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007

 ☆



 大浴場はとても広く、そして奥行きが分からないほど靄がかかっていた。

 

 まさか空を飛ぶ戦艦の中に、こんな銭湯みたいな浴場があるとは思っていなかった僕は、不意に僕が暮らしていた地球、そして日本のことを思い出して懐かしくなった。まだこの世界に来てたったの三日しかたっていないのに、それも半分は眠って過ごしていたのに――ずいぶん長いことをこの世界にいるような気がした。


 まだこの世界のことを何も分かってはいないのに。

 

 おそらく、過ごした時間の密度のせいだろうと思った。

 

 向こうの世界にいた頃は、毎日がただ何となく過ぎていた。

 何も考えていなくても大抵のことは不自由なく行われ、過不足ない生活が営めた。

 

 だけどこの世界は違った。

 

 毎日を生きるために必死にならなければ日々の生活は営めない、そんな険しい世界だった。

 そして、この世界で暮らしている人たちはみんな必死だった。


「ふう、さっぱりしたな」

 

 浴場で体と頭を洗った僕は、湯船に浸かろうと浴槽へと向かった。

 不思議なことに、このテラスの世界も蛇口から水が流れ、擦れば泡立つ石鹸のような物がちゃんと存在していた。


 生活の水準は、僕らが暮らしていた世界とそれほど違わないのかもしれない。


「――誰か……いるのですか?」


 浴槽の縁に足をかけたところで、不意に誰かの声が広い浴室に木霊した。


「……えっ、あの?」

 

 靄の中から現れた人影に驚いて、僕は目を開いた。

 そこには、薄い白靄を纏ったアリシア・エル・クリムヒルトが立っていた。


 淡い桃色がかった金色の髪の毛を頭の高いところで纏めて束ねた少女が、翡翠の双眸を見開いて口を開いた。


「あっ、あっ、あなたっ――」

 

 声にならない声が震え、慌てて背中を向けたお姫さまが緑色の湯船に深く浸かって振り返った。

 僕は慌てて手に握ったタオルで股間を隠した。


 互いに、濃い靄のせいで相手の裸体を目撃するということはなかったが、シルエットだけでもスレンダーな女性の裸を見てしまったという事実に、僕はこの場で(のぼ)せてしまいそうだった。


「アオサキ・アオト、どうしてこの大浴場にいるんです? この時間は……《クリムヒルト女学園》専用のはずですよ」


「すいません。エーデルにお風呂に入るように言われて――まさか、アリシアさんがいるとは思わなかったんです。直ぐに出ます」

 

 僕は慌てて逃げるように浴場を後にしようと背中を向けるが――


「かまいません……あなたも湯船に浸かりなさい。そのままでは風邪をひきますよ」


「いえ、だけど……」

 

 僕は恐る恐る振り返って言った。

 すると、そこにはすでに少女の姿は無かった。


「私は、湯口の裏側にいます。こちらにこなければお互いの姿は見えないでしょう」

 

 声が響いた。


「でも、それはあまりにも――」


 女の子と同じ湯船に浸かるなんて、僕は考えるだけで鼻血が出そうだった。


「私が良いと言ってるんです。それに、あなたに少し話もありましたし……とにかく湯船に浸かってこちらに来なさい」

「わ、わかりました。それじゃあ……お邪魔します」

 

 僕はゆっくりと湯船に浸かって、円形の浴槽の中心に設置された湯口――

 大きなユニコーンの像で、額の角から噴水のように風呂の湯が出るている湯口へと向かった。

 

 ユニコーンの像を挟んで、僕とアリシアさんは背を向けあった。

 僕はものすごく緊張していた。


「は、話って……何です?」


「アオサキ・アオト、話というのは……その……ラティファの件です」


「ラティファの?」


「はい……ラティファを、彼女を助けて頂いてありがとうございました。お礼が遅くなったことも、重ねてお詫びします」

 

 思いがけない言葉が飛んできて、僕は驚いた。


「いえ、お礼なんて……僕のほうこそいろいろご迷惑をかけてすいません」


「それは、あなたのせいではないのでしょう? あなたは何も知らずにこの世界にやってきたのですから。もちろん……あなたの話が全て本当だとしたならばの話ですが」


「そこは疑っているんですね?」


「当たり前です。私はあなたが救星の英雄だなんて信じません。それでも、ラティファがあなたによって助けられたのは事実です。だから、そのことには礼を述べるのです」


「はぁ、確かに僕も自分が救世の英雄だとは思っていません。でもこのテラスとは別の世界から来たことは本当なんです」


「この話は置いておきましょう」


 アリシアさんは無理やり議論を断ち切るように言った。


「もう一つ、艦長に言われたあなたの面倒を見るという件なのですが、うやむやのままになってしまったことを申し訳なく思っていたんです」


「それなら大丈夫ですよ。さっきまでエーデルが艦内を案内してくれていました」


「エーデル? 短い間にずいぶん親しくなったのですね?」


「親しいってほどでもないですけど……」


「別に構いませんよ、ご自由に。では、私がわざわざアオサキ・アオトの面倒を見なくてもよさそうですね?」

 

 何となく険のある言い方だった。


「いえ、そんなことないです。僕はこの世界のことをもっと詳しく知りたいんです。それにはあの機械の巨人――《ナイト・ヘッド》を動かせるアリシアさんのほうが適任だと思うんです。他にも《騎士》とか、“エーテル”とか、この“右手の紋様”のこととか……一つずつアリシアさんに教えてもらいたいんです」


「そ、そうですか……」

 

 僕が大声で告げると、アリシアさんは驚いたように言った。


「わかりました。アオサキ・アオトがそこまで言うのなら……明日は、私がこの世界のことについて教えてあげます。それでは、明朝迎えに行きますので支度をしておいてください。よろしい?」


「はい、ありがとうございます」


 僕は背中を向けた相手に向かって頭を下げた。


「私は浴場を出ますけど、こちらを見たら頬を叩きますからね」


「はい、絶対に顔を背けておきます」


 さすがに、女の子に二度も頬を叩かれたいとは思わなかった。


「あと、このことはくれぐれも他言しないでくださいね? 私、おしゃべりな人は嫌いですから」

 

「厳守します」

 

 そしてペタペタという足音が響き、大浴場の扉が閉まる音がするまで、僕は息を止めて顔を背け続けた。

 アリシアさんが完全に大浴場からいなくなると、僕は大きく息をして自分が使っている緑色のお湯を眺めた。

 


 鼻血が出そうだった。


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