武器人間コンテスト
「顔は残せ」
水谷柊は、装甲板を取り付けようとした助手の手を止めた。手術台には、鋼鉄の骨格に埋め込まれた男が横たわっていた。両腕は肩から湾曲刃に替えられ、胸骨を境に開く胴体には、獲物を引き込む鋸歯が幾重にも並ぶ。骨盤の下から伸びた六本の節足は、関節を動かすたび油圧装置を湿った音で鳴らした。
頭部は胸郭の内側へ押し込まれ、鋼鉄の肋骨の隙間から、顔だけが覗いていた。
「でも先生、顔だけ生身というのは……」
「そこがいい。機械の中に人間がいると分からなきゃ、何のために作ったのか伝わらんだろう」
「審査員が、そこまで見ますかね」
「見せてやるんだよ。去年は造形美で九十六点。今年は百点を取る」
柊が頬に触れると、男の唇が動いた。顎を固定する金具のせいで声は出ない。それでも形は読み取れた。手術を始めた日から、何度も見た言葉だった。
「やめてくれ」
「まだそれを言っているのか」
「ええ。手術中から、ずっと」
「結構じゃないか。意識も反射も正常だ」
柊は顎の金具を締め直した。男を買ったのは半年前。国外の人身売買業者は「健康な成人男性」と紹介してきた。骨格が丈夫で、反射神経もいい。予算は超えたが、どうしても欲しい素材だった。昨年のコンテストは準優勝。審査員の評が、いまも耳に残っている。
「造形は優れている。しかし、動きが平凡だ」
その声を真似てみるだけで腹が立った。
「今年こそ、黙らせてやる」
柊は男の胸に取り付けた円筒形の装置へ目を移した。
「呼吸弁の具合は?」
「正常です。標的を認識すれば吸気を絞り、捕獲が済めば弁が開きます」
「試してみろ」
助手が操作盤の試験スイッチを押した。胸郭の奥で、ひゅう、と空気が鳴った。男が顎を突き出し、肺に息を送り込もうと鋼鉄の肋骨を震わせた。
「苦しそうですね」
「実際、苦しいんだろう」
「先生、呼吸まで奪う必要があるんですか」
「奪わなきゃ、ただ脚の速い殺人機械だろうが」
柊は男の顔を覗き込んだ。
「人間は死にかけると頭を使う。足場を選び、障害物を避け、逃げ道を探す。機械に同じことをさせるには、どれだけの制御装置が要ると思う?」
「だから脳を残したんですね」
「それだけじゃない。こいつには、どうしても獲物を捕まえたい理由がある」
柊は円筒を指で叩いた。
「捕まえれば息ができる。逃がせば苦しみが続く。命令なんか要らん。こいつが生きたがるかぎり、獲物を追う」
「先生、試験を終了します」
「待て。もう少しだ」
「酸素濃度が下がり続けています」
「分かってるよ」
男は胸郭を震わせ、わずかな空気を貪っていた。柊は十分に反応を見届けてから、助手に弁を戻させた。長い吸気音が響く。男は続けざまに息を吸い込んだ。
「いいぞ。よく動く」
柊が節足の付け根に油を差すと、金属の関節が滑らかに曲がり、湾曲刃の先に手術灯の白い光が走った。
「お前には期待してるぞ」
男の胸の奥では、まだ荒い呼吸が続いていた。
*
会場は廃造船所の地下にあった。円形の実演場を防弾ガラス越しの観覧席が囲み、その下に技師たちの操作席が並ぶ。舞台の両脇には出品物の待機檻があった。富豪たちは酒を傾け、開演を待っていた。審査項目は造形美、独創性、威力、自律性。優勝者には賞金と、軍需企業への販売権が与えられる。
一番目の出品物は、首のない男だった。肩の間に巨大な砲身が据えられ、顔は腹部へ移されていた。肋骨は砲身の架台に縫い付けられ、引き延ばされた両腕が給弾ベルトを巻き取る。下半身は車輪付きの台座に埋め込まれていた。
「どうやって装填するのかしら?」
観覧席の女が尋ねた。出品した技師は誇らしげに、男の両腕を指した。
「給弾から発射まで、すべて人体に組み込んであります。ご覧ください」
男の胸が大きく膨らんだ。砲声が実演場を揺らした。鋼鉄の弾丸が標的の壁を貫き、衝撃が観覧席のガラスまで伝わってきた。反動で胴体が激しく反り返る。腹に移された顔が歪み、口から赤い泡がこぼれた。計測器に数字が表示されると、客席から拍手が起きた。
柊は採点盤を見上げた。威力、九十三点。自律性、三十八点。
「悪くないですね」
助手が言った。
「どこがだ。ただの車輪付き大砲じゃないか」
続いて登場したのは、全身を裁断機へ作り替えられた女だった。黒い装甲に覆われた胴体は胸から腹まで縦に割れ、内部には大小の回転刃が密集している。顎から伸びた送り歯が胸の刃につながり、腰の下から四本の細い鋼鉄の脚が伸びていた。女が前屈みになると、胸の投入口が開いた。
係員が分厚い革を差し込む。女の身体の奥で歯車が噛み合い、革が吸い込まれていった。細く裁断された革帯が背中から吐き出され、床に積もっていく。一本残らず同じ幅だった。
「美しい!」
白髪の女が声を上げた。技師は得意げに頭を下げる。
ところが実演が終わっても、女の胸は閉じなかった。内部で何かが引っかかっている。技師が何度も停止命令を送り、ようやく回転刃が止まった。
「惜しいな」
柊は呟いた。
「何がです?」
「出来はいい。だが、動くたび人間の指示を待ってる」
助手は柊の顔を見た。
「先生の作品は違う、と」
「見てれば分かる」
*
最後に柊の出品物が運び込まれた。吊り具が外されると、六本の節足がそれぞれ違う順序で床を踏んだ。肩から伸びる湾曲刃がゆっくり開閉し、鋼鉄の肋骨が呼吸に合わせて動いている。その奥から、男の顔が覗いていた。観覧席がざわめく。
先ほどの白髪の女が立ち上がった。
「まだ生きているの?」
「もちろんです」
柊は胸を張った。
「では、どうして顔を残したの?」
「誰がこの機械を動かしているのか、お見せするためです」
女は愉快そうに笑った。柊は観覧席に一礼し、マイクを握った。
「先ほどの出品物は、どれも見事でした。ただ、一つだけ惜しい」
柊は砲塔の男と裁断機の女を指差した。
「どちらも技師の命令待ちです。大砲には照準を合わせる者が要る。裁断機には獲物を差し込む者が要る」
審査員の一人が身を乗り出した。
「あなたの作品は違うと?」
「ええ。私が命令するのは、最初の一度だけです」
柊は最高傑作の胸郭を指した。
「ご覧のとおり、この男はまだ生きています。機械がどれほど進歩しても、人間に及ばないものがある」
「それは?」
「死にたくない、という一心です」
会場が静まった。
「この男は標的を認識した途端、息を奪われる。獲物を捕まえるまで、その苦しみは終わりません」
審査員は眉を上げた。
「殺したいから、追うのではない?」
「生きたいから追うんです」
柊は笑った。
「どんな命令より、よほど確実です」
観覧席に拍手が起きた。舞台中央へ、三枚の鋼鉄の衝立が運び込まれた。衝立によって通路が分かれ、左右には広い迂回路、中央には狭い直進路ができる。その先には開いた通用口があり、床に白線が引かれていた。そこへ試験用の改造体が連れてこられた。
昨年のコンテストで落選した武器人間だった。両腕には短い刃が取り付けられているが、脚は生身のままだ。男は落ち着きなく周囲を見回していた。
「実演は簡単です」
柊は観覧席へ告げた。
「この男が白線を越えれば、私の負け。捕獲できれば成功です。どの道を選ぶかは本人に任せます」
男が通用口を見た。
「あそこまで行けば、本当に終わるんだな?」
「ああ。越えれば実演は終わりだ」
「だったら少し先に行かせてくれ。頼む、ほんの少しでいい」
「それじゃ試験にならん」
男は衝立を見比べた。柊は操作盤へ手を置いた。
「ご覧いただきたいのは速さではありません。獲物が進路を変えたとき、こいつがどう動くかです」
開始スイッチを押す。最高傑作の胸郭が開き、鋸歯が回転を始めた。肋骨の奥で男の顔が歪み、空気を求める喉から湿った音が漏れた。試験体が後ずさる。
「さあ、走れ!」
柊が叫んだ。試験体は右の通路へ飛び込んだ。最高傑作は動かなかった。男が衝立の陰へ消えたところで、六本の節足が床を蹴った。
しかし、背中は追わない。中央の通路を突き抜け、反対側の出口へ向かう。試験体が衝立を回り込んだ。その目の前に最高傑作が現れた。
「うわっ!」
男は急停止し、反対側へ逃げた。六本の脚が鋭く床を踏み替える。最高傑作は胴体の向きさえ変えず、男の進路へ回り込んだ。試験体は中央の狭い通路へ逃げ込んだ。あと数歩で白線だった。
「さあ、どうする!」
柊が叫んだ。観覧席から笑い声が上がった。
次の瞬間、最高傑作が衝立の横をすり抜け、男の行く手を塞いだ。男が背を向ける。
だが、すでに二枚の湾曲刃が伸びていた。
「やめろ! 離してくれ!」
男は腕の刃を振り回した。最高傑作はその一撃を鋼鉄の胸で受け止め、両脇から男の胴体を挟んだ。肋骨が開く。回転する鋸歯が、泣き叫ぶ男を胸の奥へ引き込んでいく。
悲鳴が途切れた。
鋼鉄の肋骨が閉じると、短く大きな吸気音が響いた。最高傑作の胸郭が持ち上がる。中の男が、肺いっぱいに空気を吸い込んでいた。
柊は思わず笑った。
「ご覧になりましたか! 開始してから、私は一度も指示していません!」
拍手が湧き起こった。捕獲時間は予想より短く、進路変更への反応も完璧だった。柊は何度も頭を下げた。採点盤に数字が並んだ。威力、九十八点。
独創性、九十九点。
しかし、自律性は八十二点だった。
「八十二?」
柊は顔をしかめた。中央の審査員がマイクを取った。
「素晴らしい。ただ、後ろの制限索が気になりますね」
最高傑作の背後には太い索がつながっていた。一定の範囲を越えると駆動が停止する安全装置だ。
「あれがなければ、もっと自由に動けるのでは?」
柊の隣で助手が首を振った。
「先生、これで十分です。優勝できますよ」
「八十二点だぞ」
「外すなら、まず追跡機構を止めてください」
「止めたら、何を見せるんだ?」
「試験体はもういません。次は誰を標的にするか分かりません」
柊は最高傑作を見た。男はまだ息を整えていた。胸郭の内側で顔が上下している。昨年の審査員の言葉が頭をよぎった。
「動きが平凡だ」
今年は違う。こんなものじゃない。まだ誰も、こいつの本当の動きを見ていない。
「先生、聞いてますか?」
「分かってる」
柊は解除スイッチの安全カバーを開いた。
「見せてやる。こいつは、こんなものじゃない!」
スイッチを押した。舞台の床で留め具が外れ、制限索が落ちた。最高傑作は胴体を高く持ち上げる。六本の節足が大きく開き、金属の先端が次々に床を鳴らした。
柊は、その姿に見惚れた。
*
最初に殺されたのは、試験体の遺体を片づけに入った係員だった。舞台へ踏み込んだ途端、最高傑作が顔を向けた。胸の奥で呼吸弁が閉じる。係員は動きを止めた。
「おい、もう終わったんじゃないのか?」
最高傑作が一歩近づく。
「先生!」
助手が操作盤を指差した。係員が逃げ出す。六本の節足が一斉に床を蹴った。通用口の前で追いつき、湾曲刃が男の身体を挟み込む。
「止めてくれ! 頼む!」
係員が叫んだ。柊も停止ボタンへ手を伸ばした。
だが、刃の動きを見て指が止まった。速い。制限索を外したことで踏み込みが深くなり、獲物を抱え込む動作にも無駄がない。係員は胸の鋸歯に引き込まれた。
悲鳴が途切れる。最高傑作が大きく息を吸った。
「先生、停止を!」
助手が叫んだ。
「待て」
「何をですか! 人が死んだんですよ!」
「今の動き、記録を取らせろ!」
柊は表示を切り替えた。捕獲速度が上がっている。実演中にはなかった脚の運びまで記録されている。学習している。あの男は、獲物を追いながら学習している。
「すごいぞ……」
「先生!」
助手が停止ボタンを押そうとした。柊はその手首をつかんだ。
「まだだ!」
「もう制御できません! 次に誰が襲われると思ってるんですか!」
「だから今、見ておくんだろうが!」
観覧席では白髪の女が立ち上がり、拍手を始めていた。ほかの客も続く。柊は笑顔で頭を下げた。その間に、最高傑作は通用口から係員用の通路へ飛び出していた。
逃げる警備員を認識し、胸の呼吸弁が再び閉じる。六本の脚が加速した。
「先生、今度こそ止めます!」
助手が手首を振りほどく。柊は顔を向けた。
「待てと言ってるだろう!」
そのとき、鋭い金属音が響いた。最高傑作は警備員の進路へ回り込み、壁際へ追い詰めていた。湾曲刃が伸びる。警備員は非常操作盤へ手を伸ばしたが、その手が届く前に、鋼鉄の刃が壁面の箱へ食い込んだ。
「あ――」
火花が散る。柊の手元の画面が消えた。会場の照明が一瞬暗くなる。非常停止の回線が断たれたのだ。
助手が何度も操作盤を叩いた。
「駄目だ、応答しない……」
「予備系統は?」
「同じ制御箱を通ってます!」
「別の回線は! 何とかしろ!」
「できるなら、とっくにやってます!」
助手の怒鳴り声で、ようやく柊の背に冷たいものが走った。最高傑作は警備員を追い、舞台脇の待機檻へ突っ込んでいった。湾曲刃が鉄格子を引っかけ、錠前ごともぎ取る。中にいた裁断機の女が床へ転がり出た。
倒れた衝撃で回転刃が動き始める。女は四本の脚で立ち上がろうとしたが、開いた胸の刃が格子に引っかかり、鉄を削り始めた。
「そいつも止めろ!」
柊が叫んだ。女の技師は操作盤にしがみついていた。
「反応しない! どこかで線が切れてる!」
格子が砕け、女は四本の脚で通路へ這い出した。逃げ惑う係員が進路を塞ぐ。刃が唸った。別の檻では、砲塔の男が拘束具を振りほどこうと暴れている。最高傑作がぶつかった衝撃で固定台が傾き、砲口が通路へ向いていた。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。砲声が響く。壁の一部が吹き飛び、破片が観覧席のガラスに叩きつけられた。客たちが悲鳴を上げる。
警報。防火扉が閉まり始める。柊は舞台の向こうを見た。最高傑作がこちらを向いていた。
鋼鉄の肋骨の奥から、男の顔が覗いている。目が合った。胸郭の奥で、息を吸おうとする音がした。
「……おい」
柊は後ずさった。
「こっちへ来るな」
最高傑作が一歩、こちらへ踏み出す。
「先生、逃げて!」
助手に腕を引かれ、柊は走り出した。
*
廊下は逃げ惑う客で埋まっていた。高価なドレスを引きずって走る女。防火扉を拳で叩く男。倒れた者を踏み越えて出口へ殺到する人々。
「裏口は!」
柊は助手の肩をつかんだ。
「非常階段から搬出口へ出られます!」
「案内しろ!」
二人は人混みを押し分け、非常階段へ飛び込んだ。
しかし、下の踊り場には砲塔の男がいた。鋼鉄の台座を揺すり、狭い階段で方向を変えようとしている。腹部の顔が柊たちを見上げた。砲身が持ち上がる。
「戻れ!」
柊は助手を突き飛ばした。砲声が轟いた。踊り場の壁が砕け、爆風で柊の身体が手すりに叩きつけられる。助手は階段を転がり落ちた。
「おい!」
柊は耳鳴りに耐えながら下を覗いた。助手が踊り場に倒れている。片脚が手すりの下敷きになっていた。
「先生! 助けてください!」
「立てないのか!」
「脚が、挟まって……!」
柊は一段下りた。
「手を伸ばせ!」
助手が腕を上げる。柊は身を屈めた。
そのとき、背後の扉が激しく震えた。がん、と金属がぶつかる。続いて六本の脚音が響いた。
最高傑作が追ってきた。
「先生、早く!」
助手の指先まで、あとわずか。背後の扉がまた鳴った。柊は手を引っ込めた。
「……すまん」
「え?」
助手が顔を上げる。柊は階段を駆け上がった。
「先生! 待ってください!」
何かが扉を引き裂く音がした。助手の声がさらに大きくなる。
「先生! 先生!」
柊は振り返らずに走った。階下で鋼鉄が砕ける音がした。助手の声は、それきり聞こえなくなった。
*
地上の搬出口へ向かうには、整備倉庫を通らなければならない。柊は工具棚の陰に身を潜めた。肺が焼けるように痛む。呼吸を整えようとしても、喉の奥でひゅうひゅうと音が鳴った。
「くそっ……」
制限索さえ外さなければ。あのとき助手の手をつかまなければ。操作盤が残っていれば、いまごろ停止させられたはずだ。
「俺は……何をやってるんだ」
倉庫の入口で金属が擦れた。柊は口を閉じた。最高傑作が入ってくる。六本の節足が床を踏むたび、棚に並んだ工具が微かに震えた。鋼鉄の胴体が通路を埋め、肋骨の奥から苦しげな呼吸音が漏れている。
柊は棚に背を預け、震える膝を両手で押さえた。落ち着け。こいつは床の振動から獲物の動きを読む。足音を立てなければ、見つかりにくい。柊は靴底をわずかに浮かせ、棚に体重を預けた。
最高傑作が近づいてくる。
「……そうだ。通り過ぎろ」
声を殺して呟いた。鋼鉄の脚がすぐ目の前を通り過ぎる。胸郭の奥には、あの男の顔があった。唇を開き、吸えない空気を求めている。
柊は目を伏せた。
「頼む……行ってくれ」
脚音が遠ざかった。棚の向こうへ巨大な胴体が消える。柊はようやく肩の力を抜いた。
そのとき、反対側から甲高い摩擦音が響いた。裁断機の女だった。割れた装甲を引きずりながら、四本の脚で工具棚の間を進んでくる。胸の回転刃がむき出しになり、棚に触れるたび金属片が飛んだ。
「嘘だろ……」
柊は後ずさった。女がこちらを向く。顔の下では、送り歯が絶えず噛み合っていた。
「来るな」
女は止まらない。
「こっちへ来るな!」
逃げようとして肩が工具箱に当たった。箱が傾き、中の金属部品が一斉に床へ落ちる。柊は凍りついた。倉庫の奥で、最高傑作の脚音が止まった。
「……違う」
柊は棚の陰から覗いた。六本の脚が向きを変えている。
「俺じゃない! あの女が……!」
言い終える前に節足が床を蹴った。柊は出口へ走った。背後で棚が倒れ、積み上げた金属部品が崩れ落ちる。最高傑作は湾曲刃を振るい、障害物を切り開きながら距離を詰めてきた。
柊は倉庫を飛び出した。搬出口へ続く通路には、大きな貨物棚が並んでいる。棚の左右に通路があり、その先で合流していた。突き当たりの扉が開いている。夜風が吹き込み、潮の臭いがした。
月明かりの下には、港のクレーンまで見える。
「外だ……!」
柊は右側の通路へ飛び込んだ。あと少し。あそこまで走れば、外へ出られる。背後の脚音が急に遠ざかった。柊は振り返った。
追跡を諦めたわけではなかった。最高傑作は貨物棚の反対側を走っていた。六本の脚が壁を蹴り、最短の経路で出口へ向かっている。柊はその動きが何を意味するのか、すぐに理解した。
「よせ! そこを通るな!」
最高傑作が貨物棚の端を抜けた。鋼鉄の巨体が柊の進路を横切り、搬出口を塞ぐ。柊は急停止した。背後には、倉庫から出てきた裁断機の女。
前方には、自分が半年を費やして作り上げた兵器。実演場の光景が蘇る。試験体は何度も方向を変えた。最高傑作はそのたびに先回りし、最後には壁際へ追い詰めた。さっきは、その動きを笑って眺めていた。いまは逃げ道を探すばかりで、脚が震えていた。
*
最高傑作がゆっくりと近づいてきた。胸の鋸歯が回転し、湾曲刃が左右に開いている。搬出口はまだ開いていた。
柊はその隙間を見た。月明かりの下に港のクレーンが並んでいた。たった数歩先だ。
「待て」
柊は両手を上げた。最高傑作の脚が止まった。胸郭の奥から男の顔が覗いている。
「俺だぞ。分かるだろう」
男の目が動いた。
「お前を作ったのは俺だ。半年も面倒を見てやった。なあ?」
男は唇を動かした。喉の奥で、空気が擦れる音がする。柊は一歩、近づいた。
「そうだ。俺の声を覚えてるんだな」
男の顔を見つめる。手術台に乗せられた日も、同じ目をしていた。ここに来て初めて、柊は男の名前を知らないことに気づいた。購入記録にあったのは製造番号だけだ。助手が名前を尋ねたとき、「要らん」と答えたのは自分だった。
「名前……」
柊は唾を飲み込んだ。
「お前……名前は?」
男は口を開いた。顎の金具が小さく鳴る。
「そうだ。言ってみろ。今度は聞くから」
男は何度も口を動かした。声は出ない。胸郭の奥で喉が鳴っている。標的を捕獲するまで、呼吸弁は開かない。柊が誰よりよく知っている仕組みだった。男は柊を見つめていた。
「……分かった」
柊は頷いた。
「もういい。俺が止めてやる」
男の顔へ、そっと手を伸ばした。
「ラボへ戻ろう。呼吸弁も外す。な、それでいいだろう?」
男の目が動く。柊は声を落とした。
「こんなことになるとは……俺だって、思わなかったんだ」
口にして初めて、言い訳だと分かった。男が受けた手術も、呼吸弁も、すべて自分が決めたことだった。
「なあ。聞こえてるんだろう?」
最高傑作は動かない。柊は恐る恐る、もう一歩近づいた。
「頼む。俺だけは、見逃してくれ……」
男の目が見開かれた。六本の節足が床を蹴る。柊は反射的に横へ跳んだ。湾曲刃はすでにその方向へ伸びていた。脇腹を挟まれ、身体が床から持ち上がった。
「やめろ!」
最高傑作の胸郭が開いた。鋸歯が回転を始める。柊は両手で金属の縁を押し返した。指が滑り、刃の先端で皮膚が裂ける。
「待ってくれ! 頼む!」
男の顔がすぐ近くにあった。唇が震えている。
「俺が悪かった! 認める! だから……!」
湾曲刃が締まる。柊は叫んだ。
「止まれ! 止まれって言ってるだろ!」
命令は届かなかった。操作盤は死んでいる。何より、獲物を途中で放しても男の呼吸弁は開かない。最後まで追い詰め、捕らえきる。動きが平凡だと二度と言わせないために、柊自身が組み込んだ仕組みだった。柊が身体をよじると、六本の節足が床を踏み替え、刃を支える角度を変えた。
力を込めるほど締めつけが強くなる。
「嫌だ……」
胸の鋸歯が近づいてくる。
「こんなところで、死んでたまるか……!」
男の目から涙が流れた。柊は必死に両手を突っ張った。
「死にたくない!」
鋼鉄の肋骨が閉じ始める。
男の唇が同じ言葉を形作っていた。声は出ない。柊は身体をよじった。右へ逃れれば六本の脚が右を塞ぎ、左へ動けば刃が左から締まる。機械は一度も判断を誤らなかった。
湾曲刃が閉じ、柊の悲鳴が途切れた。胸郭の奥で、長い吸気音が響いた。男は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。六本の節足から力が抜ける。涙で濡れた頬を動かし、男はもう一度、深く息を吸おうとした。
そのとき、開いた搬出口の向こうを、逃げ遅れた係員が走った。男の目が、そちらへ動いた。胸の奥で、呼吸弁が閉じた。




