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公爵閣下とメイドさん ~誘惑します、旦那様!~ 後編

こんばんは。いい夜ですね。


あれよあれよと言う間に夜がやってまいりました。

『アンナ、旦那様を誘惑する』のお時間です。今朝からの今晩とは、スチュワード様の展開が早いです。

大旦那様がいらっしゃる別邸が一日で早馬で往復できるからと単身で外出され、夜空の星が輝き出す頃には帰って参ったのですよ。どれだけ気合が入っているのですか。


一方のわたくしは、そのスチュワード様の指示とやらで昼過ぎにやってきた同僚たちの手で裸に剥かれて風呂場に放り込まれ、半日かけてサウナやらエステやらを施されておりました。髪を乾かされている間にもパックと小顔マッサージ、着るものさえ自分の手で着させてもらえず、ああでもない、こうでもないと大して代わり映えのしないように見えるネグリジェを人形のように着せ替えされました。

透け透けネグリジェは謹んでおことわり申し上げました。


そして完成されたわたくしは。

フリルをたっぷりつけながらも清楚でシンプルなデザインの白いネグリジェを身にまとい。

その肩からゆるく結われた茶色に近いブロンドを流し。

顔にはすっぴんに見えるけれども、血色よく見える薄化粧を施され。

お肌のツヤが非常によろしい健康的なご令嬢がそこに佇んでおられたわけです。

美人とは言いませんが、詐欺みたいなレベルだと思います。

生まれこそ貴族ですが、ここまで自分の体を磨かれた経験はありません。なるほど、世のご令嬢方はこうやって美人を作り上げていくのかとしみじみといたしました。

公爵家には今、令嬢も奥方様もおられませんので、わたくし自身初めての経験でした。まさか「する」方でなくて「される」方だったのいうのがもっと驚きでしたが。

同僚たちの気合の入り方も怖かったです、はい。逃してなるものかとでもいうような鬼気迫った様子でした。できればわたくしもそちら側に立ちたかったです。望めばすぐに代わって差し上げたい。



最終的には自室でスチュワード様が『完成作』をチェック。

頭の先から足元まで二度三度となく入念に観察されたあと、満面の笑みでサムズアップ。胡散臭いです、スチュワード様。


「アンナ、何も心配することはないから。すべて旦那様にお任せすればいいんだよ。頑張りたまえ」


スチュワード様、その言い方だと本当にわたくしが旦那様の毒牙にかかるようで、ものすごく不安になるのですが。本当に人身御供に出されるみたいですが。


「頑張りたくありません」


素直にそうこぼせば、スチュワード様はさきほどわたくしがサインした、もろもろの契約事項を記した書類をこれぞとばかりに掲げました。無言の脅迫ですね!


「もちろん忘れておりません。これが済みましたら、条件の遂行をよろしくお願いいたします」


「ええ、しっかりと。――それではアンナ、時間ですよ。参りましょうか」


「はい」


どうか無事に終わりますように。

スチュワード様が先頭に立って部屋を出ていき、わたくしも出る直前にふと名残惜しげに自室に控えていた同僚たちに目をやります。


なぜか全員揃って、サムズアップ。笑顔付き。


「あんたならやれるさ、アンナ!」


一番仲のいい同僚であるデボラはなんの力にもならない励ましをくれました。

それはそうでしょう。旦那様更生係を免れたのですから、清々しい気分に違いありません。

旦那様の実態を見ているメイドたちからすれば、いくら優良物件でも旦那様の愛人は割に合いません。

お側にいれば、どんな夢も醒めますからね。一番醒めているのはわたくしですが。


と、なんだかんだ言いつつも、たどり着いてしまいました、旦那様の寝室の扉に。

扉の向こうから果たして無事に戻ってこられるのでしょうか。

遠い目をしているわたくしに、スチュワード様が声をひそめました。


「後は手はず通りに頼むよ」


「……アレ、ですか」


小首かしげて、上目遣いをする「アレ」です。


「では健闘を祈る。私は一旦自分の部屋に戻るとするよ。終わったら首尾を報告するように」


「わかっております」


スチュワード様はわたくしの返事に頷くと、手をひらひら振りながら廊下を戻っていかれました。

わたくしも知らぬふりして戻りたいですが、スチュワード様の怒りが怖いので寝室に入ろうと思います。

ではさっそくノック。


「旦那様。失礼いたします」


「……うん? アンナか? 入っていいよ」


さすがのわたくしでも緊張してまいりますね。まぁ、相手があの旦那様なので緊張するのも無駄というものですが。

よし、と気合を入れて、中に入ります。扉はもちろん閉めておきます。

いつも通りを心がけて足を踏み出すと、なんとか態度を変えずにいられそうです。不整脈も収まりました。


旦那様はベッドの上で上半身を起こしながら、ランプの明かりを頼りに読書されていました。

珍しく生産的なことをなさっておいでです。

ですが、普段の格好と違うわたくしを見るなり、目を丸くして読んでいた本を開いたままサイドテーブルの上にうつぶせに置いてしまいました。


「ど、どうしたの、アンナ……。なんだか、すごく」


出てくる言葉はしどろもどろで、両手を子どものようにバタバタとせわしなく動かして、何か伝えようとしているご様子。

しかし伺う前にさっさとこちらの用事を済ませてしまいましょう。

朝と同じくつかつかと歩み寄り、ベッドの上の旦那様を見下ろします。

こちらを見上げている旦那様はますます慌てながらも、ランプの光で十分わかるほどに真っ赤なお顔で口をぱくぱくされていましたが、そんなことは関係ありません。

わたくしはスチュワード様にご指導いただいたことを思い出しながら、実行に移します。


旦那様を上目遣い……はこの見下ろす態勢だと厳しいので、ベッドの端に腰掛け。

両手を胸の前に組み。

効果は不明だが、あざとさたっぷりに小首をかしげ。


「旦那様……」


ついでに声も艶っぽくしてみましょう。それぐらいしなければスチュワート様はわたくしが「やった」とは認めてくださらないでしょうし。


「う、うん……?」


「旦那様、お慕いしております」


「え。……えぇっと」


旦那様がたじろいでおられる。視線があちらこちらへと散らばっております。

一方のわたくしもちょっと動揺。

何か、違う。

前置きで何か言っていたような……実は、とか何とか。あぁ、肝心な時に出てきません。

もういいです、言ってしまったものは戻せません。このまま押していきましょう!


「アンナは、旦那様を想っております。旦那様のためなら、なんでもいたします。どうかこの思いを受け止めて、アンナだけを愛するとお約束ください!」


……段々と、言っている内容がエスカレートしています。スチュワード様の本意とはそうずれていないはず。たぶん。


「旦那様、どうぞお返事を。お約束いただけるなら、この身をいかようにもなさっても構いません」


わたくし、頑張りました。スチュワード様が言わせたいことというのは、つまりこういうことですものね。

間違っていません。間違っていませんが……自分から崖に追い詰められに行っている気がしてなりません。


いえ、もっと前向きに考えましょう。


いくら女たらしな旦那様でも、小姑のごとく口うるさい使用人に手を出すほど飢えていないはず。

わたくしがどうこう口先だけの言葉を並べ立てても、今朝の今晩でどうにかしようとはなさらないでしょうし。


そうですよね、旦那様。


そう思いながら、力を込めて旦那様を見つめていますと、その隆起した喉仏がごくりと嚥下したのが観察できます。

なぜでしょう。心なしか明かりに照らされた灰色の目が潤んでいるような。

ハッ、と吐かれたその息がやたら熱っぽいような。

旦那様は一瞬の躊躇の後、わたくしの両手を引いて、


「ではさっそく」


それからなんの迷いもなくわたくしを抱き込み、旦那様の右手がわたくしの背中に、左手がわたくしの顎を捕らえました。そのまま、覆いかぶさるように、口づけ。

一端顔を離した旦那様の真剣な表情に、わたくしの思考がようやく回りだします。


は? え、どういうことですか。

「ではさっそく」? 何をなさるおつもりですか、旦那様。

え、えーと、今、わたくし、何を申し上げてこうなったのでしたっけ。


あ、そうでした。旦那様に誘惑を……って。んん? 

ちょっと待って。

わたくしの目論見通り、なぜ失敗しないのですか。

失敗しないと部屋から出られないのですが。成功するとは考えていなかったのですが。

もしも、成功してしまった場合って……。


「アンナ」


名前を呼ばれて、現実の方に意識が向きます。気づけばベッドに押し倒されているわたくし。覆いかぶさってくる旦那様。いろいろな意味でマズイ。


「だ、旦那様……」


正気に戻ってください!

旦那様と「そういう関係」になるのはまっぴらごめんなんですっ!

そう言いたかったのに、その言葉は腔内に侵入してくる分厚い舌に押し戻され。

いよいよお色気的な雰囲気がムンムンになってきました。ま、まさか。


「……優しくするから」


だからそれは安心要素ではありません!

「優しくする」ぐらいなら今すぐ解放してください!

ぼそっと言いつつ、顔を赤くしている旦那様。

純情を装ってもらっても困ります。さっきからずいぶんと暴れているのに、わたくしの体を押さえつける手際は玄人ですよ! 知っていたけど。


「お、お待ちくだ、さい」


息も絶え絶えになりながらもわたくしはようやくそれだけ言って旦那様から距離を取ろうとします。

本格的にわたくしの純潔の危機ですよ。

いまのところわたくしは結婚するつもりはありません。何事もなければ骨を公爵家に埋める覚悟でお勤めしていたのです。将来的にはドラクル夫人のようなメイド頭を目指すつもりで。自分の純潔なども化石のように地中深くに埋めておくものだとばかり。仮に結婚することがあったとしても、それまでは軽率な行動はしまいと気をつけていたというのに。

……これ以上はまずいのです。旦那様と一夜を過ごすようなことになれば。わたくしの、人生が変わる。今までも、これからも、全部崩れることでしょう。


「このようなことは、いけません」


すると旦那様と目が合います。ばちりと火花が散りそうな激しい色を乗せた瞳に、わたくしは息を呑みました。本能的な恐怖に体が強ばります。


「駄目だよ、アンナ」


旦那様がにっこりとしながらわたくしの頬、首、肩を手でなぞっていきました。

わたくしの体の震えに気づいていながらそれをやめないのです。


「君が『誘惑』したのだから」


声だけは優しく、わたくしの『失態』を指摘されたのです。

わたくしの抵抗はその一言で力を失い。そして……。




どれだけ後から振り返ったとしても。

わたくしの人生最大の『失敗』はすべてこの一夜にあると言っても過言ではないでしょう―――



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