上
「ねぇ、若葉君ってメガネ外さないの?」
クラスの女子が唐突に尋ねてきた。
「・・・メガネを外すと本当に何も見えないから。」
読んでいた本から、顔を上げずに答えた。
「ふ~ん・・・。」
女子はそう答えて、僕を数秒間見下していた。そして、そのまま駆けていく。
同じクラスになって随分と日がたつが、いまだこの女子の名前は思い出せない。
僕は、遠のいていく足音を聞いていた。しばらくして、再び教室の静けさが戻る。僕は再び目の前の文字の羅列に集中した。
秋の夕焼けは、赤く赤く、僕らを照らす。僕は重い荷物を肩にかけ、家までの道のりをとぼとぼ歩いていた。
僕の瞳は黒い。それは他の人と同じ。
ただ、生まれたころから両目とも視力が悪くて、小さい頃から眼鏡をかけさせられた。
『いい?この眼鏡はね、特別な眼鏡なの。だから、この眼鏡を夾以外の人にかけさせてあげたり、他の人の前で外しちゃダメよ。ママと約束できる?』
かすかに残る、幼いころの記憶。母は僕が5歳のとき、とある事故から寝たきりになってしまった。人前で眼鏡を外してはいけない。これは、僕と母とのたった一つの約束。
僕は、なぜこの眼鏡を外してはいけないのかを知っている。
秋茜を追いながら戯れる、数人の小学生が僕の横を通って駆けていった。
彼らの心には花があった。一人一人、違う色の異なる花を。僕にはそれが見える。胸の中にあるのが、はっきりと。
この花は、すべての人にある。すべての人が違う花を持ち、時によって色は変化する。時にその花は輝くように美しく、時にはとげが生え、そして時には枯れる。僕はすべての人の心の色が見える。心の形が見える。その清浄さも、醜さも、他人には決して見せないものも、全てが見える。文字を見る視力がどんなに衰えようとも、花を見る視力は決して衰えない。
だから、僕は眼鏡を外さない。
夕日はもうほとんど落ち、闇が広がりつつあった。僕は家に入り、壁に掛けている鏡で己の目を見つめた。
「おっはよ!若葉君!」
教室に入った瞬間、大きな声であいさつされた。昨日話しかけてきた、・・・女子Aだ。
「私達今話してたんだけどさあ、もう何回もお願いしてるのに、若葉君ってホントにメガネ外さないよね。」
楽しそうなおもちゃを見つけた子供のように、とても愉快そうに彼女は笑う。
「一回でいいからさ、外してみてよ!若葉君いつもメガネかけてて前髪も長いから、いっつも目ぇ見えないんだよね。別に一日中外してろってわけじゃないからさ!」
じりじりと、僕に近づいてくる女子A。その後ろに控える女子Aの友人、女子B,C。教室にいるその他のクラスメイトも、興味深そうに僕を見つめる。純粋に好奇心に染まっているもの、しぶとく僕が眼鏡を外さないことに疑問を抱いているようなもの。他にも、様々な花がよく育っていた。
「あの、ほんとに・・僕は眼鏡がないと・・・」
「メガネがないとなんなの?幽霊でも見えちゃうわけ?」
女子Aの発言にクスクスと笑うクラスメイト達。
「あ、もしかしてアレ?僕の左目は特別、みたいな?やだ、厨二病じゃん!」
ああ、花が染まっていく。
いや、僕は気付いていた。根暗で地味で眼鏡で、目を見られることを恐れてずっと人と目を合わせてこなかった。ずっとみんなは僕をコミュ障だと思っている。そして、僕を嫌っている。気味が悪いと思っている。眼鏡を外せないという弱味に気づけば、こんな風になるのは当たり前か。
だんだんと、遠く聞こえた。僕を面白おかしく皮肉る女子Aの声も、それに笑うみんなの声も、すべて。ただ目の前にあるのは醜い花ばかり。僕を忌み嫌ったり、憐れんだり。
僕は背後のドアに手をかけ、素早く逃げ出した。
「あ、逃げんの?なによ、私が悪者みたいじゃん。」
そう言って、ケラケラと高笑いするのが耳の奥に響いた。
僕は走った。必死で走って逃げた。誰かが追ってきているわけでもないとは思う。でも、とても怖かった。逃げ出さずにはいられなかった。
(母さん―――――。)
僕は3階まで駆け上がり、廊下の突き当たりにある図書室に駆け込んだ。
ひどく息切れがして、その場でしばしうつむいて息を整えていた。
「・・・あの、」
不意に、隣から声をかけられた。驚いて振り向くと、カウンターに一人の女子がいた。
「大丈夫ですか?その・・・すごい息切れですよ・・?」
その女子が耳元につけていた、黒い髪をとめる花の髪飾りが妙に目についた。
「あ・・・はい。あの・・大丈夫です。」
肩で息をしながら答えた。彼女はそんな僕を少し見つめてから、言った。
「よければここに座ってください。少し休んだ方がいいと思います。」
と、隣の席をすすめる。
「あ、どうも。」
僕は彼女の隣に座った。ちょうど正面に開かれた窓があり、とても心地よく肌に触れた。
風に揺れるカーテンを、二人で眺めていた。
またも突然に、彼女が口を開いた。
「お名前は?」
「・・・若葉です。若葉夾。あなたは?」
「私は小林澄華です。2年C組です。あなたは何年生ですか?」
僕たちはお互いに遠くを見たまましゃべった。ただ、何の規則もなく揺れるカーテンを見つめたまま。
「僕も2年生ですよ。E組です。」
「そうですか。」
束の間、沈黙が流れた。でも、何かしゃべらなくては、という焦りのようなものは不思議となかった。
しかし、廊下から、聞き覚えのある声が響いてきた。こちらに近づいてくるのが分かる。冷や汗のようなものが妙ににじんで、これまでの彼女たちの言動が頭の中を駆け巡った。人間が死に際に見る走馬灯のように。
僕は、カーテンから目をはなし、小林さんに目を向けた。
「すみません、小林さん。僕をかくまってくれませんか?」
「え?・・・あ、じゃあ、カウンターの下へどうぞ。ここはこちら側に来ないと見えませんから・・・。」
僕は素早く―――いや、必死で、カウンターの下に潜んだ。
次の瞬間、乱暴にドアが開いた。そして、数人のクラスの男子が入ってきた。
「ここに暗くて地味な男が来なかった?メガネかけてて、前髪の鬱陶しいさぁ。」
「さあ、そんな男の人はここに来ていませんが。」
「ああ、そう。んじゃいいよ。」
そして、また乱暴な音が響き、声が遠のいて行った。
「・・・もう大丈夫ですよ。」
「ありがとうございました・・・。」
僕は、ゆっくりと立ち上がる。その時、小林さんの心の花が見えた。白い花。僕をかくまって、僕を追ってきたクラスの男子に絡まれても、そして、そのあとに僕を見ても。彼女の花は凛としていた。僕を訝しげに思う色でもない、邪魔だと思う色でもない。ただ、白かった。
ふと、彼女の手元に広がるノートを見た。
「何か書いていたんですか?」
「ええ、まあ。」
僕は再び席に着いた。
窓を見ると、もう風は止んでいた。ただ、青い空が広がっているだけだ。
「小説を・・・小説を書いているんです。」
「小説、ですか?」
「はい。小説です。」
僕は、もう一度ノートに目をやった。シャーペンで書き連ねられた文字。ところどころ二重線が入れられていたり、黒く塗られていたり。たくさんの推敲の跡がみられた。
「私が小説を書いているということは、私にとってとても大きな秘密です。誰にも言ったこともなければ、誰にも読んでもらったこともありません。」
彼女は、目を伏せながら言った。頬にかかる漆黒の髪を、僕はただ見つめた。
「あなたは私の秘密を知りました。一方的に私が教えてしまったけれど。だから、私もなぜあなたがここで隠れているのかを聞いてもいいですか?」
とても聡明な人だな、と思った。
「僕は――――――――。」
なぜか、自然に口が開いた。
どうやら僕は会って間もないこの女性を―――小林澄華という女の子を、割と信頼しているらしい。