空飛ぶボタン
駅伝ランナーが走るコースの沿道を、美しいフォームの少女が走っている。
浅黒くて短髪、背が高くて無駄な肉がついていないアスリート体型。
少女はこの寒空に、ランニングにショートパンツの軽装で、風を切ってぐんぐん走る。
その少女。紛れもなく、縦走先輩だ。
先輩は、沿道で声援を送る人垣の後ろを、颯爽と駆け抜けた。
道路を行く駅伝ランナーに食らいついているから、先輩の姿は中継のカメラにばっちりと映っている。
縦走先輩……
あなたって人は、正月から、何してるんですか!
僕達がリビングでテレビに釘付けになっていると、
「先輩、お正月から、元気ですねぇ」
弩が、呑気なことを言った。
確かに元気だ。
いや元気すぎる。
「先生、私達はあれを、見なかったことにしましょう」
ヨハンナ先生が、河東先生に言った。
「えっ、ええ、そうね」
そう言いながら、河東先生のこめかみの辺りがピクピクしている。
縦走先輩は、校名が入った部活のランニングじゃなくて、練習用の無地のランニングを着ているから、全国的に我が校の校名が喧伝されることはない。
でも、学年主任で生徒指導の河東先生が心中穏やかでないのは、想像に難くなかった。
「本当に、もう」
河東先生が落ち着こうとして、目の前のウーロン茶を呷った。
いや、ウーロン茶を呷った、つもりだった。
しかし興奮していた河東先生は、その手に掴むグラスを間違えてしまう。
「河東先生それ、お酒です!」
僕が慌てて言ったときには、すでに遅かった。
河東先生は、隣に座るヨハンナ先生のグラスを傾けている。
ヨハンナ先生が飲んでいた、焼酎のウーロン茶割りのグラスを空けてしまったのだ。
河東先生はその強面と裏腹に、お酒が飲めない。
以前、夏フェスのときに、シャーベットに入っていた僅かなリキュールで酔っぱらった河東先生が思い出された。
空になったグラスを置いて、目を瞑る河東先生。
「お母さん! 大丈夫?」
すぐに萌花ちゃんが河東先生に駆け寄った。
ところが、先生は目を瞑ったままで、返事がない。
「お母さん! お母さん!」
萌花ちゃんが先生を揺すった。
「お母さん、お母さん」
萌花ちゃんが呼び続けると、先生の目がぱっちりと開かれる。
「あに、もえか、おはあはんは、らいりょうふ」
河東先生が言った。
多分、「なに萌花、お母さんは、大丈夫」って言ったんだと思う。
河東先生の表情がとろけて、いつものキリッとした眉が垂れ下がっていた。
ふらふらの先生は、萌花ちゃんに寄りかかって支えられる。
グラス三分の一くらいのウーロン茶割りで、河東先生がぐでんぐでんになってしまった。
「塞君! お水持ってきて!」
ヨハンナ先生が僕に言う。
「はい、すぐに!」
僕はキッチンでグラスに水を入れてきて、先生に差し出した。
「お水らんか、いらないにゃん。もっとお酒が飲みたいにゃん」
河東先生が言う。
「にゃん」だと。
「先生、大丈夫ですか?」
ヨハンナ先生が肩を揺すった。
河東先生が語尾に「にゃん」を付けてしゃべるという非常事態に、ヨハンナ先生も慌てている。
「先生……気分、悪くないですか?」
ヨハンナ先生が訊くと、河東先生はその先生を睨んで、
「にゃあ、ヨハンナ! あんたは綺麗でスタイル良くて、ずるいにゃん」
と、絡んでいった。
「生徒に慕われて、主夫部の男子に囲まれて、いい加減にしろにゃん」
お酒でピンク色になった顔で言う、河東先生。
「済みません!」
萌花ちゃんが、代わりに謝った。
「まあ、いいからいいから」
ヨハンナ先生が萌花ちゃんに笑顔を見せる。
「母は、猫に目がないんです。仕事でいないことも多いから、うちでは飼えないけど、近所の猫を見ると、すぐに話しかけるし」
萌花ちゃんが言った。
「そんなときは、にゃあにゃあ言ってるんです」
河東先生にそんな一面もあったのか。
お酒で、そんな面が出てきてしまったんだろう。
僕がそんなことを考えていたら、矛先がこっちに向いた。
「にゃい、篠岡! あんたもにゃ。まったく、私より料理が上手いにゃんて、どういうことにゃん! 家事を完璧にこにゃすって、どういうことにゃ。もう、こうにゃったら、萌花の婿ににゃって、うちに来るといいにゃん!」
河東先生が僕に顔を近づけて言う。
少し、お酒臭かった。
「もう、お母さんってば! 恥ずかしい!」
萌花ちゃんが顔を赤くして、大慌てで止める。
「にゃによ、だって萌花、あんたは篠岡のこと……」
河東先生が何か言いかけたところで、萌花ちゃんが先生の口を塞いだ。
河東先生は、その後も猫語で散々くだを巻いたあと、こたつの天板に突っ伏して眠ってしまった。
「お母さん、もう、お母さん!」
萌花ちゃんが揺り起こそうとする。
「いいよ、寝かせておいてあげよう」
ヨハンナ先生がそう言って、萌花ちゃんを止めた。
ヨハンナ先生が僕に目配せして、その意を汲み取った僕は、隣の客間に布団を敷いた。
こたつに突っ伏す河東先生をお姫様抱っこで運んで、ジャケットを脱がせ、そこに寝かせる。
「ありがとにゃん」
布団をかけたら、僕の耳元で先生が言った。
「えっ?」
僕が訊き返したら、河東先生はすでに寝息を立てている。
母と同年代の女性に対して失礼かもしれないけど、寝顔が可愛いとか、思ってしまった。
お酒を飲んだあとで喉が渇くといけないから、枕元にレモン水を入れたピッチャーとグラスを置いておく。
「でも、どうしよう。お母さんがお酒飲んじゃって、車で帰れない」
リビングで、萌花ちゃんが言った。
「もうこれは、泊まっていけってことだよ」
ヨハンナ先生が顔をほころばせて言う。
「でも、お正月から、迷惑かけるし……」
萌花ちゃんは、済まなそうに僕を見た。
「女子の一人や二人増えたからって、塞君なら平気だよ。むしろ洗濯物が増えて、ご褒美なくらいだろうし」
ヨハンナ先生が勝手なことを言う。
まあ、確かに二人くらい大丈夫なんだけど。
洗濯物が増えて、嬉しいけど。
「そうだよ、萌花お姉ちゃん、うちに泊まっていきなよ」
花園が抱きつく。
花園、GJ。
花園に可愛く抱きつかれたら、もう、何人たりとも、その要求から逃れられないのだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えます」
萌花ちゃんが花園を抱いて、照れながら言った。
「そうと決まれば、萌花ちゃん、くつろいでくつろいで」
先生が座布団を勧める。
「服も窮屈でしょ? 私のでよければ使って」
弩が自分のバッグから、トレーナーを渡そうとした。
すると、
「ゆみゆみのだとサイズ小さいでしょ? 花園のを使いなよ」
花園がそう言って、自分の服を取りに二階に上がった。
人が増えて、花園も枝折も嬉しそうだ。
「ほら弩、確かに弩は花園よりも小さいけど、まだまだこれから大きくなるよ」
花園に暗に小さいって言われて、弩が落ち込んでカーペットのほつれを弄ってるから、僕が頭を撫でて励ます。
ティッシュペーパーで鼻水をちーんさせる。
人数が増えると、それなりには忙しい。
「縦走さん、まだ走ってるよ」
テレビを見ていた枝折が言った。
さすがに先頭集団には置いて行かれたけど、縦走先輩は第二中継車の映像に、まだちゃっかりと映っている。
「縦走先輩は、どこに向かってるんだ……」
僕が零すと、
「箱根でしょ」
「箱根だよ」
「箱根でしょう」
「箱根です」
「箱根!」
みんなに突っ込まれた。
いや、そういう意味ではなく……
花園のピンクのスエットに着替えた萌花ちゃんがこたつに入って、お正月の宴、第二部が始まる。
しばらく飲み食いしていたら、
「そう言えば、あの、ちょっと気になってることがあるんですけど」
この環境に慣れてきた萌花ちゃんが言った。
「なになに?」
こたつに入った他の五人の視線が、萌花ちゃんに集中する。
「ちょっと、言いにくいんですけど、いいですか?」
萌花ちゃんがそんなふうに前置きした。
「なになに?」
「気になるじゃん」
弩も先生も、興味津々だ。
「じゃあ言いますけど、ヨハンナ先生と、弩さん、ちょっと太ってません?」
萌花ちゃんが、無慈悲に言った。
「まさか」
「そんな」
ヨハンナ先生と弩がそう言ってお互いを見て、笑い飛ばす。
「ここに来たときから気になってたんです。二人とも、輪郭が丸くなってるなあって……」
萌花ちゃんが、遠慮がちに指摘した。
でも、カメラマンとして、萌花ちゃんの目は確かだ。
普段から、被写体にしている古品さんの体重の増減を、見ただけで言い当てるくらいだし。
「先輩、先輩は気付きませんでした?」
萌花ちゃんが僕に話を振った。
「いや、気付かなかったけど」
僕は答える。
これは別に、二人の前だから遠慮してるとかじゃなくて、本当に分からなかった。
でも、僕達は年末からずっと一緒にいるから、二人が少しずつ太っていったとしたら、僕は気付かないかもしれない。
久しぶりに二人を見た萌花ちゃんだから、気付いたのかも。
「二人とも体重、量ってます?」
萌花ちゃんに訊かれて、二人は首を振った。
「脱衣所に体重計があるのは分かってるんだけどね」
弩が言って、舌を出す。
「私はほら、数字とか気にしないタイプだし」
ヨハンナ先生が言った。
先生、気にしよう。
そこは絶対に気にしましょう。
数字は気にしないって、連勝記録を伸ばしてるプロスポーツ選手みたいな言い方されても……
「大体、普通に動けるし、これくらいがベスト体重だよ。ね、弩さん」
「はい、そうです」
先生と弩がこたつから立ち上がって、体を動かした。
「ほら、普通に動けるでしょ」
二人はその場で屈伸運動したり、体の曲げ伸ばしをして、ラジオ体操の真似をする。
「今の女子は細すぎるんだよ」
「そうだ、そうだ!」
二人が言って、立ったまま上体を反らすストレッチをした、そのときだ。
ぶちっ
と鈍い音がして、次の瞬間、二人のパンツのボタンが、弾け飛んだ。
ボタンは宙を舞って、こたつの上の、空のお椀に落ちる。
お椀の中で回って、カラカラと儚い音を立てた。
普段あまり感情を外に出さない枝折が、正月から、声を上げて笑う。