第二十九話:赤国のために
立羽! 立羽! 約束だぞ。私とそなたで、この赤国を華界一良い国にしよう。
珠沙様、良い国とはどのような国をいうのですか。
すべての民の尊厳が守られ、戦や飢えで命を落とすことのない国、そして誰もが生きがいを持って暮らせる国だ。
それは……まるで夢物語ではありませんか。すべての民の尊厳と命を守り、生きがいを持たせるなど。
いいや立羽、夢などではない。そなたが共にいるのだから。
私?
そうだ。誇り高き赤蟲間・立羽。私の美しき剣。そなたと二人なら、何だってできる気がするんだ。
珠沙様……それは私を買い被りすぎでございます。
何を言う。ほら、この景色を見てみろ。紅葩宮から見渡せるすべて、さらにその向こうまでずっと……私たちの国だ。胸が締めつけられるような心地になる。
はい。朝焼けの景色は神々しく存じます。町も、森も、山も、空も。ですが……。
立羽。私はこの国を守るために生まれてきた。誇らしいことだ。
私は私の命を懸けて、民のために尽くそう。
おやめください、命を懸けるなどと。それは私の役目です。
では二人で懸けようではないか。なあ、立羽。
生きるも死ぬも、共に。
珠沙様……。
はい、と言っておくれ立羽。私を愛しているならば。
何も不安に思うことはない。そなたには私がいて、私にはそなたがいる。
二人でこの国を、華界一の良い国にしよう。
「……ては……立羽っ!」
「は……ぃ……」
懐かしい夢を見ていた気がする。薄く瞼を開けた立羽は、自分を呼ぶ声に無意識に返事をした。頭がぼうっとして頬が熱い。対して身体は凍えるように寒かった。
立羽は寝台にうつ伏せていた。その顔を覗き込む人物を認識できるまでに、数秒掛かった。
「じゅ、しゃ様……」
慌てて身を起こそうとすると、右の肩甲骨あたりに鋭い痛みが走った。
「いい、起きるな。寝ていろ」
珠沙は立羽の身体に手を添えて、再び寝台に横たわらせた。
背の痛みは立羽の意識を鮮明にした。
記憶が順によみがえる。立羽は緑蟲間・翠鎌との戦いで右翅を切断されたあと、飛び去っていく翠鎌を悔しい思いで見送った。立羽のもとに使蟲間・蜻迅衛が到着したのは、それから間もなくのことだった。
蜻迅衛は重傷を負った主の姿に狼狽した。けれど判断は早く、適切だった。北東へ飛んでいった翠鎌を追え、あれの部下が夜華君をさらった、と呻くように命ずる立羽の言葉には耳を塞ぎ、動けなくなった立羽を抱いて白華山の麓へ下りた。そしてそこから馬車に乗り、御者を急かして医師のいる村を目指した。
馬車に揺られながら、立羽の意識は途絶えた。蜻迅衛は医師に応急処置をさせると、再び立羽を乗せて馬車を走らせ、紅葩宮へ向かった。
立羽は丸四日、目覚めなかった。そして五日目の今日、眠りながら苦しげに声を上げた立羽は、珠沙の呼び声に引き戻されるようにしてようやく覚醒したのだった。
背を痛めないよううつ伏せたままの立羽を、珠沙と蜻迅衛が心配そうに覗く。
「よかったです……」
蜻迅衛がくしゃりと顔を歪めて呟いた。今にも泣き出しそうな青年がいとけなく思えて、立羽は笑みを浮かべる。
「ありがとう。お前が運んでくれなければ、私はあの場で蟲に襲われていたかもしれない」
「立羽様の命に背きました……」
「いいよ。追わなくてよかった。追っていたら、お前も切られていた」
「申し訳ございません」
何も責めてはいないというのに、蜻迅衛は寝台の縁に額を押しつけるように平伏して続けた。
「網玲が、戻らないのです」
立羽は一瞬、言葉を失った。その間を埋めるように珠沙が言う。
「案ずるな。白華山へ、捜索に長けた蟲間を何名か出した。じき見つかる」
「……はい」
網玲は見た目こそ幼女だが、決して弱い蟲間ではない。蜘蛛の能力は攻守のバランスが良く、ひとりでだって身を守りながら戦える。白華山の低層にいる蟲ごときに後れを取ろうはずがない。
たとえどこかの蟲間と遭遇し、戦闘になったとしても、易々と負けるタマではないのだ。
だから、網玲の心配はしていない。それよりも――
「珠沙様、お聞きください。夜華君は白華山で、変石のついたサークレットをほんの少しの間、外されました」
「ああ、蜻迅衛から聞いた。他国の色つき蟲間たちは気づいただろう」
「はい」
「一昨日、橙国からの使者が来た」
「用件はどのような」
「橙王・柑陽が赤国への親善訪問を希望していると」
「笑わせます。あの粗暴な男が親善などと」
「同意だ。しかし、一笑に付して断るわけにもいくまい。丁重に迎えねば」
「私も……」
「何を言う。病蟲は大人しく寝ていろ」
冷たく突き放すような言い方だが、珠沙の表情は柔らかい。だが、立羽はその思い遣りに気づいていながら、食い下がらずにはいられない。
赤蟲間としての矜持がそうさせる。
「暁霞の蜜さえあれば……」
「駄目だ。あれは麻薬に近い。易々使おうとするな」
「しかし」
「命令だ。もうしばらくは寝台から出るな」
「……はい」
命令、と言われてしまえば逆らえない。立羽はしゅんと項垂れる。
珠沙はそんな立羽の頬を指の背で撫で、赤い髪を耳にかけてやりながら言った。
「何を心配することがある。私はこの赤国の女王だぞ。柑陽ごとき、軽くあしらってやる」
珠沙は悠然と笑みを浮かべ、髪を梳くように立羽の頭を撫でた。その心地良さに眠気を誘われて、立羽はゆっくりと瞼を閉じた。




