第1話:聖女(無自覚)のモーニングルーティンは、魔王を安眠へと誘う
カチ、カチ、カチ、カチ……
午前四時。
町の時計台が、まだ眠る世界を刻んでいる。
セラフィナイト・ゴールドステインの一日は始まる。
彼女は、地味を絵に描いたような灰色のローブを深く被り、誰にも気づかれないよう音もなく家を出た。
「ふふっ。今日も最高のモブ日和ですわ」
主役にも脇役にもならない、ただの背景。それこそが彼女の理想だった。
だが、彼女には前世から引き継いでしまった「癖」があった。
(町の人々が、今日も健やかに過ごせますように……)
これは、彼女にとっての「呼吸」と同じ。全世帯の玄関先に赴き、そっと手をかざして祈りを捧げる。
一軒につき数秒。
石畳を風のように駆け抜けるその姿は、事情を知らぬ者が見ればただの不審者だが、彼女にとってはこれが最低限のマナーだった。
だが、彼女は気づいていない。
彼女が通り過ぎた後には、淡い金色の光が粒子となって舞い、冬だというのに道端の雑草が「……えっ、もう春なの?」と勘違いして、一斉に蕾を膨らませていることに。
「……くそ、まだなのか……ッ!」
町外れのボロ屋敷。
そこに潜伏していた魔王ヴォルガドは、寝台の上で己の頭を掻きむしっていた。
漆黒の角、禍々しい魔力。彼は今、世界を滅ぼす準備段階として、人間の負の感情を収集するためにこの町にいた。だが、問題が一つ。
彼はここ数百年、一分たりとも眠れていない。
(呪いだ。歴代の勇者たちが残した『不眠の呪い』が、余の精神を削り続ける……)
睡眠不足は魔王を狂わせる。絶望、怒り、破壊衝動。それらが限界に達したとき、彼はこの町を起点に人類を滅ぼすと決めていた。
時刻は午前四時過ぎ。
イライラの絶頂にいた彼の耳に、小さな、けれど驚くほど澄んだ音が響いた。
ササササ
規則正しい足音が止まる。
結界を張ったはずの玄関からだ。
(……アサシンか? 勇者の残党か……!?)
魔王は殺気を放ちながら立ち上がり、玄関へ向かう。
扉を蹴破り、無礼な侵入者の首を撥ねようと手をかけた、その時。
「――今日も幸せな一日をお過ごしください。お隣さん」
扉越しに聞こえたのは、鈴を転がすような少女の声。
「は?……」
その瞬間、ヴォルガドの視界が白く染まった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
数百年、彼を苦しめてきたドロドロの呪詛が、まるで熱湯をかけられた雪のように、一瞬で、跡形もなく消滅した。
脳を締め付けていた鉄の輪が外れ、代わりに温かく、柔らかな真綿に包まれるような感覚が彼を襲う。
「な……っ、これは……な……ぜ……」
魔王の膝から力が抜ける。
戦うどころではない。まぶたが鉄の扉のように重い。
ヴォルガドは玄関の板間に崩れ落ち、そのまま、赤子のような寝息を立て始めた。
やっと眠れた魔王!どうなる!




