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1、First Snow

 



 雪空というのはふつうの曇り空よりも明るい色をしているが、透明度に欠ける。白いアクリル板が薄く張り巡らされているようだ。

 落ち着かない明るさを保つ雲の中から、雪がふわりふわりと舞ってきた。しかし光の洪水の中を落ちていくそれは、まるで黒い小バエがたくさん飛んでいるかのように見える。


 渋谷の雑居ビルの五階は寒々しい蛍光灯の灯りに照らされている。窓から差し込むネオンのどぎつい光の方が明るく、薄汚れた壁にいくつもの色を反射させている。ロビーの広い窓に額をつけて真下につながって見えるテールランプの赤い帯を覗き込む。息のかかった窓が一瞬曇って、また透けた。


『今日はもう誰も来ないだろう。あの客が帰ったら閉めて帰るとするか』


 煙草を取り出して火を点けようとすると、背後の透明のドアを乱暴に開けて二人連れの男が出てきた。


「なんだ、カタリかよ! 〈F〉の写真展だっていうからスゴイやつを期待したのによ」


 言った男は腹いせに入り口のたて看板を思いっきり蹴倒した。看板は静かなロビーに派手な音を響かせて転がった。

 さんざん悪態をついてふたりはエレベーターの中に消えた。

 ふつうなら追いかけて胸ぐらを掴んでいるところだが、明良(あきら)はその様子を遠くから黙って眺めていた。予想していたことなのだ。

 明良は点いていない煙草をくわえたまま、転がったたて看板を拾い上げた。


―― 〈F〉 写真展   SA・TO・KO ――


 たて看板は、白地に青い文字でそれだけが書かれたシンプルなものだ。明良はそれを抱えてギャラリーの透明のドアを押そうとした。

 後ろでエレベーターがチンと鳴った。振り返ると杖をついた老人が降りてきた。

 フェルト地の山高帽を被り、落ち着いたこげ茶のマフラーを前できれいに合わせて、グレーのカシミアのロングコートの中に入れ込んでいる。上品な老紳士だ。

 老人は山高帽を脱いで胸に当てると、丁寧に明良にお辞儀をした。

 明良は看板を抱えたまま老人の方へ走り寄って手を握った。


「ようこそ。いらっしゃいました」


 二人はそのまましばらく、笑顔で見つめ合っていた。






 山あいのひなびたその町に行こうと思いついたのは、何故だろうか。昔憧れた写真家の一枚に、七色のライトに照らされる幻想的な氷瀑を見たことを思い出したからかもしれない。

 極寒の季節、雪深い山奥のその町では例年氷まつりが催される。氷ついた滝をライトアップすることが話題を呼んで、最近では観光客も増えてきているらしい。話題の氷瀑だけでなく数々の雪像や氷の像なども展示され、一緒にライトアップされる。有名なS市の雪像のようなダイナミックさはないが、手の込んだ雪像や氷の像がいくつも並び、美しく照らし出される姿は圧巻だ。

 交通の便が悪いことで観光客の数が絞られるため、かえって静かで幻想的な空間を楽しむことができるのだ。



 明良は自分の仕事に限界を感じていた。

 ある男性誌から新進気鋭の写真家〈F〉としてデビューした明良は、素人に近い無名のモデルを使って過激なヌード写真を撮っていた。

 たちまち売れっ子になった彼は、いくつもの雑誌の仕事を掛け持ちし、個展を開けばファンがどっと押し寄せてきた。

 しかし、いつの頃からか、自分は腕を買ってもらっているのだろうか、単なる好奇心の対象として売れているのだろうか、そんな疑問が浮かんできた。人気絶頂の〈F〉が、そんな疑問を持っていることなど誰も想像しなかっただろう。だからこそ明良の悩みは余計に大きくなっていった。

 いくつかの雑誌の契約期間が切れたときを見計らって、〈F〉は写真の世界から姿を消した。



 氷まつりは五日間にわたって開かれる。明良は五泊の予定で宿を取った。

 小さなスポーツバックに必要最低限の着替えと、愛用のカメラの中から、一番コンパクトなものだけを入れてやってきた。

 カメラを肩にかけてまつりの会場にやってくると、意外にも観光客が多いことに驚く。一日数本の電車しか止まらないローカル線の駅から、さらにバスで一時間ほどもかかるこの町に、しかも最も雪深く、外界から隔離されたようなこの季節に、よくこんな大勢の人間が集まるものだ。


「暇なヤツが多いんだな……」


 自分のことを棚にあげて、明良は呟いた。

 人の多さに辟易したものの、会場の雪像たちの素晴らしさは期待どおりだった。昼間の真っ白な雪像も見事なのだから、夜になってライトに照らされた姿は、さらに見事なものだろう。

 明良はカメラポイントを探して会場をふらふらと歩き回った。ようやくカメラを構えたとき、誰かが明良の腕にぶつかってきて、カメラは雪の上に投げ出されてしまった。


「おい!」


 明良は急いでカメラを拾うと、ぶつかってきた人間の腕を乱暴に掴んだ。


「ごめんなさい……」


 掴んだ腕の先には真っ白なコートを着た細身の女が立っていた。彼女は怯えた顔でこちらを見ていた。


「ごめんなさい。人を探してよそ見をしていたもので。カメラ、壊してしまったかしら……」


「いや。俺もよそ見していたもので。すみませんでした」


 明良は手を離して乱暴にしたことを謝った。コートの女はそれでも心配そうに見つめている。


「大丈夫です」


 明良は女に頭を下げ、人の波を抜けて会場の隅にしゃがむと、レンズを外してカメラを点検した。ふと顔を上げるとさっきのコートの女が覗き込んでいる。明良は驚いてまたカメラを落とすところだった。


「あの、大丈夫ですから。気にしないでください」


「でも。それ大事なものでしょう? 私には分からないけれど、一緒に様子を見ていていいですか? 何かあったら弁償しなくては」


 面倒になって明良はそれ以上何も言わずにカメラの点検を続けた。コートの女は横にしゃがみこんで明良の手つきを眺めている。明良は隅々までひととおり確認すると元通りにして構えてみた。


「大丈夫、壊れてませんよ。ご心配、ありがとう。それより人を探していたんじゃないですか?」


「まあ……。でもここに来ているかどうかも分からないので……」


「来ているかどうかわからない人を探しているの?」


「そう。毎年このまつりに来ているとうわさに聞いて……。小さいころに別れた父なんですけど」


 明良は複雑な表情になってコートの女を見つめた。

 女……と言ってもよく見ると少女のようなあどけない顔をしている。すらっとした体つきでシンプルな白いコートを着ているせいか大人びた印象があったのだ。

 いったいいくつなのだろう。小さい頃に別れた父親を慕ってやってきたなんて、見かけよりずっと幼いのかもしれない。切り揃えられた前髪は最新の流行だと思っていたが、幼いおかっぱ頭にも見える。


「探すのを手伝いましょうか?」


 明良は彼女が哀れに思えて、思わず申し出ていた。


「いいえ。そんな。ひとりで平気です」


 彼女は首と掌を同時に横に振った。


「実は暇を持て余しているんでね。このまつりを見るために五泊も宿を取ったものの、一日あれば十分楽しめそうだ。いい暇つぶしになる……」


 明良は余計なことを言いかけて言葉を切り、彼女の顔色をうかがった。

 しかし、彼女は目を潤ませて明良のほうを見つめていた。


「ありがとう。実は心細かったの。知らない町にたったひとりで、来るかどうか分からない父を探すなんて。……ありがとう」


 軽い気持ちで言ったことに、随分と大げさな反応をされて、明良は逆に戸惑ってしまった。


「しかし、こんなに観光客が多いんじゃ、お父さんの特徴を言って訊いて回っても見つけるのは難しいだろうな。

 そうだ、あれ!」


 明良は電柱のような木の柱のてっぺんに付いているスピーカーを指差した。


「まつりの本部に頼んでアナウンスしてもらえばいい。迷子の呼び出しみたいに。お父さんが気付いたら、本部で待っていてもらえばいいんじゃないかな?」


 観光名所ではあるが、山あいの小さな町のこと。町役場の一角に臨時で設けられた本部に自治会の役員が詰めている。会場内のアナウンスといっても、目抜き通りに数メートルおきに木の柱が立てられて、古いスピーカーが付いているだけだった。

 こんな方法ですぐに見つかるほど簡単なことではないかもしれないが、人ごみを見て歩くよりはましだろう。


 明良は彼女を連れて役場に行った。

 雪に埋もれた古い木造の町役場は地元の人がせわしく出入りしていた。ベニヤに貼られた模造紙に墨で『氷まつり運営本部→』と大きく書かれている。

 矢印に従って役場の奥の部屋に行くと、役員であろう地元の人々が賑やかに談笑していた。事情を話すと、彼らはまるでわが事のように心配してくれ、喜んで引き受けてくれた。


「そうかい、そうかい。それは大変だぁね。わしらにできることならなんでも協力するからねぇ。そんでぇ。お父さんの名前は、なんていうんかぃねぇ」


 真っ赤な頬をした丸顔のおじさんが目じりの皺をさらに深くして彼女に訊いた。〈氷まつり運営委員〉と背中に書かれた紺色のジャンバーのポケットをゴソゴソ探って、端のめくれたちいさなメモ帳を出すと、胸ポケットの鉛筆を取り出して芯を舐めた。


「ええとぉ。『オオコウチ トウジロウ』っと。えらい、なんげぇ名前だねぇ」


 彼女の後ろでその名を聞いていた明良は何かが頭にひっかかった。しかしそれが何かはわからず、もやっとした気持ちを感じた。

 

「そんでぇ。おじょうさんの名前は?」


 彼女がぼそっと呟くと、おじさんはそれをメモに書きながら大声で復唱する。


「ええとぉ。『サトコ』さんねぇ。いい名前だねぇ」


 おじさんは名前にいちいち感想を述べながらメモを書き上げると、それを剥がしてアナウンス係の女性に渡した。


「昼二回と、夕方と、夜と……。四回くらい流してみようねぇ。お父さんが来たら待っててもらうけんど、あんたらもめぼしい宿さ当たってみたらどうだぃ? 遠くからのお客さんが泊まる大きい宿っつうたら、いくらもないからねぇ」


 おじさんはそう言うと、町内の旅館が記された地図を渡してくれた。

 明良は、サトコのお父さんが見つかったときに連絡してもらえるようにと、自分の名前と携帯番号をメモして渡した。


「はい。伏見(ふしみ) 明良(あきら)さんねぇ。

 サトコちゃん、えらいやさしい彼氏がいて、幸せねぇ」


 明良とサトコは、思わず顔を見合わせて噴き出した。


 




 静まり返ったギャラリーには、古いエアコンの音だけが響いていた。三方の壁面と、部屋の中央に置かれた可動式の衝立に等間隔で展示写真が掛けられている。作品にスポットライトを当てるわけでもなく、いまどき高校の学園祭のほうがよほど凝った演出をしているのではないかと思うような素朴な展示だ。

 老人はそのひとつひとつの前に立ち、遠く離れたり、近くに寄ったり、首を傾けたりしながらじっくりと眺めていく。明良は受け取った老人のコートとマフラーを入り口のハンガーに掛けると、熱心に作品に見入っている老人の後ろに立った。しかし特に解説を加えようともせず、黙って老人の背中を見つめていた。

 

「めぐり合わせでしょうね」


 七色のライトに照らし出される氷の滝の写真を見つめたまま、老人が呟いた。


「今日も雪になった……」


 そう言いながらゆっくりと振り返ると、老人は微笑んだ。


「そうですね」


 明良は頷くと、やはりその氷の滝の写真を懐かしむように見つめた。


「今日は一組の客が見に来ました。しかし騙されたと怒って帰っていきましたよ」


 明良が自嘲するように笑う。


「それが貴方の望みだったのでしょう?

〈F〉という名で、この街で作品を発表するということは……」


 老人は明良の気持ちを知り尽くしていた。その言葉に今まで不安定だった気持ちがすとんと落ち着くのが分かった。


「まったく。そのとおりです」






「観光客が泊まる宿はいくらもないだって?あのオヤジ、いい加減なことを」


 明良はプリプリしながら、氷まつりのメイン会場に向かって歩いていた。

 役場を後にして、もらった地図を頼りに宿を探した二人だったが、目抜き通りに並ぶ数軒以外はだいぶ離れた距離にあることが分かったのだ。

 何軒目かの宿で女将が教えてくれた。


「これはずいぶん前の地図だヮ。今はこの辺りにもいっぱい新しい旅館が出来てねぇ。ペンションなんかを合わせると数十件になるかねぇ。ここから車で三十分くらいかかるさね」


 そう言って地図を見ながら、町の中心からずいぶん離れた場所を指差したのだ。


「もう十分です。ありがとうございました。私は最終日まで滞在するつもりなので、あと四日あります。ゆっくり探しますから」


 明良の数歩あとを歩いていたサトコが声をかける。

 明良は急に振り返って、言った。


「こうなったら、あと四日付き合うよ。俺、中途半端なまま終わりにするのが嫌いなんだよね。あ、気にしなくていいから。ただの暇つぶし」


 明良が人差し指を振って笑って見せると、サトコはにっこりと微笑んだ。


―― 本日は~、氷まつりにお越しくださいまして~、まことにありがとうございます。

運営本部より、尋ね人のお知らせです。

 東京よりお越しのオオコウチ トウジロウさま~。オオコウチ トウジロウさま~。

 お嬢さまのサトコさまがお待ちになっております。いらっしゃいましたら、町役場内の運営本部までおいでくださいませ~ ――

 

 夜の分のアナウンスがメイン会場に響き渡った。落ち着いたトーンのアナウンス嬢の声は、澄んだ空気と、昼よりも賑わう夜の会場のざわめきの中にほとんど溶けてしまった。


「じゃあ明日の八時に、今日ぶつかった場所に集合!」


「ありがとう。よろしくお願いします」


 サトコは元気よく頭を下げると、「おやすみなさい」と手を振って、大きな雪像の向こう側に消えていった。

 サトコが去ったあと、明良はライトアップされた雪像を撮ろうとカメラを構えたが、気乗りがせずにそのまま腕を下ろした。

 そしてしばらく見るともなしに、色とりどりに照らし出された雪や氷の像の間を歩き回っていた。










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