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公爵閣下とメイドさん ~誘惑します、旦那様!~ 前編

おはようございます。本日もいい朝ですね。



……おっと突然失礼いたしました。

わたくし、シスレー帝国随一の名家ブレトン公爵家にメイドとして仕えております、アンナと申します。年は十九、貧乏男爵家の長女。ブレトン公爵家にご縁があり、最初は花嫁修行の行儀見習いの一環として侍女を務めておりました。しかし、この仕事が存外に気に入ってしまったので、現在段々と結婚適齢期が過ぎていこうとする頃合になっても、こうしていまだにおつとめを続けております。早く結婚して安心させてくれと実家の父は泣きつかれますが、それよりも家で立ち上げた新規事業を早く軌道に乗せて欲しいものです。


話がずれましたね。

わたくしの容姿は中の上、性格はキビキビ、テキパキしていると屋敷内でも高く評価されており、旦那様からも「小姑みたい」という言葉を頂いております。小姑ですか、だらしない旦那様が悪いのですけれどね。


では自己紹介が終わったところで、さっそく旦那様を起こしに参りましょう。

昨夜は夜会でお疲れでしたので、あらかた朝に軽く掃除なども行ってからといういつもより比較的遅い時間帯に起こすことになっていましたから。


ここで私の旦那様に当たるブレトン公爵についてご紹介しておきましょう。

カーステル・ブレトン様は御年三十二才。わかめのような黒い短髪と、にごった雑巾の絞り汁のような瞳をなされたどうしようもない旦那様です。その理由はいくつかありますが、一番の問題は公爵位はあっても、日がな一日お茶会やらに誘われなければ窓辺でぼうっとしているようなヒキニートのようなところでしょうか。


社交。最低限。要領の得ないとんちんかんな回答ばかり。

領地経営。家令のスチュワード様に投げっぱなし。

家計。メイド頭のドラクル夫人に押し付け。

職業。なし。……普通は軍籍か文官に職を得るのがシスレー貴族の習わしなのに。このダメ坊ちゃんは宰相補佐を三日でクビになって帰ってきたそうです。

さらに独身。厳しく叱咤してくれる奥方がいないのは使用人としては辛いところ。


そして、特筆すべき欠点がもう一つ。

それは部屋に入ってから申し上げましょう。


さて、旦那様の寝室の前までやってきました。扉の向こうには何やら激しい衣擦れの音がしております。あぁ、だの、はぁはぁ、だの獣のような唸り声もしてまいりますね。

ここですべてを察して下がるのが賢い侍女の選択なのですが、これは旦那様がまともだったら、という前提の上に成り立っております。さらにわたくしはスチュワード様から起こしてくるように、と仰せつかっておりますから、言い訳はスチュワード様にしていただくことにしましょう。ではさっそく、目の前の重厚そうな扉をノック。


「おはようございます、旦那様。アンナです。もう日が高く昇りましたので、そろそろ起きてくださいませ」


と、相手が何も言う前に遠慮なく入らせてもらいました。これもまたスチュワード様に以下略です。

初めに飛び込んできますのは、閉じられたままのカーテンです。隙間から光が差し込んでいますが、中はまだ薄暗いくらいでしょうか。こちらのカーテンにはみごとな花や鳥の刺繍が施されておりまして、昼間に見るとその意匠の細かさにため息が出ること間違いなしです。上から下がる照明の細工は下向きの鈴蘭型です。近頃は帝都の方にも電気が普及してきたので、照明器具も大層進化して、ランプやシャンデリアのすす払いなどもだいぶ楽になりました。

もちろん、中にかけられている風景画や書物机、棚にある雑多なものまで、部屋の調度品はこの国でも選りすぐりのものばかり。代々ブレトン公爵家に仕えている忠実な臣下たちの采配の賜物です。

その重厚ささえ感じさせる寝室内には、しっかりと天蓋付きのとても大きなベッドがついております。言うのを忘れていたわけではありませんよ、ここからが本題だからです。


ベッドの上から呆然とわたくしを凝視している二人。

男のほうが女に覆いかぶさるように絡み合っています。シーツや掛け布団は乱れに乱れて、二人とも全裸です。なにが行われていたか一目瞭然ですね。


つかつかと歩み寄って、上品に一礼しました。極めつけにはニッコリ笑顔。


「ア、アンナ……」


旦那様の凛々しい眉がへにゃりとしました。全裸の四つん這い状態でわたくしを見上げながらものすごく気まずそうになさっています。


「旦那様」


「は、はい……」


「昨夜はお楽しみのようで、何よりです」


「う、うむ」


「ですが朝になってからの第二ラウンドは我々屋敷の者といたしましても、不都合なことが多々ございまして、そろそろお起きになってくださらないと困ります」


「そ、そうだな。でももう少し、こう……気をつかってくれても」


「日がな一日何もしていらっしゃらない旦那様に遠慮する必要はございません」


「厳しいね……」


「あと……」


「まだあるの!?」


あるに決まっているではないですか。思いつく限りメモに残していたら、日が暮れてしまいそうなほどに。

なぜそこまでびっくりした顔をなさるのかがわたくしにはわかりません。

ぴん、と人差し指を立てました。


「さしあたって一つだけ申し上げましょう」


人差し指がある一点を指さします。旦那様、そして仰向けになっておられるお連れ様の視線が釣られて、そこに集中し、二人して顔を真っ赤にされました。


「その貧相なモノを片付けてくださいませ」


「そ、そうするよ……」


旦那様がのろのろと立ち上がり、わたくしの方を恨めしげに一瞥しながらもわたくしが抱えていた着替えを受け取ります。こちらに遠慮してか後ろ向きで下穿きを履かれていますが、お尻丸出しの姿は大層情けないですね。


「お連れ様は当家でご用意させていただいた着替えでよろしかったでしょうか。もしよろしければ辻馬車を呼ばせますが」


意訳。着替えなどは用意してやるから、さっさと帰れ。


旦那様はヒキニートな上に、女遊びが激しいのが困ったものです。

夜会のたびにどこぞの女性をひっかけて連れ帰られますからね。ひどい時は複数です。


しかも同じ顔が二度三度続くことがないという……。


今度、主治医様にお願いして、健康診断をしていただきましょうね、旦那様。


シャツを羽織ろうとしていた旦那様がふるりと背中を震わせたので、わたくしの無言の念は伝わったようです。


今度は上半身から起き上がった全裸の女性に目を向けます。やはり初めて見る顔ですね。年は旦那様と同じ頃でしょうか。口元のほくろが扇情的で、肉体的にとても豊満な女性ですね。おまけに燃えるような赤毛に緑の眼という大層鮮やかな色彩をもっておられる。わたくしの勝手な予想によると、下級貴族の未亡人でしょうか。ほら、突然の闖入者にもこうして楽しそうになさっておいでのよう。きっと遊びになれておられるので、こういった事態にも余裕が持てるのでしょう。


「ええ、着替えはお願いしたいわ。昨日のドレスはもう使い物にならないでしょうし。馬車の用意も。すぐに帰りますわ」


「かしこまりました」


「アイリーン。すまない」


ちょっとだけ振り向いて旦那様が申し訳なさそうになさいました。

アイリーンと呼ばれた女性は気にしないで、と首を振ります。


「昨晩はお互いに楽しめましたわ、閣下。今朝もとても面白い見世物に出会いましたし。ねぇ?」


彼女が微笑みかけたのに合わせ、わたくしもアルカイックスマイルを浮かべます。


「急かすようで申し訳ございません」


「ふふ。恐れ知らずで大胆な子だわ。ねぇ、しっかりもののメイドさん。あなた、お名前は?」


「名前、ですか?」


男女の睦みあいを邪魔して怒鳴られたことはあっても、親しげに名前を聞かれるのは初体験でしたから、わたくしとしても不審そうな顔になっていたと思います。


「ええ、お名前」


「アンナと申しますが」


「ブレトン公爵家に仕えているアンナ、ね。覚えておくわ。また会いましょう」


はぁ、と口の中だけでつぶやいてみて、頭をよぎったのは「この方、やっぱり旦那様の愛人になるつもりなのかしら」。


公爵の妻になるよりも愛人になるほうが身分的にもハードルが低いですからね。


旦那様は、性格はともかく家柄良し、顔良し、財産良しの超優良物件ですから、その愛人となればそこらの貴族の奥方よりもだいぶ恵まれた生活が送れることは間違いありませんので、女性からの人気は高いのです。そのせいでわたくしたちにもとばっちりで賄賂やら手引きをしろという方がぞくぞくといらっしゃって、日々スチュワード様、ドラクル夫人の頭を悩ませておいでです。とうとうスチュワード様は生え際の後退を気にし始めました。


「アイリーン。うちの侍女を引き抜くなよ」


「オホホ」


軽快なおしゃべりをなさっているのを見ると、旦那様も満更ではなさそうです。


近いうちに愛人確定のお知らせを持ってこられるかもしれません。……もしかしたら、やっと「アレ」の出番かもしれませんね。スチュワード様に報告しなければ。






というわけで。お連れ様が辻馬車に乗って帰られた後、さっそくスチュワード様に報告しました。

うぅん、とレモンをかぶりつかれたような渋面を作られております。


「それは、ないねぇ」


「ないですか」


「私が思い当たる方ならば、だけれどねぇ。まぁ、あとで確認だけしてみるけれど。旦那様にはもう少し節操を持っていただかないといけないなぁ。あ、君もだけれどもね」


「わたくしもですか」


旦那様と同列にされるとは、非常に不本意です。

いや、だってぇ、とスチュワード様は右手をひらひらさせました。この方、ときどきノリが若い女性のようになりますね。


「旦那様の具を見て、貧相なモノというのは若い娘さんとしてはどうかと」


「……」


否定できないのが心苦しいところです。

旦那様に限ってなら、実は何度も見ていますし。

この『突撃! 密会直後の現場へ』はおかげさまを持って、記念すべき十回目ともなりました。全然めでたくないアニバーサリーです。


あえて言い訳させていただけるのならば、旦那様のは臨戦態勢からほど遠いものでしたので(たぶん)、貧相なモノだったのは確かでした。これ以上口にしたらまた何か言われそうなので黙ったままでいますが。


「しかし、旦那様はどうしたものかなぁ。こうも女を取っ替え引っ替えしてもらっても……そのうち病気もらってきそうで困るしねぇ。どうにかせめて、一人の女性を大事にされてほしいのだが、アテがなぁ……」


「アテ……。確か、シルヴァン伯爵家のエルランジェ様との縁談があると最近おっしゃっていませんでしたか?」


シルヴァン伯爵の掌中の珠で、社交界での評判がとてもよろしい深層の令嬢だとお聞きしています。そういう方ならば、旦那様も大事にされるのではないでしょうか。

しかし希望はすぐについえます。


「いや。あの方は新しい皇太子様との婚約が内定してしまっていてね。話は立ち消えだよ。その前に伯爵からもきっぱりと断られているよ。端的に言えば、ヒキニートの旦那様には娘はやれないんだそうだ」


「ご両親からしたら、仕方のないことですね……」


働き者ならともかく、怠け者な旦那様。わたくしでも嫌になります。

シルヴァン家はまともな常識を持っておられたようで納得しますが、それだと我が家の旦那様の婚姻問題は一向に解決しないわけでして。


うんうんと二人で考え込んでいると、ふと横でスチュワード様が「……手段を選んでられないかぁ」と何やら決意を抱いたご様子。そうしてわたくしのほうをじいっと上から下まで眺めます。……なんでしょう、ものすごく嫌な予感がしてきますよ。



「ちょっとちょっと」


くいくい、と手招き。不審に思いながらもさらに一歩近づきました。

スチュワード様はいやに猫なで声でにこーっ、と子供をあやすような表情をなさいました。


「いいかい、アンナ。まず、胸の前で両手を組んで」


はい。組みました。


「小首をかしげてごらん?」


こう……でしょうか?


「いや、もうちょい。五度傾けて。……あぁ、はい。ストップ。そのままキープ」


わかりました。


「次。上目遣いで見上げてみて」


はぁ……。こんな感じでしょうか。


スチュワード様はとてもご機嫌ですね。


「うんうん。いい感じ。じゃ、そのまま、私のあとに続いて、一言一句間違えずに言ってごらん」


「はい」


「旦那様」


「旦那様」


「ずっと胸に秘めていたことがございます」


「ずっと胸に秘めていたことがございます」


「実は……」


「実は……」


「アンナは旦那様を男性としてお慕いしております」


「アンナは……? 旦那様を男性としてお慕い……? しております」



虚偽申告で有罪ですね。



わたくしの胡乱げな眼差しを一身に受け止めたスチュワード様はすっと視線を逸らして廊下の窓から青い空を眺めました。……間違っても明後日の方向を見てもらっても困るのですが。


「我々の平和のためだ」


スチュワード様はそのままの姿勢でおっしゃいました。スチュワード様、そこに夕日はありませんよ。


「わたくしの平和はどこに」


「いいかね、アンナ。君に公爵家の未来がかかっているのだよ」


わたくしの肩に手を置いて、家令然とキリッとなさるのはよろしいのですが、こういう時に使うのは卑怯だと思うのです。十九才の小娘を人身御供に出そうとしておいてする表情ではないでしょう。


「あのですね。わたくしとしましては旦那様が使用人に手を出すほど節操なしとは思いたくないのですが。それによしんば上手くいったところで後に正妻が輿入れされたら、わたくしの立場が危うくなりますよ」


生涯を捧げたわたくしの職場。制服、食事、入浴、寝床、お給金。すべてにおいてオールパーフェクトな待遇。一生逃す気は万に一つもありません。


もし愛人となったらと考えてみてください。

主従の爛れた関係。

一向に働かない旦那様。

同僚たちからの白けた視線。

娘の不始末に泣き崩れる両親。

そんな人生嫌です。わたくしは自立した女性を目指します。


きっぱりと断っているのに、スチュワード様は珍しく食い下がってきました。


「やってみるだけでいいから、試してみてくれ」


「嫌です」


「一回だけ。ちょろっとやってくれるだけでいいから」


「駄目です」


「旦那様がその気にならなかったら、終わりだから」


「無理です」


「どうしても?」


「どうしても」






「……お給金上乗せ」


ぐらっ。わたくしの中の天秤が一瞬ですが確かに揺れました。

わたくしの実家は貴族の端の方にひっかかっているとは言え、貧乏。

一日三食味付け変わるじゃがいもスープ。どんな日でもじゃがいもスープ。

お祝いごとがあった時でさえ、ケーキ一つ出てきませんでした。

ふわふわスポンジのホールケーキを初めて口に入れた時は、すでに公爵家で働き始めていましたが、あの幸せな感触と甘さは今でも衝撃的なものでした。家にいるお父様、お母様、弟と妹たちにも食べさせてやりたい。事業にお金をかけている今、わたくしの侍女としてのお給金だけではケーキを買う余裕まではないでしょう。だったら?


……いえ、どんなことがあってもいけません。それこそお父様がおいおい泣き出してしまいます。


わたくしは懸命に天秤を押し戻しました。


「いけません、スチュワード様。お金でわたくしは釣れませんよ」


しかし、わたくしの心の機微をよくよく見通していた悪魔スチュワードはさらに第二、第三の矢を放ってきました。


「君の弟君が士官学校を卒業するための資金」


「妹君二人の結婚費用」


「君の実家の新規事業への支援」


ぐらぐらと尋常じゃないぐらいに天秤の竿が揺れるのを感じました。

さらには極めつけのお言葉が。

スチュワード様は口元だけを笑ませたまま、すうっと目を細めてみせるのです。


「『命令』ですよ、アンナ」


こうなったスチュワード様は何が何でも意見を通します。

普段はどんなに気さくだとしても、使用人の間の上下関係は明確に引かれているのです。

逆らえるのはドラクル夫人ぐらいでしょうが、あいにくと彼女は外出中です。


「さきほど申し上げたこと、すべてを公爵家の名のもとに約束しましょう。資金は大旦那様を説得して引き出していただきますのでご安心を。……一回だけ、真剣にやってみてはいかがでしょうか」


「しょ……」


「しょ?」


「……書状にしっかりとしたためていただけるのならば、お引き受けしましょう」



そういうことになりました。


スチュワード様はにこにこ。上機嫌に手をぶんぶんとアップダウン。


わたくしはげっそり。握られた手が上下するのを諦めの境地で眺めるほかありません。

失敗してもいいという言質はきちんと取りましたが、どうもわたくしは旦那様を誘惑しなければならないようです。お金のために。

どうぞ、お金に目がくらんだ愚かな女だと罵ってください。

わたくしは家族に美味しいものを食べさせてあげたいのです。

どうせ失敗するんですし。

何もかもがスチュワード様の思い通りになるはずがありませんからね。

こうなったら手っ取り早く終わらせてしまいましょう。



タイトル。

メイドさんが誘惑しちゃいかんだろと作者が一番ツッコミたい。


〈補足〉

作中の「侍女」という職業は男性を含めた主人格の人々のお世話をします。

なおかつ、公爵家だと主人公のような名ばかりの男爵令嬢や中産階級の娘も雇われているという設定です。



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