第十八話:夜華の力
気づくのが一瞬遅ければ、真宵は巨大な蝸牛に飛び掛かられて、その腹足の下敷きとなっていただろう。即死は免れたとしても、軟体に鼻と口を塞がれて窒息死していたかもしれない。
それほどのスピードで蝸牛は動いたのだ。もはや普通の蝸牛ではない。別の生き物。腹足で土の地面を弾き、跳んで真宵に襲い来る。
「夜華君ッ」
『僕は大丈夫!』
一瞬で背に蝶の翅を広げ、飛んでこようとした立羽を真宵は口の動きとジェスチャーで制した。そして走る。網玲と蜻迅衛が戦闘不能の状態でうずくまる場所からできる限り遠くへ。彼らを傷つけさせてはならない。
蝸牛は、飛び跳ねながら真宵の背中を追ってくる。その巨体が着地するたびに、小さく地が揺れた。
逃げ回りながら真宵は考えを巡らせる。どうするか。もう一度芳香で捕らえて、今度こそ睨を行い、催示で平地から立ち去らせるか。
いや、この蝸牛はもう真宵の芳香を知ってしまった。芳香に心を奪われて、真宵の血肉を求めるようになってしまった。サークレットを再びつけて芳香を封じた今であっても、蝸牛としてはありえない異常な跳躍で追いかけてくる執着具合だ。そんな相手に心で命じたくらいで通用するのか。
そもそも捕らえることすら難しいかもしれない。逃げる足を止めて、全身の芳香を額に寄せ集め、紗を作って飛ばす……それだけの猶予があるだろうか。それに、芳香の紗は蟲の動きを一瞬でぴたりと止められるわけじゃない。蟲の抵抗が強ければその分、押される。蝸牛が跳躍したならば、それを空中で止められるわけでもない。
「縛粉」
赤い鱗粉が飛んできて、赤透明の糸に形を変える。糸はすぐさま蝸牛に向かっていき、殻と軟体をきつく縛った。軟体に糸が食い込み、今にも肉が千切れそうになっている。しかし――
パアァァァン
蝸牛の軟体が風船のように膨張し、赤透明の糸が弾け飛んだ。蝸牛は俊敏な動きで方向を変える。自身を攻撃した立羽のほうへと。
立羽の背後には依然、動けない網玲と蜻迅衛がいた。二人を守るため、立羽は両手を前へとかざす。
「蓋粉」
赤い鱗粉がドーム状になり三人を包み込む。その前面に、跳躍した蝸牛が落下の勢いでへばりつく。
「くっ……」
重みのためか立羽の表情が歪んだ。もはや一刻の猶予もない。真宵は蝸牛の張りついた鱗粉のドームへと駆け寄る。そのときにはもう、心は決まっていた。走りながら全身の芳香が額へと集まる。額の前方に、鉛筆大の見えない針が出来上がる。
その針を、"殺す"という意志を持って全力で蝸牛の後頭部へ飛ばす。
ザシャァアアッッ!
針は後頭部を貫通してその向こうのドームまでをも貫き、斜め上の空へ消えていった。ガラスが割れるようにドームが割れて、動かなくなった蝸牛が立羽の目と鼻の先へと落下する。
ドシャアッ! サララララ……
そしてみるみるうちに霧散した。
やったという高揚感と、やってしまったという罪悪感が真宵の胸に同時に訪れる。あれほど殺すまいと思っていたのに、ドームを支える立羽の苦しげな表情と、そこに伸し掛かる巨体を見た瞬間、明確な殺意が真宵の中に生まれていた。
真宵はそんな殺意の残滓を振り払うように、立羽たちに歩み寄る。
「来ないでください。どうぞあちらへ」
地面にへたり込んで俯く網玲と蜻迅衛の顔色を緊張の面持ちで覗き込んでいた立羽が、鋭い視線と言葉を投げて、平地の端を指さす。
『でもっ』
「二人がこうなった原因が、あなた様が不用意にサークレットを外したことにあると、まだお気づきになりませんか」
『僕のせい……?』
「そうです。二人は、白華山に来て修行を始めたことで威力を増したあなたの芳香に当てられたのです。お教えしたでしょう。あなたの芳香は蟲や蟲間にとって、食欲や性欲を掻き立てる魅惑的な香りであると。だから、あの臆病だった蝸牛は突然、あなたを襲うようになったのです。しかし網玲と蜻迅衛は蟲とは違う、理性ある使蟲間。どれほど欲を刺激されても、あなたを襲ってはいけないと心得ている。芳香により増幅された欲を、理性で抑え込んでいるからこうなるのです」
『ご、ごめんなさい。でも僕っ』
蝸牛を殺すことなく無力化したかっただけなのだ。悪気はなかった。サークレットを外して芳香を濃くすれば、蝸牛に命令が下せると思った。
「お話はあとです。今はどうか、私の言うとおりになさってください。二人から遠く離れた場所へ」
そう言う立羽の声音には、どこかうんざりした雰囲気が紛れていた。そのことが真宵の胸に、棘のように突き刺さる。
真宵は逃げるように平地の隅へと走った。
自分の存在が網玲と蜻迅衛を苦しめている。突然現れた真宵を労わり歓待してくれた心優しい少女と、夜華である真宵を慕ってくれた真面目で忠実な青年を。
真宵は立羽たちから遠い平地の端まで来ると、林間に分け入り太い木の幹の陰に身を隠した。サークレットをしている今、芳香はほとんど出ていない。けれども完全に封じているわけではない。
髪の上から両耳を塞ぐように手を当てる。耳の裏。これがいけないのだ。忌まわしき花火型の黒痣があるこの場所が。
幹の陰から半分顔を出して平地を覗く。網玲と蜻迅衛はまだぐったりとしていて、彼らの顔の汗を立羽が拭っている。
もっと遠くへ行かなければ。
真宵は両耳を塞いだまま、林間の奥深くへと歩き出した。




