第二十話:いつわりなき夜の入口
小さな蟷螂は、両の鎌を下ろして真宵を見上げていた。逆三角形の頭を僅かに傾ける。そのさまは人間の仕草によく似ている。
「私が怖いですか。こんなに小さい姿ですのに」
真宵は答えなかった。怖いかどうかというより異質だ。
喋る蟷螂。それも、華界の蟲のサイズより相当小さい。
つまり、相手は蟲間。真宵は蟷螂の蟲間をひとり知っている。学校の図書館で、立羽を追って飛んできた男だ。
緑国の緑蟲間。名前は確か――
『スイ、レン……?』
と真宵は口を動かした。声は立羽の蟲術で出せない。けれども蟷螂は立羽と同じく真宵の唇が読めるようだった。
「なんと! 私を覚えていてくださったのですね。嬉しゅうございます」
蟷螂が肯定したことで、真宵の警戒心はいっそう強くなった。どうして緑国の緑蟲間が赤国にいるのか。不法侵入ではないのか。
翠鎌は、真宵を巡って立羽に攻撃を仕掛けた男だ。油断はできない。何か悪事を働くつもりで赤国に侵入したのかもしれない。
真宵は翠鎌の真意を探ろうと、睨むようにその全身を見た。しかし蟲の表情というのはよくわからない。そもそも表情はあるのだろうか。どこをどう見ても、幼いころに草むらで見かけた蟷螂と変わらない。違いを強いて言うならば、全身の緑がやたら鮮やかだということくらいだ。
「そんなに怖いお顔をなさいますな。あなた様を害するつもりは毛頭ありませぬ」
蟷螂は両の鎌を折り畳むと地面につけた。そして人間がするように額づく。
「おそばで見ておりました。華界に飛んでからのあなた様のことを。橙国に降り立ってからの、赤蟲間・立羽殿との短い旅路。溶岩洞での立羽殿との争いと、その顛末。お声が出せないのは立羽殿の蟲術ですね。酷いことをなさる」
小さな蟷螂は項垂れて、憂えているように見えた。
「気を失われたあなた様を抱えて、立羽殿は赤国へ行きました。私はあなた様のことが気がかりで、密やかについていったのですよ。立羽殿は私に気づきませんでした。立羽殿はお強い蟲間ですが、そのお力は全盛期に比べて落ちているようです。契約している赤女王が死に瀕していることが関係しているのでしょう」
『ずっと、僕のことを見ていたの?』
「さすがに紅葩宮の中までは入れませんでした。あそこの警備は厳重です。それに立羽殿の使蟲間やほかの蟲間も大勢いますので、見つかったが最後。生きては出られません。ですので、紅葩宮の外で隠れてお待ちしていました。私は立羽殿の行動を予想したのです。赤子時代に華界を追放され、人界で人として育てられた華間様を、立羽殿がどう扱うか。成華の年齢を越えてなお蟲間を持たず、芳香も操れない危ういお方を。……答えはひとつでした。お育てするのだろう、と。そして、だとすれば、それに最も適した場所は白華山だ、と」
『僕たちがここに来ることまで、あなたはわかっていたんだ』
「あくまで予想でしたが。けれど今朝早く、紅葩宮から馬車が一台出てきたのを見て確信しました。果たして、あなた様と立羽殿はその馬車に乗っていた。私は先回りして白華山の麓であなた方をお待ちしておりました。そして到着し、登山を始めたあなた方をまた密やかにつけていたのです」
話を聞きながら、真宵の眉根は自然と寄っていく。ストーカー行為を悪びれもせず語る蟷螂に、気持ち悪さとまではいかないが、違和感が拭えない。
『どうして僕たちを見張るような真似をするの? 何が目的? 僕?』
蟷螂はうやうやしく頭を下げた。
「ご気分を損ねたようでしたら申し訳ございません。ですが、私はあなた様が心配だったのです。あの雨の夜、立羽殿はあなた様を人界から半ば攫うように連れていきました。華界へ上がる誓約の言葉も、それとは知らず言わされましたね? 挙句、気絶させて国へ連れ込み、口が利けなくするなどと……」
蟷螂の言うことは、真宵視点でいえば事実だった。真宵はあの夜、確かに立羽に攫われた。殺されたくなければ復唱しろと脅されて誓約の言葉を言わされたし、そのせいで人界へ帰れなくなるなんて思わなかった。赤女王を巡る立羽の事情がどうであれ、蟲術で言葉を奪われている現状だって、理不尽だと感じている。
立羽は自分の都合ばかりで真宵を振り回している。蟲から守ってくれたって、芳香の扱い方を教えてくれたって、それらはすべて赤女王のため。真宵が成長して赤女王に輪廻転生を与えられるようにするため。立羽の一番は常に赤女王だ。優しい言葉も、気遣う仕草も、微笑みも……本当は真宵を貫通して、その先の赤女王へと向けられている。
「申し上げたでしょう、夜華君。赤国に付いたところで、憂き目に遭うのは目に見えていると。現状がそうではございませんか」
違う、と否定できない自分がいた。
「そうです、夜華君。私はお聞きしたいことがあるのです」
『……何』
蟷螂の丸い複眼が真宵を見つめる。
「お名前を、教えていただけませんか」
『名前?』
「はい。夜華君とお呼びするのは、あなた様のいた人界で例えると『日本国の方』と呼んでいるようなものなのです。違和感がありますでしょう?」
問われてみれば、そうだと思った。夜華間はこの世に真宵しかいない。だから夜華間イコール真宵だし、立羽も他の皆も真宵を夜華と呼ぶ。
けれども真宵の名前は夜華ではないのだ。
『黒瀬、真宵。黒瀬が名字で、名前が真宵』
「マヨイ様ですか。良い響きです。どのような字を書かれるのです?」
真宵は砂の地面に人差し指を置いた。しかし、そこでふと思い出す。書けないのだ。文字を書くことも、立羽の蟲術で封じられている。
強引に手を動かそうと試みたけれど、指先が白くなるほど力を込めても人差し指は砂に点を描くばかり。
「ああ、無理をなさらないでください。文字を書くことも封じられているのですね。お気の毒に。私が当ててみせましょう。人界の言語や文化は勉強しました。なにせ言い伝えで示されていた幻の夜華は闇色の髪、象牙色の肌、落栗色の瞳の持ち主でしたので。これはずばり、人界の東洋人の外見と一致します」
真宵は感心して頷いた。確かに言われてみれば、夜華の特徴はそのまま東洋人の特徴だ。
この蟷螂は洞察力がある。それだけではなく、人界を理解しようとしている。その姿勢には好感が持てた。
「マヨイ様の字は、マとヨイの二文字でしょうか。それともマとヨとイの三文字で?」
『二文字だよ。真実の真に、宵は……』
「『宵の明星』の宵でしょうか」
「うん、それ。そんな言葉、よく知ってるね」
「勉強していて、美しい言葉だと思ったので覚えていました」
蟷螂は右の鎌をついと持ち上げる。そして鎌の先を地面につけて、器用に動かした。
土の上に描かれた、『真宵』の字。それは日本語の漢字とは少し違っていた。恐らく華界の文字なのだろう。印象としては、中国の漢字を見たときのそれと似ている。文字の形は日本語の漢字に近いけれど、やたらと画数が多かったり、はたまた省略されていたり。
そういえば真宵は華界に来て会話に困ったことがなかった。蟲術で声が出せないのはさておき、立羽や翠鎌とは普通に会話ができるし、網玲や蜻迅衛、赤女王の話すことも理解できる。
しかし文字が違うのだから、彼らが話すのは日本語ではないはずだった。一方で、真宵が口を動かして伝えているのは日本語だ。どういう仕組みだろうか。不思議ではあるが、今の真宵には不思議なことが起きすぎている。言語のことも、いったん受け入れておくのがいいだろう。
「いつわりなき夜の入口――真宵様。素敵なお名前です」
そんな言い方をされるのは初めてだった。マヨイという響きはしばしば人に『迷い』を連想させる。幼いころ、子ども同士の間ではそちらの意味に取られることが多かった。だから真宵は自分の名前を好きだと思ったことがなかったのに。
「緑国にいらっしゃいませんか、真宵様」
小さな蟷螂に呼ばれた名前は、真宵の中できらきらと輝く。
「スイレンの、名前の字を教えて」
明確な返事の代わりに真宵はそう強請った。
それは翠鎌の誘いに対する了承とほとんど同義だった。




