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自覚

長いです。

すいません(^^;;

月曜日、朝7時45分。


 都心へ向かう電車は、生気のない顔をしたサラリーマンや学生が押し合い圧し合いする戦場だ。


 ギギーッという音を立ててカーブを曲がるたび右へ左へ。さらに加減速で前へ後ろへ。


 揉みくちゃにされながらこれから始まる1週間を思うと、暗い顔になってしまうのもしかたないとは思う。


でも……


(いやー、やっぱり凄いな。こんなラッシュとか、あっちじゃ考えられなかったもんな! 昔は嫌で仕方なかったけど……まさかこんなことでも嬉しいと思うようになるなんてな)


 俺にとっては実に20年ぶりの満員電車通学なんだから、なんかこう……胸にこみあげてくるものがある。


 そう。俺はいわゆる異世界召喚というやつの経験者だ。


 高校の入学式の数日前。 俺は異世界に召喚された。


 ああ勇者様、魔王を倒してうんぬんカンヌンというテンプレを実に20年という時間をかけてなんとか達成し、ようやく帰還したわけだ。


 ちなみに、勇者として召喚されたのに最後には魔王と呼ばれるようになっていたんだけどあれだけは解せぬ。まあそれはおいておこう。


 時間の流れが異なっていたおかげで、あっちの20年はこっちの20分でしかなかったのには安堵した。見た目ゴツい中年から高校生の姿に戻れたのも助かった。


 とはいえ記憶が無くなったわけではないから、俺の青春の1ページの色がグレーどころか真っ黒だった悲しさや悔しさはしっかりと覚えている。


 ちなみに、パーティを組んでいたのは全員ゴリマッチョの野郎のみ。美人で巨乳な猫耳女戦士や、慈愛の聖女なんてのはラノベや漫画の中だけなのである。チクセウ。


 とにかく、俺には青春らしい青春を送りたかったんだ。


 こうして、無事生き残ってもういちど青春の続きが出来るからには、ら・し・い・青春を満喫してやる。絶対にだ。


やりたいことはいくらでもあるけど、まずは元の生活に早く慣れないとな。勉強も不安だし、なんならクラスメイトだった奴の名前なんて鉄男くらいしか覚えてないぞ……。


(ん? あの子どうしたんだ?)


 車両の真ん中で、真っ青な顔をした女の子が具合でも悪くなったのかしゃがみこんでしまった。


 緑を基本としたブレザーということは、同じ学校なんだろうけど。


(あ、あれはマズイぞ)


 顔色と汗がちょっと普通じゃない。


「すいません、ちょっと通してください」


 声をかけながら、その子に近づく。普通ならなかなか苦労しそうな人混みだけど、今の俺の体幹とバランス感覚ならたいした問題でもなく、その子の側に辿り着いたその瞬間。


 ギ、ギギー


「「あっ」」


 大きな音を立てて電車が大きくカーブをするのに合わせて女の子が倒れかけたのを慌てて支えたら、抱きしめるような形になってしまった。


「「…………」」


「え、えっとごめん。具合悪そうだったから大丈夫かなと思ってその……ごめんな」


「い、いえわたしこそその……すいません……助けてもらってありがとうございました」


 弱々しいながらも透き通った声がとてもきれいなことに驚いた。


(こんな天使みたいな声、初めて聞いたぞ。例えるなら、えーと、まるで……天使みたいだ!)


 完全に語彙量をなくしてるな、俺。


しかし、それにしても……この子、痩せすぎなんじゃないか?


 女の子とこんなに密着したのは初めてだけど、どう考えてもちょっとダイエットを頑張ってみましたとかそんなレベルじゃないと思う。


「あ、あの……?」


「え? あ、あ、ごめん! ……あっ?!」


 抱きしめたままになってたのを慌てて離した瞬間、また大きく電車が傾いて倒れかけたところを支えて――

 お互いの息が感じられるほど近くに彼女の顔があるわけで。


「「…………」」


 気,気まずい


「ええと、同じ学校だと思うんだけど、だいぶ具合悪そうだし次の駅でいったん降りて休んだほうがいいと思うんだけど」


「でも、それじゃあ遅刻しちゃうから……」


「だけど、そんなにフラフラしてたら危ないって。遅刻なら、俺もいっしょにするから大丈夫。ほらよく言うでしょ? みんなで遅刻すれば怖くないって」


 まあ俺の場合20年遅刻してるようなもんだしね。いまさらちょっとくらい遅れたとこでたいしたことはないもんな。


「すいません、降りまーす」


 ちょうど駅に着いたところで、入り口付近に立ってる人たちに声をかけながらなかば強引に彼女の手を引いて降りる。


「も、もう……。でも……わたしひとりじゃ確かに無理しちゃっていたかもしれません」


 微笑む彼女は、ホームから見える桜よりもずっとずっと綺麗だった。


朝の駅のホームは、通勤通学客でごった返していた。


 吐き出されるように降りていく人波の中、俺と彼女はちょっと場違いなくらいゆっくり歩く。


「えっと……大丈夫?」


「はい……。すみません、なんだか迷惑をかけちゃって」


 彼女は申し訳なさそうにうつむく。小さく揺れる黒髪は朝の光に透けて、まるで薄絹のように繊細だった。


 ただ、立っているだけでもふらついているのが分かる。やっぱり無理はさせられないか。


「気にすんなよ。あそこで倒れてたらもっと大ごとになってたと思うし」


「……ありがとうございます」


 小さく笑った表情は、さっきまで真っ青だった顔色が少し和らいだように見えた。


 改札を抜け、駅前のベンチに腰かけるように促し、コンビニで買ったペットボトルの水を差し出す。


「どうぞ」


「あ……すみません」


 キャップを開ける手も細くて頼りない。水を口に含んで小さく息をつくと、少し落ち着いたみたいだ。


「それにしても……」


「え?」


「……やっぱり助けてもらえてよかったなって」


 ふわりとした笑顔に、俺は一瞬息を呑んだ。


(……やばい、やっぱりかわいい)


 異世界で出会ったのは筋肉だらけの男どもばかり。20年も男臭い日常を過ごしたあとでこんな女の子に微笑まれたら、そりゃ脳がショートするのもしかたい(はずだ)。


「念のため、学校に着いたら保健室に行こうか。今日は入学式だけど、そっちが優先だと思う」


「でも……」


「遅刻は俺もつき合うって言ったろ? それに、もし倒れでもしたら遅刻どころじゃすまないし」


 少し考えたあと、彼女は小さく頷いた。


「……はい」


 並んで歩きだす。途中下車したとはいえ、ここの駅から学校までは徒歩15分ほど。幸い土地勘もあるし、体感上は20年ぶりの道だが迷う心配はなさそうだ。


「あ、そういえば自己紹介がまだだったな。俺……」


 危うく勇者をやってる――と続けそうになり、慌てて飲み込む。


「えっと、暁月 陽光あかつき ひなたって言います」

「暁月くん……。私は、皓月 葵こうげつあおいです」


「皓月さん……へえ、月って字が入るのは俺と同じだな」


「そうですね。改めて暁月くん……さっきはありがとうございました」


「ははは、もういいって。お、学校見えてきたな」


 少し歩いて、校門が見えてきた。まだ登校してくる生徒がぽつぽついる。どうやら遅刻はしないで済んだようだ。昇降口にいた先生に保健室の場所を聞いた俺たちはそのまま扉を叩いて中に入った。


 保健室の白いカーテンの奥。ベッドに横たわる皓月さんは、少し休んだらだいぶ呼吸が落ち着いたようだ。


 保健の先生が俺に向かって言った。


「式はちょっと休ませたほうがいいわね。貧血気味かしら」


「わかりました」


 俺は椅子に腰を下ろし、皓月さんの様子を眺める。


「暁月くん、ほんとにありがとうございました」


「いやいや、俺は大したことしてないって」


「でも、電車で倒れてたらどうなってたか……。助けてもらえなかったら、きっと……」


 言葉を濁しながら、彼女はシーツを握った。


「……俺はさ」


「はい?」


 きょとんとした顔をする皓月さんに、俺は少し照れながら続けた。


「いや、変な意味じゃなくてな。俺、今まで青春っぽいことってほとんどできなかったから。困ってる子を助けるとか、そういう普通の学生生活が、俺にはすごく新鮮でさ」


 言ってから、しまったと後悔した。どう考えても年相応の言葉ではないし、そもそもとして具合が悪い女の子に言う言葉でもないだろう。俺のバカ!


 皓月さんは、そんな俺をじっと見つめていた。


「……なんだか、同い年なのはずなのにずっと年上の人みたな感じがする……不思議な人ですね」


「うっ……」


「でも……なんだか安心するんです。暁月くんと話してると」


 その言葉に、胸がじんと熱くなった。


(ああ、これだ。俺が欲しかったのは、なんていうか……こういうのなんだよ)


 窓から差し込む朝の光が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。


 今度こそ、やり直すんだ。剣も魔法もない、普通の世界で。俺は俺の青春を生き直す。


 入学式の始まりを告げる鐘が鳴り響いた。


入学式はあっけなく終わった。


 校長の長い話も、来賓の祝辞も、どれも心に残っていない。覚えているのは、保健室での皓月さんの声と笑顔。そして、入学式が行われて体育館の前に貼ってあったクラス分け表を見た時の驚きだ。


 式のあと、教室に戻って簡単な自己紹介。


 俺の番になり、特に言うことも思いつかず、「暁月陽光です。楽しい学校生活を送れたらいいなと思っています」と無難に済ませた。


 そして「皓月葵です。どうか、皆さん仲良くしてくださいね」という挨拶。


 そう。偶然にも俺は皓月さんと同じクラスになったのだ。ああ、神は実在した……!!


 簡単な連絡事項を伝えられた後、その日は午前のうちに解散となり昇降口は新入生でごった返していた。


 そんな中、廊下の壁にもたれ、鞄を抱えて立ち尽くす皓月さんの姿が目に入った。


「皓月さん、大丈夫か?」


 声をかけると、彼女は小さく笑みをつくった。


「ええ……ちょっと眩暈がしただけです」


「駅まで送るよ。倒れられたら困るから」


「……じゃあ、お言葉に甘えます」


 彼女の頷きに、拒否されなくてよかったー! とか思ったのは我ながら単純すぎるか?


 校門を出て、並んで歩き始める。


 通りを行く人から見れば、ただの新入生二人。


 けれど俺にとっては、二十年ぶりの下校だった。ただ制服で気になる女の子と並んで歩くだけの日常。


 その当たり前が、どうしようもなく眩しい。


「……入学式、わたしも出たかったです」


 葵がぽつりとつぶやく。


「そうだな。でも、まさかおんなじクラスになれるなんてびっくりしたよ」


「自己紹介のとき……暁月くん、すごく落ち着いてました」


「落ち着いてたか? むしろ内心はおどおどしまくってたけどな」


「ふふ……そうは見えませんでした。なんだか、周りより一歩引いて見ている感じがしましたよ?」


 その言葉に、一瞬心臓が跳ねる。


 彼女に悟られてはいけない。


 他の人より二十年分の人生を経験があるなんてこと、知られたらどんな目で見られることやら。少なくとも変な目で見られるのは避けられそうな気がする。


「……まあ、人より場慣れする機会が多かったからかな」


 曖昧に笑ってごまかす。


 春風が吹き、彼女の髪が揺れて俺の肩をかすめる。

 その柔らかな感触に、わけもなく鼓動が早くなった。


 駅前のハンバーガーショップは、昼時もいうこともあり多くの客で溢れていた。


「暁月くん? どうしたんですか?」


「実は俺、こういうハンバーガーショップって行ったことなくてさ。高校生になったらそのうち行ってみたいと思ってたんだよな」


「暁月くんもですか? 私も行ったことなくて、いつか食べてみたいなと思ってたんです!」


「高校生っていえば、こういうお店ってイメージあるもんな」


 彼女の体調がよくなったら、誘ってみたら案外喜んでくれるかもしれないな。


 電車を待つ間、二人で並んでホームに立つ。周囲の喧騒の中、皓月さんの声だけはかき消されることなくしっかりと耳に届く。


「……今日は、本当に助かりました」


 皓月さんが視線を落としながら言う。


「俺は大したことしてないさ」


「いいえ。もし朝、暁月くんがいなかったら……たぶん、途中で倒れてました」


 彼女は少し頬を赤らめ、言葉を選ぶように続けた。


「それに……こうして一緒に帰れて、安心しました」


 どれだけ剣を振るっても得られなかったものがここにあった。


 人に必要とされる、ただそれだけでこんなにも心が満たされるのか。


 やがて滑り込んできた電車に乗り込み、俺たちは自然と隣同士に腰かけた。


放課後(といってもまだ午前中だけど)の電車揺れは、朝よりも少しだけ柔らかく感じた。


 人の数もまばらで、窓から射す光どこかほっとする。


 隣に座る皓月さんが、制服のスカートの裾をそっと整えながら、小さなため息を漏らしたのを耳にして、俺は思わず彼女の横顔を盗み見てしまった。


 同じ学年のはずなのに、どうしてこんなに落ち着いて見えるんだろう。


 笑い方も、言葉の選び方も、視線の向け方さえも。

「大人っぽい」という言葉では片づけられない、何かを背負っているような雰囲気を、皓月さんは纏っていた。


「……ふふ、何かついてる?」


 目が合った瞬間、皓月さんが首を傾げる。


「あ、いや……ごめん。ちょっと考えごと」


「考えごと?」


「ん……新しいクラスのこととか、部活とか。いろいろさ」


 ごまかすように言ったけど、内心はまったく違った。俺はただ、彼女の横顔が気になって仕方なかっただけだ。


 窓から差し込む光に照らされた頬の線。そのわずかな陰影すら、他の同級生たちとは別のもののように思えた。


 電車が減速し、次の駅を告げるアナウンスが流れる。皓月さんは立ち上がりながら、鞄の持ち手をぎゅっと握った。


「じゃあ、私はここで。……また明日ね、暁月君」


 その言葉に、ほんの少しの名残惜しさが滲んでいるように思えたのは、俺の勝手な期待だろうか。我ながら少し気持ち悪い。


「うん、また明日」


 電車のドアが閉まり、彼女の姿が視界から消える。残された俺は、座席に深く腰を沈め、窓の外を流れる景色にぼんやりと視線を預けた。


 帰宅して制服を脱ぎ、ベッドに体を投げ出した。天井を見上げると、今日一日の出来事が鮮やかに思い返される。入学式、クラス分け、そして皓月さんとの会話。

 胸がざわざわする。緊張なのか、不安なのか、それとも別の感情なのか、まだ自分ではうまく言葉にできない。


 ただ一つだけはっきりしている。


 ――明日も、彼女と話したい。


 その気持ちは、間違いないと思う。


 いつの間にかまぶたが重くなり、意識がゆっくりと沈んでいく。


 夢の中でも、皓月さんの横顔が浮かびそうな気がして、俺は小さく笑いながら眠りに落ちた。



 電車のドアが閉まる瞬間、私は小さく息を吐いた。


 手を振りたい気持ちもあったけれど、結局できなかった。


 窓越しに暁月君の姿が遠ざかっていくのを横目で確認しながら、私は人波に紛れるようにホームを歩き出す。


 同じ制服を着ていても、私はやっぱり「同級生」には見えないんじゃないか――そんな不安が、胸の奥にひっそりと広がる。


 けれど、彼はそんなことを少しも気にしていないように見えた。それが嬉しくもあり、怖くもある。


 帰宅すると、私は真っ先に制服を脱いでハンガーに掛けた。


 ふと、部屋の隅に置いた姿見が視界に入る。


 けれど、私はすぐに視線を逸らした。


 ――鏡を見るのは、あまり好きじゃない。


 だから私は最低限しか鏡を見ない。代わりに、今日の自分を心の中で思い返す。


 入学式の校門をくぐったときの緊張。クラスメイトたちの賑やかな声。そして、電車の中での時間。


 そのどれもが、病院の白い天井の下では得られなかった、きらきらしたものだった。


「……ふふ」


 無意識に笑みがこぼれる。


 胸の奥の痛みや、先の見えない不安は消えてはいない。けれど、今日だけは、それを少し忘れることができた。


 私はベッドに潜り込み、毛布を引き寄せた。


 暁月君の笑顔が、目を閉じても鮮やかに浮かんでくる。

 ――明日も、また会えるだろうか。


 そんな期待と、胸の奥に隠す秘密を抱えたまま、私は静かに眠りに落ちていった。


翌日。新しい制服の肩口にはまだ硬さが残り、歩くたびに擦れるのが少し気になる。


昨日の人混みと慣れない空気に緊張しっぱなしだったせいで、体がまだ重い。


 けれど、それ以上にもやもやしたのは皓月さんの姿が今朝は見えなかったことだ。


 駅で少し待ってみたが、やはり現れない。教室に入っても彼女の席は空いたまま。出席をとるときに担任が淡々と「今日は欠席だ」と告げた瞬間、胸の奥に小さな穴があいたようだった。


(どうしたんだ……昨日、帰りは調子良さそうだったのに)


 帰宅後、もしかしたら体調を崩したのかもしれない。でも、それを詮索する資格なんて俺にはないか。


ただのクラスメイト――そう自分に言い聞かせても、落ち着かない気持ちは拭えなかった。


 二時間目は、よりによって体育だった。


 体育館に集められた新入生は、まず体力テストを受けることになった。


握力、反復横跳び、長座体前屈。地味な測定が並ぶのを見ながら、内心冷や汗がにじむ。


(やばい……身体能力は勇者のままだから、まともにやったら全部おかしな数値になる)


 握力なら片手で岩を砕けるし、反復横跳びも地面が割れるほど跳べる。本気を出すつもりはない。けれど、「普通」を装うことほど難しいことはない。


 俺の番が来た。握力計を手にすると、周囲の視線が集まる。前に計測したやつらは大体40kg前後。平均的な数字だ。


「次、お前だ」


「……おう」


 深呼吸して、ほんのわずかだけ力を込める。結果、針が一気に跳ね上がり、60を軽く超えて止まった。


「うおっ、すげぇ!」


「マジかよ!」


「え、いや……たまたまだから」


 慌てて取り繕うが、視線はすでに俺に注がれていた。目立つなんて、絶対に避けたいのに。


「……暁月、だよな?」


 不意に名前を呼ばれた。


振り向くと、後ろに立っていたのは佐伯涼太。中学時代の同級生だ。


 俺が三年間、陰キャとして空気みたいに過ごしていた頃をよく知る相手。サッカー部のレギュラーで、いつも明るい連中に囲まれていたやつだ。


「うそだろ……お前、あの暁月だよな? 中学んとき、体育見学ばっかで、持久走もいつも最後尾だったのに……なんでそんな握力出んだよ!」


 その声に、周囲がざわついた。


「え、中学一緒だったの?」


「じゃあ最近までは運動苦手だったってこと?」


「いや、でもさっきの記録やばかったぞ」


 佐伯は信じられないという顔で俺を指差す。


「いやいや、マジで別人みたいだ……お前、なんでそんな変わってんだよ」


「……ちょっと成長しただけだって」


 必死にごまかすが、冷や汗は止まらなかった。


 次は反復横跳び。


意識して抑えようとしたつもりだったが、体が勝手に軽く動いてしまう。数え役の女子が目を丸くした。


「え、ちょ、速すぎて……数えきれない!」


 周囲がどよめく。佐伯が叫んだ。


「おいおい、中学んときは運動音痴で有名だったんだぞ! どうなってんだ、暁月!」


 俺は笑って受け流すしかなかった。でも、胸の奥では小さな焦燥がじりじりと燃え広がっていく。


 最後は千メートル走。校庭を回る周回コースだ。


最初は周囲に合わせてジョギングしていたが、途中で後ろから肩をぶつけられた。


「おい、暁月! トロトロ走ってんじゃねーよ!」


 挑発してきたのは、クラスの目立ちたがり男子。


 その瞬間、勇者として戦場を駆け抜けた記憶が体を勝手に動かした。


あちらでは、負け=死が当然で、負けることはどんな争いでも許されない。それが体の芯まで染み付いているんだ。


 一歩踏み出した瞬間、耳に残ったのは風を裂く音だけだった。全力じゃない。半分も出していない。それでも周囲からすれば圧倒的だった。


「な、なにあれ……!」


「速すぎだろ……!」


 ゴールラインを駆け抜けて振り返ると、後方でみんなが豆粒のようだった。


 教師まで目を丸くしている。


「暁月……お前、陸上部に入る気はないか?」


「い、いやいや! 運動苦手なんで!」


 反射的に否定する。笑ってごまかしたが、背中には嫌な汗が張り付いていた。


 放課後。


 教室に戻ると、周囲の小声が聞こえてきた。


「暁月って意外とすごいよな……」


「陰キャかと思ってたけど……」


 そのざわめきの中に、佐伯の声も混じる。


「いや、俺が保証する。中学のときは本当に地味で、誰よりも運動できなかったんだって。こいつ、まるで別人だわ……」


 その言葉に胸がちくりと痛んだ。


 ――そうだ。俺は陰キャだった。


体も弱く、強い者には巻かれるどころか、近付かないようにしていた。


 けれど今日、元勇者の体が勝手に「強さ」をさらけ出してしまった。


 夕焼けに染まる窓を見ながら、俺は小さくため息をついた。


(……やっちまったな)


翌朝。


 昨日のことを思い返しながら、俺はまたぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られている。


 3日目にもなると、初日の通学の楽しさも無くなった。押し合いへし合いする波に飲まれるのは想像以上に体力を削る。


異世界で魔物の群れに突っ込んでいたときの方が、まだ気楽だったかもしれない。


 ということは、この電車で通勤通学する人はみんな異世界に行ってもなんとかなるんじゃないか?そんな馬鹿なことを考えていると、視界の先に2日前に電車で見送った後ろ姿があった。


 すっきりと結んだ黒髪が、車内の喧騒の中でひときわ映えていた。皓月さんだ。


「おはよう」


 声をかけると、彼女は少し驚いたようにこちらを振り返った。


「あ、暁月くん。おはようございます」


 ほんの少し間を置いて、柔らかく笑みを浮かべる。


 その表情は、どこか儚げな雰囲気を醸し出しているように見えた。


 俺はふと、昨日の欠席を思い出した。


「そういえば……昨日は学校、休んでたよな。具合でも悪かったのか?」


 皓月はわずかに目を泳がせてから、首を横に振る。


「ううん。ちょっと急用ができて休んじゃったの。心配かけたならごめん」


 その言い方は、なんだか言葉を選んでいる気配がした。


 俺はそれ以上踏み込むのはやめた。理由を話したくないのなら、無理に聞き出すのは野暮だろう。


「そっか。まあ、元気そうならよかった」


「うん、ありがとう」


 短いやりとりの中に、妙な感情が芽生える。


 彼女の言葉には隠された事情が何かある気がするが、いずれ話してくれる日が来るのを待つしかないか。


 電車が揺れ、ふたりは自然と近い距離で立ち続ける。


 会話はそこで途切れたけれど、沈黙もなんだか心地よい気がした。むしろ、不思議な安心感が漂っていた。



 教室に入ると、ホームルーム前のざわめきが耳に飛び込んでくる。


 入学式や昨日の授業が終わり、クラスメイトたちは少しずつ打ち解け始めていた。


「なあなあ、暁月。部活とか入る?」


 近くの男子が声をかけてきた。


「部活……か」


 その言葉に思わず考え込む。異世界では剣を振るい、魔法を操ってきた俺だが、現代日本の部活動となると勝手が違う。


「うちのクラス、結構みんな仮入部とか動き出してるよ。サッカー部とかバスケ部とか、あと吹奏楽に行くってやつもいたし」


「俺は帰宅部がいいかなー」なんて声も上がる。


 別の女子が笑いながら言った。


「でもさ、確かに部活は決めなきゃでしょ。せっかくの高校生だもん」


「おい暁月。お前さ、体育でけっこう目立ってたし運動部向きなんじゃね?」


 男子の何気ない一言に、周囲が「たしかに」と頷く。


 だが俺は苦笑いを浮かべて首を振る。


「……いや、俺は目立つのは性に合わないんだ。静かにやれるところがいい」


 その言葉に、何人かが「わかるわかる」と相槌を打った。どうやら俺と同じように、目立つのを避けたいクラスメイトもいるらしい。


「じゃあ、文化系の無難なところにしとくとか?」


「えー、暁月くんは絶対運動系がいいと思うけどなあ」


「でも、好きなものをやるほうがよくないか?」


 わいわいとしたやりとりの中で、俺はふと皓月さんに目をやった。


 皓月さんは窓の外を眺めながら、静かに会話を聞いているようだった。


 小声で尋ねる。


「皓月さんは、部活とかどうするんだ?」


 彼女はゆっくりと視線を戻し、少し考えたあとで答えた。


「……まだ、決めてない。無理に入らなくてもいいかなって」


「同感だな。俺もそう思ってる」


「ふふ……同じだね」


 その笑顔は、どこかほっとしたようにも見えた。


 俺たちの高校生活の日常は少しずつ形を作り始めていく。


 この教室で皆と同じ時間を過ごすだけで、不思議と未来が少し明るく見えてしまうのだった。


その日の授業は午前中で終わった。


 午後は、部活見学をしたり、やる気のある奴はさっそく仮入部したり、もちろんそのまま帰るのもあり。


 まだ入学したばかりだからか、教室にはどこか落ち着かない熱気が漂っている気がする。


 机を寄せてお弁当を広げるグループもいれば、廊下で友達と待ち合わせているやつもいて、クラス全体がざわついていた。


「なあ、学食いかね?」


 近くの男子が声をかけてきた。


「学食……?」


 その甘美な単語に、つい顔がにやけてしまう。


 中学にはなかった、実はずっと憧れていた施設だ。


 異世界では野営の炊き出しばかりで……あれは酷いもんだった。


「今日から営業してるんだってさ。メニューは日替わり定食に、うどん、そば、カレー。結構充実してるらしいぜ」


「行くしかないでしょ! オレも腹減ったし」


「えー、私はお弁当持ってきたんだけど……」


「そんなの夜食べればいいじゃん!」


 楽しげなやりとりに巻き込まれるようにして、俺も流れに乗った。別に断る理由もない。


 食堂の入口に近づくと、すでにざわざわとした喧騒と、揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきた。


 ドアを開けた瞬間、さらに強烈な匂いの波が押し寄せる。油とソースとカレー粉が混ざった香りは、不思議と食欲を刺激する。


「うわ、すげえ混んでる!」


「やっぱみんな考えること同じだな」


 カウンターには長い列ができていて、メニュー札には「カレー」「ラーメン」「親子丼」「唐揚げ定食」といった文字が並んでいた。初めて目にする学食の光景に、少し胸が高鳴る。


「何にする? 俺はやっぱカツカレー!」


「お前、初日からそんな重いのかよ」


「いやいや、カレーは正義だから!」


 男子たちの元気な声に押され、俺も結局同じものを頼んでしまった。揚げたてのカツがどんと乗った皿は、見ているだけで胃袋が反応する。


 席を探すと、教室で一緒だった数人がすでにテーブルを占拠していて、互いのトレーを見せ合いながら盛り上がっていた。


「うわ、量すご! 絶対食べきれないでしょ!」


「やべー、唐揚げジューシーすぎ!」


「こっちのラーメンも意外と本格的だぞ!」


 笑い声が食堂のざわめきに混じり合い、どこか華やかに響く。


 あっという間に友達の輪を作っている彼らを見て、少しだけ眩しく感じた。


 ――けれど。


 窓際でひとり、パンと紅茶を前に座っている皓月さんの姿に目が止まる。


 その静けさは、賑やかな輪の中とはまるで別の世界のように見えた。


 気づけば足が、自然とそちらに向かっていた。


「隣、いいか?」


 声をかけると、彼女は小さく目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。


「もちろん」


 向かい合って腰を下ろすと、紅茶の香りに重なるように、柔らかい香りが漂う。


周囲の騒がしさが遠ざかり、ふたりだけの落ち着いた空気が流れる。


「皓月さん、それだけで足りるのか?」


「うん。あんまりたくさんは食べられなくて。……昔からね」


「そっか。俺は逆に食べすぎるくらいだから、ちょうどいいのかも」


 俺のカツカレーを見て、彼女は口元を押さえて小さく笑った。


「初日から元気いっぱいだね」


「……まあ、勢いで頼んだ」


 照れ隠しのようにスプーンを口へ運ぶと、ルーの香辛料が鼻に抜け、思った以上にうまかった。思わず「うまっ」と声が漏れると、皓月さんがくすっと笑う。


「なんだか楽しそう」


「そう見えるか?」


「うん。……いいことだと思う」


 彼女の言葉に、なぜか心が軽くなる。


 ふと横目をやると、クラスメイトたちがまだ大声で騒いでいて、テーブルからは笑い声が絶えない。


 にぎやかで眩しい輪に、俺はまだ自然に混ざれる自信はなかった。


 けれど、こうして静かに言葉を交わす昼休みも悪くない。


 むしろ今の自分には、こっちの方が心地よく思えた。


 窓の外では、春の陽射しが校庭をやわらかく照らしている。


……この昼休みが、思っていた以上に心に残る時間になるとは。その時の俺は、まだ気づいていなかった。


午後の校舎は、どこか浮き立った空気に包まれているように感じる。


 部活見学の初日ということで、廊下には上級生の呼び込みや、興味本位で覗き込む一年生たちの姿が目立つな。


 教室に残って談笑するグループもいれば、校庭を覗きに行くやつもいて、それぞれが自由に時間を使っていた。


 俺はというと、特に行き先もなく廊下を歩いていた。隣には、食事を終えた皓月さんもいっしょにいる。


 昇降口近くの掲示板に「部活動紹介ウィーク!」と書かれた模造紙が貼られているのを見つけ、立ち止まった。

 運動部、文化部、ずらりと名前が並んでいる。


「……どこか気になりますか?」


「あー……いや、正直どれもピンと来なくて」


「そうなんですか?」


「うん。運動部は、ちょっと合わなそうだし」


 彼女は「ふふ」と小さく笑っただけで、それ以上は突っ込んでこない。


 一緒に並んで模造紙を眺めていると、隅のほうに小さく「文芸部」と書かれているのが目に留まった。


「文芸部か……」


 思わず声に出すと、皓月さんが少し首を傾げる。


「気になるんですか?」


「まあ……本を読むのは好きだから。落ち着いてできそうだし」


「私も、ちょっと気になります」


「静かな場所で言葉に向き合えるのって、いいよね」


 皓月さんは一瞬だけ困ったような笑みを浮かべた。


(やべ。なんか変なこと言っちまったか?)


焦ったけど、すぐにいつもの表情に戻った。思い過ごしだったらしい。


「……じゃあ、一緒に行ってみる?」


「うん」


 そうして俺たちは、四階の隅にある文芸部の部室へ向かった。


 ドアを開けると、紙とインクの匂いがふわりと鼻をくすぐった。


 思ったより狭い部屋だが、本棚が壁を埋め尽くし、古びた机がいくつも並んでいる。


「あ、見学?」


 机に向かっていた女子が顔を上げた。丸眼鏡に短めの髪、落ち着いた雰囲気なのに、目はきらきらと輝いている。


「はい。とりあえず体験だけでもいいですか?」


 俺が答えると、彼女はにこっと笑った。


「もちろん! 私は二年の藤間。部長やってます。座っていいよ」


 勧められるまま、俺と皓月さんは並んで席に着く。


「今日は特に活動はないけど、よかったら試しに何か書いてみる? それとも、何か読んでいく?」


 皓月さんは迷いなく紙をとペンを取った。


「……書くの、好きなの?」


「うん。小さいころから、日記とかずっと書いてるの。体が弱くて、家や病院にいることが多かったから……本やノートが友達だったの」


 彼女の静かな声に、俺は何も言えなかった。

 でも、すぐに柔らかい笑顔が添えられる。


「だから、無理して部活に入ることはないなんて言っちゃったけど、文芸部って実はちょっと憧れてたの」


 その笑顔が、胸に深く残った。


 しばらくは、部屋にペン先の音だけが響いた。


 俺は結局、今日の学食のことを書き始めた。カツカレーの匂い、賑やかな声、窓際で微笑む皓月さん――。


 文字にすることで、感情が形になるようで、不思議と心が落ち着いた。


 隣では皓月さんが真剣な顔でペンを走らせていて、その仕草に思わず目が留まる。


 着物美人の文豪がそこにいるような錯覚を覚えるとか、どれだけオーラが出てるんだ?!


「今日はここまでにしておこうか」


 部長の藤間先輩の声で顔を上げると、外はもう夕焼けに染まり始めていた。


「どうだった?」


「……楽しかったです」


 皓月さんがそう答え、俺も頷いた。


「じゃあ仮入部ってことにしておいていいかな? また明日も来てね」


 部屋を出ると、窓から見える校庭は赤く照らされ、長い影が伸びている。


「すごく楽しかった。……あそこなら続けられると思う」


 皓月さんは、安心したように言った。


 並んで歩く足音が、気づけば同じリズムを刻んでいた。


「また明日も、一緒に行こうか」


「うん。……ありがとう」


 駅までの距離も皓月さんとの距離も、少しずつ近づいていた。


朝の教室は、窓から差し込む光で白く柔らかく輝いている。新しい教科書の紙の匂いが、まだ少し鼻に残っていた。


 私は机に頬杖をつきながら、廊下を通る一年生たちの声に耳を澄ませていた。昨日の部活見学の話題が多く上がっていて、楽しそうな声が聞こえてくる。


 ――やっぱり、いいな。


 普通の高校生なら当たり前に通り過ぎる光景なのに、私には特別に思えてしまう。十九歳の私が、いまここにいること自体、少し場違いだと知っているから。


 もし病気で寝込まずに済んでいたら、みんなと同じ十五の春に入学して、もう大学生になっていたはず。そう考えると胸の奥がひりつく。でも私は、その痛みを抱えてでもここにいたい。


 ……普通の制服を着て、普通に授業を受けて、友達と笑ったり、恋をしたり。

 誰かにとっては何でもない毎日が、私には憧れだった。


 黒板の前で先生が点呼をとる声に、私は慌てて姿勢を直す。名前を呼ばれると同時に返事をしたけれど、その声が少しかすれていたのは、自分でも分かった。


 「皓月さん、大丈夫?」


 隣の席の子が、そっと覗き込んでくる。


 「うん、大丈夫。ちょっと考えごとをしてただけ」


 私は笑ってみせた。上手に笑えていたかは分からない。でも、その子が安心したように頷いたから、たぶん大丈夫。


 こうして少しずつでいい。私は“普通”に近づいていきたい。

 みんなと同じ青春を、ちゃんと自分の手で掴みたい。


 ――そのためにも、今日も笑わなきゃ。


午後の授業で教壇の前に立った先生が、軽い調子で告げた。


 「二週間後に球技大会があります。クラスごとにチームを作って、バレーボールとバスケット、それからサッカー。出たい種目を考えておくように」


 わっと歓声が上がる。隣の子が「どれに出る?」と友達同士で盛り上がり、机を囲んで相談を始める。


 私はノートを閉じたまま、ただ笑顔を貼りつけていた。


 私は運動なんてできない。無理にやれば、すぐに体が悲鳴を上げてしまう。だから、最初から事情を知っている担任の先生と保健室の先生に相談して、体育の授業は「見学でレポート提出」という扱いにしてもらってる。


 ――でも。


 みんなの楽しそうな声を聞いていると、胸の奥に暗い影が落ちる。


 ボールを追いかけて笑ったり、得点が入った瞬間に歓声を上げたり。そんな当たり前の行事に、私は加われない。


 十九歳で全日制に来てまで、やっぱり私は「普通」になれないのかな。


 机の端に置いた指先に、ぎゅっと力が入った。


 「皓月さんは、何に出る?」


 前の席の暁月くんが振り返って、明るく声をかけてくれる。入学式の日……あの電車ではじめて会ってから、なぜか私を気にかけてくれる男の子。


クラスメイトの中でもいちばんよく話しているけど、そんな彼にも私の秘密は教えられない。


 「……私、見学なの」


 小さな声で答えると、一瞬の沈黙。けれど暁月くんはすぐに「そっか」と頷いて笑ってくれた。


 優しい笑みなのに、私はなぜか息苦しくなって、目を伏せた。


 みんなと同じ青春を送りたいと願ってここに来たのに、現実はこうして差を突きつけてくる。

 それでも諦めたくない。たとえ見学でも、応援でも、私はこの輪の中にいたい。


 だから今日も私は笑顔でいる。


 どんなに大変でも、ここに居場所を作るために。


球技大会の話が出たその日の放課後から、クラスは一気にざわつき始めた。


「俺はバスケ!」「いやいや、サッカーだろ!」なんて声が飛び交い、黒板の端に貼られたエントリー用紙には早くも種目ごとの希望者の名前が書かれ始めている。


 もちろん、俺もどれにするか考えなきゃいけない。


 正直、バスケはドリブルもシュートも自信ない。バレーボールはサーブのたびに変な方向に飛ばす未来しか見えない。だから消去法で選ぶしかないわけで……。


「よし、俺はサッカーにするか」


 思い切って名前を書き込むと、後ろから声が飛んできた。


「お、暁月もサッカーか! いいじゃん、一緒にやろうぜ」


 振り返ると、隣の席の武田がにやっと笑っている。元気の塊みたいなやつだ。


「武田はポジションどこやるんだ?」


「俺? フォワードに決まってんだろ。ゴール決めて女子にキャーキャー言わせるんだ」


「はいはい。夢見るのはタダだもんな」


 くだらないやり取りに笑い合いながら席に戻ると、後ろの席の皓月さんがノートを閉じて話しかけてきた。


「暁月くん、サッカーやるんだ」


「うん。まあ、バスケもバレーも苦手だしな。サッカーなら走ってりゃ何とかなるだろ」


「……走るの得意なんだね」


 皓月さんは、少し羨ましそうに微笑んだ。


 俺は何となく言葉に詰まった。彼女が運動に参加できないことを、みんな知らない。けれど俺は、彼女の「見学」という一言を聞いてしまったから。


「まあ、得意ってほどでもないけどさ。ボールがこっちにこなければ大丈夫だと思う」


 冗談っぽく言うと、皓月さんは「ふふっ」と小さく笑った。


 それから二週間、体育の時間はほとんど球技大会の準備に使われた。といっても、ガチで練習するわけじゃなく、ポジション決めやルール確認、ちょっとした試合形式の練習をする程度だ。


 結局、俺はキーパーに立候補した。


 理由は単純で、走り回るのが苦手なわけじゃないけどフォワードやミッドフィルダーは目立ちすぎる。


ディフェンスも悪くないけど、どうせなら後ろで構えてる方が性に合ってる。


「おー、暁月がキーパーか。頼りにしてるぞ!」


 武田が肩を叩いてくる。


「お前、頼りにしすぎるなよ。止められる保証はねーぞ」


「大丈夫だって! 俺がガンガン点取るから!」


「それ一番フラグっぽいんだけど……」


 そんなふうに軽口を叩き合うたび、チームの雰囲気は少しずつ盛り上がっていった。


 ある日の昼休み、なぜか大会に向けてモチベーションの高い俺たちは教室の窓際の机を囲んでポジション確認の話をしていた。


「暁月がキーパーで、武田がフォワード。んで、中盤は……」


 クラス委員の真面目系男子・宮下がノートにメモを取りながら仕切っている。


「女子も混ぜてやらないと人数足りないからな」


「でも女子ってあんま走らないだろ」


「お前、そういうこと言うなよ」


 笑いながら言い合っていると、ふと視線の先に皓月さんが見えた。彼女は数人の女子に囲まれて、楽しそうにおしゃべりしている。


 ――少し安心した。


 俺が余計なことをしなくても、ちゃんと彼女の居場所はできつつある。そう思うと、胸の奥がじんわり軽くなるんだ。


「なあ暁月、お前と仲いい皓月さん、球技大会は出ないの?」


 武田がひそひそ声で聞いてくる。


「皓月さん? ……うん、ちょっと事情あって見学なんだってさ」


「ふーん。なんか大人っぽい感じだよな、皓月さんって」


「だな。なんか普通の一年より落ち着いてる」


 俺は曖昧に笑ってごまかした。


 彼女のことを勝手に話すわけにはいかない。けど、みんなが自然に彼女を受け入れてくれたらいいなって、心から思った。


 球技大会が近づくにつれて、クラス全体の空気もさらに熱を帯びていった。


休み時間にボールを蹴って遊ぶやつもいれば、バレーとバスケ組は体育館で練習試合をしている。


 そんな中、皓月さんはいつも通り穏やかに過ごしていた。


「応援頑張るね」とか「写真撮るの好きだから、記録係やろうかな」とか言って、できることを探しているみたいだった。


「なあ皓月さん、写真撮るなら俺が点いれてるとこ撮ってくれよ」


「ふふっ、じゃあちゃんと決めてね」


「おう、任しとけ!」


 そんな軽口を叩けるくらいクラスの雰囲気はいい感じに仕上がっているのが、元陰キャな俺にも楽しい。


 そして迎えた、球技大会当日の朝。


 グラウンドには早くもテントが立ち並び、クラスごとにカラー分けされたハチマキを巻いた生徒たちが集まっていた。晴れ渡った空の下、吹き流しの旗が風に揺れている。


「おお、テンション上がるな!」


 武田が声を上げ、俺の肩をばんばん叩く。


「お前、最初から飛ばすとバテるぞ」


「うるせー! 今日の俺はやる男なんだ!」


 俺は苦笑しつつ、ゴール前に並べられたビブスを手に取った。背中には大きく「1」の数字。そう、今日は俺がこのチームの守護神だ。


 ふと観客席の方を見ると、皓月さんが女子たちと並んで座っていた。手を振ると、彼女も小さく振り返してくれる。


 その笑顔に、不思議と力が湧いてきた。


 ――よし、やるか。


 グラウンドに足を踏み出した瞬間、クラスメイトたちの声援が響いた。


球技大会の朝、グラウンドはすでに熱気でむんむんしていた。

 クラスごとにカラーのハチマキを巻いて円陣を組んでいる。俺はゴール前に立ち、深呼吸した。

 本当は人前で目立つのは好きじゃない。けどキーパーをやる以上、ある程度は仕方ない。

 ――ま、派手なことさえしなきゃ無難に終わるだろ。


 笛が鳴り、第一試合が始まった。

 相手は三組。けっこう強いと聞いていたけど、意外にも試合は膠着状態。前半はお互い攻めきれず、ただ時間が過ぎていく。


 俺は飛んでくるボールをキャッチしたり、軽く弾いたりする程度で、特に危ない場面もなかった。

 後半、武田がゴールを決めてくれて、結果は一点差の勝利。

 「よっしゃー!」


 「初戦突破!」

 クラス中が沸き立つ中、俺はホッと胸を撫で下ろした。

 ――無難に終わった。これで十分。


 ちらっと観客席を見ると、皓月さんが手を叩いて笑ってくれていた。

 その笑顔に、なぜか背筋がくすぐったくなる。


 二回戦、準決勝と試合はテンポよく進んでいった。

 どの試合も武田の突破力が光り、点を量産。俺はというと、多少シュートを止めたくらいで特に目立つこともなく、気づけば決勝まで駒を進めていた。


 「いよいよ決勝だな!」

 武田がビブスを直しながらにやけている。

 「お前が止めてくれてるから、俺も安心して攻められるんだぜ」

 「いやいや、俺は後ろでのんびりしてただけだって」

 「何言ってんだ。頼りにしてるぞ、守護神!」

 「やめろ、その呼び方……」


 からかわれつつも、心の奥では少しうれしい。


 決勝戦。


 相手はサッカー部が何人もいる四組。開始早々からガンガン攻めてきて、俺のゴール前はマジで慌ただしかった。


 そして後半、ついにその瞬間が来る。

 相手のエースが放った強烈なシュート。俺は飛びついた――が、手がわずかに届かず、ボールはゴールネットを揺らされてしまった。


 「うわああっ!」


 「入ったー!」


 歓声とため息が入り混じる。

 俺は地面に倒れ込んだまま、唇を噛んだ。


 本気を出せばもちろん余裕で止められた。だけどそんなことをしたら体力測定の時以上に目立ってしまうし……。


(やっぱり、俺なんかが守護神なんて無理だったんだ。)


 その時。


 観客席から、澄んだ声が飛んできた。


 「暁月くん! 大丈夫、次は止められるよ!」


 大勢の歓声の中、皓月さんの声だけがはっきり聞こえた。


 立ち上がる俺に向かって、必死に手を振っている。

 目が合った瞬間、胸の奥で何かがはじけた。


 ――そうだ、まだ終わってない。


 残り時間はわずか。


 俺は集中してゴール前に立ち続けた。仲間が必死に守り、武田がカウンターで一点を返す。


 同点のまま迎えたラストプレー。


 相手の決定的なシュートが飛んできた。全員が息をのむ中、俺は全力で飛びつく。


 手のひらに伝わる確かな感触。ボールはゴールポストをかすめ、外へ――。


 「ナイスキーパー!」


 「暁月よく止めた!」


 味方の歓声に包まれる中、コーナーキックのボールをすぐさま味方が奪う。


ボールが前線に渡り、武田がゴールを決めた。


 笛が鳴り響く――逆転勝利。


 仲間たちに肩を抱かれ、歓声の渦の中に飲み込まれていく。

 ふと観客席を見ると、皓月さんが拍手しながら笑ってくれていた。


 俺は胸の奥に燃えるような熱を感じながら、笑顔を返した。

 ――たとえ目立ちたくなくても、今日だけは、この瞬間だけは悪くない。


決勝の熱気がまだ冷めきらない夕方。


 机を端に寄せた教室は、即席のパーティー会場みたいになっていた。ジュースのペットボトル、チョコやポテチの袋が円の中心に置かれて、みんな思い思いに声を張り上げている。


「暁月ー! 最後のセーブ、マジで神だったな!」


「いやいや、あのシュート止められるやついねーよ!」


 クラスの中に俺の名前が飛び交うたび、耳の奥がじんわり熱くなる。


 ――俺は別にヒーローになりたかったわけじゃない。けど、笑顔で肩を叩かれると、不思議と悪い気はしなかった。


「……暁月くん」


 その喧騒の隙間をすり抜けるように、澄んだ声が届いた。


 窓際にいたと思っていた皓月さんが、手の届きそうな距離にいた。


 淡い光に照らされた横顔は、試合のときよりずっと柔らかい。


 彼女は少しだけ俯き、俺を見上げるようにして言った。


「……すごく、かっこよかったですよ」


 言い終えると、彼女は耳まで赤くして視線をそらした。


 その一言が耳に入った瞬間、鼓動が跳ね上がった。


「え……俺が?」


 皓月さんは、ほんの少し恥ずかしそうに唇をゆるめる。


「はい。ゴールを守ってる姿、すごく頼もしくて……。クラスのみんなも安心してたと思います」


 彼女の言葉に合わせて、胸がざわめくように高鳴った。


 頼もしい? 俺が?


 そんなふうに言われたのは、初めてだった。


 彼女の瞳は真っすぐで、逃げ場がない。


 その視線に射抜かれたまま、俺は気づいてしまった。


 ――俺、皓月さんのことが好きなんだ。


 ただ「いいな」と思うのとは違う。勝利の喜びともまるで違う。


 この心臓の暴れ方は、彼女の言葉と笑顔にしか反応していない。


 自覚した瞬間、顔に熱が上る。呼吸が浅くなる。


 俺は慌てて視線をそらそうとしたけど、逆に惹きつけられてしまって、彼女から目を離せなかった。


「……ありがと」


 情けないくらい間の抜けた声しか出なかった。


 でも皓月さんは、ふわりと笑った。


 その笑みが胸に溶け込んで、俺の世界が一瞬で色づいた。


 周りでは武田たちが「体育祭は俺らが優勝だ!」と騒ぎ続けている。


 でも俺にとっては、それ以上に大きな出来事がもう起きていた。


 喜びとも緊張とも違う。俺を突き動かす力を確かに感じたんだ。


 ――俺は、恋をしたんだな。


 皓月さんの言葉ひとつで、彼女の笑顔ひとつで、こんなにも心が揺さぶられるなんて。


 そのことに気づいた今、もう後戻りなんてできそうになかった。


球技大会の朝。まだ日差しが柔らかい時間なのに、グラウンドはもう熱気でいっぱいだった。


 クラスごとに色の違うハチマキを巻いて、円陣を組んでいる。声を張り上げる男子、緊張した顔をしている女子、みんなの姿がまぶしい。


 私は観客席の端に腰を下ろし、視線を探した。


 ……いた。ゴール前に立つ暁月くん。大きく深呼吸して、少しだけ肩をすくめるように立っている。ああ、やっぱり人前は苦手なんだ。けれど、それでも前に立つ姿は、私にはとても頼もしく見えた。


 第一試合は三組と。強いとみんな言ってたけど、意外と拮抗していた。


 ボールがこっちのゴールに近づくたび心臓が跳ね上がる。


暁月くんがキャッチやクリアするたび、ほっとして拍手をしていた。


 後半、武田くんがゴールを決めたときには、周囲の歓声に混じって私も声をあげていた。


 勝った瞬間、暁月くんが胸を撫で下ろすのが見えた。彼らしい。無事に終わったことが、きっといちばんうれしいんだろう。


 そのとき、ふとこちらを振り向いた。


 目が合った気がして、とっさに笑顔を返す。……ほんの数秒なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 二回戦、準決勝と勝ち上がるごとに、私の心臓の鼓動も少しずつ速くなっていった。


 攻撃の主役は武田くん。でも、暁月くんの守りがあるからこそ安心して攻められるのは、素人の私でも分かる。


 彼自身は目立とうとせず淡々としているのに、チームメイトが自然と彼を信頼している。その空気が、なんだか心地よかった。


 そして、決勝戦。相手はサッカー部が何人もいる四組。試合開始から押し込まれる展開で、私は座ってるだけなのに息が苦しいほどだった。


 後半。

 相手のエースが放った強烈なシュート。


 ――あっ。


 暁月くんが飛びついたけれど、ボールにはわずかに届かずゴールへ。


 その瞬間、彼が地面に倒れ込んだ姿が見えて、胸が締め付けられた。唇を噛む彼の横顔。自分を責めているのが伝わってくる。


 気づいたら、声が出ていた。


 「暁月くん! 大丈夫、次は止められるよ!」


 周りの視線なんて、どうでもよかった。ただ彼に届いてほしかった。


 彼がこちらを見て、目が合った。ドキッとした。私の頬が熱くなる。だけど同時に、彼の目に光が戻ったように感じた。


 ――よかった。届いたんだ。


 残り時間はわずか。


 ゴール前に立つ暁月くんを、息を止めて見守った。


 そして最後のプレー。決定的なシュートが飛んできたとき、私は立ち上がっていた。


 全身を投げ出すように飛びつく暁月くん。手のひらに当たったボールがポストをかすめて外へ弾かれる。


 「――!」


言葉にならない声が、喉の奥からもれる。


 歓声が一気に爆発する。仲間の声援に押されてボールは前線へ、そして武田くんのシュートが決まり――逆転。


 笛が鳴った瞬間、グラウンド中が揺れるような歓声に包まれた。


 私は夢中で拍手していた。


 ゴール前で仲間たちに抱きつかれている暁月くん。


その笑顔は、これまででいちばん眩しくて、見ているだけで胸の奥が痛いほど灼けついた。


 彼がこちらを振り返り、笑顔を返してくれたとき……まるで胸の奥に火が灯ったような、知らなかった熱が広がっていった。


 ――ああ、今日の彼は、誰よりもかっこいい。


決勝の熱気がまだ残る夕方。


机を端に寄せただけの教室は、まるで即席の打ち上げ会場と化していた。ジュースやお菓子が山のように並んで、みんな笑い声を上げている。


「暁月ー! 最後のセーブ、マジで神だったな!」


「いやいや、あのシュート止められるやついねーよ!」


何度も彼の名前が呼ばれて、そのたびに暁月くんは照れくさそうに笑っていた。


その笑顔を見ていると、自然と私の口角もあがってくる。


試合中の姿を思い返す。汗まみれになりながら、最後までゴールを守り抜いた彼の姿。


あの時、目が合った彼に大きな声で声援を送った。自分があんなに大きな声が出せるんだとびっくりしたくらいだ。


その一瞬の熱がまだ胸に残っているのに、教室のざわめきはあまりに軽やかで、遠いもののように思えた。


私は輪の中に入れない。体も弱いし、みんなと同じテンポで騒ぐこともできないから。


それを気にしていないふりをするのに、少し疲れてしまった。


だから私は、静かに彼のもとへ歩いていった。


「……暁月くん」


呼びかけに振り返った彼の目が、わずかに揺れる。


まるで私の胸の奥の熱さを感じ取ったみたいに。その視線に、胸がざわめいた。


「今日の試合……すごく、かっこよかったですよ」


自分の声が小さく震えているのに気づく。

胸の奥にしまっておけばよかったのに、抑えきれなかった。


「え……俺が?」


間の抜けた声。

なのに、その驚き方がどうしようもなく愛しく思えてしまう。


「はい。ゴールを守ってる姿、すごく頼もしくて……。クラスのみんなも安心してたと思います」


彼の表情が変わる。


驚きから照れへ、そして胸の奥に灯がともるような顔。

その変化を見ているだけで、心臓が痛いほど熱くなった。


――もしかしたら、彼も気づいているんじゃないだろうか。


私が「ただのクラスメイト」とは違う目で彼を見ていることを。


「……ありがと」


掠れた声だった。

それだけど、私は笑った。どうしてもこらえきれなかった。


教室の喧騒は遠のいて、視界には彼しか映らない。


――もしかしたら。

私は、もうとっくに心を奪われていたのかもしれない。


でもそれを「恋」だと認めてしまったら、きっと怖くなる。


体の弱さも、年齢のことも、全部隠せなくなってしまうから。


それでも。

彼の横顔を見ていると、胸が熱くなる。笑顔を思い出すだけで息が詰まる。


この気持ちがどんな名前を持っているのか、答えはもう近くまで来ている気がした。


俺はなんとなく窓の外を眺めていた。もう日が傾いて、グラウンドの影が長く伸びている。


「暁月くん」


 声をかけられて振り返ると、皓月さんが立っていた。


「そろそろ帰りませんか?」


 いつもなら「お先にどうぞ」って言いそうな俺だけど、今日は違った。心臓の高鳴りはまだ止まっていない。


 「うん、一緒に帰ろっか」


口に出して、自分でも驚いた。中学の頃の俺なら、絶対にドギマギして言えなかっただろう。まあ、少しは異世界の経験が役に立ったのかもしれない。


 廊下を並んで歩くと、外はすっかり夕暮れ。オレンジ色の光が、校舎の窓を反射してきらきらしていた。


「……なんだか、まだ夢みたいですね」


「試合のこと?」


「はい。みんなの歓声とか、すごくて……。暁月くん、本当にヒーローみたいでした」


「やめてくれよ。俺、あんまりそういうの得意じゃないんだ」


「ふふっ。でも、頼もしかったです」


 彼女の笑みは、グラウンドで見た太陽よりまぶしく感じた。


 そのまま雑談をしながら駅前まで歩くと、皓月さんがふと立ち止まった。


「……あそこ」


 視線の先には、前から気になっていると言っていたハンバーガーショップがあった。ガラス張りの店内から、楽しそうな笑い声とポテトの香ばしい匂いが漏れてくる。


「行ってみる?」


「いいんですか?」


「もちろん」


「やった! ハンバーガーショップってはじめてなんです!」


 やたらと嬉しそうな皓月さんをエスコートして入店すると、思ったより店内は明るくて賑やかだった。


 制服姿の学生や、買い物帰りの親子などが楽しそうに過ごしている。


 俺たちは、注文した商品を受け取ると窓際の二人席に腰を下ろした。


 トレイに置かれたハンバーガーの包装紙を破ると、肉とチーズの匂いがふわりと広がる。


「わぁ……思ったより大きいですね」


 皓月さんは両手で包みを持ちながら、楽しそうに笑った。


「こうやってかぶりつくんだよ」


 俺が見本を見せると、彼女も小さく口を開けてかじった。


 その瞬間、目をまんまるにして「おいしい!」と声を上げる。


 その反応が可愛すぎて、思わず笑ってしまった。


「なかなかイケるだろ?」


「本当に……幸せです」


 そんな言葉を、ハンバーガーひと口で言える人を初めて見た。胸がじんわり温かくなる。


(本当に……幸せだな)


 ポテトをつまみながら、他愛もない話をした。


 小学校のとき給食で好きだったメニューとか、体育が苦手な話とか。


 皓月さんが意外とゲーム好きだと知って驚いたりもした。


 笑い合うたびに、時間があっという間に過ぎていく。


 気づけば外は真っ暗になっていた。


「そろそろ帰らないとですね」


 皓月さんが時計を見て小さく息をつく。


「送っていくよ。もう遅いし」


「でも……」


「大丈夫だって。俺の家とは同じ方向なんだから」


 彼女をひとりで帰らせる気にはなれなかった。


 電車を降りると夜風が少し冷たくて、いつかのように自然に歩幅が合った。


「こうして誰かと寄り道したりするの、久しぶりなんです」


「そっか」


「いつもは体調のこともあって、すぐ帰るから」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


「でも今日は楽しかったです」


 そう言って笑う彼女を見た瞬間、俺は思った。


 ――守りたい。


 ゴールを守るみたいに。みんなの前で見せた勇気を、今度は彼女のために使いたい。


 彼女の家の前に着いた。白い門灯が、やわらかく庭を照らしている。


「送ってくれて、ありがとうございます」


「いや、俺も楽しかったし」


 立ち止まった彼女が、ふいに俺を見上げた。


「暁月くん」


 月明かりに照らされた彼女は、まるで天使のようだった。


「また……一緒に行けたら、嬉しいです」


 声は小さく、でも確かに届いた。


 喉が渇いたみたいに、うまく言葉が出てこない。

 それでも、必死に答えを返す。


「……ああ、行こう。何回でも。絶対に」


 彼女の笑顔が、夜道を照らす月より明るく見えた。


 背を向けて歩き出しても、心臓の高鳴りは収まらなかった。


 今日の試合よりも、仲間の歓声よりも、ずっと強く胸を打ってくる。


 ――俺はもう、彼女のことを守りたいって思っている。

 ただのクラスメイトじゃなくて、もっと近くで。


 夜空に浮かぶ月を見上げながら、俺は拳を握った。


 きっとこれから、いろんなことが待っている。だけど、今日の約束を絶対に叶えたい。


 そう思ったんだ。


文芸部の部室は、いつものように本と紙束の匂いに満ちていた。


夕陽が赤く差し込み、埃の粒がきらきらと浮かんでいる。


「お、そろったね」


 二年で部長の藤間先輩が、ノートパソコンから顔を上げた。長い前髪を耳にかけ、にやりと笑う。


「ちょうど話したいことがあったの。インターネットの小説コンクール、知ってる?」


「コンクール?」


 俺――暁月が首をかしげると、隣で皓月さんが「あ、知ってます」と声をあげた。


「毎年テーマを変えて作品を募集しているんですよね。今年の課題は――『勇気』」


「その通り」


 藤間先輩は腕を組んで頷いた。


「どう? 挑戦してみない? せっかく文芸部なんだし、部としてもいいアピールになると思うんだ」


「勇気、か……」


「私はね」


 藤間先輩は人差し指を立てて笑った。


「ホラーを書こうと思ってる。深夜に一人で学校に取り残された子が、怖さを乗り越える話。怖いものと向き合うのも勇気、でしょ?」


「ホラーですか」


 皓月さんが思わず苦笑する。


「さすが藤間先輩」


 俺も苦笑いした。


「で、あなたたちは二人で書いてみない? 合作ってことにしてさ。内容は任せるよ。楽しみにしてるから」


 完全に“決定事項”みたいな口調だった。


 皓月さんと顔を見合わせる。


「どうする?」


「面白そうですね。ぜひやってみたいです」


 彼女は迷いなく頷いた。


「じゃあ、決まりね」


 藤間先輩は軽く手を叩き、再びパソコンに視線を戻した。


 部室の机にノートを広げ、俺たちは向かい合った。


「暁月くんは、どんな話を?」


「俺か……勇気って聞くと、どうしても勇者とか冒険者とか戦う系が浮かぶんだよな。臆病な主人公が剣を持って、怖くても立ち向かう――そんなラノベ風の話を書いてみたい」


「ラノベ風、ですか」


「うん。ちょっと中二っぽいけど」


 そう言うと、皓月さんは楽しそうに笑った。


「いいと思います。勇気って、そういうイメージがありますよね」


「じゃあ、皓月さんは?」


「……私は」


 少し視線を落とし、息を整えてから言葉を紡ぐ。


「病気で、長くは生きられない女の子がいるんです。その子がある男の子に出会って、『もっと生きたい』と願う物語を書いてみたい」


 胸がぎゅっと締めつけられた。彼女自身の影を映しているようで。


「それも、勇気だよな」


「はい。生きようとする勇気。未来を信じる勇気」


 彼女の声は小さいけれど、確かに強かった。


「……いい話になると思う」


 思わず口にすると、彼女は少し照れて笑った。


 アイディアを出し合ううちに、線が繋がり始める。


「勇者の冒険と、病気の少女の話。二つの物語を並行して進化させて……最後に重ねるのはどう?」


「なるほど! 二人の勇気が響き合うんですね」


「そう。勇気の意味はいろいろあるけど、どっちも本物だから」


「……素敵です」


 机のノートに二人でペンを走らせる。勇者の戦いの章と、少女の心の章。ページが少しずつ埋まっていくたびに、胸が踊る。


「楽しそうじゃない」


 気づけば藤間先輩が覗き込んでいた。


「勇者と病気の少女か……いいね。じゃあ私は私で、幽霊の出る音楽室の話を書こうかな。真夜中にピアノが鳴るの。主人公がその音に怯えながらも確かめに行く――それが勇気ってわけ」


「うわ、本当にホラーですね」


 皓月さんが肩をすくめる。


「ふふ、怖がらせたらごめんね。でもお互い負けないように頑張ろう」


 そう言って藤間先輩は笑い、再び自分のキーボードに向かった。


 夜。部室を出ると、外はすっかり暗くなっていた。


「今日も送っていくよ」


「ありがとうございます」


 並んで歩きながら、ノートに描いた物語を思い返す。


勇者の勇気と、少女の勇気。

二つの物語は、きっと俺たち自身だ。


 拳を握ると、胸の奥が熱くなる。これはただの課題じゃない。


 「皓月さん」


「はい、なんですか?」


「絶対、いい物語にしよう」


「そうですね、頑張りましょう!」



学食のテーブルに、ノートパソコンと二人分のトレーを並べる。


昼休みのざわめきの中、俺と皓月さんは並んで画面を覗き込んでいた。


「ここ、勇者が魔物を倒したあとに、少女の場面を重ねるのはどうですか?」


「たとえば――勇者が仲間に励まされる場面と、少女が病室で友達からお見舞いを受ける場面を対比させる、とか?」


「いいですね! それだと“勇気を分け合う”感じが強まります」


 彼女はペンを走らせ、紙に簡単な図を描いていく。


矢印で場面の流れを整理して、最後ににっこり笑う。


「こうやって線がつながっていくの、気持ちいいですね」


「わかる。バラバラだったピースが、カチッとはまる瞬間って感じだな」


 気づけば少し冷めた味噌ラーメンをすすりながら、二人で小説談義に没頭していた。


周囲のざわめきも気にならない。画面の中の物語が、どんどん形を成していくのが楽しくて仕方なかった。


数日後。放課後の駅前。


「じゃあ、今日も続き書きましょう」


「おう」


 皓月さんの提案で、俺たちは駅前のハンバーガーショップに通うようになっていた。


二階席の隅っこ。ポテトと肉の匂いに包まれたテーブルに、横並びで腰掛ける。


「勇者がついに魔王に挑むところまで来ましたね」


「皓月さんのパートも盛り上がってきたよな。“生きたい”って言葉、あそこすげえ胸にきた」


「……ありがとうございます」


 ほんの少し照れて、彼女はストローをくわえる。ドリンクの氷がカランと鳴った。


その横顔がなんだか嬉しそうで、俺まで胸があったかくなるのが分かる。


「じゃあ次は……どうします?」


「勇者の戦いを最高潮にして、少女が最後に勇者の物語を読んで――勇気をもらう、って流れはどうだ?」


「なるほど。二つの物語が、そこで重なるんですね」


「そう。読み手にも“リンクしてる”って思わせたい」


 彼女は大きく頷いた。


「いいです、それ。じゃあラストに向けて、一気に書き進めちゃいましょう」


 そして気づけば閉店間際。机の上には食べ終わった包み紙とメモがびっしり書き込まれたノート。


時計を見て慌てて片づけると、外はもう月が色濃く見えていた。


物語は少しずつ形を整えていく。勇者の剣が振り下ろされるたび、少女の心臓も力強く鼓動を打つ。戦いと生の渇望――その二つが、確かに並行して進んでいた。


戦いと生の渇望。その二つが、確かに並んで進んでいた。

「気づけば……八割くらいできちゃいましたね」


ある日、皓月さんがページをスクロールしながらぽつりと言いながらノートを指でなぞる。


「ほんとだ。ここまでくると、ちょっと感慨深いな」


「うん……なんだか、寂しくもあります」


「え?」


「だって、もうすぐ終わっちゃうじゃないですか」


 彼女の微笑みに、胸がちくりとした。物語の終わりが、まるで俺たちの時間の終わりを暗示しているように感じられて。


「……終わっても、また書けばいいさ」


思わずそんなことを言った。


皓月さんは少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。


それから間も無く、文化祭の準備やテスト勉強に追われ、俺たちの執筆は小休止に入った。


放課後の部室は、模造紙や絵の具の匂いが満ちている。


「久しぶりにパソコン開きましたね」


「だな。ちょっとブランクあるけど……逆に新鮮だ」


 ファイルを開くと、見慣れた文章がずらりと並んでいた。

勇者の冒険も、少女の物語も、画面の中でじっとハッピーエンドを待っている。


「ここからがラストスパートですね」


「うん。……最後まで、ちゃんと書ききろうな」


文化祭当日。


 校舎は色とりどりの紙飾りや風船で華やかに彩られていた。


 廊下には手作りのポスターがずらりと並び、屋外からは焼きそばやフランクフルトの香ばしい匂いが漂ってくる。いつも静かな学校が、まるで祭りの広場のように活気づいていた。


「人が多いですね……」


「だな。自分の学校なのに迷子になりそうだ」


 今日は文芸部の発表日。といっても、合作小説の完成はまだ先なので代わりに歴代文芸部員の作品展示と、先輩による朗読会を行うことになった。


「ほら、展示スペースの準備できたよ」


 部長の藤間先輩が、パンフレットを手にやって来た。


「今年の目玉は朗読会ね。お客さんの前で読むのはちょっと緊張するけど」


「すみません、俺たちの合作……結局、最後まで仕上げられなくて」


 俺が頭を下げると、藤間先輩はにやりと笑った。


「いいのいいの。その分、わたしのホラーが目立つじゃない」


 さらりと言い切る先輩の強さに救われる。


 皓月さんも「はい……」と安堵の笑みを浮かべた。


「でもさ、展示と朗読会が回り始めたら、あとは暇なんだよね」


 藤間先輩は腕を組み、わざとらしく首を傾げる。


「だから……二人で文化祭デートでもしてきたら? せっかくだし」


「「えっ」」


 同時に声が重なった。顔が熱くなるのを誤魔化すように俺は咳払いする。


「な、何言ってるんですか先輩」


「だって、準備終わったら二人とも暇でしょ? 見てよ、この文化祭の熱気! わたあめ食ったり、射的で競ったり、楽しめることは山ほどあるんだからさ」


先輩はパンフレットを軽く叩きながら、いたずらっぽく笑った。


「お客さんの相手は私と他の部員に任せて。お祭りは楽しんだもん勝ちよ!」


「……そういうことなら、お言葉に甘えましょうか」


 皓月さんは意外にもすんなりと受け入れて、俺の方をちらりと見た。


「暁月くん、いいですか?」


「ま、まあ……」


 押し切られる形で、俺たちは部室を出た。


 校舎中が熱気に満ちていて、廊下を歩くだけで心が浮立つ。屋外の模擬店を巡り、わたあめを半分こしたり、ゲーム研究部の射的で互いに外しまくったり。


「ちょっと恥ずかしいですね」


「だよな……でも、楽しいな」


 笑い合うその時間は、俺にとって宝物そのものだ。


 しかし。人混みの中を歩いていたとき。


「……っ」


 皓月さんの足取りが急にふらついた。


「大丈夫か?」


「はい……ちょっと、目眩が……あっ……」


 言い終える前に、彼女の体が力なく崩れ落ちた。


「皓月さん!」


 抱きとめた腕の中で、彼女はぐったりとしている。


 周囲がざわつき、教師や保健委員が駆け寄ってくる。


 救急車が呼ばれ、俺は必死に彼女の……葵の名を呼び続けた。



 病院の待合室は、祭の喧騒とは正反対の静けさだった。


 時計の秒針とストレッチャーの音だけがやけに響き、冷たいベンチに座る俺の手は汗で湿っていた。心臓がやたらとうるさく鳴って吐き気がこみ上げる。


葵の笑顔、さっきまでの楽しかった時間が、頭の中でぐるぐると回る。でも、どんなに思い出しても、彼女が倒れた瞬間の映像がすべてを塗り潰してしまう。


(早く、早く何かわかってくれ!)


心の中でそう叫びながら、俺はただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。


「ご家族の方はこちらへ」


 医師の声に、駆けつけてきた葵の両親が立ち上がる。


「待ってください! あの、俺も!」


 いてもたってもいられず声を上げるが、医師は首を横に振った。


「君が暁月くんだね。娘からよく話を聞いていたよ。あとできちんと話をしたいから、しばらく待っていてくれるかい?」


「分かりました……」


 葵の父の言葉に、俺はただ頷くことしかできなかった。


 気が狂いそうになるほど長く感じた30分が経ち、ようやく医師との話を終えた葵の両親が戻ってきた。


 涙ぐんだ葵の母は、そのまま病室へ向かい、俺と葵の父だけがその場に残された。


「昔からの病気が悪化したそうだ。長くはもたない。余命は……二十日ほどと言われた……」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が真っ白になった。


 周囲の音が遠ざかり、父親の口がまだ動いているのに、言葉として頭に入ってこない。


 二十日。


 短すぎる数字が、脳裏で何度も反響した。


 葵の父親は無言でうつむく。


「彼女は……知っていたんですか?」


 なんとか絞り出した俺の声に、父親は静かに頷いた。


「娘は……わかっていたんだ、自分のことを。だからこそ、どうしても普通の高校生活を経験したかったんだと思う」


「え……?」


「今、娘は麻酔で眠っているが明日には目が覚めるそうだ。きっと、君には自分で話したいだろう。すまないが、明日も葵に会いに来てもらえないだろうか?」


「分かりました……。必ず……明日また葵さんに会いに来ます」


 俺の返事に、葵の父親は少しだけ表情を緩め、頷いた。



 自宅の窓の外には夕焼けが広がり、街を赤く染めている。


 ベッドの上で横になる俺は、ひとりごとをずっと繰り返している。


「……未完成のままなんて、ひどいよ」


「いい小説にしようって、約束したじゃないか」


 返事はない。


「……彼女の具合が悪いのは、最初から分かっていたのに。俺が、元勇者のことがバレるのが嫌だからって何もしなかったから」


「そうだ、俺ならなんとかできたかもしれないのに……! くそおっ!」


 涙でにじむ視界の奥で、ノートに並んだ未完成の文字たちが浮かんで見える。


 勇者の勇気。少女の勇気。その物語はまだ、途切れたまま。


「勇気を出して。最後まで、一緒に」


 ふと、書きかけの物語の少女の声が聞こえたような気がした。


「勇気を出して。最後まで、一緒に」


 その声が、胸の奥のどこかを叩いた。氷のように固まっていた心が、音を立ててひび割れる。


 熱いものが、喉からこみ上げた。


「そうだ……俺がやらなくて誰がやるんだ!」


翌日。


 病院の白い廊下を歩く足音がやけに響く。胸の奥で心臓がドクドクとうるさく鳴って、喉が渇く。


 面会時間になると、看護師に案内されて病室の前に立った。


 ドアを開けると、ベッドの上で葵がゆっくりとこちらを見た。


 昨日より少し顔色は良さそうだ。


「……おはようございます、暁月くん」


 かすかな声だけど、ちゃんと笑っている。


「おはよう、皓月さん。……その、大丈夫か?」


「はい。昨日はごめんなさい。せっかくの文化祭だったのに……」


 申し訳なさそうに目を伏せる葵の手を、俺はそっと握った。


「謝るのは俺の方だよ。何もできなかったんだから」


「そんなこと……ないですよ」


 葵はかぶりを振って、ゆっくりと息をついた。


「暁月くんに、話しておきたいことがあります」


 その声は、どこか決意を帯びていた。


「実は……わたし、本当は十九歳なんです」


 思わず息をのむ。


「中学の途中から生まれつきの病気が悪化して……入退院を繰り返していました。結局、卒業後は高校にも通えなくて……去年の年末に、余命一年と宣告されました」


 葵の瞳が、まっすぐ俺を見つめる。


「どうしても、一度普通の高校生活を送ってみたかったんです。制服を着て、教室に通って、友達と笑って……それが、ずっと夢でした」


 言葉の一つひとつが胸に刺さる。


「本当なら、もう少しは生きられたはずなんです。でも、無理を押してでも高校に行きたかった。後悔はしていません」


 そう言いながら、葵の目尻に涙が浮かんだ。


「……ただ、心残りもあるんです」


「心残り?」


「昨日の後夜祭……クラスのみんなと一緒に見たかったな。夜の校庭で、花火を見上げたかった……」


 葵は枕に顔を押しつけるようにして、声を詰まらせた。


「それと……合作の小説、完成させられなくてごめんなさい。最後まで書きたかったのに……」


 俺は彼女の肩にそっと手を置いた。


「謝るなよ。合作は……まだ終わらせない。ちゃんと、最後まで一緒に書こう」


 葵は涙を拭い、かすかに笑った。


「……はい」



 さらに翌日。


 俺は意を決して教室のドアを開けた。


「おー暁月! 皓月さん大丈夫だったのか?」


 クラスメイトたちが一斉にこちらを向く。


 俺は一度大きく息を吸い込んでから、言った。


「みんな、お願いがあるんだ」


 教室が一瞬しんと静まる。


「皓月さん、文化祭の後夜祭を楽しみにしてたんだ。でも、倒れたせいで参加できなかった。だから……病院の中庭で、もう一度後夜祭をやり直してあげたいんだ!」


 頼む、みんな……!


「病院の中庭で後夜祭って……できるのか?」と誰かが小さく呟いた。


 教室に沈黙が広がる。誰もすぐには口を開かず、心臓の音ばかりがやけに大きく聞こえる。


 沈黙のあと、誰かが「いいじゃん、それ!」と声を上げた。


「病院の中庭だと花火は無理かもだけど、飾りとかは作れるよな」


「スピーカー持ち込めば音楽も流せるし!」


「食べ物は模擬店の余り使えるかも!」


 次々とアイディアが飛び出す。


「……ありがとう、みんな」


 この小さな後夜祭を、葵に見せたい。


 彼女の残された時間の中で、一番の笑顔を引き出すために。


ここまで前半です。

後半は、数週間程度で投稿します

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