箱庭
「アンタは神様って信じる?」
残業でくたくたに疲れ切った体を、揺れる電車に預けてまどろんでいた私は謎の声で現実に引き戻される。
どうしてだろう、いつもだったら、そんな怪しげな言葉など無視して狸寝入りを決め込んだはずなのに。毎日、家を出て会社に行き仕事をして帰る。その繰り返しの日々に嫌気がさしていたからだろうか。それとも、やけに親しげで、まるでこちらを笑っているような、大人とも子供とも判断できないその声の主が気になったからかもしれない。
瞼を上げたばかりのピントの合わぬ視界でもその人物はすぐに分かった。深い闇を駆ける車内には私と、真ん前の座席に座るもう一人しかいなかったのだから。
思わず、まじまじと見つめてしまった。声の主は二十歳前後の若い男の子に見えた。若者がこんな時間に遊んでいるのは可笑しくないとしても、彼の服装はどうにも奇妙だった。赤茶色の燕尾服に黒いシルクハット、中はフリルシャツに赤い棒ネクタイを蝶結びにしている。今どきコスプレは驚くものでもないが、彼は何かが違った。まるで、外国の白黒写真から飛び出してきたような印象を受けた。
「アンタがどう思おうと、神様はいるよ」
え、と思わず声が出てしまった。彼は驚く私の反応を楽しむように、口元を三日月型に歪めている。
「僕たちはね、神様の作った箱庭の中で生きているんだ」
いつの間にか、彼は肩幅程の真っ白な箱を手にしていた。私はまだ寝ぼけているのだろうか。彼は、不意に現れた箱の中を、私に見るようにと促す。少し臆しながらも、そっと覗きこむ。
箱の中には世界があった。精巧なジオラマなどではない。黒く塗られた箱の内側にはちらちらと星が瞬き、駅を中心に置きビルが立ち並ぶ道路を、蟻ほどの大きさの車がちょろちょろと走り抜けていく。この光景をよく知っている。箱に収められていたのは、電車がこれから行き着く場所、私の住む町だった。
「つまらない毎日から抜け出したいなら、僕が手伝ってあげようか」
眠たげな大きな瞳が、まっすぐに私を見ていた。
電車から降りると、冷えた空気に一気に現実に引き戻された。電車は、彼と箱を運び去って行った。あの時、彼に着いて行けば何か変わったのだろうか。申し出を断った私を、彼は面白そうににやにやと眺めるだけで引き止めはしなかった。
変わらぬ日常から抜け出す怖かったのだろうか。そんなことを考えながら、いつも通り改札を出て夜の闇に身を投じる。
いや、違うだろうな。何となくだが、それだけは分かった。
星空の四隅は、闇に紛れてついに見つけだすことは出来なかった。