薄暗い林の中で
雑木林の中にある獣道をしばらく歩くと、その建物は姿を現した。
もうここで後ろを振り返っても、校舎は見えない。
林の中で僕達が見上げる洋館は、蔦が幾重にも絡まっていて、巨大な緑色のモップのお化けが立ち上がっているみたいに見えた。
二階建てのコロニアルスタイルの建築が、それくらい緑に浸食されている。
蔦の隙間から僅かに、白いペンキの下見板張りの外壁が見えた。
屋根の中央には三角破風があって、そこに大きな時計が付いている。
今は午後五時前なのに、時計の針は十二時を指していた。
止まったまま、放置されているんだろう。
「これが寄宿舎ですか?」
僕が訊く。
「ええ、これが弩まゆみさんが入ってる、寄宿舎」
ヨハンナ先生が答えた。
先生に弩の住所を調べてもらったら、彼女は我が校の寄宿舎に入っていることが分かった。
弩の実家は他県にあって、彼女は親元を離れてここで暮らしているという。
主夫部の四人とヨハンナ先生でエントランスに立って、建物を見上げた。
「僕、校舎裏にこんな寄宿舎があるなんて知りませんでした」
御厨が言うのは無理もない。
二年生の僕も知らなかったのだ。
寄宿舎がここにあることどころか、我が校に寄宿舎があることさえ知らなかった。
「三年の僕も噂では聞いたことがある程度で、実際に見るのは初めてだ」
母木先輩が言う。
「我が校が昔、女子校だったってことは知ってるよね?」
ヨハンナ先生が訊いた。
それはパンフレットなどにも載っているし、学校のプロモーションビデオでも見たから知っている。
男女共学になったのは三十年前らしい。
「寄宿舎は創立当初からあって、以前はここに五十人からの女子生徒が生活してたんだって」
ヨハンナ先生が言う。
この学校の創立は、明治十四年。
かつてはここで、女子生徒のキラキラした姿が見られていたんだろうか。
寄宿舎の前のベンチで、朗らかな語らいがあったのかもしれない。
それが、今ではもう、木々が建物の直ぐ側まで迫っている。
建物の前のベンチも腐って崩れ落ちそうだ。
薄暗い林の中に沈もうとしている建物に、当時の面影はない。
「厳しい規律が有名で、礼儀作法を身に付けるため、躾のためっていって良家の子女がたくさん入ってたんだって。この寄宿舎に入るために他府県からもこの学校に入学してくる子がいたみたい」
学校から少し離れた林の中にぽつんと建つこの寄宿舎は、確かに誘惑も少ないそうだ。
「男子を受け入れるようになっても、寄宿舎は男子禁制の女子専用で続いてきたの。でも、時代の流れで寄宿舎に入る生徒自体も減って、当時の威光を知る人も少なくなって、忘れられて、それでも細々と続いてるの。今入ってる生徒は四人だけ」
ヨハンナ先生が言う。
外から見る限り、この建物は玄関ポーチとバルコニーのある中央部から左右に六つずつの窓があった。上下合わせて二十四の窓がある。そこに四人だけ住むのは、なんだか寂しい。
「この建物の取り壊しと、寄宿舎の廃止の話は何度も出たんだけど、OGが反対したらしいの。多額の寄付金を出してる人達だから、学校もそれには逆らえないみたい。名家の子女で四代に渡ってこの宿舎に入ったっていう人もいるくらいだから、そういう人たちにとって、ここはまだ存在価値があるんじゃないかな」
この寄宿舎自体、ここが優雅な女子校だった時の名残りみたいなものか。
「弩はなんで寄宿舎に入ってるんですか?」
僕が訊く。
弩もどこかの良家の子女なのだろうか。
それとも、ただ単に家が学校から遠いから利用しているだけか。
「さあ、そこまでは分からない」
ヨハンナ先生が首を傾げる。
風が吹いて、林の木々がざわめいた。
学校の様々な騒音も、ここまでは届かなかい。
今はまだ空に太陽があるけど、真っ暗になったら木々がざわめいただけで震えてしまいそうな、寂しい場所だ。
「とりあえず入ってみよう。ここに弩が居るのなら」
僕達はペンキが剥げた両開きの扉の前に立った。
「あっ、ちょっと言い忘れてたけど……」
ヨハンナ先生がその台詞を言い終わる前に、僕達は寄宿舎の扉を開けていた。
でも、僕達は少なくとも先生の台詞を全部聞いてから、その扉を開けるべきだったんだ。
「ちょっと、あなた達! 男子禁制のこの寄宿舎の敷居を跨ぐなら、私を殺すか、私の夫になるか、どちらかを選びなさい!」
扉の後ろに控えていたのは、鬼胡桃統子生徒会長だった。
トレードマークのボルドーのワンピース姿で腕組み、仁王立ちの鬼胡桃会長。
「言い忘れてたけど、生徒会長もここの寄宿生だから」
ヨハンナ先生が小さな声で、残りの台詞をまくし立てた。