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第二章 様子のおかしい姫と宰相閣下の追いかけっこ

 翌日の朝。ソフィーアは早くから下拵えを済ませてから、気合を入れて一番お気に入りの水色のドレスを着た。

 宰相室へ続く長い廊下をカトレア共に柳の籠を自ら持ってるんるんしながら歩いていた。

 中身は――レモングラスとカモミールのハーブティー入りの魔法瓶、一口大の手作りサンドイッチ、そしてお手製柑橘ピール。


(差し入れはばっちり手作り!前世で自炊しててよかった……昨日借りた上着の御礼も兼ねてだし)


「姫殿下がお見えです」

 宰相室付きの文官が告げると、低めの声が聞こえた。


「……お入りください」


 扉を開けると、紙とインクの匂いがふわりと香る。

黒髪を整えた男――レオネル=ヴァルクレインが顔を上げた。目の下に薄い影があり、多忙を物語っている。けれど、ソフィーアを見て柔らかな微笑みを浮かべた。


「お仕事でお疲れでしょう、レオネル様!差し入れを持って参りましたわ」

 ソフィーアは籠を置き、最上の王女スマイルを作った。


「差し入れ……?」


「ハーブティーに、サンドイッチ。あと、これは柑橘ピール。夫の健康管理は円満な家庭の必須事項ですもの」

(ここで家庭的アピ!)


 レオネルの瞳が和らいだ。

「ありがとう……とても嬉しいです」



「まずはお茶から。お砂糖は――なしでよろしいですね」

 湯気と一緒にハーブの香りが立ちのぼる。ソフィーアはカップを手渡す。

 そしてすぐサンドイッチの包みを開いた。


「合間にどうぞ。手を止めずに食べられますから。……それとまずはこれを、あーんしてください!」


 ソフィーアが柑橘ピールをひとつ指で摘み、レオネルの口許へ差し出す。


「……“あーん”…ですか」


「はい、どうぞ♡」

(…ちょっとあざとすぎるかしら)


 レオネルは逡巡し固まったが、観念して口を開いた。その瞬間――


「……あっ」

 白く細い指先が勢い余ってちょんと彼の口角にふれた。


 世界が一瞬止まる。

(ちょ、ちょっと!?これくらい、大したことないはずなのにどきどきするわ!)


「し、失礼しま――」


 動揺のあまり不意に動いたソフィーアの腕が並々とハーブティーを注がれているカップを押した。


 ぱしゃり。


「あっ……!」

 レオネルの黒衣の腹のあたりに、琥珀色のしみが広がる。


「す、すみません!すぐ拭きます!」

 私は布巾を取ると、机を回り込み――


「ソフィーア、私が自分で――」

「いえ!私の不始末です!」


 ハンカチでていねいに叩く。

 ソフィーアの顔がレオネルの体に自然と近づく。


「書類は、よかった!無事ですわ!これは一度脱いでいただいて染み抜きをしないとっ……」


 書類を片手に掴み片手で彼の筋肉質な腹部を拭いていたソフィーアがぱっと顔を上げると二人は鼻先と鼻先が触れそうな距離にいた。互いの呼吸が、かすかに感じる。


(わ、わあ!かっこいい!違うわ、ち、近い!)


 緊張でソフィーアは体制を崩し手がレオネルの胸板に載ってしまった。

 硬い、熱い――大人の体温。


「……ソフィーア」

 低く掠れた声が、耳のすぐそばで鳴る。


「っ!」


 ソフィーアが反射的に一歩引く。けれど腰をいつの間にか掴まれていて視線だけがさまよった。


(だめ、顔が熱い、心臓がうるさい。な、どうして抱かれてるの)


「あ、あ、私ッ…」

 立ちあがろうとする――が、低い声が静止する。


「……落ち着いた少女と名高いソフィーアがこんなにお転婆だとは」


 しっかりと目を見つめるレオネルの瞳は薄ら熱を宿していた。


「私は――あなたを、女性として見ていますよ」


 今度はぐっと強く抱き寄せられる。

 耳元に息がかかり、ソフィーアは果実よりも真っ赤になった。


「そんなに無邪気に近づかれると、男は普段とは変わるのですよ…。誰にでもするのかね?それとも――ソフィーアは私に対して危機感がないのかな」


「っ……!」


(耳、耳が熱い……!声はやさしいのに、全然逃げれる気がしない!)


 あわあわと混乱し、ついに強引にソフィーアは立ち上がった。


「……し、失礼しますっ!」


 書類の束を抱え、扉へ一直線。頬、耳、胸――全部が熱く、堪らなかった。



「ソフィーア!待ちなさ――」

「待てませんわっっ!!」


 ドレスの裾を翻し宰相室前の廊下を早足――いや、もう小走りになっていた。

 背後から同じく足早な靴音がする。


「ソフィーア?」

「追わないでくださいませっ!……いや少し追ってもいいけど!!追い越さないで!!」


 二人が角を曲がった先に、腕を組むカトレアが完璧なタイミングで立っていた。


「……お二人とも。こんな廊下でなにをなさっているのです?」


「カ、カトレア!」

「婚約者の追いかけっこは大変微笑ましいですが…皆が騒ぎを見にきていますよ…姫様?聞いてます…?あら…まずは深呼吸、吸って、吐いて」


「すー……はー……」

「顔がおきれいに染まっておりますわね」

「その指摘は今はやめて!余計に乱れるでしょ!」


 息を整えるソフィーアの腕から、カトレアは器用に書類を取り上げて重ね直し半眼で囁いた。


「姫様、婚約者になったとはいえさすがに至近距離過ぎるのは危険行為ですよ?」


「事故よ事故!……たぶん、半分くらいは」


「半分は故意ですね?」


「ほんとうにちょっとはね!!」

(こんな予定ではなかったのよ!)


 レオネルがじっとカトレアに見つめられ苦笑している。


「……すみません」

「…宰相閣下、姫様は純粋培養ですし、ちょっと変わっておられるので」

 カトレアは呆れたように溜息をつく。

「姫様、閣下、お式まではその程度まででお願いしますね」


「留意する」

「善処します……」


 二人が同時に答え、視線がぶつかって、慌てて逸らす。


(だめ。目が合うだけで…!私ったらどうしたのかしら)


「ソフィーア」

 レオネルが静かに言う。

「驚かせてすまないな……ただ、あなたは魅力的だ。私以外にはそのようなことを決してしないように」


「……もちろんです。貴方だから…」


「…君は本当に煽るのが上手いな…」


 また苦笑し、それ以上近づかず彼は会釈して踵を返した。

 ぼんやりし続けるソフィーアを仕方なくカトレアは引きずって帰ることにし、ついでにこっそり扉から見ていた文官や使用人たちに仕事に戻るよう目線を送って歩いた。



 夜。

 宰相執務室にひとり残った男は窓辺で静かに息を吐く。


(完璧な姫、と名高い彼女…あまり関わりがなかったが落ち着き払ってそつなく社交をこなしているイメージだった。

――手製の差し入れを抱えてやってきただけでも意外だというのに。

 指が口元にふれただけで動揺してお茶をこぼし、私の体に無防備に近付いて…。あんなにも真っ赤になり、私にだけだ、などと…)


 残った柑橘ピールをひとつ、指でつまむ。

 ほろ苦さと甘さが口の中に広がった。


(――なんて無邪気で愛らしい)


 胸の鼓動がはねる。


(まさかこの歳にもなってこのような独占欲が…。けれどもう彼女を離してはやれない)


 静かな決意。今夜も政務は山積みだ。けれど、彼の胸の熱は簡単には冷めそうになかった。

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