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第三章 恋敵出現で別の意味で心臓が痛い!(スイートよりビター派ね?)

 婚礼衣装に、花嫁の手で「守りの文様」を刺繍する。

 この国の女性にとって刺繍は最大の嗜み――季節ごとに夫や子の襟や袖口へ、芽吹き、陽、穂、雪などの紋様を祈りを込めて縫い込む。家を護る女性にとっては必須の仕事。


(……はい、知識は完璧ね。でも問題は実技よ!)


 刺繍枠に張った絹がもう既によれている。ため息をつくが、針先は真っ直ぐにならない。

 周りからは慈愛ある老婦人方のさざめきが聞こえる。


「あらまあ〜姫様の初々しいこと」「若いうちは縫い目が踊るものですのよ、そんな時代もあったわよねえ、かわいらしいわねえ…」


(かわいらしいは褒め言葉なんだろうけど、踊らないで縫い目……!)


 深紅のドレスの女性がソフィーアの隣にやってくる。ほっそりと美しい身体と大きな胸が滑らかに揺れる。黒髪は高めに艶やかにまとめられ首筋の黒子が目を惹き、甘過ぎない香水がふんわりと香った。

 公爵家の未亡人マルティナ。涼やかな目元、麗しい所作や隙のない美貌に、彼女がそっと控えめに微笑むだけで息を呑んでしまう。


「…蔦唐草は複雑ですから、糸をやさしく、やさしく刺さなければ」

 彼女の白い指がすいすいと代わりに刺していく。手慣れた、そして美しい横顔にソフィーアですらも見惚れた。


「…宰相閣下は昔から、政敵も多いお方です。

淑女の嗜みも出来ぬ妻となれば――夫人が軽んじられるだけでなく、閣下の評判までも……」


 触れられた手は柔らかいのに言葉の刃は鋭利に刺さった。

 周囲の婦人たちは「…あらまあ、まあ」と口元に手を当て、私は笑顔を貼りつけた。


「ご忠告、心に留めますわ」


(うぐうううう刺さる刺さる!針を手に刺すより痛い!)


 帰り際、マルティナは小さな銀の指貫を私の掌にそっと載せた。

「サイズが合うとよろしいのだけれど

――ふふふ、いつも書物と睨めっこしていた堅物がこんな小さくて可愛らしい方とご結婚だなんて、ね。……応援しておりますわ」


(マルティナ様は昔、レオネル様の婚約者だったからってご婦人方が言ってたけど……。ご自分の魅力を活かしていらっしゃるし……凄く大人…前世の私でも到底及ばないわ……)



 刺繍会の後、ソフィーアは庭園の白いベンチへ逃げ込んだ。指貫を握り唇を噛む。


(泣かない、泣かない……)


「…ソフィーア?」


 やさしい声に顔を上げる。ラファエル――学園時代の一番の友人。隣国の第三王子で今も遊学中。医学に明るく、この世界の薬草や医療機器について一緒に研究した仲だった。


「……え、ちょっと涙出てるよ」

「……花粉が、」

「…こら、ちょっとみせて」


 彼はそっと顔を包み込み、微笑んだ。昔のままの穏やかな笑み。


「…君は姫にしてはお転婆だけど、その自由さが魅力なんだよ。こんなに泣かせる婚約なんてやめとけば?

 僕の国は君の国ほど大きくないし…僕は継承権も遠いしがない第三王子だ。

でも。でもさ、この国の宰相の妻って肩書よりはきっと自由に笑えるよ」


(自由、ね……。甘い、誘惑だわ。甘すぎる)


「……ありがとう。やさしいのね、相変わらず」


「やさしくないよ…やさしいなら弱ってるソフィーアに付け込まないでしょ」


 手の甲から指先に、優しく触れられ、弱った心が、余計に揺れる。


 そのとき――


「――ソフィーア」


 低く落ち着いた声。振り向けば、レオネルが立っていた。

 ソフィーアは反射的にごしごしと涙を拭い、勢いよく立ち上がる。


(いや!こんな情けない顔、見られたくない!)


「…わっわたしっ!…失礼いたします!」


 ドレスの裾をつまんでソフィーアは逃げた。

(ああ、逃げちゃった!!今の私をどうしても見せたくなかったの!!…でも、こんなのぜんっぜん、大人じゃない…ッ)



 残された二人。

 ラファエルは真剣な眼差しでレオネルを見た。


「彼女を泣かせるなら、その座を譲ってくれません?僕であれば隣で支えられるし、あんな風に我慢させません」


 レオネルの瞳が熱を帯びた。温厚な彼に似つかわしくない低く獰猛な声が漏れる。


「……小国の第三王子風情が…軽々しく彼女を分かったように言うな」


 剣呑な言葉にラファエルの目が細くなる。しかし、次の瞬間、ふっと笑って軽く両手を上げた。


「大人気ないなぁ、宰相殿。――でもそういう所を彼女にも見せてあげれば」


 レオネルは答えず、ラファエルは笑って庭をあとにした。


(泣く彼女は私を頼ってはくれなかった――しかし、彼女が他の誰かのものになる、ということを考えるだけで怒りに支配される…)



 夜の刺繍部屋。

 ソフィーアは一人で刺繍枠に向かっていた。指にいくつか小さな絆創膏をし、あの銀の指貫は意外にも指に馴染んでいた。


「私だって……刺繍くらい、できなくちゃ……」


「…隣に座ってもよいかな?」


 穏やかな声に誰か瞬時に分かり振り向かず頷くと、レオネルは音を立てずに入ってきて、隣に腰をおろした。


「……泣かせてしまった。すまない」


「いえ。悪いのは私なのです。私は得意なこと以外は何もかも中途半端で、マルティナ様みたいに淑女らしくなく……

 宰相夫人が刺繍もできないなんて、閣下の足を引っ張ちゃうから……」


 言いながらまたじんわり視界がにじむ。

 レオネルは静かに刺繍枠をソフィーアから受け取り、滑らかに針を動かした。


「夫婦は補い合うものだ。…それに、私だって完璧ではないぞ」


 レオネルの耳の先が、ほんのり赤い。


「実は、私はまったく料理ができない。野営のために練習したことがあるのだが…卵ひとつうまく割れないし鍋も焦がす」


「……え?」

「……塩と砂糖を入れ間違えて、侍従が全員、泣き出したことがある」


 真顔のレオネルに、ソフィーアは涙目のまま笑った。


「そ、それなら……私、得意です。私が、補えますわ」


 レオネルの目尻がわずかに緩む。


「…ふ、私もな、幼馴染のマルティナに散々付き合わされて刺繍は得意なんだ。――だから、お互い完璧でなくていい。君の弱さも不器用も、私は愛おしく感じる」


 胸が、きゅうっと痛くなる。苦くてでも甘い感覚はきっと、甘いだけよりソフィーアには合うのだろう。

 

「そんなふうに言われたら……っ、わたし、また泣いちゃいます……」


 ハンカチがすっと差し出される。彼は耳まで赤くし困ったように笑った。


「どうしたら泣かせずに済むのだろうな。私は君に対してだけ本当に不器用だ」


 ソフィーアは首を振る。


「泣くの、泣くのはいやじゃないです。――嬉しいと、泣いちゃうんです」


 温かい沈黙。

 やがて、レオネルがそっとソフィーアを抱きしめた。


「君は、不思議だ。私の腕にすっぽりとおさまってしまうほど小さく可愛らしい。

 だが時折、驚くほど大人だったり、そうかと思えば年相応に愛おしくなる幼さも――同じ君なのに」


 心臓が嫌な音をして軋む。

(……いま、言わなきゃ。夫婦になる、のだから)


「……レオネル様、あの、とても変な話なのですが……私、本当は……この世界以外の記憶があるの。33歳まで生きていた別の世界の記憶が……生まれた時から、あるの」


 声が震え、手が震える。血の気が引き気分が悪い。


「受け入れてもらえなくても仕方ないわ、気味悪いと思われても仕方ないわ!

 でも――でも!なにも隠したくないの。…夫となる、愛する、あなたに」


 レオネルが短く息を吐いた。深く優しい眼差しで身を固くする腕の中のソフィーアをゆっくり、ゆっくり撫でる。


「なるほど。だから君は時折、大胆不敵な大人で――大体、可愛らしいのか」


 彼はゆっくりソフィーアの顔を上げさせる。大きな手の温かさに下がってしまった体温が補われてゆく。


「ならば、私は二人分、愛さねばならないな。33歳の君も、22歳の君も。

 どちらも私の愛するひとで、どちらも私の腕の中にいる……これは、私にとってこの上なく幸福なことだね」


 胸が一杯で言葉が出ない。代わりに、ぽろぽろ涙が落ちる。

 彼はそっと涙をすくい、そして、ゆっくり口付けた。


「ねえ、レオネル様」

「うん」

優しく慰めるような口付けの合間に、涙をこぼしながらソフィーアが囁く。


「私、前世みたいに、もっと自由になりたいって思ったこともあるの、昔は…。

 でも、でも、あなたの隣で。

 前世でもしたことがない“半分こ”するの、たぶん、きっと、いちばん幸せになれるの」


「私も――ずっと一人だった。君と…君だからこそ、喜びも悲しみも、全てを半分ずつ分かち合いたい」


 深い口付けはしっくりと馴染む。


「見ていて。……貴方の隣で幸せになる私を」


「二人で机を囲み、二人で眠ろう……時折、仕事で待たせてしまうかもしれないが」


「ええ。時折、待てずに手伝ってしまうかもしれないわ」


 ――二人して大きく笑う。涙と笑いでとても忙しい夜。

 心拍はゆっくりと落ち着いていく。



 扉の外で、侍女カトレアはそっと額を扉に当てて、息を吐いた。


「……刺繍の縫い目は曲がっていても、二人のお心は真っ直ぐ縫い合わせられましたわね、姫様」


 彼女は音もなく去っていった。


 翌朝、宰相執務室に「婚約中の男女の距離感」という本が匿名で届き、慌てたレオネルが愛する人の姉のような誰かに謝罪しに行くのは、また別の、お話。


(胸がきゅんってしたり優しくじんわり暖かかったり、本当に忙しいわ。

 ――33歳の大人だった私にも、まだまだ知らないことがきっとたくさんある)

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