良人
僕達は倒れた書架を引き起こし、無数の本を掻き分けて、その中から掘り出すようにして弩を助けた。
「ありがとうごさいます。ありがとうございます」
書架にのしかかられて動けなかった弩が、僕達に感謝の言葉を繰り返す。
声はちゃんと出ていて、意識もしっかりしてるみたいだ。
「大丈夫? 救急車呼ぶ? 気分はどう? どこか折れたり、打ったりしてない?」
駆け寄ったヨハンナ先生が訊く。
「いえ、大丈夫です。体は全然大丈夫」
弩は気丈にも笑顔を見せた。
頬に笑窪が浮かぶ。
部屋着だろうか、弩はミントグリーンのキャミソールワンピースに、白いカーディガンを羽織っていた。
とりあえず、部屋のベッドに寝かせるために、僕が弩を抱え上げる。
お姫様抱っこなんてするの、初めてだ。
弩はすごく軽かった。
軽くて儚い感じがする。
僕が抱っこすると、弩は「ふええ」と小声で言った。
ベッドに寝かせて、毛布を掛ける。
「君は、いつからあの状態でいたんだ?」
母木先輩が訊く。
「たぶん、四日くらい前からだと思います」
弩が答えた。
「どうしてこんなことに?」
「すみません。ここに入ったばかりで、まだ部屋の片付けも終わってなくて、放課後、荷解きして段ボール箱の中の本を書架に移してたんです。そしたら急に床がグラグラして……」
確かに、書架があった辺りの床板が沈んでいる。
弩が大量に持ち込んだ本の重さに、老朽化したこの寄宿舎の床が耐えられなかったのかもしれない。
「書架が倒れてきたんですけど、文机がつっかえ棒になって直接体には当たらなかったんです。でも、挟まって身動きがとれなくなっちゃって」
そのままここで四日過ごしたのか。
「ずっと飲まず食わずでいたの?」
御厨が訊く。
「いえ、ちょうど倒れたところにコンビニで買ったおやつが入ったレジ袋があったんです。それをちびちびと食べたり飲んだりして生き延びました。手だけは少し動かせたんで」
弩が埋まっていたところを見ると、殆ど空になった清涼飲料水のペットボトルと、クッキー菓子の包み紙が散乱していた。
ドデカミンと、ブルボンのホワイトロリータ。
不思議な組み合わせだ。
弩のおやつ選びのセンスは、ちょっと特異かもしれない。
「どうして助けを求めなかった? 声は出せただろう?」
続いて母木先輩が訊く。
「最初のうちは大声で呼びかけてたんです。でも無駄だと解りました。隣もその隣も、そのまた隣も空き部屋だし、廊下に人が通る気配がないんです」
「確かに、一階の右側で埋まっているのはこの部屋だけよ。それにここは建物の端だから、この部屋に来る目的がなかったら、前の廊下を通ることはまずないわね」
鬼胡桃会長が言った。
「スマートフォンには手が届かなかったし、あとは助けが来るまで体力を使わないようにじっとしてました。じっとして昼間は本を読んでました。ここには本だけはたくさんあるので」
床には無数の本が散らばっている。
その表紙を見る限り、弩の読書はかなり雑食性のようだ。
文芸書もあれば専門書もある。画集も写真集もある。
マンガもあるし、映画のシナリオなんかもあった。
それにしても、呑気に本を読んでいたなんて……
「管理人さんが確認に来たときは? どうして答えなかったの?」
錦織が訊く。
「えっ? 管理人さん? いえ、誰も来ていませんけど」
「管理人さん来たでしょ? ドアをノックしたでしょ?」
会長が弩に迫った。
「いえ、誰も……来てません」
迫力がある会長に迫られたら肯定してしまいそうだけど、弩は明確に否定する。
「ちょっと管理人さん」
鬼胡桃会長が振り向いた。
部屋の外から、壁に隠れて中を覗き込むようにしていた管理人の女性。
「どちらの言うことが正しいの? あなたは彼女が学校に来ていないという連絡を受けて、この部屋を確認したのよね?」
会長が訊く。
「してません」
しばらく間があって、管理人は消え入りそうな声で言った。
「すみません。この部屋に来てません」
壁に隠れたまま、管理人が言う。
管理人は、会長と目を合わせようとしなかった。
「どうして?」
「確認する暇がなかったんです」
「はぁ?」
「すみません」
「嘘までついて、まったく……」
鬼胡桃会長が発すると、管理人の女が舌打ちをする。
彼女の中で、ぷちんと何かが切れた。
「ってゆうか、面倒くさかったんです。大体、一人でやること多すぎるんですここは。朝晩の食事の支度、掃除、洗濯、布団干し。建物も古いし、不便だし。一々、学校サボる子のために時間使ってられません」
「それがあなたの仕事でしょう?」
「お給料安いし、仕事に見合うほどもらってませんよ。学校関係の知り合いに頼まれて仕方なくやってるんです。今、もっと時給いいとこ一杯あるし、割に合いません」
「受けた仕事である以上、責任は果たさないと」
「正論ですね。でも、子供には分からないかもしれないけど、世の中って正論だけで回ってないんですよ」
管理人が言った。
「あら、随分な言い方ね」
突然反撃されて、会長が少しだけ怯む。
「分かりました! 辞めます!」
管理人の女はそこで初めて、鬼胡桃会長と目を合わせた。
「私、辞めます! こんな薄暗い雑木林の中で、薄気味悪い洋館で、なんにもないし、気が滅入るし、高慢で生意気なガキはいるし」
高慢で生意気なガキと言われて視線を送られた鬼胡桃会長。
「辞めてやる! 二度と来るか! こんな所!」
管理人はそう言って身に着けていたエプロンを外した。
一旦、事務室へ寄って自分の鞄を持ち出すと、そのまま玄関を出て行く。
「ちょっと、ちょっと待ちなさいよ」
会長が呼びかけても、管理人はそのままで返事もしないし、振り返りもしなかった。そのまま、ずんずん歩いていく。
木々の間の獣道に入って、やがて彼女は真っ暗な林の中に消えた。
「待ちなさいってば!」
会長の声は、林の闇に吸い込まれる。
「すみません。すみません、私のせいで」
弩が繰り返す。
「君のせいじゃない。あの人も今まで色々溜まりに溜まっていて、それがこのタイミングで爆発したんだよ」
錦織が慰めた。
管理人が消えた雑木林から、そこの住人であろうフクロウの声が聞こえてくる。
ほうほうと、むなしい響きだ。
「どうしてくれるのよ! この伝統と格式ある寄宿舎が、あなた達のせいで滅茶苦茶じゃない!」
そう言ったあと、会長は古今東西の罵詈雑言を並べた。
耳を塞ぎたくなるような呪詛の言葉も綿々と吐く。
「よし、いいだろう」
鬼胡桃会長が取り乱しているあいだ、腕を組んでずっと目を瞑っていた母木先輩。
鬼胡桃会長が怒鳴り疲れて、言葉が途切れたとき、その目が開かれた。
「現時刻を以て、この寄宿舎すべての家事を、我が主夫部が取り仕切る! 以後、この館で発生する家事はすべて、主夫部が執り行う!」
母木先輩が宣言する。
「ちょと、あなた、何を……」
鬼胡桃会長の表情が凍り付いた。
「安心したまえ、我らは君たち寄宿生の良人となる! 君たちが学生生活に専念できるよう、我々は全勢力を注いで、この館を守るだろう!」
母木先輩の言葉は、男子禁制であるこの寄宿舎の隅々にまで響き渡る。
僕達、主夫部のこれからの方向性が、今ここで決まったみたいだ。