女子寮の鏡
王立学院の女子寮は、中庭から少し離れた場所に建っていた。
男子寮とは回廊で完全に分けられており、中央には庭園が挟まれている。当然ながら男子生徒の立ち入りは禁止。教師であっても、許可なく入ることはできない。
その入口前には今、数人の女性教師と侍女たちが集まり、不安そうにざわめいていた。始業時間が近づいているせいで、寮の周囲には登校途中の女子生徒たちも増え始めている。皆、落ち着かない様子で女子寮を見上げていた。
「本当に誰か見たの?」
「水鏡の魔女って……」
噂は、もう学院中へ広がり始めている。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「最悪の時間帯だな」
この時間は、最も人目が多い。一歩間違えれば、学院全体が完全な混乱へ変わる。
女子寮の監督教師らしい女性が、慌てた様子で頭を下げた。四十代ほどの女性教師だった。青ざめた顔のまま、声を震わせている。
「ルシアン殿下、お待ちしておりました……!」
「何が起きている」
「生徒が一人、錯乱状態になっておりまして……」
その時だった。
がしゃん、と上階から激しい破砕音が響く。女子生徒たちの悲鳴が重なった。
「きゃあっ!?」
「また……!」
空気が張り詰める。女性教師が顔を青くした。
「リリア様です……!」
ルシアンは眉を寄せた。
「リリア?」
「リリア・セイン伯爵令嬢です」
フィンが小さく口を開く。
「歴史学の補習を受けてた人です」
その瞬間、ルシアンの視線が鋭くなる。
「……補習?」
フィンは頷いた。
「アルバート先生、最近ずっとリリア様を個別指導してて……」
言いながら、少し言いづらそうに視線を逸らす。
「夜遅くまで図書塔に残ってることも多かったです」
ルシアンは小さく目を細めた。
深夜。図書塔。そして、死んだ教師。
偶然にしては繋がりすぎている。
女性教師が慌てて口を挟む。
「ですがリリア様は真面目な生徒です! 問題など起こす方では……」
「別に疑ってない」
ルシアンは低く返した。
「今どうなってる」
女性教師は不安そうに続ける。
「今朝、部屋の鏡を見た瞬間に突然取り乱して……」
その時だった。上階から、甲高い悲鳴が響いた。
「いやぁぁぁっ!!」
周囲の女子生徒たちが息を呑む。
「水の中にいる!!」
錯乱した少女の声。
「まだいるの!! こっち見てる!!」
空気が凍る。女子生徒たちの顔色が変わった。
「ほんとに見えるの……?」
「やっぱり怪異――」
「静かにしてください」
セレネの声だった。
大きな声ではない。だが、一瞬で場が静まる。長い黒髪が朝の風で揺れる。その海色の瞳だけが、静かに女子寮を見上げていた。
「殿下」
「なんだ」
「私は中へ入ります」
ルシアンは即座に眉を寄せた。
「お前だけでか?」
「女子寮ですので」
確かに。男子禁制の女子寮へ、第三王子とはいえ簡単には入れない。特に今は、令嬢たちも混乱している。
ルシアンは小さく舌打ちした。
「……分かった。俺は外を抑える」
「ありがとうございます」
セレネは静かに頭を下げる。
その時だった。
「姉上、僕も――」
「フィンは駄目です」
即答だった。フィンが固まる。
「えっ」
「女子寮です」
「いや、でも心配で……」
「駄目です」
冷静だった。だが妙に圧がある。フィンは完全に押し負け、しゅんと肩を落とした。
ルシアンは思わず口元を押さえる。
「……お前、弟には厳しいな」
「当然です。フィンは余計なことをしますので」
「ひどい!?」
だが、そのやり取りを見た瞬間、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。周囲の女子生徒たちの表情からも、わずかに強張りが消える。
ルシアンはそれを見ながら、小さく目を細めた。
セレネは無意識なのだろう。だが彼女は時々、こうして場の空気を変える。本人は気づいていない。そこがまた厄介だった。
「では行ってきます」
セレネはそう言って、女子寮の中へ足を踏み入れた。
その背を見送りながら、ルシアンはなぜか、妙な胸騒ぎを覚えていた。




