主の帰還
仕事を終え、帰宅してドアを開けた僕の担任、霧島ヨハンナ教諭は、果たしてそこが自分の部屋だと認識できただろうか。
一度ドアを閉めてもう一度開けたから、すぐには認識できなかったに違いない。
もう一度ドアを開けて部屋に入って来たヨハンナ先生は、おそらく僕達を叱ろうとして、しかしその部屋の変わりように言葉を失って固まった。
ヨハンナ先生の青い目には、まばゆいばかりに光り輝くステンレスのシンクが映っている。
床に置かれていた様々なモノは、収まるべき場所に収まって消えていた。
もちろん、ゴミ袋や空のペットボトルなどは処分されて、一つも残っていない。
片付いたキッチンのテーブルの上には、御厨が作った温かい夕食が整えてあって、湯気を上げている。
「あなた達! どうしてここにいるの? どうやって入ったの!」
先生はこの部屋の主として当然の質問をした。
「勝手に入ってすみません。先生のジャケットから鍵を抜き取って、お借りしました」
僕は思いきり頭を下げた。
もう、その勢いで謝罪の意志を示すしかない。
母木先輩以下、二人も続いて頭を下げる。
「どうして……こんなこと……」
ヨハンナ先生は並んで頭を下げている僕達四人の前を通りすぎて、そのままバスルームに向かった。
ドアを開けて中を見れば、水垢やカビなどとは無縁なバスタブがあって、四十二度の心地よい温度の湯がなみなみと張ってある。
「信じられない……」
先生が零した。
母木先輩はここだけで二時間かけたんだから、信じられないのも無理はない。
「お好みで、バスバブルを使ってください」
先輩が言う。バスタブの脇に置いてあるカラフルなバスバブルの小瓶は、母木先輩が持ち込んだ私物だ。
次に気がついて、先生は洗濯機の蓋を開けた。
「洗濯機の中の汚れ物はどこにやったの?」
口の端をひきつらせて訊く。
「はい、洗濯しました。ベランダに干してあります」
僕が答えると、先生は慌ててベランダに続く窓へ走って行って、力任せにサッシを開いた。
「わぁぁぁ!」
そこに干してある洗濯物から、下着を抜き取って隠そうとする先生。
「ちょっと! なに勝手なことしてるの!」
ヨハンナ先生が、髪を振り乱して言う。
「先生、気にしないでください。僕は女性のブラジャーとかパンツは見慣れています。毎日、妹達のそれを洗濯してますし、見慣れているので、それで性的に興奮したりはしません」
ヨハンナ先生が恥ずかしがってるみたいだから、僕は優しく言ってあげた。
「あ、あのね、そういう問題ではなく……」
先生は洗濯物を抱えたまま、とうとう、そこにへたり込んでしまった。
そして、リビングにへたり込むことのできるスペースがあることに遅れて気付いたらしい。きっと先生は何ヶ月ぶりかで、フローリングの床を見たんだろう。それもワックス掛けされたピカピカの床を。
「主夫になりたいという僕達の本気の気持ちを解ってもらいたくて、こんな強引な手段に出ました。この部屋を見てください。僕達はふざけているのではなく、本当に主夫になりたいんです。先生のように働く女性を支える主夫になりたいです。そのための主夫部を立ち上げたいんです」
僕は先生の前で土下座をした。
少し、大げさだったかもしれない。
「先生、顧問になってください」
「お願いします」
「お願いします」
「お願いします」
僕達四人の声に、ヨハンナ先生は返事をしなかった。
いや、したくても声が出なかったんだと思う。
「とりあえず冷めるから、温かいうちに食べてください」
御厨が手を取ってへたり込んだ床から先生を助け起こした。
抵抗する気力を失っていて、先生は素直にそれに従う。
母木先輩が先生をキッチンのテーブルに導いた。
錦織が椅子を引いて、先生を座らせる。
ヨハンナ先生は食卓を一通り見渡して、力なく箸を取った。
御厨が作った今日のメニューのお品書き。
お歳暮のロースハムを使ったハムカツ
ちくわの磯辺揚げ
ホタテ貝柱とほうれん草のグラタン
大根と明太子のサラダ
もずくのゼリー寄せ
カボチャのほうとう風、味噌汁
主にこの部屋にあった食材で作られたメニューだから、おつまみが多く使われている。あの偏った食材からバラエティーに富んだ食卓を作り上げた御厨の料理の腕には、脱帽するしかない。
下級生ながら教えを請いたいくらいだ。
「悔しいけど美味しい。ホント、美味しいよ」
とろけるチーズが間に入ったハムカツを噛み切って、ヨハンナ先生が言った。
自棄になったのか、ガツガツかき込んで「おかわり」と御厨に椀を差し出す。
御厨は嬉しそうにご飯をよそって、味噌汁のおかわりも勧めた。
先生はそれも受け入れる。
やはり、料理は最強の武器なのかもしれない。
「それから部屋の中にあった服、ボタンが取れたのとか、裾がほつれたのとかは直しておきました」
食べている先生に錦織が説明した。
「あと、先生はいつも同じスーツで学校に来るから、この部屋にあった先生の服で一週間分の着回しをコーディネートしておきました。今度からはこれで学校に来てください」
リビングの壁には錦織が揃えた服が並んでいる。どのパターンも先生に似合うと思うし、バラエティーに富んでいて被っていない。もちろん、先生が教壇に立つことを考えて派手さは押さえてある。教師らしい知的さも加味してあった。
「あんな服あったっけ?」
という先生の小声が聞こえたけど、それらは確かにこの部屋の中に存在していた服だ。買ったときのまま、値札も取らずにクローゼットの奥に押し込まれてたけど。
「もし良かったらプライベート用とか、遊びに行くときの服もコーディネートするんで、遠慮なく聞いてください。基本、先生は何でも似合っちゃうんで、アドバイスなんていらないかもしれないけど」
錦織が言うと、
「あ、ありがとう」
ついにヨハンナ先生からそんな言葉が聞かれるようになった。
もう一押しか。
「先生、主夫部顧問になってください」
「お願いします!」
もう一度みんなで頭を下げた。
出来ることはすべてやった。
あとはもう、繰り返し頭を下げることくらいしかない。
「分かった。分かったよ」
先生はそう言って箸を置き、僕達四人の顔を順番に見た。
先生の顔には、感心したような、そして諦めたような微笑が浮かんでいる。
「部屋の惨状を見れば分かるように、私に顧問としてあなた達にしてあげられることは何もない。教えられることは何もない。でも、主夫部が成立するために名前を貸すってことでいいなら、顧問に就任させてもらうよ」
ヨハンナ先生が言った。
「ありがとうございます!」
僕達四人は互いにハイタッチして喜び合う。互いを小突いたり、肩を組んだり、子供のようにじゃれ合った。喜んでいる様を見せようと、先生にサービスだ。
無邪気な高校生を演じておく。
まあ、でも、本当に嬉しかったし。
「色々面倒くさいことになりそうだけど、他の先生達にもどうにか認めてもらうように努力するよ。これでも教職を志して、一度は生徒のためにこの身を捧げようって誓った身だしね」
先生はそう言って溜息を吐いた。
良いことなのか悪いことなのか分からないけど、僕は大人の女性に溜息を吐かれるのに慣れつつあった。
「あの頭の硬い老人達のことも気に入らなかったしね」
ヨハンナ先生はそう言った後で、あっ、これはオフレコで、と付け加える。
言質として録音しておけば良かったかな。
「ただし! 顧問になるには条件がある」
喜んでいた僕らを突き放すように、先生が真顔に戻った。
「安くない条件だけど呑んでもらうよ」
現金でも要求されるのだろうか。
だとしたら僕には応えられそうにない。
「週に一度はここへ来て、今日みたいに掃除と洗濯をすること。そして、美味しい食事を作ること」
ヨハンナ先生はそう言って僕達全員を見渡した。そして、
「もちろん、学校には内緒でね」
と、破顔する。
「分かりました」
そんな条件は、なんの苦にもならない。
いや、むしろ僕達にとってそれは、ご褒美と言っていい。