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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第81話 食感の変わる月泡根と、好き嫌いに理由をつけすぎる地図写し職人

 オルガ・レインは四十五歳になる人間の女性であり、レーヴェン中央区の外れに工房を構える《銀線写図房》で、街道地図や土地台帳、商人向けの簡易案内図を写す仕事に二十八年間携わっていた。濃い栗色の髪には年齢相応の白い筋が混じり始めており、仕事中は背へ垂れないよう首の後ろで丸くまとめ、細い銀縁の眼鏡を鼻へかけている。右手の中指には長年筆軸を支えてきた硬い筆だこがあり、長時間机へ向かった後には指を伸ばす癖がついていた。


 地図写しという仕事は、完成した原図を横へ置き、同じ線と文字を別の紙へそのまま移せば終わるものではない。誰が何のために使う図なのかによって、必要な情報も、その見せ方も大きく変わるからである。


 役所へ納める土地台帳なら、境界石や水路、所有地の区分を細かく記さなければならない。行商人へ渡す街道図なら、宿場や井戸、橋、坂道、荷車では通れない細道の方が重要になる。冒険者や採集人が使う地域図では、森の獣道や野営場所、危険な崖の位置を書き加えることもあり、同じ土地を描いていても完成した地図の姿はそれぞれ違っていた。


 オルガは、その取捨選択に優れていた。原図に描かれているものを何でも写すのではなく、使う者が迷わないために何を残すべきかを考える。主要道と脇道の線を同じ太さにはせず、重要な分岐は文字の位置を少し空け、川と橋の記号が重なる場合には読み間違えないよう配置を変える。省略した情報について理由を聞かれれば、何のために外したのかをきちんと説明することができた。


 仕事ぶりは堅実で誤記も少なく、複雑な原図が届けば、写図房の主が新人へ回す前にオルガへ一度見せることも珍しくなかった。長く使われる地図だからこそ、何となく線を引かず、何となく消さない。その慎重さは職人として明確な長所だった。


 ところがオルガは、その仕事の仕方を、自分の暮らしの隅々にまで持ち込みすぎていた。


 何かを選ぶ時、自分がどちらを好きかより先に、どちらを選ぶ方が説明しやすいかを考えるのである。靴を買うなら形の好みより縫い目の少なさや雨への強さを見る。茶を選ぶ時には、香りが好きだと言う代わりに「こちらは渋味が出にくいから」と説明する。家の椅子を買い替えた時も、座って落ち着く方ではなく、掃除しやすく修理しやすいうえに価格と耐久性の釣り合いがよいものを選んだ。


 もちろん、高価な買い物や仕事道具であれば、理由を考えるのは悪いことではない。しかしオルガは、昼に二種類のパンのどちらを食べるかという程度のことでも、汁物との相性や腹持ちまで考える。休日に東の市場へ行くか西の公園へ行くかと聞かれれば、天気、距離、混雑、ついでに買える物まで並べてからでなければ決められなかった。


「どっちが好き?」


 と尋ねられることが、昔から少し苦手だった。


 好きだからという言葉だけでは、答えとして弱いように感じてしまう。


 自分の好みだけで選べば、それに付き合う他人へわがままを押しつけることになるのではないか。理由のある選択なら相手へ説明できるが、好きというだけでは「自分がそうしたいから」としか言えない。


 そのため仕事仲間から見れば、オルガはとても判断の早い人間である一方、長く付き合っていても本人が何を好むのかは意外なほど分かりにくかった。


          ◇


 オルガが何事にも理由を求めるようになった背景には、父マルクの影響があった。


 マルクは小さな測量工房へ勤める測量士であり、街道工事の距離や土地の境界を測る仕事をしていた。無口な男だったが、娘へ何かを教える時には、答えそのものより「なぜそうしたのか」を聞くことを大切にしていた。


 幼いオルガが、


「今日はこっちの道から帰りたい」


 と言えば、父は、


「なぜだ?」


 と聞いた。


「近いから」


「近い道は、昨日の雨でも歩きやすいか?」


「泥が多いと思う」


「なら、距離だけでは決められないな」


 父はそうやって考えさせた。


 測量の仕事では、「何となくこの辺りが境界だ」という感覚で土地を分けることはできない。どの石からどれだけ離れ、水路のどの地点と何尺の距離があるかを記録しなければ、後になって争いが起きる。だから父は、理由を持って判断することを娘にも身につけてほしかったのだろう。


 オルガ自身、その教えを嫌ってはいなかった。


 十四歳の頃には父の測量帳を読むことが好きになり、古い土地図の写しを手伝うようになった。線を真っ直ぐ引くことが得意だったため、十七歳で《銀線写図房》の見習いへ入ることができた。


 職人の世界でも、理由を説明できることは強い武器だった。


「どうしてこの街道を太く描いた?」


 親方から聞かれれば、


「この図を使うのが商隊で、最も頻繁に使う主街道だからです」


 と答える。


「なぜ宿場名を右へずらした?」


「左側に川と橋の記号が重なるため、読み間違えを避けるためです」


 自分の判断を説明できる。


 それは仕事上、間違いなく長所だった。


 ただし父は、日常生活でも同じように理由を聞いた。


 母が夕食の支度をしながら、


「魚と肉、どっちがいい?」


 と聞いた時、幼いオルガが、


「肉がいい」


 と答える。


 すると父が横から、


「どうして肉なんだ?」


 と尋ねた。


「お腹が空いてるから」


「魚でも腹は膨れるぞ」


「じゃあ魚でもいい」


 本当は肉の方を食べたかった。


 焼けた肉の香りも好きだったし、噛んだ時に脂の味が広がるのも好きだった。しかし、それを「好きだから」と口にするのが何となく恥ずかしく、理由として弱いように感じた。


 父も、娘を追い詰めたかったわけではない。


「好きなら好きでもいいんだぞ」


 と笑うこともあった。


 それでもオルガの中には、別の癖が残った。


 理由を聞かれて困らない選択をしておけばよい。


 説明できる方を選んでおけば、後から誰かに「なぜ」と言われても答えられる。


 二十代で一人暮らしを始めると、家具も衣服も価格と耐久性を優先して選んだ。多少収入に余裕ができてからも、大きくは変わらない。好きだからではなく、長く使えるから。食べたいからではなく、栄養や値段の釣り合いがよいから。その方が間違いのない選択に思えた。


 そして、自分の好みだけで周囲へ影響を与えることも避けられると考えていた。


          ◇


 オルガには二十六歳になる娘が一人いた。


 名前はリアナ。


 夫は十五年前に病気で亡くなっており、それから母娘二人で暮らしてきたが、現在のリアナは中央区の服飾商で働き、自分の部屋を借りて生活していた。


 娘の性格は、母とはかなり違っていた。


 服の値段や丈夫さも見る。


 仕事柄、生地の質にも詳しい。


 それでも最後には、


「この色が好き」


「今日はこっちを食べたい」


「この靴の形が気に入った」


 と、好みをそのまま口へする。


 幼い頃、オルガは父から自分がされたのと同じように、リアナへもよく尋ねた。


「どうしてそっちを選んだの?」


 考える力をつけてほしかったからである。


 小さかったリアナも最初は理由を考えた。


「青い服なら汚れが目立ちにくいから」


「この靴は歩きやすいから」


 しかし十代になる頃には、答え方が変わった。


「好きだから」


「それだけ?」


「それだけ」


「もう少し理由ない?」


「お母さん、好きに理由いる?」


 そんなやり取りを何度もした。


 現在、リアナは半年後に結婚を控えていた。相手は東区で小さな靴店を営む家の次男トレスで、結婚後もレーヴェンへ住み続ける予定だったため、母娘が遠く離れるわけではない。


 婚礼準備が本格的に始まると、二人の考え方の違いが以前よりはっきり出るようになった。


 最初にぶつかったのは、リアナが婚礼の日に着る祝い服である。


 候補として出された生地の中から、リアナは深い葡萄色を選んだ。


 婚礼では白や淡い青を着る者が多いものの、レーヴェンでは色に厳密な決まりがあるわけではない。


「葡萄色にするの?」


 オルガは布見本を見た。


「うん。この濃い方」


「春の式でしょう。少し重く見えない?」


「私は好きだけど」


「会場が小さいから、濃い色だと室内で暗く見えるかもしれない。記念の絵を残すなら淡い方が輪郭も――」


「お母さん」


 リアナが止めた。


「私はこれが着たいの」


「理由は?」


「好きだから」


「それだけで婚礼服を決めるの?」


 オルガには理解できないわけではなかった。


 むしろ布そのものを見れば、綺麗だと思っていた。


 しかし婚礼服は安い買い物ではない。会場との釣り合い、トレスの衣装との色、仕立て後に調整ができるか、後から記念として残す絵でどう見えるかなど、考えられることは多い。


「トレスさんは何て言ってるの?」


「好きなのを着たらいいって」


「相手のお母さんは?」


「葡萄色いいわねって」


「仕立屋は?」


「問題ないって」


「値段は?」


「予算内」


 必要な確認は、すでに終わっている。


「じゃあ問題はないんだね」


「だから着るの」


 話はそこで終わるはずだった。


 それでもオルガには、理由が最後まで「好きだから」しか残っていないことが妙に心許なかった。


 数日後には、婚礼後の食事で出す甘味を選んだ。


 候補は、蜂蜜と白乳酪を使った柔らかな菓子と、木の実を多く入れた保存性の高い焼き菓子だった。


 リアナは乳酪菓子を選んだ。


「木の実の方なら余っても持ち帰れるよ」


「余る量まで頼まないでしょう」


「乳酪は当日中に食べた方がいい」


「当日に食べるための菓子だもの」


「値段は?」


「ほとんど同じ」


「それなら木の実の方が――」


 リアナが少し疲れたように息を吐いた。


「お母さん、私が何か好きって言うたびに、欠点を探すのやめてくれない?」


 予想していなかった言葉だった。


「欠点を探してるわけじゃないよ」


「じゃあ何してるの?」


「ちゃんと考えて決めてるか、確認してるだけ」


「私、もう子どもじゃないよ」


「そういう意味で言ってるんじゃない」


「分かってる。でも私が何か好きって言うと、いつも『でもこっちの方が丈夫』『でもこっちの方が安い』『でもこっちなら余っても使える』って返ってくるでしょう」


 リアナは怒鳴ってはいなかった。


 それでも言葉には長年積もった疲れがあった。


「お母さんが反対したいわけじゃないのも分かる。でも、好きって言うたびに理由を説明しないと認めてもらえないみたいで、時々疲れる」


「そんなつもりじゃないよ」


「つもりじゃなくて、私はそう感じてたって話」


 それ以上は言い争わず、婚礼の相談は終わった。


 オルガは家へ戻ってから、娘が置いていった葡萄色の布見本を机の上へ広げた。


 改めて見る。


 嫌いではない。


 陽が当たると赤みが出て、影へ入ると紫が深くなる。


 むしろ、自分も綺麗だと思う。


 それなのに娘が、


「これが好き」


 と言った時、最初に、


「綺麗だね」


 と言えなかった。


 なぜなのかと考えてみても、その夜には答えが出なかった。


          ◇


 その数日後、《銀線写図房》へ北西地方の役人が訪れ、翌年に行う農地再調査で使う土地台帳の簡易写しを十部作ってほしいと依頼してきた。


 原図には境界、水路、小屋、石垣、古い街道、すでに使われていない井戸まで多くの情報が書き込まれている。


 写図房の主が、原図へ記された三つの古井戸を指した。


「この印、残す?」


「再調査の位置確認へ使える可能性があります」


「井戸自体は五年前に埋められたらしい」


「石枠が残っていれば、現地の目印にはなります」


「残ってるか確認した?」


「まだです」


「じゃあ役所へ聞こう。残ってなければ省いていいな」


「そうですね」


 仕事では理由を確認する。


 必要な問いだった。


 同じ日の午後、若い見習いが、店頭へ置く見本地図の見出しについて相談してきた。


「オルガさん、ここの文字、角ばった書体と丸い書体ならどっちがいいです?」


「用途は?」


「店頭見本なので、特に指定ありません」


「読みやすさに差は?」


「ほとんどないです」


「書き写すなら?」


「一枚だけだから、どっちでも」


「店主の希望は?」


「自由に作れって」


 そこまで聞いてから、見習いは笑った。


「オルガさんは、どっちが好きです?」


 答えが止まった。


 角ばった文字は整って見える。


 丸い文字は柔らかい。


 どちらにも良いところがある。


「私は角ばった方が書き慣れてる」


 ようやく答える。


「それは書きやすい方ですよね」


「書きやすい方でいいでしょう」


「好きな方を聞いただけなんですけど」


 見習いは困らせるつもりもなかったらしく、そのまま自分で丸い方を選んだ。


 オルガだけが、妙な気分を残した。


 好きな方を聞かれただけで、なぜ仕事上の利点を探してしまうのか。


 慎重なのだと思っていた。


 しかし、もしかすると自分は「私はこれがいい」と言うことそのものを避けているのではないか。


 そんな疑問を初めてはっきり意識した頃、リアナが母の家へ三本の白い根菜を持ってきた。


「これ、もらったから半分」


「何?」


「《月泡根》。店のお客さんが畑やってるの」


 月泡根は、春から初夏にかけて湿り気のある畑で育つ根菜で、丸みのある白い根の表面へ淡い銀色の斑点が浮かぶ。その斑点が夜の月明かりのように見えることから名前がついたといわれている。


 特徴は切った時に分かる。


 白い内部には、小さな泡の跡のような空洞が無数にあり、その空洞が加熱方法によって異なる食感を作る。


 短時間で焼けば、外側は香ばしく色づきながら、中には軽い歯応えが残る。油と塩が小さな空洞へ入り込むため、噛んだ時の味も強い。


 一方、水分を含ませて長く煮れば空洞を囲む繊維が柔らかくなり、黄芋にも似たほくほくした食感になる。煮汁をよく吸うため、肉や豆と一緒に煮込む料理にも使われていた。


「トレスは焼いた方が好きだから、うちは今日は焼く」


 リアナが言う。


「煮物なら明日まで残せるでしょう」


「残す予定ないよ」


「肉と煮れば一皿で済むし」


「できるけど、今日は焼いて食べたいの」


 また理由をつけようとしている自分に気づいた。


「……好きだから?」


 オルガが聞く。


 リアナは一瞬警戒したような顔をした。


「そうだけど」


「分かった」


 それ以上は何も言わない。


 娘の方が驚いた。


「何?」


「何でもないよ」


「珍しいね」


「帰り遅くなるでしょう。気をつけて」


 リアナは笑いながら帰った。


 残された月泡根三本を、オルガは台所へ置いた。


 そして自分へ、単純に聞いてみた。


 焼いて食べたいか。


 煮て食べたいか。


 答えが出なかった。


 焼けば燃料が少なく済む。


 煮物なら翌日に温め直せる。


 一人分だけ作るなら鉄板の方が早い。


 肉と一緒に煮れば栄養の釣り合いがよい。


 理由はいくらでも浮かぶ。


 しかし、


「どちらが食べたい?」


 という問いへ戻ると、途端に分からなくなる。


 その日は結局、月泡根を調理しなかった。


 翌日は仕事が遅くなり、パンと残りの汁物で夕食を済ませた。


 三日目、まだ台所に置かれている月泡根を見て、オルガは自分でも呆れた。


「食べるだけなのに、何をこんなに考えてるんだろう」


 そこで、写図房の見習いから聞いた《持ち込み食堂》のことを思い出した。


 変わった食材を持っていけば、扱いを相談しながら料理してくれる店だという。


 月泡根の正しい調理法が知りたいわけではない。


 焼くのも煮るのも、どちらも普通の食べ方だと分かっている。


 ただ、両方を同時に食べれば、自分がどちらを好きなのかくらいは分かるかもしれない。


 そんな理由で店へ行くのも妙な気がしたが、オルガは月泡根を包み、翌日の昼休みに西区へ向かった。


          ◇


 《持ち込み食堂》へ入ると、ミレイアが包みの中を見てすぐに月泡根だと気づいた。


「今の時期、美味しいですよね。小ぶりで状態も良さそう」


 悠斗も一本を持ち、表面と切り口を確認する。


「どう食べたいです?」


「それを聞きたくて来たの」


「合う料理が知りたい?」


「焼くのと煮るの、どっちがこの根にはいい?」


「どっちも合いますよ」


 予想していなかった答えではない。


「保存を考えたら?」


「今日は店で食べるんですよね」


「そう」


「なら保存性で決めなくてもいいんじゃないですか」


「肉と合わせるなら?」


「煮物もいいですし、焼いた月泡根へ肉を添えてもいいです」


「栄養は?」


「今日、その比較で決めたいんです?」


 悠斗が不思議そうに聞く。


 オルガは言葉に詰まった。


「そういうわけじゃないけど」


「じゃあ、食べたい方で」


 結局そこへ戻る。


 ミレイアが笑った。


「両方食べたことは?」


「ある」


「どっちが好き?」


「分からないから困ってるの」


「じゃあ両方作ってもらえばいいんじゃない?」


 あまりにも簡単だった。


 オルガは少し間を置いた後、


「お願いします」


 と答えた。


 三本の月泡根を半分ずつ使う。


 焼く方は皮を薄く削り、少し厚めの輪切りへする。水気を拭いてから油を引いた鉄板へ並べ、表面へじっくり焼き色をつける。塩を振り、最後に香りの穏やかな草を少量だけ加えた。


 煮る方は大ぶりに切り、根玉葱と白い鳥肉を入れた薄い煮汁へ加える。最初は形を残したまま火を入れ、中心まで柔らかくなったところで味を整えた。


 同じ根菜なのに、厨房から立つ匂いまで違う。


 鉄板側からは焼けた根菜の香ばしさが漂い、鍋からは肉と根玉葱を吸った柔らかな甘い香りが上がる。


 先に《月泡根の香草焼き》が出された。


 外側には薄い焼き目があり、噛むと表面は香ばしく、中には軽いしゃくりとした歯応えが残っている。生の硬さではなく、火は入っているのに繊維が崩れ切っていない。その小さな空洞へ油と塩が入り込み、噛むたび味が出た。


「おいしい」


 オルガが言う。


 続いて《月泡根と白肉の柔らか煮》が届く。


 同じ根菜とは思えないほど食感が違い、箸で押すだけで少し崩れ、口へ入れるとほくほくした甘さが広がる。鳥肉の旨味を吸っているため、焼いたものより味が丸い。


「こっちもおいしい」


 ミレイアがすぐ尋ねた。


「じゃあ、どっちが好き?」


 オルガの手が止まった。


「料理としてなら、煮た方は肉と野菜を一緒に食べられるし、汁もあるでしょう。焼いた方は調理時間が短くて――」


「それは便利さの比較ですよね」


 指摘される。


「好きな方」


 二つの皿を見た。


 もう一度、焼いた方を食べる。


 次に煮た方。


 口を水で少し整え、もう一度焼きを食べる。


 どちらもおいしい。


 どちらが優れているわけでもない。


 ただ、自分がもう一口食べたいと思ったのは焼いた方だった。


「……焼いた方」


 小さく答えた。


「焼いた方が好き?」


「多分」


「どうして?」


 反射的に理由が浮かぶ。


 調理が早い。


 油が少なくて済む。


 煮崩れない。


 しかし、そういうことではない。


「歯応えが好きだから……かな」


 口へしてから、また別の理由を探そうとする。


 ミレイアが笑った。


「それでも十分だし、『好きだから』だけでもいいと思いますよ」


 オルガは少し居心地の悪そうな顔をした。


「じゃあ、焼いた方が好き」


 今度は理由を付け足さなかった。


          ◇


 たったそれだけの言葉なのに、オルガには奇妙な落ち着かなさがあった。


「何か変?」


 ミレイアが尋ねる。


「理由なしで好きって言うと、幼い感じがするの」


「食感の好みに年齢ってあります?」


「大人なら、自分が選んだ理由くらい説明できた方がいいでしょう」


 悠斗が煮込みの鍋を片づけながら口を開いた。


「説明が必要なことと、必要じゃないことが混ざってるのかもしれませんね」


「例えば?」


「俺が店で月泡根を大量に仕入れるなら、値段とか保存できる日数とか、どの料理に使うかを考えます。お客さんに出す料理の加熱時間なら、食材の状態を見ます」


「それは必要だね」


「でも自分の夕飯で、焼いた月泡根が食べたいだけなら、好きだからでもいいと思います」


「料理人なのに?」


「料理人でも、自分の夕飯を毎回一番効率のいい料理にするわけじゃないです」


「余ってる食材とか、栄養とか考えないの?」


「考える日もあります。でも、それだけで全部決めてるわけじゃないですよ」


 オルガはまだ引っかかっていた。


「自分の好みだけで決めると、他の人に迷惑をかけることもあるでしょう」


「他の人も食べるなら、その人にも聞けばいいんじゃないですか?」


 悠斗が答える。


「自分が焼いた方を好きだから全員それしか食べるな、なら困ります。でも、自分の皿を選ぶだけなら別ですよね」


 その言葉で、リアナの婚礼服が思い浮かんだ。


「娘がいるの」


 オルガは言い、婚礼準備のことを話した。


 葡萄色の祝い服。


 乳酪菓子。


 娘が「好きだから」と選ぶたび、別の候補の利点を挙げてしまうこと。


 最終的には、好きと言うたび欠点を探されるのは疲れると言われたこと。


「反対したいわけじゃないのよ」


 オルガは言う。


「大事な婚礼だから、ちゃんと考えて選んでほしいだけ」


「娘さん、考えてないんですか?」


 悠斗が聞いた。


「そういう意味じゃなくて」


「値段は予算内?」


「そう」


「会場の決まりにも反してない?」


「ない」


「結婚相手も問題ないって?」


「好きなものを着ればいいって」


「仕立ても間に合う?」


「間に合う」


 必要な条件は全部揃っている。


「なら、その後の最後の決め手が『自分はこの色が好き』でもいいんじゃないですか?」


 オルガは答えられなかった。


 リアナは、何も考えずに葡萄色を選んだわけではない。


 値段も、会場も、仕立ても確認していた。


 その上で最後に残った理由が、好きだからだった。


「私は、その理由を軽く見てたのかもしれない」


 オルガが言う。


 悠斗は少し考えた。


「軽い理由ではあるのかもしれません」


 意外な答えだった。


「でも、軽い理由で決めていいこともあると思います」


「軽い理由で?」


「昼ご飯の味とか、好きな服の色とか。全部を重大な理由で決めなくても」


 オルガは少し笑った。


「地図なら、好きだからって線を太くできない」


「それは困りますね」


「道の太さにも、文字の位置にも理由がいる。使う人がいるから」


「仕事なら必要でしょうね」


「だから何でも同じにしてたのかな」


 焼いた月泡根を見る。


「地図で『私はこの道が好きだから太く描きました』は駄目。でも、自分の月泡根なら『焼いた方が好き』でいい?」


「他人が使う地図じゃなくて、自分が食べる皿なので」


 ミレイアが言い、オルガもようやく少し笑った。


「変な感じ」


 食事を終え、残った半本ほどの月泡根を包んでもらった。


「持ち帰ります?」


 悠斗が尋ねる。


「うん」


「どう料理します?」


 以前なら、煮る方が保存しやすいから、あるいは油を使う量が少ないからと答えただろう。


「焼く」


「理由は?」


 ミレイアがわざと聞く。


 オルガは一度口を開き、少し考えてから答えた。


「好きだから」


          ◇


 その日の夕方、仕事を終えたオルガはリアナの部屋へ立ち寄った。


 婚礼前の部屋には布見本や注文票が広がり、壁際には仕立屋から借りた寸法見本まで立てかけられている。


「急にどうしたの?」


 リアナが尋ねる。


「この前の服の話」


 娘の表情が少しだけ固くなった。


「まだ葡萄色やめた方がいいって?」


「違う」


 オルガは机の上に残っていた葡萄色の布見本を手に取った。


 明るいところでは少し赤く、影の側は深い紫になる。


「これ、綺麗だと思う」


 リアナが黙る。


「それだけ?」


「うん。それだけ」


 娘の眉が少し上がった。


「本当にどうしたの?」


「月泡根を食べた」


「何で婚礼服の話から根菜になるの?」


「私もよく分からない」


 二人で少し笑った。


 その笑いが収まってから、オルガは続けた。


「好きって言うたび、理由を聞きすぎてたね。ごめん」


 リアナの表情が少し変わる。


「お母さんが心配してるのは分かってるよ」


「でも、あなたがちゃんと考えてないみたいな言い方になってたでしょう」


「少しね」


「全部の選択に、人へ説明できる理由が必要だと思ってた」


「私は昔からそう思ってないけど」


「知ってる」


「やっと?」


「やっとかもしれない」


 リアナは布を手へ戻した。


「じゃあ、甘味も乳酪菓子でいい?」


 オルガは反射的に、


「保存が――」


 と言いかけた。


 娘が笑う。


「今、言おうとしたでしょう」


「当日に必要な分を注文するんでしょう」


「そう」


「余らないようにするなら、それでいいよ」


「木の実菓子の方が後で使えるとか言わない?」


「余った時に考えればいい」


「すごい」


「そこまで言われると腹が立つね」


 二人でまた笑った。


 帰る前に、オルガはもう一度葡萄色の布を見た。


「本当に似合うと思うよ」


 今度は理由をつけなかった。


          ◇


 だからといって、翌日からオルガが何でも好みだけで決めるようになったわけではない。


 《銀線写図房》へ戻れば、仕事では今まで通り理由を求めた。土地台帳の境界線を太くするなら、なぜ太くするのか。省く記号があるなら、本当に用途へ不要なのか。役所へ納める地図へ、


「こちらの方が私は好きだから」


 という理由だけで情報を変更することはしなかった。


 変わったのは、仕事ではない場面だった。


 写図房の近くには二軒の食堂がある。


 一軒は豆煮込みが安く、もう一軒は焼き魚が評判だった。


 ある昼、見習いが尋ねた。


「今日はどっち行きます?」


 いつものように理由が浮かぶ。


 豆煮込みなら少し安い。


 魚は昨日食べた者がいる。


 午後には細かい線を引くため、腹が重すぎない方がいい。


 そこまで考えかけ、オルガは先に自分へ尋ねた。


 今日は何が食べたいのか。


「魚」


 口にする。


「じゃあ魚にしましょう」


 見習いは理由を聞かなかった。


 食堂へ行き、焼き魚を食べた。


 それで午後の仕事が悪くなることもなく、誰かが困ることもなかった。


 数日後には逆に豆煮込みを選んだ。


「今日は節約です?」


 同僚に聞かれる。


「違う。豆が食べたい」


 それも以前より自然に言えた。


 一方で、自分一人ではなく複数人が関わる選択では、まだ好みを言うことへ少し抵抗が残った。


 写図房では毎年、夏前に職人全員で一日だけ近郊へ出て、地形を実際に見ながら地図表現を学ぶ研修をしている。その年は二つの候補地が出た。


 一つは南東の河岸で、水路と橋の描き方を見られる。


 もう一つは北西の丘陵で、高低差と遠景の省略方法を確認できる。


 主が職人たちへ尋ねた。


「今年はどっちへ行きたい?」


 同僚たちはそれぞれ意見を出した。


「新人が多いから河岸がいい」


「去年も水路をやったから丘陵」


「丘陵の宿の昼飯がうまい」


 最後にオルガへ回る。


「オルガは?」


 いつものように仕事上の理由を考える。


 新人が三人なら河岸で基礎を学ぶ価値がある。


 一方、最近は丘陵地の案内図の依頼が増えている。


 どちらにも理由がつく。


 そこで、その理由をいったん横へ置いた。


「私は丘陵へ行きたい」


 自分でも少し驚くほど、簡単に言えた。


「理由は?」


 主が何気なく聞く。


 身体が一瞬固まる。


 すると、以前書体について尋ねた見習いが笑った。


「今回は好きだからでもいいんじゃないですか」


 周囲も笑う。


 オルガもつられて笑った。


「丘から見る畑の景色が好きだから」


 仕事とは直接関係のない理由だった。


 最終的には皆の意見を合わせて丘陵へ決まった。


 もし河岸へ決まっていても、オルガはそれでよかった。


 自分の好みを伝えることと、その好みを全員へ押し通すことは別である。


 その区別へ気づくと、意見を口にすることは思っていたほどわがままではなかった。


          ◇


 研修の日、職人たちは北西の丘陵へ出た。


 午前中は勾配を測り、丘の重なりを一枚の地図へどう省略するかを確かめ、昼には丘上の小さな食堂へ入った。


 店主が付け合わせについて尋ねる。


「煮た月泡根と焼いた月泡根、どっちにする?」


 偶然だった。


 同僚たちはすぐ答える。


「煮た方」


「俺は焼き」


「私も焼きで」


 オルガの番が来る。


「焼いた方」


 迷わなかった。


「どうして?」


 隣の見習いが、わざとらしく聞く。


 オルガも意味が分かっている。


「好きだから」


 皆が笑った。


 少し前なら、からかわれているようで嫌だったかもしれない。


 今は自分も笑えた。


 出てきた月泡根は《持ち込み食堂》より薄切りで、外側をかなり強く焼いている。香ばしさが強く、歯応えも少し軽い。


「この焼き方もおいしいね」


 オルガが言う。


「煮た方も一口交換します?」


 隣の職人が皿を寄せる。


「する」


 煮たものも食べる。


 こちらはこちらで柔らかく、肉の汁をよく吸っている。


 どちらもおいしい。


 それでも一皿選ぶなら、自分は焼いた方が好きだった。


 そこで初めて、好きという感覚にも細かな中身があることへ気づいた。


 食感が好き。


 焼けた香りが好き。


 口に入れた時に少し歯応えが残るのが好き。


 そう説明することはできる。


 しかし、それは「こちらを選ぶ方が正しい」と証明する理由ではない。


 ただ自分が何を気に入っているかを言葉にしているだけだった。


          ◇


 一方で、オルガは「好きだから」を何にでも使える便利な逃げ道にしないことも意識した。


 ある日、若い見習いが旅人向けの店頭地図へ大量の装飾を描き込んだ。


 森には一本一本の木。


 川には魚。


 宿場には小さな家。


 街道沿いには花まで描かれている。


 見た目は華やかだったが、肝心の道幅や川の線へ装飾が重なり、一部が読みにくい。


「どうです?」


 見習いが得意そうに尋ねる。


「絵を描くのは好き?」


「はい」


「私も見た目としては嫌いじゃない。でも、この地図を誰が使う?」


「旅人です」


「魚の絵で川幅が分かりにくい。宿の家も道へかかってる」


 見習いが少し笑った。


「好きだから描いた、じゃ駄目ですか?」


 以前の話を踏まえて、わざと言っている。


 オルガは首を振った。


「仕事では駄目」


「やっぱり」


「旅人が道を知るための地図だから。あなたの部屋へ飾る絵なら好きに描けばいいけど、これは読む人がいる」


「好きは理由にならない?」


「好みを入れていい場所ならなる。でも、使う人が困るところでは別の条件が先」


 言いながら、オルガ自身も理解が深まっていく。


 何にでも客観的な理由が必要なわけではない。


 何にでも自分の好みを優先してよいわけでもない。


 何を決めるための選択なのかによって、必要な理由の重さが違う。


 以前の自分は、すべてを土地台帳の線と同じ重さで扱っていた。


          ◇


 秋へ入る頃には、リアナの婚礼準備もかなり進んでいた。


 葡萄色の祝い服はほぼ完成し、乳酪菓子も正式に注文された。


 ある夕方、リアナが母の家へ三枚の布見本を持ってきた。


「今度は何?」


「お母さんが式で着る上着」


「今ある灰青のでいいよ。まだ傷んでない」


「そう言うと思ったから、生地を持ってきたの」


 三色ある。


 深い緑。


 落ち着いた青。


 淡い茶。


「わざわざ新しくしなくても」


「これは私のお願い。婚礼の日だから、新しいの着てほしい」


 そこまで言われると、「まだ使える」だけで断るのも違う気がした。


「どれが会場へ合う?」


「全部」


「あなたの葡萄色の隣なら?」


「全部変じゃない」


「値段は?」


「ほとんど同じ」


「後から普段着にしやすいのは?」


 リアナが笑った。


「それはどれもできるように仕立てる」


 選択肢の条件が、きれいに同じになっていく。


「どれが好き?」


 最後に聞かれた。


 オルガは三枚を見る。


 深い緑は落ち着いている。


 淡い茶は明るく、自分には少し柔らかすぎる気がする。


 青へ目が戻る。


 理由を探す前に答えた。


「青」


「どうして?」


 娘がわざと聞く。


「好きだから」


「決まり」


 リアナは青い布を畳んだ。


 少しして、オルガが尋ねる。


「式の後にも普段着られる形にできるんだよね?」


 リアナが笑う。


「そこは確認するんだ」


「そこは大事でしょう」


「大丈夫。仕立屋へそう頼む」


 好みで決める部分と、実用性を確認する部分は両立できる。


 どちらか一方へ寄せる必要はなかった。


          ◇


 婚礼の一月前、オルガは《持ち込み食堂》を再び訪れた。


 今度持ってきたのは月泡根ではなく、婚礼料理の試食で余った乾燥果実だった。薄赤い果肉を干したもので、そのままでは少し硬いが、戻せば甘味が強くなる。


 悠斗が確認した。


「菓子にもできますし、肉と煮ても合いそうですね。今日はどうしたいです?」


 以前なら、


「この果実には、どちらの調理が一番合う?」


 と尋ねただろう。


 今日は自分が食べたいものを先に考える。


「甘いものが食べたい」


「じゃあ菓子にしましょう」


 乾燥果実を軽く戻し、砕いた木の実と一緒に薄い生地へ包んで焼く。


 《乾燥果実と木の実の包み焼き》。


 焼き上がるまでの間、ミレイアが尋ねた。


「月泡根、あれから食べました?」


「何度か。焼く方が多いけど、煮たのも一回作った」


「結局どっちが好き?」


「焼き」


 もう迷わない。


「理由は?」


「歯応えと、焼いた時の香りが好き」


「ちゃんと理由あるじゃないですか」


 オルガが笑う。


「これは、焼きの方が正しいって説明じゃないよ。私が何を好きなのかを言ってるだけ」


「なるほど」


「違いが、やっと分かってきた」


 出来上がった包み焼きを食べる。


 果実の甘味と木の実の香ばしさがある。


「これ好き」


 オルガが言う。


 今度は誰にも聞かれていなかった。


 自然に出た。


          ◇


 婚礼の日は、朝からよく晴れた。


 リアナは自分で選んだ深い葡萄色の祝い服を着ていた。屋外では赤みが浮き、屋内の影では紫が深くなる。春の婚礼では淡い色が多いため確かに目立ったものの、会場の花飾りやトレスの落ち着いた灰色の衣装ともよく合っていた。


 オルガは、自分で選んだ青い上着を着ていた。


 新しい服はまだ身体へ馴染んでおらず、袖を下ろすたび少しだけ気になる。


 それでも鏡を見ると、悪くないと思った。


 リアナが母の姿を見る。


「青、似合ってる」


「そう?」


「自分で選んだんでしょう」


「うん」


「じゃあ良かったね」


 披露の食事では、リアナが選んだ白乳酪と蜂蜜の菓子が出た。


 柔らかな生地を崩すと、中から酸味のある乳酪と蜂蜜が混じった餡が出る。


 オルガも一つ食べた。


 思っていたより甘すぎず、食事の後でも重くない。


 リアナが隣へ来た時、冗談っぽく尋ねた。


「木の実の保存菓子の方が良かった?」


 オルガは首を振る。


「こっちでよかったと思う」


「理由は?」


 娘と目が合った。


 二人とも笑った。


「今日は、あなたがこれを好きだからで十分でしょう」


 オルガが答えた。


 娘の婚礼だから、その選択を娘が気に入っていること自体に意味がある。


 以前なら、そこへ保存性や値段を付け足さなければ納得できなかった。


 今日は、そうしなくてよかった。


          ◇


 婚礼が終わったからといって、オルガの生活が急に別人のものになったわけではない。


 地図を描く時には、相変わらず一本の線にも理由を求めた。


 高価な筆を買うなら毛の質と耐久性を比べる。


 長く使う家具なら値段と修理のしやすさを見る。


 役所へ出す文書なら、言葉を曖昧にしない。


 そうした慎重さは、これからも必要だった。


 ただし休日の昼に何を食べるか、部屋へ飾る布を何色にするか、散歩でどちらの道へ行くかということまで、誰かへ提出する報告書のように説明する必要はなくなった。


 ある休日、東区の市場で二種類の茶葉を見つけた。


 一つは量が多く、値段も安い。


 もう一つは少し高いが、以前飲んで香りが気に入っていた。


 昔なら迷わず安い方を買っただろう。


 今は少し考え、両方を買った。


 普段飲む分は安い茶。


 休日にゆっくり飲みたい時は、好きな茶。


 どちらか一方だけを選ぶ必要もない。


 リアナが遊びに来た日に高い方を出すと、すぐ気づいた。


「珍しい茶だね」


「これ、好きなんだ」


 オルガが言う。


 リアナが少し笑う。


「お母さん、最近『好き』ってよく言うね」


「そんなに言ってなかった?」


「昔は何でも『こっちの方が長持ちする』『こっちの方が値段がいい』『こっちの方が使いやすい』だったよ」


「悪かったね」


「悪いっていうより、今の方がお母さんが何を好きか分かる」


「分からなくても困らないでしょう」


「一緒にいる人は、分かった方が楽しいよ」


 オルガは返事をしなかった。


 しかし、その言葉は嬉しかった。


 自分の好みを言うことには、相手へ何かを押しつける面だけがあると思っていた。


 実際には、相手へ自分を知ってもらうことでもあった。


          ◇


 冬前、《銀線写図房》へ大きな仕事が入った。


 新しい交易路の案内図を作るため、店頭へ置く見本の書体と装飾を決める必要がある。


 二種類の見本ができた。


 一方は角ばった文字。


 もう一方は丸みのある文字。


 どちらも同じくらい読みやすく、制作時間にも大きな差がなく、依頼主からの指定もなかった。


 主が職人たちへ尋ねた。


「最後は好みだな。どっちがいい?」


 以前のオルガなら、わずかな効率差を探した。


 今は二枚を見比べる。


 角ばった字は自分が長年書いてきた形に近く、見慣れている。


 丸い字は、少し柔らかな印象がある。


 今日は丸い方へ目が戻った。


「私はこっち」


 指差す。


「珍しいな。何で?」


 主が聞く。


 オルガは少し考えた後、笑った。


「見た感じが好きだから」


「それだけ?」


「今回は、それで決めても困らないでしょう」


 主も二枚を見た。


「確かにな」


 他の職人の意見も合わせ、最終的には丸い書体が採用された。


 もし角ばった方へ決まっていても、オルガは気にしなかった。


 自分の好みを伝えることと、その好みを必ず採用させることは別だった。


          ◇


 その日の帰宅途中、市場へ月泡根が並んでいた。


 冬前に採れるものは春より少し大きく、表面の銀色の斑点も濃い。


 オルガは四本買った。


 店主が袋へ入れながら尋ねる。


「煮込みにする?」


「今日は二本焼く」


「残り二本は?」


 以前なら、保存日数や翌日の献立まで考えて答えただろう。


「明日、食べたい方にする」


「まだ決めてないのか」


「決めなくても困らないでしょう」


「まあな」


 店主には何でもない会話だった。


 オルガにとっては、少し前なら口にしなかった答えだった。


 家へ戻り、二本を厚めに切る。


 油を引いた鉄板へ並べる。


 《持ち込み食堂》で最初に食べた時より、少し強めに焼き色をつけた。


 何度か作るうちに、自分は表面の香ばしさが強く、中へ歯応えが残るくらいを一番気に入ると分かったからである。


 塩を振る。


 香草は少量。


 皿へ盛る。


 一口食べると、焼けた表面の内側で白い繊維が軽くしゃくりと切れた。


「これが好き」


 一人の部屋で、わざわざ声へ出してみる。


 月泡根は焼いた方が優れた食材だという意味ではない。


 柔らかく煮たものを好む人が間違っているわけでもない。


 ただ、オルガはこの食感が好きだった。


 それだけで、今日の夕食を決めるには十分だった。


 明日、残り二本を煮るかもしれない。


 また焼くかもしれない。


 別の料理へしてもよい。


 以前なら翌日の調理方法まで決めずに根菜を残しておくことへ、ほんの少し落ち着かなさを感じただろう。しかし今は、明日の自分が食べたいものまで今日の自分が理由を揃えて決めておく必要はないと思えた。


 食事の後、仕事用の筆を整えるため机へ向かった。


 そこには、婚礼の後にリアナからもらった小さな葡萄色の布切れが置いてある。祝い服の仕立てで余った布を、娘が記念として渡してくれたものだった。


 地図へ使えるわけではない。


 修繕用の布としても小さすぎる。


 実用上の役目を探せば、ほとんど何もない。


 それでもオルガは机の端へ残していた。


 娘の婚礼を思い出すからでもある。


 そして、以前よりその深い葡萄色そのものを気に入っていた。


 理由を尋ねる者はいない。


 オルガ自身も、それ以上の理由を探すことはなかった。


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