第二十一話:椿象とともに
翠鎌は、自身の名前に加えて立羽の名前の漢字まで地面に書いて教えてくれた。
真宵はそれを親切だと感じた。
あの雨の夜、立羽は翠鎌をひどく疎んでいるように見えたが、翠鎌のほうでは立羽を殿をつけて呼ぶくらいだし、嫌ってはいないのかもしれない。
色つき蟲間同士の仲とは実際どうなのだろうか。国と国との関係はよくわからない。
『緑国ってどんな国なの?』
来ないかと誘われた場所の様子が知りたくて真宵は尋ねる。
「赤国に劣らず良い国ですよ。緑女王は大変に穏やかな方で、争いを好みません。橙国や藍国のように血の気が多く、何かあればすぐ兵を挙げる国とは違い、緑国では緑女王の穏便な外交術で戦争を回避しています。しかしそれは、緑国が弱小だからではありません。緑国の兵力は他国に引けを取らない規模ですが、それらは他国との戦争ではなく、国内統治に多く回されているのです。そのため必然的に他国よりも内乱が少なく、平和な国となっています」
『いいね。暮らしやすそう』
「はい。治安も大変良いですよ。首都・苔樹から地方の村落に至るまで、国軍がきちんと統治していて犯罪はほとんど起こりません」
『じゃあ、民はみんな幸せ?』
「単なる蟲間の立場で僭越ではございますが、そのように自負しております。緑国は国軍の統治のおかげで、ほかの六国と比べて貧富の差も小さいのですよ」
話を聞く限りでは、大変良い国のようだ。けれどいかに良い国だとて、真宵の一番の関心はそこではなかった。
『緑国へ行けば、僕は人界に帰してもらえる?』
「はい。お帰りになるための一番の近道こそ、緑国へ行くことでございます。医師である緑女王は七国の王・女王の中で唯一、七神への定期見参が許されたお方。つまり緑女王から七神へ、直々に真宵様の脱界を願い出ることも可能なのです」
『すごい。本当に近道だね』
七国の王・女王から推薦状を得て玄天へ行き、七神に交渉する方法よりも手堅い気がする。
「緑国へ行きたいお気持ちになられましたか」
小さな蟷螂は、答えを促すように首を伸ばした。真宵は頷く。
『うん、行きたい。連れていって』
「承知いたしました」
蟷螂の身体が緑色に発光する。その光はみるみるうちに肥大していき、やがて人の大きさとなった。
光の中から美しい男が現れる。腰まである緑黒の長髪、穏やかな翡翠色の瞳、整った輪郭、緑で統一された長着と羽織り。
緑蟲間・翠鎌の、換身を解いた姿だ。
翠鎌は真宵と目が合うと、穏やかな笑みを浮かべた。その表情には、年ごろの娘であれば一瞬で懸想してしまうだろう色艶があった。
「椿毅、いるかい?」
「ここに」
翠鎌の背後で緑色の光が弾けたかと思うと、そこに跪いた大男が現れる。
太い首、盛り上がった肩、丸太のような上腕。緑の胸当てと肩当てに、緑の外套をまとっている。
「話は聞いていたね。真宵様を我が国へ丁重にお連れしなさい」
「御意」
『翠鎌は一緒に行かないの?』
真宵が問うと、翠鎌はまた微笑んで答える。
「ここに残って、やることがあるのです。ご心配なさいますな。私もすぐに後を追います」
椿毅と呼ばれた大男が翠鎌の後ろで立ち上がる。身長は優に一.一間(二メートル)を超えていた。巨体を見上げる真宵の目に小さな怯えが走ったのを翠鎌は見逃さない。
「大丈夫ですよ、真宵様。椿毅はこんななりをしていますが、心優しい元椿象です。不器用で言葉足らずなところが玉に瑕ですけれどね」
「主」
「本当のことだろう。さあ、真宵様を怖がらせてはいけない。その眉間の皺と真一文字の唇をどうにかしておくれ」
「……仰せのままに」
椿毅の顔の筋肉が、生き物のようにぴくぴくと動く。相当無理をしているらしい。顔中の各パーツが失敗した福笑いのように異常な動きを見せる。
やがて太い剛毛の眉がぐんとおどけたように上に上がり、唇は道化のような作り物めいた笑みを描いた。
翠鎌が口元を隠すように小さく噴き出し、くつくつと肩を震わせる。
椿毅はその奇妙な表情のままブリキのような固い動きで真宵に近づいてくると、跪いて頭を垂れ、逞しい両腕を差し出した。
「どうぞ」
『え……えっ?』
何がどうぞなのか。困惑した真宵は救いを求めて翠鎌に目をやる。翠鎌はまだ声を殺して笑っていた。
「そういうところが言葉足らずだと言うんだよ? 真宵様、椿毅はあなた様を横抱きにしたいようなのです。腕にお乗りいただけますか」
『う、うん』
いわゆるお姫様抱っこだ。男の身で照れるなと思いつつ、そういえばあの雨の夜にも立羽に横抱きにされたなと思い出す。立羽のほうが上背があるとはいえ、女性に抱きかかえられたのだ。今さらこの大男に抱かれることを恥ずかしがっても仕方がない。
真宵は差し出された二本の腕に背中と膝裏を預けるかたちで腰を下ろした。硬い筋肉は決して座り心地の良いものではないが、安心感はある。
二本の腕はぎこちない動きで真宵を硬い胸当てへと引き寄せた。
椿毅が立ち上がる。
「それでは真宵様、またのちほど」
『うん』
翠鎌はにっこりと手を振る。
椿毅が膝を曲げる気配があって、次の瞬間には風を切るようなスピードで、椿毅と真宵は急上昇していた。
エレベーターが止まるときに似た一瞬の浮遊感のあと、二人は空中で静止する。
上空から見下ろす白華山は圧巻だった。その尾根は、途切れることなく地平線の彼方まで続いている。
立羽が目指すと言った頂上は、いったいどこのことだったのか。尾根はぜんぶ頂上に見える。
僕はどこを目指せばよかったんだろう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、真宵は立羽が今朝着付けてくれた赤い旅装束をぎゅっと掴んだ。




