公爵閣下とメイドさん ~お断りいたします、旦那様!~ 前編
おはようございます。いい朝、ですね。
……わたくし、シスレー帝国随一の名家ブレトン公爵家に仕えております侍女アンナでございます。実家は貧乏男爵家で、わたくしはその長女。十五の頃から十九に至るまで、何の一点の曇りもなく、ただただ公爵家のためにと忠実にお勤めに励んでおりました。えぇ、それはもう真剣でした。
同僚たちの恋の話を適当な相槌を打って流し。
わたくしにお近づきになろうとしてくる輩をきっぱりと振り。
見たくもない旦那様と一定しないお連れ様との情事の現場に突撃後、その後始末に奔走し。
色恋などは自分と関係ないとばかりに切り捨て、自分の職務に全神経を尖らせていたのです。
同僚からは「侍女の鏡」、「鋼の侍女」、「堅物侍女」などと言われておりましたし、自分でもそう思っておりました。自分で言うのもなんですが、わたくしほど熱心に働いていた使用人はいないと思うほどです。
だからあの一夜が明けた今の状況を信じられないというよりは信じたくないというのが本音です。
浅い夢と現実とをたゆたって、ふと完全に意識が覚醒し、ゆっくりと昨晩の出来事が夢でなかったことを思い出すに連れ、ざっと血の気が引きました。
あの夜が現実だった。
その証拠にわたくしの体は暖かいもので覆われています。
目を開けた先に飛び込んできたのは、旦那様の寝顔。三十二才とは思えないほどあどけない子どものよう。今までにも何度も目にしていますが、ここまで近づくのは初めてです。知りたくありませんでした。
そっと視線を下ろせば、胸のあたりまで掛け布団がかけられており、そこから旦那様の裸の胸がちらりとのぞきます。たぶん、旦那様は今全裸です。
わたくしも自分の体を見下ろしかけ……やっぱりやめました。肌に触れるこの感覚からすると答えはもう明らかです。
猛烈に自室に戻りたいです。
いっそのこと、昨夜のことは旦那様の夢ということで片付けてしまいたいところ。
しかしながら。現在のわたくし、旦那様の腕にがっちりホールド状態です。動けません。
仕方なく、そのまま辺りをきょろきょろと見渡しますと、カーテンから差す光がわりと明るいことに気づきます。下手すれば、昨日旦那様を起こしに来た頃かもしれません。あぁ、昨日の朝はもう遠い……。
これから自分がどうなるかなど検討がつきません。
同僚たちの冷たい視線。
泣き崩れる両親……。
スチュワード様ぐらいはほくそ笑んでいそうですが。
あと……一夜の過ちをおかした旦那様がどんな反応になるのかが怖いです。泣いてもいいですか。
昨夜……昨夜は。お察しのとおり、わたくしアンナは旦那様に全部奪われました。
思い出したくありません。羞恥で死にそうになります。一応、これでも婚前ですよ、たとえ結婚するつもりが現在皆無だったとしても。
命令とは言え、旦那様を『誘惑』したのはわたくし――
その意識が始終こべりついて、最後まで流されてしまったのです。
そこまで考えてのスチュワード様の人選だったのかもしれません。
自分の職務に対する良心に訴えかけるという。……スチュワード様、心から恨みます。
もうどうにもならないという諦観とともにため息をつき、わたくしは旦那様の腕から逃れようと体を動かし始めます。すると旦那様の目がぱちりと開きました。不思議そうにわたくしを見ながら一、二度瞬きして、それから嬉しそうに破顔します。また抱き潰されました。
「……アンナがいる」
「そうですね、旦那様」
一方の不機嫌そうなわたくし。当たり前ですけれど。
恋人たちの朝みたいな甘ったるいことをしても、昨晩の旦那様の暴走が消えてなくなるわけではありません。合意ではありませんでした。……『合意』ではなかったのですよ(二度目)。
通常ならば、「ふざけるな、責任を取れ!」ということになるのでしょうが、生憎とわたくしは旦那様に責任を取ってもらいたいわけではありません。むしろ、逆。何事もなかったように仕事に専念させていただきたい。旦那様は気の迷い、わたくしも仕事継続。スチュワード様には貰うものだけもらって皆がハッピーです。
「旦那様、離れてくださいませんか」
「嫌だよ。まだ寝足りない」
「わたくし、仕事があるのですが」
「君がいなくたって、大丈夫だよ。疲れているだろう。……ほら、もう少し寝てなくちゃ」
そう言って、旦那様はわたくしの髪の毛を撫でとかしてから再び目蓋を下ろします。またもや惰眠をむさぼる模様。冗談ではありません。懸命に動かせる片手で旦那様の腕を叩きました。
「旦那様、駄目です。わたくしと旦那様がこうやっていることを皆に見られたくないのです。わたくしの立場をお考え下さい。もしも、ここに今、誰かが来たら――」
言いながら戦慄します。
おそらくわたくしが旦那様の寝室に行ったことはこの屋敷の誰もが知っていることでしょう。そして、一晩中出てこなかった。それだけで事情は察せられるでしょうが、ここに『目撃証言』まで加わったらと考えると、わたくしはもうお天道様の下で歩ける気がしません。
あぁ! 旦那様がきょとんとしているのが一層苛立たしいですね!
「別にいいんじゃないかな。どうせすぐにこの事実は伝わるよ?」
「伝わってしまうのは今後のことを考えるとひどく困ります。なので旦那様、わたくしを部屋に帰してください」
「だけれどね、アンナ……」
旦那様がへにゃりと眉を下げて、わたくしに言い聞かせるようにおっしゃいます。
「なんです」
「おそらく、今日の君は仕事にならないと思う。この部屋から動かない方が……」
「そのようなこと、おっしゃらないでください。わたくし、これでも抵抗していましたよね? それを無理やり組み敷いておきながら、まだわたくしをこの部屋に留めようとなさるのですか! どうしてです? お楽しみは終わったのでしょう! どいてください! わたくしは仕事に戻ります!」
ただでさえ混乱しているというのに。仕事さえしていれば気も紛れるでしょうし、この先どうするかの名案だって浮かぶかもしれません。
正直申しまして、旦那様のお戯れにこれ以上付き合ってられません。
そもそもわたくしは、最初から旦那様に対して怒っていました。
自分の欲を押し付けておきながら、うわ言のように「愛している」と繰り返していましたが、そこにわたくしの意志は無く。
こうやってとろけきったお顔を見せていれば、わたくしが許すとでも思っていらっしゃるのでしょうか。
その怒りを必死に抑えて、侍女として冷静に対応していたのです。……今となっては侍女笑みたいなものですがね。
「……アンナっ!」
その声に、ビクリと体をすくませます。普段は滅多に出されない大きな声は、旦那様の怒りを孕んでわたくしの耳朶を打ちました。
旦那様は再びわたくしにのしかかろうとしてきます。
「おやめください、旦那様!」
コンコン。
その時、場違いなノックがありました。わたくしにとってはまさに天の助け。
旦那様とわたくしは揃って、そちらに視線を送ります。
ややあって、カチャリと扉が開きました。
「旦那様……。そろそろ起床されますようにとスチュワード様が……。って、わぁ! ア、アンナ……」
「デボラ……」
助けてください。
視線を送れば、さすがに顔を赤くしていたデボラも状況を把握したようで、何事かを考え。
なぜかにこーっと笑いました。
「心よりお祝い申し上げます、旦那様!」
「ありがとう」
「アンナもおめでとう!」
「一体これのどこが!?」
思わず声を上げれば、旦那様はムッとしたように見下ろしました。
そしてなぜかチュッ、と音を立てて口づけされる謎。
きゃあ、と本人よりも盛り上がる見物人。
「だ、大胆ですね、旦那様!」
「うん、それでだけど、デボラ」
「あぁ、はい。これより二時間後にまた起こしに参りますね。スチュワード様にも伝えておきます」
「頼むよ」
救いの女神は扉の向こうに帰って行きました。気を利かせたつもりでしょうが、わたくしにも慮って欲しかったです。
そうしてまたじっとわたくしを見つめてくる旦那様。……第二ラウンドのゴングが鳴るのを聞いた気がします。しかしながらもう流されるわけには参りません。近づく顔を両手でつっぱりながら、きっぱりと宣言いたしました。
「わたくし、起きますから。決定事項ですからね」
「……まだ僕は何も言っていない」
「ひとまず仕事に戻ります」
「いや、だから今日は休んだほうが……」
なおも渋る旦那様。どうせいちゃいちゃしたいのでしょう。
女たらしな旦那様のアフターケアの一環か何かしりませんが、その手練手管は毎度おなじみ『突撃! 密会直後の現場へ』で目撃しておりますからね。よくもまあ、毎回毎回飽きずにおそくまでイチャイチャイチャイチャとするなぁと半ば白目になっていましたけれど。
『突撃! 密会直後の現場へ』は第十一回目にしてまさかの新章突入。今までずっと突撃していたメイドさん自身が当事者に。さあ、どうするメイドさん! 頑張るんだ、メイドさん……!
頭の中では勝手に新聞記事のような煽り文句が次々と浮かびますが、ひとまず放置しておいて。
そろそろと旦那様を気にしつつも、立ち上がりかけ――
「い、痛……」
カクン、と絨毯の敷かれた床の上に座り込んでいました。
そんなわけないでしょう、ともう一度足に力を入れますが、やっぱり立てません。
腰が痛い。寝ていた時は気にならなかったのに、立とうとすれば途端に痛みが走るのです。
はて、これは一体どういうことかと考えかけ。……昨夜の生々しい感覚が思い出されます。
夢じゃない。……夢、じゃなかった。
「うっ……」
「アンナ?」
様子を見守っていた旦那様が床に降りてきて顔を覗き込み、ぼたぼたと涙を零しているわたくしに眼の光を揺らしています。
わたくしが泣くのがそんなに意外なのでしょうかね? いくらしっかりしていると言っても、まだ小娘なんですよ。……初恋も、ファーストキスも、『こういうこと』だって、全部未経験だったんですよ。
体はともかく心の方がついていかず、置いてきぼりの子どものようにもなります。
流れる涙をごしごしと何度も何度もこすっては、嗚咽を懸命にこらえました。
旦那様はそんなわたくしの頭や背中をあやすように撫でさすっています。泣かせた張本人のくせに。
さきほどから休めと繰り返していたのは、わたくしがこうなることをわかっていたからですね。……色々と、慣れていらっしゃるから。
こんな時でも旦那様が堂々と全裸を晒しているのが情けなくて、もっと泣けてきます。
「アンナ。……君は初めてだったんだよね」
「……そうですが何か」
語りかけてきた旦那様の声がほんの少しだけ愉悦が混じっているのにむかっと来ました。
男は初物の女を好むということを聞きますが、旦那様もそのクチですか。
よかったですね、美味しくいただけたかは知りませんが!
旦那様に抱きしめられたところで何も嬉しくありませんし、目元を拭っていた手を取られて、その手にも目尻にもくちづけを落とされても同じことです。
「責任を、取るよ」
旦那様がわたくしを見ておっしゃいました。
「君が昨晩言ったことも、全部守る。……だから僕のものになって」
まったくもって青天の霹靂。
ごくごく平凡な日々が音を立てて崩れ去り、人生の新たなページが開かれようとしていた、ある春の日のことでした。