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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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武器人間コンテスト

作者: 大窟凱人
掲載日:2026/11/06

「顔は残せ」


 水谷柊は、装甲板を取り付けようとした助手の手を止めた。手術台には、鋼鉄の骨格に埋め込まれた男が横たわっていた。両腕は肩から湾曲刃に替えられ、胸骨を境に開く胴体には、獲物を引き込む鋸歯が幾重にも並ぶ。骨盤の下から伸びた六本の節足は、関節を動かすたび油圧装置を湿った音で鳴らした。

 頭部は胸郭の内側へ押し込まれ、鋼鉄の肋骨の隙間から、顔だけが覗いていた。


「でも先生、顔だけ生身というのは……」


「そこがいい。機械の中に人間がいると分からなきゃ、何のために作ったのか伝わらんだろう」


「審査員が、そこまで見ますかね」


「見せてやるんだよ。去年は造形美で九十六点。今年は百点を取る」


 柊が頬に触れると、男の唇が動いた。顎を固定する金具のせいで声は出ない。それでも形は読み取れた。手術を始めた日から、何度も見た言葉だった。


「やめてくれ」


「まだそれを言っているのか」


「ええ。手術中から、ずっと」


「結構じゃないか。意識も反射も正常だ」


 柊は顎の金具を締め直した。男を買ったのは半年前。国外の人身売買業者は「健康な成人男性」と紹介してきた。骨格が丈夫で、反射神経もいい。予算は超えたが、どうしても欲しい素材だった。昨年のコンテストは準優勝。審査員の評が、いまも耳に残っている。


「造形は優れている。しかし、動きが平凡だ」


 その声を真似てみるだけで腹が立った。


「今年こそ、黙らせてやる」


 柊は男の胸に取り付けた円筒形の装置へ目を移した。


「呼吸弁の具合は?」


「正常です。標的を認識すれば吸気を絞り、捕獲が済めば弁が開きます」


「試してみろ」


 助手が操作盤の試験スイッチを押した。胸郭の奥で、ひゅう、と空気が鳴った。男が顎を突き出し、肺に息を送り込もうと鋼鉄の肋骨を震わせた。


「苦しそうですね」


「実際、苦しいんだろう」


「先生、呼吸まで奪う必要があるんですか」


「奪わなきゃ、ただ脚の速い殺人機械だろうが」


 柊は男の顔を覗き込んだ。


「人間は死にかけると頭を使う。足場を選び、障害物を避け、逃げ道を探す。機械に同じことをさせるには、どれだけの制御装置が要ると思う?」


「だから脳を残したんですね」


「それだけじゃない。こいつには、どうしても獲物を捕まえたい理由がある」


 柊は円筒を指で叩いた。


「捕まえれば息ができる。逃がせば苦しみが続く。命令なんか要らん。こいつが生きたがるかぎり、獲物を追う」


「先生、試験を終了します」


「待て。もう少しだ」


「酸素濃度が下がり続けています」


「分かってるよ」


 男は胸郭を震わせ、わずかな空気を貪っていた。柊は十分に反応を見届けてから、助手に弁を戻させた。長い吸気音が響く。男は続けざまに息を吸い込んだ。


「いいぞ。よく動く」


 柊が節足の付け根に油を差すと、金属の関節が滑らかに曲がり、湾曲刃の先に手術灯の白い光が走った。


「お前には期待してるぞ」


 男の胸の奥では、まだ荒い呼吸が続いていた。


     *


 会場は廃造船所の地下にあった。円形の実演場を防弾ガラス越しの観覧席が囲み、その下に技師たちの操作席が並ぶ。舞台の両脇には出品物の待機檻があった。富豪たちは酒を傾け、開演を待っていた。審査項目は造形美、独創性、威力、自律性。優勝者には賞金と、軍需企業への販売権が与えられる。

 一番目の出品物は、首のない男だった。肩の間に巨大な砲身が据えられ、顔は腹部へ移されていた。肋骨は砲身の架台に縫い付けられ、引き延ばされた両腕が給弾ベルトを巻き取る。下半身は車輪付きの台座に埋め込まれていた。


「どうやって装填するのかしら?」


 観覧席の女が尋ねた。出品した技師は誇らしげに、男の両腕を指した。


「給弾から発射まで、すべて人体に組み込んであります。ご覧ください」


 男の胸が大きく膨らんだ。砲声が実演場を揺らした。鋼鉄の弾丸が標的の壁を貫き、衝撃が観覧席のガラスまで伝わってきた。反動で胴体が激しく反り返る。腹に移された顔が歪み、口から赤い泡がこぼれた。計測器に数字が表示されると、客席から拍手が起きた。

 柊は採点盤を見上げた。威力、九十三点。自律性、三十八点。


「悪くないですね」


 助手が言った。


「どこがだ。ただの車輪付き大砲じゃないか」


 続いて登場したのは、全身を裁断機へ作り替えられた女だった。黒い装甲に覆われた胴体は胸から腹まで縦に割れ、内部には大小の回転刃が密集している。顎から伸びた送り歯が胸の刃につながり、腰の下から四本の細い鋼鉄の脚が伸びていた。女が前屈みになると、胸の投入口が開いた。

 係員が分厚い革を差し込む。女の身体の奥で歯車が噛み合い、革が吸い込まれていった。細く裁断された革帯が背中から吐き出され、床に積もっていく。一本残らず同じ幅だった。


「美しい!」


 白髪の女が声を上げた。技師は得意げに頭を下げる。

 ところが実演が終わっても、女の胸は閉じなかった。内部で何かが引っかかっている。技師が何度も停止命令を送り、ようやく回転刃が止まった。


「惜しいな」


 柊は呟いた。


「何がです?」


「出来はいい。だが、動くたび人間の指示を待ってる」


 助手は柊の顔を見た。


「先生の作品は違う、と」


「見てれば分かる」


     *


 最後に柊の出品物が運び込まれた。吊り具が外されると、六本の節足がそれぞれ違う順序で床を踏んだ。肩から伸びる湾曲刃がゆっくり開閉し、鋼鉄の肋骨が呼吸に合わせて動いている。その奥から、男の顔が覗いていた。観覧席がざわめく。

 先ほどの白髪の女が立ち上がった。


「まだ生きているの?」


「もちろんです」


 柊は胸を張った。


「では、どうして顔を残したの?」


「誰がこの機械を動かしているのか、お見せするためです」


 女は愉快そうに笑った。柊は観覧席に一礼し、マイクを握った。


「先ほどの出品物は、どれも見事でした。ただ、一つだけ惜しい」


 柊は砲塔の男と裁断機の女を指差した。


「どちらも技師の命令待ちです。大砲には照準を合わせる者が要る。裁断機には獲物を差し込む者が要る」


 審査員の一人が身を乗り出した。


「あなたの作品は違うと?」


「ええ。私が命令するのは、最初の一度だけです」


 柊は最高傑作の胸郭を指した。


「ご覧のとおり、この男はまだ生きています。機械がどれほど進歩しても、人間に及ばないものがある」


「それは?」


「死にたくない、という一心です」


 会場が静まった。


「この男は標的を認識した途端、息を奪われる。獲物を捕まえるまで、その苦しみは終わりません」


 審査員は眉を上げた。


「殺したいから、追うのではない?」


「生きたいから追うんです」


 柊は笑った。


「どんな命令より、よほど確実です」


 観覧席に拍手が起きた。舞台中央へ、三枚の鋼鉄の衝立が運び込まれた。衝立によって通路が分かれ、左右には広い迂回路、中央には狭い直進路ができる。その先には開いた通用口があり、床に白線が引かれていた。そこへ試験用の改造体が連れてこられた。

 昨年のコンテストで落選した武器人間だった。両腕には短い刃が取り付けられているが、脚は生身のままだ。男は落ち着きなく周囲を見回していた。


「実演は簡単です」


 柊は観覧席へ告げた。


「この男が白線を越えれば、私の負け。捕獲できれば成功です。どの道を選ぶかは本人に任せます」


 男が通用口を見た。


「あそこまで行けば、本当に終わるんだな?」


「ああ。越えれば実演は終わりだ」


「だったら少し先に行かせてくれ。頼む、ほんの少しでいい」


「それじゃ試験にならん」


 男は衝立を見比べた。柊は操作盤へ手を置いた。


「ご覧いただきたいのは速さではありません。獲物が進路を変えたとき、こいつがどう動くかです」


 開始スイッチを押す。最高傑作の胸郭が開き、鋸歯が回転を始めた。肋骨の奥で男の顔が歪み、空気を求める喉から湿った音が漏れた。試験体が後ずさる。


「さあ、走れ!」


 柊が叫んだ。試験体は右の通路へ飛び込んだ。最高傑作は動かなかった。男が衝立の陰へ消えたところで、六本の節足が床を蹴った。

 しかし、背中は追わない。中央の通路を突き抜け、反対側の出口へ向かう。試験体が衝立を回り込んだ。その目の前に最高傑作が現れた。


「うわっ!」


 男は急停止し、反対側へ逃げた。六本の脚が鋭く床を踏み替える。最高傑作は胴体の向きさえ変えず、男の進路へ回り込んだ。試験体は中央の狭い通路へ逃げ込んだ。あと数歩で白線だった。


「さあ、どうする!」


 柊が叫んだ。観覧席から笑い声が上がった。

 次の瞬間、最高傑作が衝立の横をすり抜け、男の行く手を塞いだ。男が背を向ける。

 だが、すでに二枚の湾曲刃が伸びていた。


「やめろ! 離してくれ!」


 男は腕の刃を振り回した。最高傑作はその一撃を鋼鉄の胸で受け止め、両脇から男の胴体を挟んだ。肋骨が開く。回転する鋸歯が、泣き叫ぶ男を胸の奥へ引き込んでいく。

 悲鳴が途切れた。

 鋼鉄の肋骨が閉じると、短く大きな吸気音が響いた。最高傑作の胸郭が持ち上がる。中の男が、肺いっぱいに空気を吸い込んでいた。

 柊は思わず笑った。


「ご覧になりましたか! 開始してから、私は一度も指示していません!」


 拍手が湧き起こった。捕獲時間は予想より短く、進路変更への反応も完璧だった。柊は何度も頭を下げた。採点盤に数字が並んだ。威力、九十八点。

 独創性、九十九点。

 しかし、自律性は八十二点だった。


「八十二?」


 柊は顔をしかめた。中央の審査員がマイクを取った。


「素晴らしい。ただ、後ろの制限索が気になりますね」


 最高傑作の背後には太い索がつながっていた。一定の範囲を越えると駆動が停止する安全装置だ。


「あれがなければ、もっと自由に動けるのでは?」


 柊の隣で助手が首を振った。


「先生、これで十分です。優勝できますよ」


「八十二点だぞ」


「外すなら、まず追跡機構を止めてください」


「止めたら、何を見せるんだ?」


「試験体はもういません。次は誰を標的にするか分かりません」


 柊は最高傑作を見た。男はまだ息を整えていた。胸郭の内側で顔が上下している。昨年の審査員の言葉が頭をよぎった。


「動きが平凡だ」


 今年は違う。こんなものじゃない。まだ誰も、こいつの本当の動きを見ていない。


「先生、聞いてますか?」


「分かってる」


 柊は解除スイッチの安全カバーを開いた。


「見せてやる。こいつは、こんなものじゃない!」


 スイッチを押した。舞台の床で留め具が外れ、制限索が落ちた。最高傑作は胴体を高く持ち上げる。六本の節足が大きく開き、金属の先端が次々に床を鳴らした。

 柊は、その姿に見惚れた。


     *


 最初に殺されたのは、試験体の遺体を片づけに入った係員だった。舞台へ踏み込んだ途端、最高傑作が顔を向けた。胸の奥で呼吸弁が閉じる。係員は動きを止めた。


「おい、もう終わったんじゃないのか?」


 最高傑作が一歩近づく。


「先生!」


 助手が操作盤を指差した。係員が逃げ出す。六本の節足が一斉に床を蹴った。通用口の前で追いつき、湾曲刃が男の身体を挟み込む。


「止めてくれ! 頼む!」


 係員が叫んだ。柊も停止ボタンへ手を伸ばした。

 だが、刃の動きを見て指が止まった。速い。制限索を外したことで踏み込みが深くなり、獲物を抱え込む動作にも無駄がない。係員は胸の鋸歯に引き込まれた。

 悲鳴が途切れる。最高傑作が大きく息を吸った。


「先生、停止を!」


 助手が叫んだ。


「待て」


「何をですか! 人が死んだんですよ!」


「今の動き、記録を取らせろ!」


 柊は表示を切り替えた。捕獲速度が上がっている。実演中にはなかった脚の運びまで記録されている。学習している。あの男は、獲物を追いながら学習している。


「すごいぞ……」


「先生!」


 助手が停止ボタンを押そうとした。柊はその手首をつかんだ。


「まだだ!」


「もう制御できません! 次に誰が襲われると思ってるんですか!」


「だから今、見ておくんだろうが!」


 観覧席では白髪の女が立ち上がり、拍手を始めていた。ほかの客も続く。柊は笑顔で頭を下げた。その間に、最高傑作は通用口から係員用の通路へ飛び出していた。

 逃げる警備員を認識し、胸の呼吸弁が再び閉じる。六本の脚が加速した。


「先生、今度こそ止めます!」


 助手が手首を振りほどく。柊は顔を向けた。


「待てと言ってるだろう!」


 そのとき、鋭い金属音が響いた。最高傑作は警備員の進路へ回り込み、壁際へ追い詰めていた。湾曲刃が伸びる。警備員は非常操作盤へ手を伸ばしたが、その手が届く前に、鋼鉄の刃が壁面の箱へ食い込んだ。


「あ――」


 火花が散る。柊の手元の画面が消えた。会場の照明が一瞬暗くなる。非常停止の回線が断たれたのだ。

 助手が何度も操作盤を叩いた。


「駄目だ、応答しない……」


「予備系統は?」


「同じ制御箱を通ってます!」


「別の回線は! 何とかしろ!」


「できるなら、とっくにやってます!」


 助手の怒鳴り声で、ようやく柊の背に冷たいものが走った。最高傑作は警備員を追い、舞台脇の待機檻へ突っ込んでいった。湾曲刃が鉄格子を引っかけ、錠前ごともぎ取る。中にいた裁断機の女が床へ転がり出た。

 倒れた衝撃で回転刃が動き始める。女は四本の脚で立ち上がろうとしたが、開いた胸の刃が格子に引っかかり、鉄を削り始めた。


「そいつも止めろ!」


 柊が叫んだ。女の技師は操作盤にしがみついていた。


「反応しない! どこかで線が切れてる!」


 格子が砕け、女は四本の脚で通路へ這い出した。逃げ惑う係員が進路を塞ぐ。刃が唸った。別の檻では、砲塔の男が拘束具を振りほどこうと暴れている。最高傑作がぶつかった衝撃で固定台が傾き、砲口が通路へ向いていた。


「伏せろ!」


 誰かが叫んだ。砲声が響く。壁の一部が吹き飛び、破片が観覧席のガラスに叩きつけられた。客たちが悲鳴を上げる。

 警報。防火扉が閉まり始める。柊は舞台の向こうを見た。最高傑作がこちらを向いていた。

 鋼鉄の肋骨の奥から、男の顔が覗いている。目が合った。胸郭の奥で、息を吸おうとする音がした。


「……おい」


 柊は後ずさった。


「こっちへ来るな」


 最高傑作が一歩、こちらへ踏み出す。


「先生、逃げて!」


 助手に腕を引かれ、柊は走り出した。


     *


 廊下は逃げ惑う客で埋まっていた。高価なドレスを引きずって走る女。防火扉を拳で叩く男。倒れた者を踏み越えて出口へ殺到する人々。


「裏口は!」


 柊は助手の肩をつかんだ。


「非常階段から搬出口へ出られます!」


「案内しろ!」


 二人は人混みを押し分け、非常階段へ飛び込んだ。

 しかし、下の踊り場には砲塔の男がいた。鋼鉄の台座を揺すり、狭い階段で方向を変えようとしている。腹部の顔が柊たちを見上げた。砲身が持ち上がる。


「戻れ!」


 柊は助手を突き飛ばした。砲声が轟いた。踊り場の壁が砕け、爆風で柊の身体が手すりに叩きつけられる。助手は階段を転がり落ちた。


「おい!」


 柊は耳鳴りに耐えながら下を覗いた。助手が踊り場に倒れている。片脚が手すりの下敷きになっていた。


「先生! 助けてください!」


「立てないのか!」


「脚が、挟まって……!」


 柊は一段下りた。


「手を伸ばせ!」


 助手が腕を上げる。柊は身を屈めた。

 そのとき、背後の扉が激しく震えた。がん、と金属がぶつかる。続いて六本の脚音が響いた。

 最高傑作が追ってきた。


「先生、早く!」


 助手の指先まで、あとわずか。背後の扉がまた鳴った。柊は手を引っ込めた。


「……すまん」


「え?」


 助手が顔を上げる。柊は階段を駆け上がった。


「先生! 待ってください!」


 何かが扉を引き裂く音がした。助手の声がさらに大きくなる。


「先生! 先生!」


 柊は振り返らずに走った。階下で鋼鉄が砕ける音がした。助手の声は、それきり聞こえなくなった。


     *


 地上の搬出口へ向かうには、整備倉庫を通らなければならない。柊は工具棚の陰に身を潜めた。肺が焼けるように痛む。呼吸を整えようとしても、喉の奥でひゅうひゅうと音が鳴った。


「くそっ……」


 制限索さえ外さなければ。あのとき助手の手をつかまなければ。操作盤が残っていれば、いまごろ停止させられたはずだ。


「俺は……何をやってるんだ」


 倉庫の入口で金属が擦れた。柊は口を閉じた。最高傑作が入ってくる。六本の節足が床を踏むたび、棚に並んだ工具が微かに震えた。鋼鉄の胴体が通路を埋め、肋骨の奥から苦しげな呼吸音が漏れている。

 柊は棚に背を預け、震える膝を両手で押さえた。落ち着け。こいつは床の振動から獲物の動きを読む。足音を立てなければ、見つかりにくい。柊は靴底をわずかに浮かせ、棚に体重を預けた。

 最高傑作が近づいてくる。


「……そうだ。通り過ぎろ」


 声を殺して呟いた。鋼鉄の脚がすぐ目の前を通り過ぎる。胸郭の奥には、あの男の顔があった。唇を開き、吸えない空気を求めている。

 柊は目を伏せた。


「頼む……行ってくれ」


 脚音が遠ざかった。棚の向こうへ巨大な胴体が消える。柊はようやく肩の力を抜いた。

 そのとき、反対側から甲高い摩擦音が響いた。裁断機の女だった。割れた装甲を引きずりながら、四本の脚で工具棚の間を進んでくる。胸の回転刃がむき出しになり、棚に触れるたび金属片が飛んだ。


「嘘だろ……」


 柊は後ずさった。女がこちらを向く。顔の下では、送り歯が絶えず噛み合っていた。


「来るな」


 女は止まらない。


「こっちへ来るな!」


 逃げようとして肩が工具箱に当たった。箱が傾き、中の金属部品が一斉に床へ落ちる。柊は凍りついた。倉庫の奥で、最高傑作の脚音が止まった。


「……違う」


 柊は棚の陰から覗いた。六本の脚が向きを変えている。


「俺じゃない! あの女が……!」


 言い終える前に節足が床を蹴った。柊は出口へ走った。背後で棚が倒れ、積み上げた金属部品が崩れ落ちる。最高傑作は湾曲刃を振るい、障害物を切り開きながら距離を詰めてきた。

 柊は倉庫を飛び出した。搬出口へ続く通路には、大きな貨物棚が並んでいる。棚の左右に通路があり、その先で合流していた。突き当たりの扉が開いている。夜風が吹き込み、潮の臭いがした。

 月明かりの下には、港のクレーンまで見える。


「外だ……!」


 柊は右側の通路へ飛び込んだ。あと少し。あそこまで走れば、外へ出られる。背後の脚音が急に遠ざかった。柊は振り返った。

 追跡を諦めたわけではなかった。最高傑作は貨物棚の反対側を走っていた。六本の脚が壁を蹴り、最短の経路で出口へ向かっている。柊はその動きが何を意味するのか、すぐに理解した。


「よせ! そこを通るな!」


 最高傑作が貨物棚の端を抜けた。鋼鉄の巨体が柊の進路を横切り、搬出口を塞ぐ。柊は急停止した。背後には、倉庫から出てきた裁断機の女。

 前方には、自分が半年を費やして作り上げた兵器。実演場の光景が蘇る。試験体は何度も方向を変えた。最高傑作はそのたびに先回りし、最後には壁際へ追い詰めた。さっきは、その動きを笑って眺めていた。いまは逃げ道を探すばかりで、脚が震えていた。


     *


 最高傑作がゆっくりと近づいてきた。胸の鋸歯が回転し、湾曲刃が左右に開いている。搬出口はまだ開いていた。

 柊はその隙間を見た。月明かりの下に港のクレーンが並んでいた。たった数歩先だ。


「待て」


 柊は両手を上げた。最高傑作の脚が止まった。胸郭の奥から男の顔が覗いている。


「俺だぞ。分かるだろう」


 男の目が動いた。


「お前を作ったのは俺だ。半年も面倒を見てやった。なあ?」


 男は唇を動かした。喉の奥で、空気が擦れる音がする。柊は一歩、近づいた。


「そうだ。俺の声を覚えてるんだな」


 男の顔を見つめる。手術台に乗せられた日も、同じ目をしていた。ここに来て初めて、柊は男の名前を知らないことに気づいた。購入記録にあったのは製造番号だけだ。助手が名前を尋ねたとき、「要らん」と答えたのは自分だった。


「名前……」


 柊は唾を飲み込んだ。


「お前……名前は?」


 男は口を開いた。顎の金具が小さく鳴る。


「そうだ。言ってみろ。今度は聞くから」


 男は何度も口を動かした。声は出ない。胸郭の奥で喉が鳴っている。標的を捕獲するまで、呼吸弁は開かない。柊が誰よりよく知っている仕組みだった。男は柊を見つめていた。


「……分かった」


 柊は頷いた。


「もういい。俺が止めてやる」


 男の顔へ、そっと手を伸ばした。


「ラボへ戻ろう。呼吸弁も外す。な、それでいいだろう?」


 男の目が動く。柊は声を落とした。


「こんなことになるとは……俺だって、思わなかったんだ」


 口にして初めて、言い訳だと分かった。男が受けた手術も、呼吸弁も、すべて自分が決めたことだった。


「なあ。聞こえてるんだろう?」


 最高傑作は動かない。柊は恐る恐る、もう一歩近づいた。


「頼む。俺だけは、見逃してくれ……」


 男の目が見開かれた。六本の節足が床を蹴る。柊は反射的に横へ跳んだ。湾曲刃はすでにその方向へ伸びていた。脇腹を挟まれ、身体が床から持ち上がった。


「やめろ!」


 最高傑作の胸郭が開いた。鋸歯が回転を始める。柊は両手で金属の縁を押し返した。指が滑り、刃の先端で皮膚が裂ける。


「待ってくれ! 頼む!」


 男の顔がすぐ近くにあった。唇が震えている。


「俺が悪かった! 認める! だから……!」


 湾曲刃が締まる。柊は叫んだ。


「止まれ! 止まれって言ってるだろ!」


 命令は届かなかった。操作盤は死んでいる。何より、獲物を途中で放しても男の呼吸弁は開かない。最後まで追い詰め、捕らえきる。動きが平凡だと二度と言わせないために、柊自身が組み込んだ仕組みだった。柊が身体をよじると、六本の節足が床を踏み替え、刃を支える角度を変えた。

 力を込めるほど締めつけが強くなる。


「嫌だ……」


 胸の鋸歯が近づいてくる。


「こんなところで、死んでたまるか……!」


 男の目から涙が流れた。柊は必死に両手を突っ張った。


「死にたくない!」


 鋼鉄の肋骨が閉じ始める。

 男の唇が同じ言葉を形作っていた。声は出ない。柊は身体をよじった。右へ逃れれば六本の脚が右を塞ぎ、左へ動けば刃が左から締まる。機械は一度も判断を誤らなかった。

 湾曲刃が閉じ、柊の悲鳴が途切れた。胸郭の奥で、長い吸気音が響いた。男は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。六本の節足から力が抜ける。涙で濡れた頬を動かし、男はもう一度、深く息を吸おうとした。

 そのとき、開いた搬出口の向こうを、逃げ遅れた係員が走った。男の目が、そちらへ動いた。胸の奥で、呼吸弁が閉じた。

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