩が、ベッドの上に、仰向けで倒れた。
「弩、覚悟を決めろ」
「嫌です! こんな、先輩、酷い!」
「あなた達、なにしてるの!」
ドアを蹴破るようにして、ヨハンナ先生が部屋に入ってきた。
弩が往生際悪く騒ぐから、声を聞きつけたヨハンナ先生が、飛んできたらしい。
ヨハンナ先生に続いて、寄宿生と主夫部全員が、なだれ込むように弩の部屋に集まってきた。
「あ、いえ」
なんか、大事になってしまった。
「先生、酷いんです! 先輩が、私のホワイトロリータを取り上げようとするんです!」
弩が言って、ほっぺたを膨らませる。
「はっ?」
「いえ、あの、今、弩はダイエット中なので、ホワイトロリータは一日三本って決めて、僕が支給してたんです。それなのに弩は、備蓄していたホワイトロリータを隠れてポリポリと食べていて、僕はそれを取り上げようとしていたところで……」
部屋に隠してあるホワイトロリータを探して没収してたら、弩が背中に隠して抵抗したから、僕はそれを取り上げようとしたのだ。
「なぁんだ。またいつものじゃれ合いか」
縦走先輩がそう言って、帰って行く。
先輩は、物騒にも鉄製のバーベルのシャフトで武装していた。
その鉄棒でどうするつもりだったんだ。
「はぁあ、アホらし」
錦織も帰っていった。
「まったく、人騒がせなんだから」
鬼胡桃会長も、母木先輩と手を繋いで部屋に戻る。
「…………」
無言の新巻さんが、なんか恐い。
みんな行ってしまって、この部屋には、僕と弩と、ヨハンナ先生だけが残った。
「ほら、弩、背中に隠したそれ、渡しなさい」
僕は、弩を落ち着かせるように、静かに言った。
「嫌です! 私からホワイトロリータを取り上げたら、なにが残るっていうんですか!」
弩が言う。
「いや、そこまで卑下しなくても」
ホワイトロリータを取り上げたって、弩には色々と残ると思うが。
「さあ、それをこっちに」
僕がしつこく言うと、弩は渋々、背中に隠していたホワイトロリータの袋を僕に渡した。
「先輩は鬼です! 悪魔です」
弩が口を尖らせる。
ホワイトロリータのことで、鬼とか悪魔とか言われても困る。
「まあまあ、弩さん。一日三本って決めたんだったら、その決まりは守りましょうね」
ヨハンナ先生が言った。
「あ、先生。後で先生の部屋にも、ビールと焼酎、回収しに行きますから」
僕が言うと、
「鬼! 悪魔!」
先生がそう言って、部屋から逃げた。
ダイエット中の先生からビールと焼酎を取り上げるのは、弩より難航しそうだ。
「弩、この部屋に、もう他には隠してないな?」
僕が確認した。
「ななな、ないです」
弩が、目を泳がせる。
なんて分かりやすいんだ。
目を泳がせた弩が、一瞬、タンスの方に目をやったのを、僕は見逃さなかった。
はは~ん。
僕が、タンスの方へ行くと、弩がその前に立ち塞がる。
「先輩! 乙女のタンスを開けるなんて、どういうつもりですか! ここは、下着とか入っていて、乙女の最後の砦です!」
弩が言った。
「いや、そのタンスに、毎日、洗って畳んだパンツを仕舞ってるのは、僕なんだが」
「はうう」
弩はぐうの音も出ない。
弩を退かしてタンスの引き出しを開けてみると、衣類がいつもより少し浮いているような気がした。
毎日ここを開けている僕には、それが分かる。
よく調べると、引き出しの底に敷いた除湿用シートの下に、ホワイトロリータの袋がびっしりと並べて隠してあった。
おまいは、怪しいクスリの運び屋か!
「これは没収な」
僕が全部かき集めて言うと、
「ふええ」
弩が涙目で零す。
「まあ、これも、ダイエットが終わるまでの辛抱だから」
僕は弩の肩を叩いて慰めた。
弩のホワイトロリータは、寄宿舎事務室の金庫の中に、厳重に仕舞って鍵を掛ける。
僕が鍵を掛けるのを、弩が怨めしそうな顔で見ていた。
鍵は、家に持って帰ったほうがいいかもしれない。
夕飯の片付けをして、部活を終え、帰る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
特にここは、周囲が林で真っ暗だ。
「それじゃあ、また明日」
寄宿生とヨハンナ先生に挨拶して、僕達は帰宅の途につく。
主夫部の男子部員と獣道を歩いていたら、僕は洗濯機の上にスマートフォンを忘れたことに気付いた。
「ゴメン、忘れ物」
断って、僕だけ寄宿舎に戻る。
すると、林の出口のところで、コートを着て財布を持った弩が、玄関を出ようとしているのが見えた。
弩は、僕達が帰ったタイミングを狙っていたかのように、寄宿舎を出て行く。
あやしい。
僕は、咄嗟に林の太い木の後ろに隠れた。
弩は僕に気付くことなく、林を抜け、校舎脇を歩いて、学校の通用門の方に向かう。
僕は、見つからないよう距離を置いて、弩のあとを追った。
ストーカーみたいだけど、辺りは真っ暗で、夜道を一人で歩く弩が心配だし。
弩の後ろをしばらく歩いていたら、弩が路側帯の白線の上をずっと歩いているのが気になった。
横断歩道にさしかかると、弩はその白線の上を、飛び石のようにぴょんぴょん跳ぶ。
弩は、ずっと白線の上を歩いて目的地まで向かうつもりだ。
「子供か!」
僕が思わず普通に声を出して突っ込んでしまって、弩が後ろを振り向いた。
僕は瞬間的に、民家の塀の後ろに隠れる。
弩は、しばらく辺りを見回して、首を傾げ、また白線の上を歩き出した。
危なかった。
最近、突っ込むことが多くて、自然に声が出てしまう。
授業中とかに、間違ってヨハンナ先生に突っ込んだりしないように、気をつけないと……
でも、この方向。
ついて歩いていたら、弩の行き先が分かった気がする。
弩が目指しているのは、多分、近くのコンビニエンスストアーだ。
弩が、ヨハンナ先生によく使いっ走りに出される店に違いない。
そうなると、弩の目的も簡単に想像できた。
僕の想像通りなら、弩はアレを買いに行くに違いないのだ。
やがて、僕の予想通り、弩が歩く先に件のコンビニが見えてきた。
ずっと白線の上を歩いた弩は、駐車場の白線までトレースして、店内に入っていく。
煌々と明るい店内には、五、六人の客がいて、雑誌を読んだり、商品を選んだりしていた。
レジに店員さんも二人いる。
僕は、少し間をおいて、弩に見つからないよう、店の中に入った。
弩は、雑誌や飲み物、弁当を素通りして、お菓子の棚を目指す。
それも、たくさんのブルボン製品が並ぶコーナーだ。
そこで弩は、例のアレに手を伸ばした。
弩が大好きな、アレ、ホワイトロリータ。
弩の手が棚に陳列されたその袋に触れようとしたところで、後ろから近づいた僕は、弩の手を取った。
弩の手を握って、袋を手に取るのを妨害する。
僕に手を握られて、弩はびっくりしていた。
目を丸くして、悪戯を見つかった子供みたいな顔をしている。
「弩、約束したよな」
僕がその目を見て言った。
「はい、すみません」
弩は、僕がどうしてここにいるのかとか訊かずに、すぐに謝る。
なんか、万引きでも捕まえたみたいだ。
「帰ろう」
僕がそう言っても、弩は中々そこを動かない。
「そんなに、ホワイトロリータに未練があるのか?」
僕が訊くと、弩がコクリと頷いた。
まったく、困った奴だ。
ここまでこだわっていると、なんだか、微笑ましくなって、怒らないといけないのに、表情が緩んでしまう。
「でも、先輩がこうやって、ずっと手を握って私を引っ張っていけば、帰れそうな気がします」
弩がほっぺたをピンクにして言った。
「よし、分かった。じゃあ、このまま手を繋いで、引っ張ってってやるよ」
僕が言うと、
「はい!」
弩が大きな声で返事をするから、店内の人が一斉にこっちを見る。
僕達は、逃げるように店を出た。
冬の高い夜空には、雲一つなかった。
そんな空に、まん丸に近い月が、ぽっかりと浮かんでいる。
僕達は月明かりの下を、手を繋いで歩いた。
繋いでいる弩の手が、少し冷たい。
「先輩の手は、温かいです」
弩が言った。
そんなこと言われたら、弩のもう片方の手も握って温めてあげたくなる。
手を繋いだまま二人とも無言で歩いて、通用門の所まで来ると、
「ここまででいいです。ご迷惑おかけして、本当にすみませんでした」
弩が謝った。
「いいよ。寄宿舎まで送るよ。何かあったら大変だからな」
僕達はもうしばらく、手を繋いで夜道を歩いた。
林を抜けて、寄宿舎の玄関に着く。
「どうした弩、寄宿舎に入らないのか?」
玄関に着いたのに、弩が中に入ろうとしないから、僕が訊いた。
「先輩、手を離してくれないと、入れません。別に離さないなら、離さなくてもいいんですけど……」
そうだった。
弩に言われて、僕は手を離す。
「それじゃあ、また明日」
そう言って、別れようとしたとき、
「先輩、月が綺麗ですね」
突然、弩が言った。
「えっ? ああ、そうだな」
僕が答えると、弩は、恥ずかしそうに、走って寄宿舎に入って行った。
僕は空の月を見上げる。
確かに今日の月は綺麗だけど、弩は、なんでそんなこと、あらためてここで言ったんだろう。
本当に、変な奴だ。




