下
「そう。若葉君はお母様との約束で眼鏡を外せないのですね・・。」
「まあ、簡単に言えばそういうことです。」
僕は教室での出来事を話した。そして、母との約束のことも。ただ、能力のことは言っていない。そして、この眼鏡の本当の意味も。
「もうすぐチャイムが鳴ります。・・・若葉君は教室に戻れますか?」
「あ、・・はい。授業は受けます。」
「私は休みのたびにここに来ています。あなたも、いつでも来てくださいね。私はいつでも待ってますから。」
窓から、強い風が吹き込んだ。それは、一瞬でこの部屋の空気をすべて一掃した。僕の髪も、彼女の髪も、大きく揺れた。
「ありがとうございます。小林さん。」
窓を閉める彼女に言った。
「・・・澄華でいいですよ、若葉君。」
振り向いた彼女の笑顔は、とても可愛らしかった。
あの日から三日が過ぎた。僕はあの日から図書室に登校し、昼休みも図書室で過ごした。
「いらっしゃい、若葉君。」
「夾でいいですよ、澄華さん。」
驚くほど、図書室には誰も来なかった。とても静かな時間が、この部屋には流れている。
彼女は昼食のときも、傍らにノートを広げていた。
「澄華さんはどんな小説を書いているんですか?・・・あ、答えたくなかったらいいですけど・・・。」
すると、彼女は微笑んで答えた。
「日常なようで、日常ではないようなお話です。」
「不思議な話だ。」
「そうかもしれない。」
僕は図書室にくると、よく本を読んでいた。彼女は小説を書き、僕は読書をする。それが日常となっていた。
「私からも聞いていいですか?」
「僕に答えられることなら。」
「・・夾くんは・・・どうしてそんなにも頑なにお母様との約束を守ろうとするの?」
「・・・・。」
季節は秋から冬へ変わろうとしていた。気温はまだ暑いが、風が変わり始めている。
僕は少し考えてから、呟いた。
「・・・それは言えない。」
「―――そっか。」
昼休憩終了のチャイムが鳴った。僕らは別々の教室に帰った。
* * *
「なあ、若葉のやつ、最近教室に居なくないか?」
「だよなあ。どんだけメガネが大事なんだよ。」
「そこまでされるととりたくなっちゃうよなぁ~。」
「じゃあさ、誰が一番に取れるか――とかどうよ?」
「お前たまにはいい事言うじゃん!んじゃそういうことで。他の奴らにも言おうぜ!」
「了解。じゃあ、俺メール回しとくわ。」
* * *
僕らが出会ってから、結構な日が過ぎた気がする。1か月もたっていないはずだが。教室にいるときはいつも通り多少の嫌がらせは受けたものの、澄華さんのおかげで、僕は平和な日々を送れている。
僕はいつもと同じように、昼になると教室を出た。
その日はいつも通り過ぎていて、いつも通り、図書室のドアが目の前に見えていた。しかし、いつも通りドアを開けることはできなかった。
『見~つ~けたッ!』
背後から両腕をつかまれた。クラスの男子A、B,Cだ。
「ナイス、男子!たまには役に立つじゃん。」
そのまた後ろから出てきたのは、いつかのクラスの女子Aだった。
「ヘヘヘッ!これで簡単にメガネを取れちゃうね~。」
「やめろ・・・・その眼鏡に触れるな・・・!」
「え~、どうして?この眼鏡を最初にとった人が勝ちなんだから。」
眼鏡に手を伸ばそうとする女子A。
しかし、その瞬間。女子Aの頭上から、水が降ってきた。
「やめなさい――――――――。」
見るとそこには、女子Aの頭の上で水筒を逆さにしている澄華さんがいた。
「・・・ッ!」
ものすごい形相で振り返る女子A。その心の花は真っ黒にくすんでいた。憎しみと、怒りで。
「誰よ、あんた!人の頭に水かけるとかありえないんだけど?」
「人が嫌がっているのに無理やり捕まえて大切なものを奪おうとする方がよっぽど非道です。」
澄華さんは冷たい声で言った。
その時、僕は見てしまった。
あれほど凛として咲いていた白い花に、黒いくすみがかかり始めている。
やめてくれ。君の花はあんなに美しかったのに。・・・僕のせいで―――――――――。
「ぅうあああぁぁぁぁぁッ!」
僕は叫んだ。一心不乱に叫び、捕まれていた腕を振りほどいた。勢いでしりもちをつく男子A、B,C。僕は澄華さんの手をとった。
「―――――行こう。」
そして、階段を駆け下りた。僕等を囲っていた男女は、ただ唖然としていた。
「・・・なんなのよ、あいつ。」
僕らは走った。中庭を抜けて、体育館の倉庫まで行った。
「ご・・ごめ・・ね。走らせて・・・。」
息切れのあまり、上手くしゃべれなかった。
「ハァ・・・いいの・・・ぜんぜん・・・。」
二人で倉庫の中でへたるように座った。
ある程度、息を整えてから、言った。
「ごめんね、つらい思いをさせて。」
「ううん、いいの。ちょっとすっきりしたし。」
その時、彼女の花は、また白く凛としていた。
「――――――僕が思いついた小説のネタになりそうなお話をしてもいい?」
彼女は突然のことに驚いたようだったが、静かにうなづいた。
僕はそっと立ち上がり、窓の前に立った。いつの日かに比べれば、ずいぶん冷たくなった風を感じた。
「あるところに、男の子がいた。その子のお祖母さんは超能力者だった。」
「それは、どんな能力なの?」
「人の心の色が見えるんだ。ぼんやりと。どんな人間も、見たくなくてもね。」
「・・・。」
「そして、その男の子に、その能力が遺伝した。しかもその能力は・・・お祖母さんの時よりも強くなっていた。色だけでなく、形までもがくっきりと見えるようになった。それは花の形をしていて、一人一人違う花で、違う色だ。男の子はその花を見ると、その人の考えていることが何となく分かってしまうんだ。とても美しいことも、表面の表情からは到底読み切れないことも、とても醜いことも。そして、その花に触れることができたんだ。自分の手で。でも、それは決して行ってはならないことだった。だってその花は、他人の心そのものだから。でも、男の子は小さかった時、それを知らずに自分の母親の花を摘み取ってしまった。あんまりにもきれいだったから。つまり―――――――――――人間から心を奪ってしまった。」
「・・・お母様は元には戻らないの?」
「分からない。でも、摘んでしまった花をなんとか育てているんだ。だいぶ育ってきたけれど、どうなるかはまだ分からない。」
「それは・・・とてもかわいそうね。つらいことだわ。」
「そうだね。・・・その男の子はね、お母さんと約束していたんだ。人前では必ず眼鏡をすること。そして、その眼鏡を決して他のひとにかけてはならない、とね。」
「―――――どうして?」
「それは・・・眼鏡が《封》だから。」
彼女はゆっくりと立ち上がると、僕のもとに歩み寄り、僕の隣に立った。そして、僕らは真っすぐに向かい合った。
「何を封印するの?チカラを封印するの?」
「いや、チカラは眼鏡では封印できない。ただ、本当の姿を見せないようにしているだけ。」
「つまり、私が今見ているあなたは本当の姿じゃないの?」
「うん。・・・僕の瞳は何色?」
「黒い。とても深い黒。」
「そっか。」
僕は少し微笑んだ。彼女は僕のその表情を見て、そして、僕の眼鏡に手をかけた。
初めて、人前で眼鏡を外した。耳元が軽く感じた。
「とても――――――――とてもきれいな紫色ね。」
そう言って、彼女は笑いかけた。
僕の目は紫色。それが、僕の本当の秘密。僕の目は人間のものじゃない。これはきっと化け物の目だ。
彼女の顔がぼやけて見える。でも、やっぱり花は美しく見えた。
「私の花はどんな?」
「とても白くて、凛としていて、美しいよ。」
すると、彼女は笑った。
そして、僕の手をとった。
「あなたの目はとても妖しく光っている。でも、とても優しい目。あなたには紫の目の方がよく似合ってる。」
「・・・ありがとう。」
僕らは笑い合った。互いの手を取りながら。その手はとても柔らかくって、とても温かかった。
* * *
学生時代、結局ずっと嫌がらせは受けてきたが、意地でも眼鏡は取らなかった。
花が水を欲するのも、肥料を欲するのも、光を必要とすることも、すべて当たり前のことなのだ。時には汚れてしまうことも、誰にだってある。だけど、時には美しく輝く。学生時代に相いれなかった彼らの花も、今は輝きを放っているのかもしれない。少なくとも僕はそうあるように願っている。
後にも先にも僕の秘密を知るのは、きっと彼女だけだろう。あれから6年たった今も、彼女以外の人間に打ち明けようとは思えなかった。
「ねえ、私たちの間に生まれてくる子は、何色の目をしているのかしら。何色の心をしているのかしら。」
「さあ、どうだろう。君の花みたいにきれいだといいなぁ。」
僕らはあの日と同じように、手を取り、笑いあった。




