サイン
奥の部屋の、座卓の上に置いてあったノートパソコンのディスプレイを、僕は見てしまった。
パソコンに立ち上げてあったソフトは、テキストエディタだった。
原稿用紙のスタイルが設定してあって、文章が綴ってある。
パソコンの横には、新巻さんがいつも懐に入れているメモ帳があった。
開いて置いてあるメモ帳には、細かい字でぎっしりとページが埋めてある。
ディスプレイを読むと、文章は小説みたいだ。
◇
「ハンネレ様、そろそろお城に出かけましょう。もう日が高いですよ」
「静かにして『晩ご飯』、もう少し寝かせて」
「『晩ご飯』て呼ぶのやめてください。僕には、ケイヂという、歴とした名前があるんですから」
「うるさいよ『晩ご飯』、静かにしないと、鍋にしてたべちゃうよ」
「虫も殺せないくせに。鍋にするって、料理だってできないじゃないですか」
「なに、今日は反抗的ね、兎のくせに」
ハンネレはそう言うと、ベッドから起き上がった。
両手を突き上げて大きく伸びをする。
「ほら、ハンネレ様、なにか着てください」
兎はそう言って、後ろを向いた。
「あなたはもう、この国を背負う立場なのですから」
「あら、兎にも羞恥心はあるのね」
◇
なんか、登場人物の名前に見覚えがあった。
これは「兎鍋」シリーズの登場人物(登場兎物?)と、その台詞だ。
ライトノベルの「兎として鍋に入れて食べられる前に」シリーズは、異世界に兎として転生した主人公、ケイヂの物語だ。
兎に転生したケイヂが、女狩人のハンネレに捕まって、兎鍋にして食べられそうになるところから物語は始まる。
ハンネレは狩人のくせに弓が下手。
それどころか、森に入るのも苦手で、普段は家でゴロゴロしているぐうたら(それは、ハンネレの正体が滅亡した王国の王女だということに起因する)。
ハンネレがケイヂを捕まえられたのは、兎に転生したばかりのケイヂが、森にいたハンネレに見とれていて動かなかったからで、ケイヂはハンネレが捕まえた初めてで、唯一の獲物だ。
ハンネレは捕まえたケイヂを「晩ご飯」と呼んで、首輪をつけて連れ歩いている。
ケイヂは食べられないように、ハンネレの身の回りの世話をして働き、機嫌をとり、時に一緒に戦ったり、知恵を出してピンチから救ったりする。
ケイヂの境遇が、なんか他人事のように思えなくて、この小説が好きになった。
ハンネレの容姿が金色の髪で、青い瞳をしているし。
パソコンのディスプレイに綴られているのは、ケイヂとハンネレの会話の部分だ。
新巻さんは、パソコンで小説を読んでいたんだろうか。
でも、読んでみてすぐに気付いた。
僕はこの台詞を読んだことがない。
僕は「兎鍋」シリーズを最初から全部読んでいる。
枝折から借りた最新刊も、行きのバスで読んだばかりだ。
それでも、こんな文章は初めて見た。
スピンオフとか、特典のラジオドラマとかも全部チェックしてるけど、こんな台詞のやり取りは読んだことがない。それは断言できる。
内容的に、最新刊の続きだと思う。
最新刊で王都を奪還して、王国を再興するか、というくだりだ。
物語の続きが、このディスプレイの上にある。
そう気付いたとき、僕の背後で、物音がした。
「見たのね」
僕の後ろに、新巻さんが立っている。
新巻さんは青いフリースを着て、湯気が上がるマグマップを両手で包むように持っていた。
夜中にパソコンを広げていて、途中で台所に飲み物を取りに行ったのかもしれない。
部屋の中に、甘いコーヒーの香りが広がった。
「見たのね」
新巻さんがもう一度言う。
「ごめん」
僕が頭を下げると、新巻さんは溜息を吐いた。
後ろ手に襖を閉める新巻さん。
僕達は部屋の中で二人きりになった。
隣の部屋では、ヨハンナ先生と三鹿さんが寝ている。
新巻さんが渋い顔で、パソコンを据えた座卓の前に座った。
僕も、新巻さんの対面に座る。
なぜか、そうしないといけないような気がして、僕は正座をした。
「これは、兎鍋シリーズの文章だよね」
パソコンを指して僕が言った。
「新巻さんは、もしかして……」
「同人作家さん? これは『兎鍋シリーズ』の二次創作?」
僕が言うと、新巻さんは首を振る。
「ううん、違う、もっと直接的に、この小説に関わってる」
「直接的? それじゃあ、もしかして……新巻さんは、編集者さん? 『兎鍋』の作者、森園リゥイチロウの担当編集者なの?」
「ううん、私、学校通ってるよね。編集者さんみたいに、お仕事出来ないでしょ?」
「それじゃあ、新巻さんは……」
いや、それは、あり得ない結論だ。
二次創作の同人作家でもなく、編集者でもない。
それでいて、作品にそれ以上直接的に関わっている人物。
導かれる結論は、ただ一つだ。
「そう、私が森園リゥイチロウだよ」
新巻さんが言った。
「だって、リゥイチロウって、男の名前だけど」
「ペンネームなんて、どうつけたっていいでしょ? 男みたいな名前でも」
新巻さんが、あっさりと言う。
そんな、まさか。
新巻さんが、森園リゥイチロウ?
近々アニメ化されるという、あの物語の作者?
確かに、新巻さんはライトノベルにすごく詳しかった。
懐にいつもメモ帳を入れていて、絶えず、なにかメモしていた。
物静かなのに、興味を持ったことには、とことん食らいついていった。
昨日から、電波も届かず無線LANがないこの部屋で、パソコンで何かをやっていたけど……
「学校に通いながら、ずっと書いてるの?」
僕が訊いた。
「うん。学校から帰ったら、ずっと執筆。昼休みも、図書室とかで」
「よく、両立できたよね」
「篠岡君だって、学校に通いながら、妹さん達のために家事をしてるんでしょ? 部活もやってるし」
それは、そうだけど。
「新巻さんが、あんまり他の女子と話さないで、ぼっちみたいなのは……」
僕は言いにくいことを、勢いで言ってしまった。
「せっかく仲良くなっても、一緒に遊んだりする時間がとれないし、迷惑かけちゃうから、深くお付き合いはしないようにしてたの。元々、人付き合いはあんまり得意なほうじゃないんだけどね」
新巻さんは言う。
「そのせいで修学旅行、一緒の班になってくれる人がいなくて、こうなっちゃった。覗くなってお願いしたのに覗くような人と、一緒の班になっちゃった」
新巻さんが半分笑いながら、意地悪く言った。
「ごめん」
僕は謝る。
「ううん、いいの。修学旅行に来てまで書くの止めなかった私が悪いんだし。近くに読者がいて、直接感想を聞けたのもよかった。それに、修学旅行の相手が篠岡君で本当に、よかった」
新巻さんはそう言って、コーヒーを一口、飲んだ。
「僕は好きだよ」
僕が言うと、新巻さんの頬っぺたがぱっと赤くなる。
熱いコーヒーを飲んだからだろうか。
「新巻さんが書く文章、すごく好きだ。面白いし」
「ありがとう」
新巻さんはそう言って、優しい笑顔を見せた。
「篠岡君、クラスメートとか先生には、黙っててくれる? 騒ぎにしたくないし、普通に高校生活を送りたいの」
新巻さんが言う。
確かに、こんなことが知れたら、学校中大騒ぎだ。
「兎鍋」シリーズを読んでいる生徒は、校内に僕以外たくさんいる。
「いいよ。ただし、条件がある」
僕は言った。
「なに、条件って」
新巻さんが身構える。
「妹が森園リゥイチロウの大ファンだから、新刊にサインしてもらえないかな?」
「なんだ、どんな条件飲まされるんだろうと思った。もちろん、喜んで」
僕は急いで自分のスーツケースを探って、「兎鍋」の最新刊を持ってきた。
「枝折ちゃんへ、って書いてもらえる嬉しい」
元々「兎鍋」を僕に勧めてくれたのは枝折だ。
作者のサインを貰ったって言ったら、涙を流して喜ぶかもしれない。
最高のお土産が出来た。
「まだ続けるの? 今日は狩猟体験したし、疲れたでしょ? 明日もあるし、もう寝よう」
僕が言うと、
「うん、分かった」
と、新巻さんはパソコンの電源を落とした。
隣の部屋に戻ると、寝相が悪いヨハンナ先生と三鹿さんが、抱き合うみたいにして、眠っている。
二人とも、幸せそうな寝顔だ。
僕達はその両側で、眠りについた。
「新巻さん」
「なに?」
「続き、どうなるの?」
新刊を読んだばかりだけど、次が待ちきれない。
「教えない」
「あの、魔導師に魂を持って行かれた騎士の体に、ケイヂの魂が移るんじゃないかと思ってるんだけど」
「内緒」
「けち!」
次が出るまで、僕はずっともやもやすることになるんだろう。