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進路指導

「まあ、いいんだけどさ。私的には」

 担任教師はそう言って溜息をついた。

 深い溜息で、黒く色のついたそれが担任の口からゆっくり流れて、床に溜まるのが見えそうだった。


 僕の対面に座る、担任の霧島ヨハンナ教諭。


 高校二年生の僕にとって、担任教師とはいえ二十七歳の、年上の女性に目の前で深い溜息を吐かれるのは、決して気持ちの良いものではない。そのような状況に慣れていないし、対処方法がまるで分からない。居心地が悪い。お尻の辺りがむず痒い。

 でも、なんかこう、彼女を、大人の女性を困らせているという、少しサディスティックな気持ちが僕の中に湧いているのも事実で、それは発見だった。


「いいんだけどね、私は。でも五月蠅いこと言う人もいるわけだよ、少なからず、ここには」

 ここには、と言うとき、ヨハンナ先生は親指で階下を指した。

 その方向には職員室がある。

 校長、教頭、学年主任に体育教師……そう、確かにそこは魑魅魍魎が巣くっている場所に違いない。

 特別な用事でもなければ、迂闊に近寄りたくない場所だ。


「まだまだ頭の固い人たちがいるんだよ」

 ヨハンナ先生はそう言って、もう一度深い溜息をついた。

 後ろで緩く纏めていた先生の金色の髪が、パラパラと解けて肩にかかる。


 放課後の教室。

 教室の窓は半分開いていて、四月半ばのまだ少し冷たい風がカーテンを孕ませている。

 グラウンドからは野球部の金属バットが発する鋭い音が聞こえた。

 女子テニス部の部員が試合を鼓舞する、合唱みたいな声援も聞こえてくる。


 教室には僕とヨハンナ先生の二人だけだ。

 窓際に、机を向き合わせた即席の指導スペースが作ってあって、僕たちは向かい合って座っている。


 帰りのホームルームの後で、いきなり先生から呼び出された。

 新年度が始まってすぐに書いた進路指導アンケートの、僕の回答に何か問題があったみたいなんだけど……


「むしろ私は、あなたを褒めてあげたいくらいなの」

 ヨハンナ先生は、ネイビーのパンツスーツに身を包んでいた。

 シャツのボタンを僕たち男子高校生を刺激しない程度に開けているから、胸元を伝って呼吸のたびに、付けている香水の甘い匂いが振りまかれる。

 距離が近くて、それは僕の鼻孔を直撃した。

 狙ってやっているのではないかと邪推する程だ。


 先生の担当教科は国語で、あだ名は「教皇きょうこう」。なぜ、そのようなあだ名がついたかというと、スウェーデン人の祖父を持つ先生のヨハンナという名前が、伝説の女教皇ヨハンナと同じだからで、特に先生にカリスマ性があるとか、厳粛な雰囲気を持っているから、というわけではない(ちなみに先生の祖父はスウェーデン人だけれど、先生自身は日本生まれの日本育ち)。


「もちろん、君はアンケートに悪ふざけで答えたわけじゃないよね?」

 ヨハンナ先生は訊いた。

「はい」

 僕は答える。

「そう、まあそうだよね」

 机の上には僕の書いたアンケート用紙があって、先生はその隅を指で弄んでいる。

 アンケート用紙の他に、机上には先生の私物であるペンケースとスマートフォンが置いてあった。

 僕に対して指導をしながら、先生は目の隅でスマートフォンの通知をチラチラと確認している。釣られて先生のスマートフォンを見ると、それに張ってある液晶保護フィルムに、信じられないくらい傷がついていた。本体も同じで、無数に細かい傷が刻まれている。

 ヨハンナ先生が担任になって二週間、薄々気づいてたけど、彼女はかなりがさつな性格だと思われる。

 大雑把で、細かいことは気にしない人みたいだ。


「篠岡君……えっと、とりで君? でいいんだっけ?」

 篠岡塞しのおかとりで

 要塞ようさいさいと書いて『とりで』と読む。

 それが僕の名前だ。新年度も始まったばかりで、まだ名前も覚えられてないらしい。印象が薄い生徒だったんだろうか。

 でも、今回の件で確実に覚えられてしまった。

 面倒な生徒だって思われてないといいけど。


「で、とりで君、これは提案なんだけどね……」

 ヨハンナ先生は言い難くそうに前置きを入れた。そして指で弄んでいたアンケート用紙を僕に向けて差し出す。

「このアンケートの回答、書き換えてもうらうことはできないかな? それも、あくまでも自主的にということにして」

 そう言って下唇を噛むヨハンナ先生。

 その青い瞳は少しだけ潤んでいるように見えた。

 担任教師とはいえ、二十七歳の年上の女性に面と向かって下唇を噛まれたことなどないから……


「もちろん、君は君の信念を変えなくていいの。書き換えるのは形だけでいい。これを問題にしてる人たちも、別に大した思想を持っていて問題にしてるわけじゃないと思うの。ただ、前例がないだけ、自分たちの常識に照らして外れているっていう、それだけで問題にしてるの。だからね、ここは一つ、角を立てないということでね。丸く収めるという意味でね。うるさい連中から目を付けられないためにもね」

 先生は機関銃のように言葉を打ち出してくる。


「それとも、そういうのに逆らっていきたいという、明確な意志とかあるのかな? 私たち教師からの圧力には屈しねえぜー、みたいなノリの持ち主? 君は?」

「いえ、別に」

 そんな意志は毛頭ない。僕だって教師陣と要らぬ摩擦は生みたくない。友好的な関係を築いて、平穏な高校生活を送りたい。教師陣と対立することなどに、貴重な青春のリソースを割きたくない。

 今回の件も、アンケートの設問にただ正直に答えただけだ。

 馬鹿正直に答えた。


「そう、それなら適当に書き変えちゃっていいよね?」

 ヨハンナ先生が差し出したアンケート用紙。

 それにある設問の一つに、


 (将来なりたい職業はなんですか?)


 とある。


 そしてその設問に答えた僕の回答。


 (専業主夫)


 と、太い文字で書かれている。

 迷いのない僕の字だ。


 そう、僕は将来主夫になりたいのだ。


「専業主夫っていうのを消して、適当に書いちゃえば、今すぐに家に帰れるんだけどな」

 催眠商法の勧誘みたいな台詞を、先生から聞く。


 まあ、こうしてヨハンナ先生と顔を突き合わせていられるなら、少しくらい家に帰るのが遅くなってもいいんだけど。

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