マグリット奇譚
空には昼の青空が広がり、街には夜の影が落ちる。水と油のように交わらない二つの世界が、静かな緊張感と永遠を約束された調和を感じさせる。
絵に描いたような晴天にも関わらず、日の光は地上には届くことなく失われ、足元は街燈の明かりが照らすのみ。
私はどこへ連れて来られたのだろう。
別段焦ることもなく、オウタは家々のシルエットを眺めていた。山高帽に青いスーツ、木製のステッキを手にした彼はこの不可解な風景に妙に溶け込んでいた。
ぼんやりと景色を眺めていると、パッと一軒の家の窓から光が漏れる。それは自分を招き入れる合図に思え、オウタは自然と歩みを進める。
「やあ、待っていたよ」
油絵具の匂いと共に出迎えたのは、白髪を撫でつけスーツを着た恰幅のよい老人だった。油絵を描いていたらしいが、スーツには汚れは一切ない。絵のモデルを務めるのは、鳥かごに入れられた白い卵。しかしキャンバスには卵の代わりに鳥が描かれていた。
「まさか、君に会えるなんて」
オウタは古くからの友人に会うように、親しげに彼と抱擁を交わす。
その後、二人はチェスを指しながら色々な話をした。絵画について、イメージについて、人生について。そこには、同じ世界を共有する者特有の空気が満ちていた。
二人の会話が、死についてに差し掛かった時、オウタは何故か違和感を覚えた。何かが足りない。それが何かは分からないが、気づいてしまうと拭い去ることはできなかった。
「私は、この世界を永遠のものにしたいんだ」
彼はオウタの青い瞳を見つめながら、表情の消え失せた顔で言う。
「壊されることも、侵されることもない永遠が、この素晴らしい世界には必要だ」
君の力を譲ってくれないか。有無を言わせぬ彼の声に、オウタは頭に古くからの友人の言葉が不意によぎる。
アンタは変なものに好かれやすいんだから、気を付けないとね。
そうか。オウタはスーツの内側から木製のパイプを取り出し咥えた。足りなかったものの正体は、彼のシンボルとも言えるこれだったのだ。
「やめるんだ。そんなことをすれば、この世界は」
取り乱す彼を無視して、オウタはマッチを擦る。小さな火花が散ったとともに、部屋は火の海に包まれた。
「何故だ。君だって彼の世界を愛していたのだろう?」
そう叫んだのは彼ではなかった。目の前に老人の姿は無く、代わりに山高帽にフロックコートの男が佇んでいる。
「悪いね。彼が望んだものは、そんなにありきたりなものじゃないさ」
哀しげに目を伏せた後、オウタは紫煙を吐き出す。煙は天井まで昇ると雲へと姿を変え、しとしとと雨を降らせた。
肩に置かれた手で、オウタは現実に引き戻される。
「お客様、会場での喫煙はご遠慮お止め下さい」
困り果てた顔の学芸員らしき女性が、天井を見るように促す。幸い、まだパイプに火は付いておらず、スプリンクラーは作動していなかった。
「すまないね。彼の絵を見ていたら、つい」
女性に謝り、パイプを再びスーツの内ポケットに仕舞う。
魔に取り込まれた時は煙に巻け。古い友人に教えられたこの言葉を思い出させないために、パイプは隠されていたのだろう。
「永遠なら、ここにあるさ」
誰にともなく呟き、オウタはその絵画の前を立ち去る。
昼と夜の光が支配する帝国は、何も言わずに額縁の中に留まっている。
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