ラストソング
夜は降り止んだ酸性雨の銀に洗われ、血の紅い空は企業ホログラム広告の殴り書きだ。
無数の企業尖塔が黒い槍のごとく天を突き破り、視界の果てまで消えるのを振り仰ぎ、そっと目を閉じる。暗くなった。
裸足にはあまりに冷たい屋上フェンスの、くすんだスズ合金。今でも目に見えるようだ、翡翠や青白のネオンの大洪水が、張り紙や流れるニューズ文字列、無意識下に鳴り響く企業戦争の絶え間ない祈祷、その軌道が。あるいは真っ白な軌道基地、穢れなき花崗岩の黒、自分が今日後にしてきた、今までに宿泊した何千もの部屋と寸分たがわぬ内装の没個性が。雨が上がり、今都市は陰惨な夕の青からついに、清らかな流動性の闇へと落ち込んでいる。どこか遠く北の観測基地では一番星の白が輝いているだろう。
目を閉じたまま、暴風に等しい凍り付いた風の音を聞く。そして思い出すのは、サイバースペースの歌姫として生きた、栄光に満ちた一年半。人気に陰りが見え始めたとき、あの緻密な企業待合室の静寂や、企画会議報告書のプリントアウト紙面、衣装担当のダニエルの手つきや優しいお喋りの質感に確かな変質が滲み出すのをステラは知っていた。かつての通りであろうとする感覚と、どこかではもう、ある意味で完璧に自分は死んでいるのだという感覚。
グレイの立派なスーツを着たプロデューサー、ビルは、今や最強の地位を欲しいままにするステラにとって神前裁判の裁判官のようだった。彼はお抱えの新人たちの育成に余念がなかったけれど、ステラの帝国崩壊が間近に見えたとき、そのうちの一人をステラの代役として全ネット放送に登場させた。事実、巨大企業につきものの否応のない制動によって衣装製作は間に合わず、ステラ自身は予期せぬハードウェアの不調により、万全とは言えなかった。ビルはある中堅番組でのステラの出演をキャンセルし、代案として、急遽新しい歌手を初登場させるという企画を提出した。もうステラの時代は終わった、銀色の歌姫、天使の街の妖精と呼ばれた自分の時代は。彼は微妙な人事の変更でそれを世界に向けて宣言したも同然だった。金曜の夜、主流というには少し遅い時間だった。完璧なタイミングだ。心のどこかでは新たな伝説に、ポスト・ステラにほんの少しの期待を抱いていた客層に、新たな少女の、お転婆で健康で、真っ直ぐで元気な歌声は素晴らしい新風を吹き込んだことだろう。雪のような感傷を、自己保存的な暗闇を、散り際の白さを歌い続け体現してきたステラに、彼らはもう疲れ果てていたのだろうか。
ビル。頼りになるビル。やり手で、知的でクールなジョークに関しては弾切れを起こさなかったビル。あんたはうまくやったんだね。不健康で脂ぎった白色の顔に、とがった顎骨。笑うと大きなくぼみができるけれど、ぶよぶよした痩せぎすの肉体の奥には“仕事”と呼ばれる原子核なみの原動力が備わっており、それが放出するエネルギーの振幅ときたら、フラグスタフの田舎でカントリーを歌っていた貧乏な娘には輝かしく畏れ多いほどだった。だからこそ、ステラは空返事で故郷を捨て、この街へ来たのだ。カントリー・バーで仲間たちの奏でる乾いて地味なバンド演奏の中、グレイのパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、得意の歌を微笑みながら歌うステラ。ストレートのジンを二杯もあおってから、青ざめた顔で彼は楽屋に挨拶に来た。細身なミラーのサングラスを畳み込み、グレイのポケットに挿す。人材発掘にかけては空軍のレーダーよりよほど性能のいいミツムラ=レコーズのことだ。どうとかして田舎で人気の女性歌手で、まだ成人もしていないステラのことを、あの悪夢のようなリストに載せたのだろう。バンド仲間が不安と疑いの眼差しを向けるなか、そして彼は言った。少しばかり事務所でテストを受けないか、旅券や食事やなんかはもちろん、こちらでもつから。ステラは頷いて、だからユナイテッドの国際便、極超音速旅客機で一時間と少しの旅に出たのだった。
そして今、こんな得体の知れぬ企業尖塔の一つ、その中腹で無残な落下の準備を始めたステラ。感情は平らかだ。恐怖はない、こちらには意識を黙らせる薬があるのだから。落下と同時に眠りについて、そのまま二度と目覚めることはない。
星空の銀で染めた長く豊かな髪は波打ち、両目の下には、同じ銀のビーズ飾りがささやかに細かな星座を描く。青の瞳は凍えた空で、夕暮れの青。全ての皮膚は滑らかな白石膏で、光をほとんど反射することができないほど柔らかだ。美容外科手術によって完成された彼女を初めて見たとき、周囲の大人たちは、後ろの景色が透けて見えそうだとまで言った。
身に付けているのは、濁った白の繊維を織り込んだ妖精のワンピース。膝より上までしかないスカート部分は、人間離れした丁重さ複雑さで重ねられたフリルとフリンジのヴェルサイユ芸術だ。腰から背中にかけてをきつく締め付けるコルセット部分は水平に波打って、長い帯は羽衣のように風になびき、それすら音楽的に思える。脱力した両手には、それぞれ金の細いバングルがいくつか。感謝してよね、ビル。私は投身自殺のときですら、あなたがプロデュースした歌姫のイメージを守ろうってんだから。
ここへ来るのには苦労した。頼りになるスポンサーの一人を通して、落ち目なスターの自殺を手助けする業者を紹介してもらわなければならなかったし、その業者に支払う代金は、架空の自動車会社にオーダーメイド製品の一括払いとして振り込まなければならなかった。薬品は納得のいかぬほど高く付き、だが、もうこの手の中にある。これほど豊かになってしまうと、手に入る全てのものも同じく高騰するのだと、ステラは気付いていた。そして宿泊施設を個人的な休暇のために飛び出し、意志ある泥のような監視をもまく素早さで業者に誘拐され、今ここに連れられた。業者は遠くからここを監視しているだろう。仕事の完成を確認するための、事務的な作業として。どのみち彼らの銀行口座には目を見張るほどの大金がすでに振り込まれているのだし、こんな哀れな田舎娘の死になど、本当の意味での興味は抱かないはずだ。
目を開ける勇気が自分にあるだろうか。ない気がする。
この錠剤を素早く口に入れ、飛び出し、無重力を感じるより先に飲み込んでやる。効果は五秒以内に訪れると聞いた。
長い一年半だった。
全てを奪われ、縛られ、監視された。当たり前のように自分が行ってきたことは全て、ことごとく間違いだと指摘された。新しい肉体、新しい声帯。今や全てが生体技術によって自由自在なこの世界で、ではどうしてステラが選ばれたのか。それは、埋め込みでも催眠学習でも手に入れることのできない、魂のコードとも呼べる一連の文字列ゆえにだ。これに関しては衣装担当のダニエルが詳しかった。彼はこのように言ってくれ、ステラを勇気付けたものだ。つまり、それは人の魅力そのものなんだ、と。
ハイウェイでは、流れる都市の光芒をぼんやり見つめながら、どうして自分がこんな有り様なのかと考え込んでは、ついぞ分からなかった。バスルームで蒸留された清らかな湯を浴びているときでも、望めば無限に出てくる高級料理をつついているときでも。思考は形のない感情の静かな揺れとなって残り続け、だが結局、形を得ることはなかった。
自由な青春をそれとも知らずに謳歌していたあのころ、カントリー・バーで背伸びの大人びた女性歌手を演じていたあのころ、私には目的が、意志があった。望むものがあった。だがここには何もない。生きているだけの他人のような人形の体が、自分のあずかり知らぬところでうごめき、お仕着せの声で歌を歌い、きわめて厳格な舞いを踊り、そのたびに通信衛星経由で送られてくる視聴料を稼いだ。この田舎娘が初めてビルの手続きで天使の街に登場したとき、ミツムラの役員たちはしばらくのシーズンを乗り切れることが分かってほっとしただろう。そして同時に、その間にどれだけの人材を調達できるかが企業繁栄の鍵だとも考えていただろう。テストの結果は最高だった。彼女にはサイバースペースの歌姫となるにふさわしい肉体と魂があった。
さあ、と、ついに決意し、錠剤を口に含んだとき、しかし抗いようのない名残惜しさが、ステラの視界を再び明るくした。
それは死や単純な落下への恐怖でもなく、また悔しさや悲しみでもなかった。こんな酷い街でも、もう一度見ておきたかった。人工の銀河のごとき光の芸術を、真っ黒な塔群の神々しい長大さを。叶うなら、数々の増築と吹き抜け工事で虫食いにされた、地上数十階の層状都市が水平線まで続くさまを。切実な望みだ。毎晩この肉体を苛み続けた夜とのお別れを、最後に。
目を開ける。
絶え間なく形を変えるホロ広告や、超高架道路を行き交う交通の排気ガス。星一つない闇は切り取られ、所有済みだ。巨大で雑多で、奇形の街。天使の街は死んだロサンジェルスの遺灰の上に建ったのだ。望むよりは少なかったけれど、それにしたって相変わらずの情報過多だ。
雪も混じりそうな風に耳を傾けるうち、自分の中で確かな満足が、悔いのない清々しさがしんと鳴り、ステラは飛び降りた。
自分が落ち目なのは百も承知で、ある土曜の番組に出た。持ち歌を歌う間も、どこかにしがみつくような感覚の消えない、客の拍手を浴びる間も、そして始終べらべらとまくし立てている司会者のロバート・ベイリイや、他の出演者たちのお喋りを聞き流す間も、心のどこかではそれを意識していた。やがてここにいる誰もが、自分のことなど重要だとは思わなくなり、落ちぶれた過去の遺物だと見なすようになり、邪魔者扱いされるときがくるのだろう、と。その晩はよくある政治討論番組の賑やかしに呼ばれて、大物たちが作り物の興味関心で社会問題を云々しているのを、はたで見ていた。社会問題といっても本当の話し合いをやっているわけではなく、面白おかしく、的外れなことをたまにこぼせば合格だ。合間にはゴシップや流行の下らぬ定型文が時間を取ったし、番組の最後にはいつもまあまあの歌手やバンドが呼ばれて演奏する。今回は少し、そのための予算を奮発したらしい。その番組もまた、落ち目だったからだ。何にせよ、前奏が始まればこちらの世界だ。例えステラの帝国を知らない人間でも、この歌声を悪く思うはずはない。ステラは浮世離れした気分で、本当に心をこめて一曲を歌った。明るいポップスだけれど、どこかに常に悲しみを振り払おうとする健気さをたたえた良曲だ。
持ち歌のほとんどは事実とてもいい曲だし、かつてはまっとうに音楽家を自負していたステラにとっては、それらは良い刺激だった。音楽のためでも、自分のためでもなくそれらは接続料を巻き上げ、吸い寄せた。そうして嫌気が差すほどステージで数をこなしたころには、そうした不名誉な名曲たちもみな、さんざん迷惑を掛け合った友人みたいに思えてくるのだ。楽曲の本当の価値を理解しているのは自分だけで、こちらの不遇を知っているのは楽曲だけだ。そういう信頼関係があった。単なる妄想でないことも確かだ。何故なら自分は、新しい曲が発表されるたびに神のごとく崇拝していた前の曲に興味を失うなんてことはないし、あらゆる複雑な事情によって少しでも売り上げの低かった曲を、即決でステージから外そうなどという気にもならないからだ。
とにかくその夜、ちょっとした打ち上げのつもりでバーに寄った。一人で出歩いてはいけないから、全身重武装の忍者数人を従えてだ。それも大金持ち御用達の会員制のバー。あそこでの一杯は、そこらのやり手スーツ男のサラリイ一日分に相当する。蜂蜜色に焼き上げたクヌギのカウンターに、完璧な調度品。忍者五人はたちまちステラの前からいなくなり、どこかに隠れてこちらを監視していた。
番組での自分の振る舞いを反省した。自分に返答を求めるロバート・ベイリイの完璧な笑顔にすら、いくらか無理をして引きつっているところがあったのだという思いが消えない。名前も知らない紫色のカクテルは刺すように冷たく、さっぱりしていた。
ステラはここが初めからお気に入りで、それはきっと故郷のカントリー・バーと同種の温かみを、ここに多少なりと見出していたからだ。
空のグラスを乾いた布で拭うのは、コンウェイという小柄な中年男だ。年齢の割りには天然の白髪で、無精ひげもいくらか蓄えている。無造作な軌道パイロットのシャツは着古したものだ。
今日は上手く歌えたの、と、半ばまで飲んだカクテルのグラスを揺らしながら、一人ごとのように言う。美しい流体だった。
それは本当に素晴らしいことだ、と、訳知り顔で彼は答える。けれど、だからどうだというのだろう。誰も理解していないのなら、自分だけが分かっていたって仕方ないじゃないか。
錠剤を飲み込み、銀やグレイの構造物たちが流れていくのを見送る。お腹のあたりがふわりと浮かんで薄気味が悪いけれど、それともじきにお別れだ。本能が恐怖の鈴を鳴らし、全身を微細な粒子が暴れまわる。しかし今は耐えるしかない。噛み殺し、黙って待つ。今まで通りに。暴れ狂う風を、全身に起こる不快な振幅を、何とか抑えようとする。
やがて世界は単一の静止画になり、ものすごい勢いで急流の中、こちらの速度に応じてどんどん身を硬くしていく流体を、全ての一瞬において粉々に砕きながら突き進むようだ。落下のイメージは灰。灰色の何か途方もなく美しいもので、遠い。銀色の鋭い耳鳴りが底がない落下という驚異的な体験に唯一の意味を与え、多色のトンネル壁画は想像を絶する複雑さと速さで無限遠に流れ着く。
そのとき、早くもざわついた全身がぼんやりし始め、柔らかく包まれていく。恐怖はふいに成し遂げられたことへの達成感となり、視界の両端から青黒いざわめきのノイズが流れ込んでくる。このまま無の中へ落ちてゆき、人知れず千余の欠片と散るのだ。
しかし遠くから何か別のもの、鋭く振動する、圧倒的に重たいものが聞こえ、近付いてくる。連続する爆発のような、暴力的な音だ。それはそのあたりをぶんぶんいいながら動き回ったあと、焦点を合わせた。と思うと、真上から一気に急降下してくる。つんざくような高音が聞き取れる。風の音、切り裂くような冷気の中。
だがステラにはもう、それを捉える力はなくなっていた。視界には何もない。
ミツムラの監視は地上で最も執拗で注意深い。数あるうちの一つというような業者の力で、果たしてこの企業幹部よりよほど値の張る人物一人を誘拐できるのかどうかについては、ステラは悲観的だった。だが失敗したところで、自分は最高の特殊チームに救出されるだけだし、あわよくばそれが大きなニュースとなってこちらの市場価値は上がるだろう。歌姫の、落ち目のスターの自殺未遂。よくあるてこ入れだ。それに向こうの業者だって、高い報酬の代わりに命を賭す覚悟でいるのだ。
そういうわけで、とにかくそうした業者を知っていそうな人間を探すことに決めたのだ。
これに関しては、恐ろしい忍耐と緊張を伴ったけれど、それほど手間がかかったようには思えない。ステラは手始めに、目星を付けておいた何人かのスポンサーと話をしたのだ。日に三度は行われるパーティで、仕事の電話で。ほのめかすだけでも、向こうは鋭いから十分に理解してくれる。もしかするとこちらが落ち目なのは誰もが先刻ご承知で、だからステラがそうした行動を起こすのを今かいまかとと待っていたのかもしれない。近々仕事を紹介できるだろう、と業者に話を付け、莫大な報酬の一部を紹介料として分けてもらう契約をして。
忍耐は、この最初の行動が広げた波紋が、確かな返答となってステラの元に戻るまでの間だった。そして緊張は、こうした行動が良心的な人々や、こちらの墜落をよく思わない人間に与える負の波紋についてだ。ミツムラがこちらに気付けば、まず間違いなく精神改造屋たちの世話になっていたことだろう。すっかり元気を取り戻したステラは、墜落をへとも思わず幸福に生きていっただろう。どこか小さなギグやイベントを根気強く廻りながら。そうした類の没落貴族の何と多いことか。巨大な企業は小さな利益に関しても、胸が悪くなるほど貪欲だ。そうした無限に細分化された利益の集合こそ、国家をも上回る経済の怪物の正体なのだ。
やがて最初の一人から返事があり、また続く全ての人間からも前向きな返事があり、こちらは十数人のスポンサーと少なくとも一つの企業に殺されようとしているのだという圧倒的な感覚に苛まれることになった。
そしてステラの半透明な枠組みと化した生活に世界に、こうした考えがふいに根を張った。つまり、もうミツムラですらこちらの自殺願望についてはよく分かっていて、それをへとも思っていないのだ、と。彼らはステラを好きに行動させ、その自殺を売り物にするだろう。どちらにとっても利益になるのだから、願ったり叶ったりだ。
結局、最初の一人と話を進め、一月で全ての準備が整った。
いかにもまじめ腐ったスーツ男二人と会い、その進行について詳しく聞いた。その二人は一つ間違えれば銀行員にでもなっていたことだろう。彼らは仕事をやっているだけだった。誰か一人の死を手助けするなどという感覚は少しもなかったろう。
手渡されたのは、白い錠剤二つ。ステラは素早くそれを、牛皮カバンの中に納めた。
頭がずきずきする。
目を覚ますと、見知らぬ工場跡地に白のハロゲン投光器がキイキイ音を立てており、吹き込む風はビル風じみて陰鬱だ。
額に触れる。少し乾いているが、いつも通りだ。
「よう、お姐さん」
少し離れた作業台で何か作業をしていた少年が振り向いており、回転軸つきの椅子がギイと軋った。
少年はずっと昔のパイロットみたいに毛皮つきの飴色ジャケットを着て、指の間の密輸ものの印度産煙草からは翡翠がかった紫煙を上げている。銀色の大きなアルミのカップはぼろぼろの打ち身だらけで、溶接しただけの取っ手もひしゃげていた。彼はそれを持ち上げて、何か飲んだ。ステラよりも年下だが、その生活様式に恐ろしく年寄ったところがある。
体を起こす。広大な工場。赤く錆びて穴だらけのドラム缶で焚き火がしてあり、その周囲には浮浪者たちが円になって何か話している。靴はないが、自分のために用意されたのだろう、薄汚い単色ゴムのつっかけが足元には揃えてあった。黒いしみのついた分厚い麻布をどけて、冷たい病室用のベッドから降りる。埃っぽい灰色コンクリートの床にゴムがこすれ、鋭い切り音を立てる。
「あんた、いきなり落っこちてくるもんだから、慌てて拾っちまったよ。迷惑だったら、もう一度あそこまで連れて帰るけど」
立ち止まる。
「あなた誰……」
「ガイ。ガイ、エドウィン」
壮絶な怒りの序文はもうそこまで来ているのに、それをわざわ読み取ろうという気になれない。自分の崇高な死を邪魔されたと、彼を非難すればいいのだろうか。しかし、そうして何になるというのだ。消えたいということ以外に、もう何の興味も持てないでいるのに。
少年は立ち上がった。並んでみると、少年のほうが少しだけ背も低い。年齢は二つほど下だろうか。
「あんた、とても綺麗だけど、それって手術なんでしょ?」
少年は灰色の髪をオイルつきの手でいくら引っ掻き回したあとらしく、ぼさぼさだ。頬には何かの傷がほとんど消えていて、目は緑。
「そうだよ」
どうしてそういう会話をする気になったのかも分からないまま、ステラは答えてしまう。
「顔だけじゃなくて体も内臓も、できる限りいいものに変えてあるの」
と、持ち物への誇らしい気持ちが浮かんできて、ついつい言ってしまう。この髪や肌だって、ごらん、星空の銀で飾ってあるのよ。
「それと、神経系も」
本当に心から関心したように少年は目を丸くする。白い歯が見えた。
「へえ、お姐さんってお金持ちか。それだけあるなら、僕ならもっと違うものに使うと思うけどなあ……」
「何でも手に入る人なんていない。欲しいものっていうのはね、手に入らないもののことなんだよ」
ダニエルの受け売りをすらすらと喋りながら、やはり歩き出す。
「待ってよ、どうするのさ」
「帰る」
「無理だよ。高層は下と繋がってない」
またも足止めを食らい、振り返る。
「高層って、ここが?」
「そうだよ、高層町。家でもビルのテラスでも、どっちみち僕のバイクは必要でしょ。見ていきなよ」
「分かった」
ため息をつく。
「その前に、もし構わなければ、食事してもいいかな」
少年は不意を突かれてか、遅れて頷く。ステラはこれほど本来的な意味で腹ぺこになったのは久し振りだった。何時間眠っていたのかも分からない。すると少年もいくらか打ち解けた様子で立ち上がっている。
「食事なら。ところで、差し支えなければ、君の名前も教えてもらえるかな、だって、呼び方に困るし……」
「ステラ」
迷ってから、手を差し出す。少年は首を振った。
「僕の手は汚れてる。また機会があればね」
雨の天使の街。銀色の液滴は波状鉄材を流れ落ち、壊れたエレベータシャフトに流れ落ちる。
高層町というのは私が思っていたよりもずっと、文化的な土地なのだな、とステラは考えた。彼らが食べているものは、カントリー・バーにいたときのステラとどっこいか、それより少しひどいかという程度だった。版権もののキャラクターの安っぽいプリントアウトに売り上げを任せたキャンディ・シリアル(しかしこれは、人類が発明した庶民の食事の中ではかなり上位に位置する)に、少し具材の鮮度は疑われるが、温かいシチュー。シリアルとシチューを一緒に食べるという考えはステラになかったし、これからもないだろうと思う。だが、何にせよおいしかった。
蛍光灯が照らすのは、寂しい工場の一角だった。高層町の関税機構は町を統治するおかしな連中のおかしな政策のせいで入り組んでおり、早い話が簡単には外界と交流できないようになっているのだ。ここには最も当たり障りのないパンフレットには載らないような、通向けの観光地としての価値が少なからずある。だから天使の街はこの入り組んだ機構をも保存しているのだ、ということが広く信じられている。けれどもステラのような重要人物にとって、こんな保安度が低く環境汚染の進んだ場所に旅行に出かけるという考えはばかげているのだ。かつてステラが付き合ってきた部類の中で最も奥まった趣味をした人物でさえ、せいぜいがフィレンツェの路地散策だの、軌道で最も保安レベルの高いステーションを貸し切る旅行だのといった程度のものしか、供することはできない。危険を冒すこと自体が、すでに企業への重大な不敬行為にあたるからだ。
簡素な食事だったがステラはよく食べた。どのみちしばらくは、ヨガやらフィットネスやら、体調を最高にしておくためのあらゆる種類の薬物やらの世話にはならないのだし、自由な生活を愉しむのも悪いことではないと思えたのだ。ひとえに成功への未練が、あるいは失敗への潔癖な嫌悪感が、これまでステラにあらゆる種の貧しさを強いてきた。スケジュールを埋め尽くす仕事と下準備。食事は完全に管理され、人付き合いも管理されていた。だが、その貧しさによって身に付いたものが他人のものだといえるだろうか。あの長かったとも短かったとも思えるスターとしての生活のほとんどは、確かにめまいのするような喜びに満ち溢れていたではないか。あの喜びが無意味なものだったと一生に付すことができるだろうか。生活は否応もなく押し付けられたものだったが、それに起こったあの感情は自らの数少ない所有物のひとつではなかっただろうか。
食事が終わると、高層町にしては広く感じるガレージに招待された。もちろんステラは機械のことなどてんで分からないが、ガイとかいうこの少年が機械をどうとかして服従させることに費やす時間の巨大さには、感銘を受けるものがあった。ステラが全ての時間をスターとしての自分に奉じたように、少年はまた、ほとんど全ての時間を内奥から押し寄せる好奇心に奉じたのだ。ここには知識と経験を根拠にした悪戯心が大いに発揮されている。少年はみんなのやり方のどこがいけないのかを指摘し、自分の信念について話した。ステラには、彼に信念があるということそれ自体にこそ、感心して頷くのだった。
ガレージの中央には、ステラを助けたものだろう、巨大なバイクがあった。特徴のない細長の外付け燃料タンクが後部に追加されているため、全長というとごく一般的な四輪者の三倍近くなる。少年はこれを単純にバイクと呼び続けたが、もちろん数十基の噴射装置と後部の主ロケットからできた別の乗り物だ。軌道上ではより過激なタイプのバイクが命懸けのレースをやっているとも聞くが、何にせよステラには絶対に縁のない代物だ。フラグスタフのカントリー屋だったステラにも、サイバースペースの歌姫と呼ばれた大スターのステラにも。
「速いの……」
ステラはそんな間抜けな質問をした。少年の言っていることは、それによってもたらされる結果が、また何かの原因になるであろうと予想されるようなものばかりだった。つまり結局のところ、彼が行った宗教的に新しい行いによって、何が起こるのか全く分からないのである。少年は残念そうな顔をして微笑んだ。
「速いとも。けどな、その質問は、ヨハン・セバスチャン・バッハに音楽は得意かと訊くようなもんだよ」
「その言い方、分からないけど」
「ねえ、ステラ。あんたにもあるんだろ、プロ意識ってものが……」
ステラは頷いた。
「あなたは、ポップスは聴かないの?」
チャートの上位アーティストの名前や最近のゴシップというものまで全て、ステラには思い出せる。それは憂鬱な辛苦として、この胸のあたりに常々留まり続けているものだ。少年は首を振った。
「僕はそういうものから解放されるためにここに移り住んだんだぜ。ここにゃまともな文化は輸入されないし、機能してる教育機関もない。徹底的におかしな方向でダーウィン主義的なのさ」
「狂ってるってこと……」
「そう。それも意図的に。誰かの楽しみのために。観光資源として、さ」
少年はそう言ってバイクのシートに飛び移る。作業着姿でも、どこか自分の機械にはよく馴染むようだった。このバイクが誰の所有物か、ステラにさえはっきり見て取れる。
「僕は全てがおかしくなったこの空間でなら、おかしなものをおかしいと批判する精神を失う必要に迫られないし、だから雑音に悩まされずにすむ。外の世界で一番怖いのは、自分の内側に雑音が起こることだもの」
「内側の雑音……」
「異教徒として焼き殺されるのと、改宗して生きながらえるのと、どっちが本当の意味で“死”かってこと」
少年は驚くべき速度で複数のレヴァを操作する。もはや手癖だ。
「僕は死にたくはなかったんだよ。だから隠れる場所を探した。ここは最低の町だけど、作り笑いが役に立たないという意味ではとても価値のある空間なのかもしれない」
「本当にそれだけ、死にたくないってことだけ……」
「そうだよ。それ以上のものが何かあるのかい。僕にはないよ」
と、笑ってみせる。ステラは何も訊こうとはしなかったが、彼に答えが用意できるものなら、ぜひとも言ってみて欲しいものだ。まさしく彼が言う意味において完全に死んだステラの死を、少しでも前向きに解釈するやり方を。
「いつ連れ出してくれるのかしら」
ステラは代わりにそう言った。しかしどこへ行こうと同じことだ。自分は商品としての価値を急速に失っており、唯一意味のあることに思えた自殺も達成されなかった。ミツムラは自分を捕まえるのだろうか。しかし、売れない商品を取り返すことに何の意味があるだろう。
少年はぼんやりと頷いて、機械のボディを叩いた。
「いつでも。今でも、十年後でも」
「それじゃ――」
と言ってしまってから、行き先を考える。こういう思案の必要に迫られたとき親指の爪を噛む癖は、ミツムラでの慎重な役作りの過程で排除されている。今では、何もない宙にちらと目配せし、ごく自然に両手は後ろで組んでいる。視線を落とすと、少年は恐怖のない無頓着な瞳で見つめていた。
ステラはゆっくりと息を吐く。
「どこでもいいわ。あなたの好きなとこへ」
バイクの爆音と激しい振動、地上では体験することのないあらゆる方向への加速によって、ステラはほとんどパニックに陥りながら、少年の細くて貧しい腰を掴んでいた。少年は汚れているからと気をもんだが、ステラには何ということもなかった。こんな言葉を思い付いては、言わずじまいで飲み込んだものだ。あのねえ、ガイ。本当に耐えがたいほど汚らしい人というのは、身なりがとても綺麗な人の中にこそあるのよ――。
そしてものの数分だったろうが、バイクは無事に着陸した。薄暗いコンクリートの広場だったが、着陸するまで目を閉じていたので、どこだか分からない。大きな工場向けハロゲン投光器が無理に設置してあって、いくつか間に合わせの光芒を投げ入れている。
「あんたのためにケロシンを余分に使ったんだぜ。感謝してくれよな」
「私を拾ったのはあなたの勝手な意思だったでしょう。その良心は誉められたものかもしれないけど、私に感謝するつもりなんかないんだからね」
「これだよ。都会の人間は」
少年は言ったが、別段、気分を害したようにも見えなかった。
「ねえ、ここどこ……」
「さあ。とにかくでかい駅の近く。着陸するのは人気のない場所のほうがいいからね。あっちに歩けば――」
と、指差す。
「駅だよ。公共線じゃないかな、局地線じゃなく」
そのときになってようやく、ステラは、自分には行くあてなどないということに気付いたのだった。
少年の腰を手放したあとで、どうにか、できるだけ早く言葉にしてみようと思ったのだが、それは難しかった。それで、もう忘れてしまうことにした。少年への確かな感謝と、それがうまく言えない気恥ずかしさを。彼には恩義を感じた。けれど、怒りもまだ感じているのだった。自分は死ねなかった。それはどうしたって彼のせいなのだ。この怒りのは当然だった。全てを忘れた道化人形でさえ、この死にだけは、情熱を傾け、希望を抱いていたのだから。
「ねえ、ステラ」
少年が朗々と言った。
「こうしてると、君、とても綺麗だ。まるで月から来たみたいに銀色だよ」
それは全部、美術担当のダニエルのおかげだった。天使の街の妖精には、ふさわしい衣装と髪、体と声が与えられていた。その全身作り物の体の一体どこに、ステラはいるのだろうか。
「もしもまた機会があったら、僕の家に寄るといいよ。今度はきっとご馳走するから、さ」
ステラは笑った。笑えないジョークだ。自分を殺したくてあの高い場所から飛び降りた人間に向かって、未来の約束をしようなんて。
そしてもう何も言わず、振り返らず、歩き出している。
騒々しさが襲い掛かった。白い簡易スポットライトの閃光が十字の中心にステラを収め、機能樹脂の関節保護プレートを身に付けた、黒い戦闘スーツの男たちがぞろぞろと沸き上がってくる。まるでスタジオ合成された安っぽいホラーものホログラム映画の、絶望的なワンシーンのようだ。どこかで雇われた民間企業の連中だろう。フルフェイスヘルメットなので、身長差とわずかな体格差以外に、彼らを見分ける手がかりはない。そして彼らに要求されるものにも、彼らが提供するものにも差はないのだ。企業付きの特殊部隊。それは立派な、誤差数パーセントの品質で生産出荷される精密機器なのだ。
アスファルトの匂いがする。そのとき、その騒々しさの中にあってほとんど初めて、ステラはある疑問を抱いた。どうして自分は、忘れ去られることを嫌悪しているのだろう。あの真実味の欠片もない虚構の舞台で手にしたものを、栄光と呼び、無慈悲にもこの未熟な少女の心ひとつを平然と見捨てることのできる一般大衆、消費者というものに対して、こんなにも絶望してしまうのだろう。どうして町場の歌姫だったころの自分に戻り、やり直せるとは考えないのだろう。どうしてこの世界は初めから大して美しい場所ではなく、それを思い知っただけのことだと笑えないのだろう。
哀れなサイバースペースの歌姫。
スーパースターなんて、少しもいいものじゃなかった。それはつまり、ジャンヌ・ダルク以来何度だって繰り返されてきた虚飾の盛衰に過ぎないのだ。自分が“自分の人生”と思っているものは、そうした一種の事故であり事例であり、地獄の入り口には悪魔の死の裁判所があるとして、やつらの判例集に何千個も載っている同類のひとつに過ぎないのだ。そしてこれらのほとんどそっくり似通った事例の全てが、最後にはこう結ばれる。“自らを苦しみから救うため、故意に身を持ち崩して抵抗。奇行、改宗、遅刻癖、自殺未遂、アルコールその他一切の常用、中毒などの特徴がみられる”と。
「捕まれ!」
少年の声が聞こえた。彼の手がステラの腰を抱いた。遅れて、ふいにバイクのエンジン音が高まったことに気付く。
小銃の発砲音が短く。ショットガンが間抜けな破裂音を立てる。
彼のバイクが轟音を立ててステラを連れ去り、空中に逃げ出す。銃の音はすでにやんでいる。この体を壊してしまったら、彼らとしても大損害に違いない。
「怪我はない?」
少年が叫んだ。バイクの轟音のせいで、この先も会話を続けるとしたら、うまく聞き取れるか自信がない。まるで無意味な騒音を鳴らすことを目的とした機械を、十個も積んでいるかのようだ。空中を走行するバイクというものは、全てがこんなものなのだろうか。もっと静かで芸術的で、子供が乗っても平気なものはないのだろうか。
「大丈夫。あなたは?」
自分の細い声が彼の耳に届いたかは分からなかった。しかし少年は白い歯を見せる。
「運よく、ね。連中、君を撃つのをためらってたんだ。そのおかげだよ」
少年のバイクはある方向にまっすぐ、三十分も飛んだ。これだけ飛ぶのに燃料費がいったいいくらかかるのだろう、とステラは考える。安上がりということは絶対にないのだ。
またも地上数百メートルの位置に、企業ビルを土台として作られた発着場があった。こちらは空中バイク乗りたちの社交場であり、様々なバイクが絶えず轟音を発して滑り込んできたり、出て行ったりした。そして防音性の高いレストランで、趣味人たちは旅の疲れを癒すなり、語り合うなりするのだった。ふたりもレストランに入り、ずたずたに切り刻んだジーンズ姿の、体の大きい連中と、レザーの連中とのあいだにテーブルを見つけた。
店内はアールデコ風のホログラムで飾り立てられていた。装飾的な枠組みや、どぎつい幾何学の濁流などが絶えず動き、点滅している。よく見れば内装はありきたりなものなのに、こうした演出のおかげで、かなり異質な空間になっているのだった。テーブルは冷たいガラスだった。
まだ十代だろう、若いウェイトレスが近寄ってきた。かなりきわどい制服だとステラは思った。小さめの黒い水着姿で、前が完全に開いた袖なしジャケットをフリルの付いたコルセットで無意味に締め上げている。さらにスカート代わりの民族模様の長布を腰に巻いているが、薄っぺらい上に前は開いていた。厚底のブーツが音を立てていた。自分がバーにいたころにこういう店員が知り合いにいたら、尊敬もしたし、恐怖もしただろう。
バイク乗りは大人が多いのだから、それに合わせた趣向なのだろう。大人は大胆な衣装を好むものなのだ。彼らは忙しく、慎重に選り好みしたり味わったりする時間がないからである。
「コーヒーをふたつ」
と少年は言った。ウェイトレスは厨房に戻ろうと体の向きを変えるときになって、ステラを視界に収め、ぎょっとした。しかし何も言わない。
ウェイトレスのうしろ姿は別段、魅力的ではなかった。健康的な美貌と魅力的な肉体を供えているのに、ああいう悪趣味の衣装が台無しにしてしまう。例えば彼女ほどの逸材なら、学校の制服や、少し豪華なワンピースでも十分だろう。
コーヒーは何とも当たり前の代物だった。しかし落ち着くのにはいい味だ。
ふたりはまるで何かを了解し合ったあとのように無言だった。店内に抑えた音量で響く数シーズン前のアンダーグラウンド音楽は、トップ五十ポップスに比べればずっとましに思えた。
コーヒーが半分ほどなくなったとき、それもまた互いの了解の上でだったが、ステラが突然言った。
「ガイ、私は死人だ――」
ガイはコーヒーの液面を見下ろしていた。ステラは自分の口元に微笑みが漏れるのを感じた。
「でも、生きている部分がある。生きている部分が、肉体を殺してでも、生きていたいと望んだ」
頷くと、ガイは目を上げて言った。
「肉体の死は僕たちの最大の武器だ。自由への、純粋さへの、永遠性への完全な近道であり、生にまつわる全ての苦痛や悲しみを遠ざける最上の手段なんだ。生活など、命などくそくらえだ」
バイクの話を少しだけしてから、ふたりは店を出た。
今にも外れてしまいそうな梯子を上り、整備小屋の屋上に出る。この小屋はビルに備え付けられた外付け土台の一番端にあり、つまり、遥か下方がすっかり見下ろせる展望台になっていた。景色は、ごく当然のことだが高層ビルの窓から見るそれと同じだった。つまり、視界いっぱいにほかのビルが並んでいるだけである。極高層ビルがずっと高くまで続いているため、空は切り取られ、狭い。赤い標識灯がゆらゆらと光っていた。見下ろすと、ホロ広告群の海原がある。ここはちょうど、ステラが飛び降りたのと同じくらいの高さだった。
ここは静かだった。発着場から少し離れていたからだ。この不完全な静けさのおかげで、美しさのない夜でさえ、価値のあるものになった。
ふたりは、それぞれが一度も口を利かずに、これからの自分たちのことを、それぞれの頭で考えていた。ミツムラの部隊がガイのようなアマチュアのバイク乗りに追い付けないはずがない。今にも、やつらは先刻の何倍も確かな手を打ってくるだろう。何倍もの部隊員を投入してくるだろう。
ステラは夜風の中、鼻歌を歌った。寒かった。
そして鼻歌が風に溶けて消え、あまり騒音にならないことに気付いて、もう少しだけ大きな音で、今度はちゃんと歌ってみた。昔バーで歌っていたカントリーを歌った。懐かしい音だった。自分の外観と全く相容れぬ音だ。
自分はこの歌に、この歌があった場所に、帰ることができるのだろうか。そもそも帰りたいのだろうか。
自分はどこにいたくなくて、どこへ行きたいのだろうか。そんなことをはっきりと知ることはできるものだろうか。快と不快さえ器用に隠蔽し、自分に対してさえ一切の正直さ実直さを失ってしまった今、自分の気持ちを知る術さえ残っていないように思える。自分への親切が自分を傷付けるだろう。自分への憐憫が自分を孤独にもするだろう。この世界はあんまり生き辛い。出て行くことを考え出したやつは賞賛されるべきだろう。生きねばならぬと全身、全生命が叫ぶのに、静かにその身を高い場所から投げ落とす恐怖に打ち勝った、最初の人間。それは悪魔学の書物に、偉大な聖人として書き遺されるべきだった。
ステラは微笑み、自分の歌声に満足した。スターなど最低なるものの最たるものだったが、しかし、この肉体と喉とを愛さずにはいられない。この地上で最も恵まれた肉であり、骨格であり、神経なのだ。人形、大衆用工学技術の粋。
そして全てが爽やかに吹き抜け、少年を振り返り、最後の言葉を伝える。
「ありがとう、ガイ。楽しい旅だった」
フェンスなどない。
一歩踏み出せば、そこには空がある。ビルのあいだにあろうと、これは空に違いない。
少年は悲しみでもなければ、ほかの一切の難しい感情でもない、あの優しさとか愛情といったものから生まれる真摯な無表情を浮かべていた。ステラが了解しているように、彼もまた了解しているのだ。彼にこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。もしもスターを誘拐した人間などということになったら、彼は酷い目に合ってしまう。だから、今、自分のほうから離れてやるのだ。
苦しみも悲しみも、死んだ肉体の中の、もはやそこにない魂を傷付けることはできない。
自ずから進んで生きようとすることと全く同じように、進んで死のうとすることの何と真剣で誠実なことだろう。流れ弾が自分を殺してくれることを願い、よくそんな空想をしたものだけれど、ちゃんと分かっていた。自分の力でやり遂げなければならないことを。そして死ぬことに真剣に取り組み始めたとき、ステラは全く、本当の意味で生きてさえいるのだった。
死ぬ前に歌った最後の歌は、きっと自分だけが聞いた。歌とは、本当は、そういうものなのだ。
絶対に孤独なものなのだ。
歌う人間も聴く人間も孤独だ。歌うとき、聴き手の考えなど全然分からないし、聴いているとき、歌い手の本当の気持ちなど全然知らないのだから。歌だけじゃなく生きることも、何もかも、全部がそうなのだ。何ひとつ分かち合うものはない。誰もが孤独に生きていて、そこに幸福があったり、なかったりするだけなのだ。そして愛情や信頼を、友情を知ったとき、その孤独は、孤独のままもっとずっと素晴らしいものになる。
ステラは大きな希望を見た。
自分はこれから自由になるのだ。自分は死人でいることをやめて、新しい自由の中で精一杯生きるのだ。望むものがあればそちらに向かって歩き、嫌いなものがあれば、そこから離れるために努力することができる。そんな完全な自由の中で。
自分は今、この瞬間から、ようやく生きることができるのだ。色々な困難とぶつかるだろう。そのとき、自分は頑張って戦い抜けるだろうか。振り返ったとき、後悔のないような努力ができるだろうか。失敗や挫折の前で、腐ったりせずに、顔を上げて自分を励ましてやれるだろうか。腐って諦めてしまったことを、あとになってちゃんと許してやれるだろうか。
この死が、そうした一切の自由への最初の一歩なのだ。
小鳥のように軽いステラの体が宙に舞ったとき、彼女の心にはたくさんの歌が、歌に描かれた景色が浮かんだ。
濁流のように、悔しかった記憶や、やり残したことが浮かんだ。嫌な思いはたくさんしてきた。薄汚い大人に囲まれて、同世代の連中と争い合って。みんながどれほど汚いものを隠し持っていて、自分もまたそれとやり合うために、どれほど簡単に手を汚したことか。本当に簡単だったのだ。そして自分も他人も大嫌いだった。やり残したこともたくさんある。もっと歌いたい。もっと、本当に誠実な、例えばただ食事の合間に誰かの純朴で綺麗な声を聴きたいという聴き手のためだけに、悲しい恋の歌も、戦争の古いポップスも、歌ってやりたい。金などもらわずに歌ってみたい。そして、本当の拍手が欲しい。目を閉じない。
情けない自分が浮かんだ。自殺した落ち目のスター。何と滑稽な絵だろう。ニュースは、自分を取り上げるだろうか。ホログラムで、新聞で、ステラの哀れな死についてただの一言でも触れるだろうか。
目を閉じない。
孤独だ。
誰もが孤独に生きていて、そこに幸福があったり、なかったりするだけだ。今、この胸に幸福はなかった。
そして孤独は痛いものだ。こんなにも惨めで辛いものなのだ。自己憐憫が軋む音を立てた。身体がひきつって、千切れてしまいそうだった。
「ただいま、今戻ったよ――」
それがステラの最後の言葉だった。
肉体の死は、精神の死を終わらせ、ステラに新しい自由を与える。新しい、生きた日々を与える。そして本当に生きている人間というものは、自分の幸福にと同じくらい苦痛にも正直で、敏感なのだ。死んでいた自分を蘇らせ、生きることを選ぶということは、そうした苦痛を受け入れなければならないということなのだ。生きている人間というものは、本当にたくさんを望み、本当にたくさんを苦しむものだ。それを今、ステラは思い知っていた。
生きるとはこういうことだったのだ。
そしてステラは、どうして自分が死んでいたのかを思い出した。それは、この苦しみに耐えかね、何も思い出せず、何も感じない自分を求めたからであった。自分は本当に尊い安らぎを投げ捨ててしまったのだと、ステラは今になって初めて知った。
そして事故憐憫と激しい後悔とが嵐のように鳴り響く中、ステラの視界は闇に飲まれて消えた。
ホログラムの海のずっと上、都市の明かりに薄れてしまうほど弱々しい星たちは、それでもなお輝き続けていた。この街の、誰の目にも留まることなく。その名前され知られることなく。