2、Second Snow
次の日は荒れ模様の天気だった。暗い空から降ってくる細かい雪が強い風にあおられて横向きに流れていた。
明良はニット帽を目深に被り、ダウンジャケットの襟を鼻の上まで引き上げて肩をすくめたが、その隙間にも雪のつぶてが入り込んで顔をチクチクと刺した。
約束の場所に行くと、サトコは昨日とは違うグレーのコートを着て立っていた。コートを替えて出てこられるほど、近所に住んでいるのだろうか? いや天気のせいで、白いコートがくすんで見えるのかもしれない。
細身のコートに似た色のブーツ。薄いマフラーのほかには防寒具をつけていないのに、寒そうな様子もなく、すっと立っている。まっすぐな黒髪に、ちいさな雪の粒が吸い付いてはパラパラと落ちていく。
「こんな天気なのに、大丈夫ですか?」
サトコは申し訳なさそうに訊いた。
「いいって。さあ、早く行こう」
じっと立っているのが辛くて、明良はサトコを急かした。
離れた場所にある宿を一軒一軒訪ねて回るのは、予想以上に時間がかかる。雪道に慣れていない明良はなおさら歩くのが大変だ。今のところ、どの宿の名簿にもサトコの父親の名前は見当たらなかった。
時間が経つにつれて、諦めの気持ちが強くなってくる。町の中心から、郊外へ……。
やがてふたりは、ただ惰性で同じことを繰り返しているような感覚になり、雪の中を黙々と歩き続けるのだった。ときどき流れてくる捜索のアナウンスさえも、今は鬱陶しく思えてしまう。明良は面倒なことを引き受けてしまったと後悔し始めていたが、妙なプライドから今さら後にひくことはできなくなっていた。
ぐったりと疲れを残したまま、明良とサトコは次の日の約束をして別れた。
その次の日も天気は似たようなものだった。
「残すは、この離れた地区の宿だけだな……」
土産物屋の休憩所で煙草をふかしながら明良はため息をついた。よれよれになった地図は町から車で三十分かかると言われたあの一角を残して赤いバツで埋められていた。
サトコは申し訳なさそうに下を向いている。
「おう、こんなところにいたんだねぇ」
二人の上から声をかけたのは、地図をくれた運営委員のおじさんだった。
「すまんねぇ。ふたりが毎日あちこちの宿さたずねあるいとるときいてねぇ。えらいこと言ってしまったねぇ」
おじさんは弱った顔をして頭を掻いた。
「お詫びに、残ったところを車で案内しようと思ってねぇ。わしも手伝うからねぇ」
と、外に停めてある町名のロゴが入った軽トラックを指差した。渡りに船とはこのことだ。沈んでいた二人の顔が輝いた。
その地区には、新しいリゾートホテルやペンションが、ひしめき合うように建っていた。山の裏手にあるスキー場を利用する客を狙って開発されたようだ。新しい建物に混じって風情ある老舗旅館も数軒あった。昔は隠れ宿のようにこの数軒だけがひっそりと建っていたのだろう。
「三人で同じところさ回っても時間かかるからねぇ。ひとりずつ分かれて行くのがいいんじゃないかい?」
おじさんの提案で、三人はそれぞれ分かれて回ることになった。しかし中心街より雪深い集落では明良もサトコも移動するだけで大変だった。
朗報を得られないまま時間が過ぎ、待ち合わせの場所に戻ってくると、おじさんが高揚した様子で待っていた。
「見つけたよぅ。お父さんが泊まってる宿。今あんたら連れて行くからって女将に言ってきたところだぁ」
途端に雪道の歩きにくさなど忘れ、ふたりはおじさんの後についてその旅館まで走って行った。
「はい。大河内さまは常連さんでねぇ。毎年この宿使ってくださるんですよぉ」
ふくよかな女将さんは、両手をお腹の前で重ね合わせて反り返るような格好で話す。
「そんでぇ。その人、どこにいらっしゃるんかいねぇ?」
「それがねぇ。今年は何故か、いらしてないんですよぉ。どうしたのかねぇって、番頭さんとも話してたとこでねぇ」
女将さんは、自分で言いながら納得するように何度も大きく頷いていた。
帰りの車の中は、しばらく沈黙だった。盛り上がった雪にタイヤが乗り上げるたび、尻が座席から跳ね上がる。それでも誰も言葉を交わすことができずにいた。
町の中心街が近づいて雪のない広い道に出たため、ようやく静かに座っていることができるようになったとき、運転席のおじさんと助手席の明良の間で小さくなっていたサトコが沈黙を破った。
「おふたりとも、私のためにありがとうございました。やはりこの町に父が来ていたことが分かって嬉しいです。それだけでも来たかいがありました」
狭い座席で肩をすくめながら、サトコは頭を下げた。
「明良さん……」
サトコが顔を少し傾けて明良に声をかけた。
「貴重な休暇をほとんど使ってしまってすみませんでした。何か私にできることでお礼がしたいんですが……」
「あれぇ。ふたりは恋人同士でなかったんかぃ?」
おじさんが素っ頓狂な声を出して割り込んでくる。
「初対面なのに協力してくださったんですよ。親切な方で」
「そりゃあ、優しい、いい男だねぇ!」
優しいなどと、一度も言われたことがない。むしろ『ひとでなし』と言われることのほうが多かった気がする。明良は背中がこそばゆくなった。
「いや。別に親切なわけじゃなくて、本当に暇だったんスよ」
「どっちでもいいんじゃない? 気持ちはもらっておきなさいよぉ」
おじさんはひとりで盛り上がっていた。
「お礼なんて、いい……」
言いかけて、明良はひざの上のカメラに目を落とした。カメラマンの悲しいサガだ。こんなときにも明良はカメラを肩にかけて出てきてしまった。
「そうだな。明日は氷まつりの風景を撮影しようと思っていたんだ。そこに君も一緒に入ってくれないかな?」
「あの。モデルはちょっと……」
「大丈夫。ただまつりの風景を楽しんでいてくれればいいよ」
「サトコちゃん、この人、いいカメラ持っとるから、腕のいいカメラマンだよぉ。無理につくらんでも、いい写真撮ってくれるってぇ。ねぇ。
んで、その写真、来年のまつりのポスターに使わせてもらうからねぇ」
おじさんが大声で笑うので、サトコも笑い出した。
「わかりました。じゃあ、今日と同じ時間にぶつかった場所に集合!」
サトコが人差し指を立てて軽く振った。ちょうどそのとき軽トラが、鈍い音を立てて役所の正面に停まった。
まつり四日目の朝は、昨日までの吹雪が嘘のように、抜けるような青空が広がっていた。雪に煙っていた町の景色は、澄んだ空気に鮮やかに浮かび上がった。建物も、車にも木にもこんもりと雪が被っている。見渡すかぎりの青と白の世界……。
静寂の中でただひとつ、家々の軒先に下がるつららから滴り落ちるしずくが、ぽこんぽこんと楽しげな音を立てている。
約束の八時までまだ時間があるが、明良は美しい景色に導かれてメイン会場へと向かっていた。会場では、朝早くから地元の人々が雪像の手入れをしていた。その様子を眺めながら歩いていくと、明良は見覚えのある後ろ姿を見つけて立ち止まった。
細身のコートのポケットに手を入れて雪像を見上げている。今日のサトコは空の色を少し溶かしたような水色のコートを着ていた。
『やっぱりこの近くに住んでいるんだな。毎日違うコートを着てくるとは、金持ちのお嬢さまなのかもしれない。別れた前の父親に会いに、なんて。幸せなお嬢さまの道楽に付き合わされたってことか……』
明良は勝手な想像を働かせて、少し苛立った。いたずらのつもりでサトコの後姿をファインダーで覗いてピントを合わせてみた。ファインダーの中のサトコが振り返った瞬間、思わずシャッターを切っていた。
「驚いた。いきなり撮らないでくださいね」
サトコがふくれっ面で近づいてきた。
「ああ、悪い……。手のヤツが勝手に動いた!」
つい口から下世話な冗談が飛び出す。サトコはそれを気にする風もなく、笑顔になって話し出した。
「昨日まで父を探すことばかり考えていて気にも留めなかったけど、きれいな雪像がたくさんあるのね。せっかくだから今日はゆっくり見て回ることにするわ!」
無邪気なサトコの笑顔を見ていて、明良は余計な勘繰りをするのを止めた。サトコの父親が来れば、旅館の女将から明良の携帯に連絡が入るはずだ。サトコの言うとおり、何も気にせずに今日はまつりを楽しむのがいちばんだ。
気温が低いとはいえ、ほんのり暖かい太陽の光に表面が解かされて、雪像たちは最初に見たときと違うやわらかい表情をしていた。氷でできた像は、表面が解けたせいだろう、上質なクリスタルのようにキラキラと耀いていた。
大きな恐竜の雪像の前で両手を大きく広げてみせるサトコを明良が何枚かの写真に収める。
町で行われる朝市の様子を模したものだろうか。大根を差し出すほっかむりのお婆さんの氷像の前で、サトコはしゃがんで大根を受け取るふりをしてみせる。
明良はそんなサトコの姿を写真に撮りながら思っていた。
『こんな風に無心に写真を撮ったのは何年ぶりだろう。仕事をしていたときは、心から撮りたい写真ではなく、どうしたら売れるのか世間にうけるのか、ただそれだけだった。モデルも心を失くした人形のようだった。俺が違和感を感じていたのは、これだったんだ』
気付いてふとカメラを下ろし、太陽の光を浴びて眩しく耀く雪景色をぐるりと眺めた。
太陽が高くなるにつれ、青空はますます濃く深くなり、雪景色とのコントラストが鮮やかになっていく。
雪の城のアーチ型の門をくぐって出てきたサトコをファインダーから覗いて、明良は『おや』と思った。
『コートの色がさっきよりも濃く見えるのは、目の錯覚だろうか……』
薄い水色だったはずのサトコのコートが、スカイブルーに見えていた。まるで空の中に溶けてしまいそうだ。カメラを離し、ゴシゴシと目をこすった。雪の壁の前に立った彼女のコートは、最初に見たとおりの薄い水色に戻っていた。
日が高くなると、冬とは思えないほど暖かくなった。お天気に誘われて観光客がぞくぞくと集まり、会場は混雑してきた。もうゆっくりと写真を撮る余裕もなくなり、人の流れに従って歩いていくしかなかった。大勢の人が踏んで足元の雪は泥水になっており、ズブズブと足が取られる。
気付くとサトコは少し具合が悪そうに俯いてふらふらと歩いていた。明良はサトコの手をつかまえると、人の波をかきわけてやっと土産物屋の休憩所まで連れてきた。休憩所のベンチに座ったとき、サトコは額に汗をかいてぐったりしていた。
明良はハンカチを差し出して、サトコに謝った。
「俺が余計なことを頼んだばっかりにとんだ目に合わせてしまって、すまない」
サトコはまだ荒い息を吐きながら、答える。
「明良さんのせいじゃありません。私、暑さに弱くて。今日がこんな陽気になると思わなかったから……。しばらく休めば大丈夫ですから」
日差しが強いと言っても、真冬の太陽だ。これだけで弱ってしまうなら、はたして真夏はどうやって過ごしているのだろうか。明良は不思議に思ったが、敢えてそれを聞こうとはしなかった。
「何か飲み物を買ってこようか。もう昼時だから、腹も減ってるんじゃない?」
明良が聞くと、サトコは激しく首を振った。
「いいんです。こうやって休んでいるだけで大丈夫」
サトコはハンカチで何度も汗を拭いながら、背中を少し丸めてじっと座っていた。やがて、ふと思いついたように顔を上げると明良に話しかけた。
「今夜、氷の滝を見にいきませんか? 私、出直してくるので」
「それなら明日にしないか。今日は休んでいたほうがいいよ」
「わたし、今日までしかここにいられないの。だから……」
明良の勘は外れていた。サトコはやはり遠くから来ていて、この町の宿に滞在していたのだ。しかし最終日までいるといっていたはずだが。何か急用でもできたのだろうか。
「でも、お父さんは明日来るかもしれないじゃないか」
「いいえ。今年はもう来ない」
サトコはそう言いながら、窓の外の青空を切なそうに眺めた。そして、独り言のように小さな声で続けた。
「明日も晴れて暖かくなる。そしたらもうここにはいられない。だから今夜のうちに見ておきたいの」
「……わかった。じゃあ、今夜の八時に朝と同じ場所に集合!」
明良が人差し指を立てて振ってみせると、サトコはやっと笑顔になった。