解く手と優しさ
その朝も、街は変わらず穏やかだった。
東の空からゆっくりと太陽が昇り、王都の石畳をほんのりと照らしていく。
職人の街では、早くも作業場から金属を打つ音や煙が立ち昇り、商人たちが屋台の準備を始めていた。
そんな中、静かに暖簾を掲げたのが、いつもの――《シルヴァリス細工店》。
扉の上の風鈴が朝風に揺れ、小さな魔石が淡くきらめく。店内は相変わらず穏やかで、木棚の上には色とりどりの魔法細工が並んでいた。
「……よし、在庫は確認完了、と」
奥の作業机で、ユーカ・シルヴァリスが軽く伸びをする。
今日の彼女は、作業着の上から青いエプロンをかけ、眼鏡の奥にいつものような眠たげな瞳を浮かべていたが、指先はしっかりと動いている。前夜から仕分けていた新入荷の魔石を一通り確認し終えたところだった。
「これで午前中は……納品の準備と……あとは……新しい試作品、やろうかな……」
小声でぶつぶつと呟きながら、作業メモの端に「感応式チャーム(仮)案」などと書き込み始める。おでこには鉛筆の跡がうっすらついているが、本人は気づいていない。
店内には客の気配もなく、今日は静かな一日になりそうだ――と、思っていた。
――チリン。
その音が鳴った瞬間、ユーカは顔を上げた。
「いらっしゃいま――せ……?」
扉の向こうに立っていたのは、見慣れない女性だった。
年の頃は四十代半ば。端整な顔立ちで、落ち着いた色合いのロングコートを着ている。髪は丁寧にまとめられ、手には小さな布包みを抱えていた。
ただ――どこか、悲しげだった。
立ち姿はしっかりとしているのに、目元の陰が、言葉では言い表せない寂しさを宿している。
それは、たとえるならば――夜明け前に、ひとりで空を見上げている人のような。
「……こんにちは。こちら……魔法細工のお店、で、間違いないかしら」
「あ、はいっ。ようこそ……《シルヴァリス細工店》へ。魔石や、細工のご相談も承ってます……」
ユーカは慌てて立ち上がり、エプロンの紐を結び直した。
「何か……お困りごと、でしょうか?」
女性はゆっくりとうなずき、持っていた布包みを机の上に置いた。
中から出てきたのは、小さなロケットペンダント。
金と銀の合金で作られた楕円形のそれは、長年の使用で少しくすんでいたが、細工は非常に美しく繊細だった。表面には微細な魔法刻印が彫られており、ぱっと見ではただの装飾に見える。
「このロケット……昔、大切な人からもらったものなんです」
女性はゆっくりと話し始めた。
「でも……その人は、もういません」
ユーカは、一瞬だけ息をのんだ。
しかし、相手の顔は静かだった。涙も、怒りも、混乱もない。あるのは、ただ長い時間を経てなお残る“想い”の重さ。
「……ずっと、開けられなかったんです。中には、あの人が最後に託してくれた何かがある。でも、封がかかっていて……私の手では、もうどうすることもできなくて」
彼女はそう言って、ロケットをユーカの方へそっと差し出した。
「これを……開けてほしいの」
「……わたし、で?」
「構いません」
その言葉に、ユーカは戸惑いを隠せなかった。
確かに彼女は魔法細工師の見習いであり、簡単な封印の解除や調整も行っている。けれど、こんな“想い”が詰まった品を、託されたことはなかった。
「わたしで、本当に……いいんでしょうか……? あの、失礼じゃなければ、お名前……」
「……マリア。マリア・クレヴィアと申します」
マリアは微笑んだ。けれど、それはどこか哀しさの滲んだ微笑だった。
「細工を扱う方なら、わかってくださると思って。これは、ただの遺品じゃないんです。時間の隙間に取り残された、まだ息づいている想いで……」
その言葉に、ユーカの胸がぎゅっと締めつけられた。
彼女自身、魔石の“響き”を読むとき、そこに残る気配や感情の欠片に触れることがある。
それは、たとえ記憶でなくても――“想い”が残るのだと、知っているから。
「……はい。お預かりします」
ユーカは、そっとロケットを両手で受け取った。
見た目にはただの細工品。けれど、その表面に刻まれた魔法紋は複雑で、丁寧に編み込まれている。
これは、“開けたくない誰か”が、あるいは“開けられたくない想い”が、確かに封じられている――そんな印象を受けた。
「無理にとは言いません。時間がかかっても構いません。ただ……私、もう、自分ひとりじゃ向き合えそうにないから」
マリアの言葉に、ユーカはこくりとうなずく。
「……はい。ちゃんと調べて、丁寧に開けさせていただきます」
「ありがとう」
短く、それだけを言って、マリアは静かに頭を下げた。
扉の風鈴がもう一度揺れ、彼女は店を後にする。
静かに閉じられた扉の向こうに、残る空気は――いつもの日常と、どこか違っていた。
* * *
ユーカは、机の上のロケットを見つめた。
それは、眠っていた何かを呼び起こすような、奇妙な存在感を放っていた。
そして、そこに触れたとき、ふと胸に浮かんだのは
“誰かを失う”って、どんな気持ちなんだろう。
そんな、答えのない問いだった。
---
昼を過ぎ、午後の光がゆっくりと傾きはじめる頃。
《シルヴァリス細工店》の作業部屋には、珍しく緊張感が漂っていた。
机の上には、あのロケットペンダント。
金と銀の合金がくすみながらもわずかに光を返し、その表面には、うっすらと魔法の紋が浮かび上がっている。
「……やっぱり、ただの封印じゃないね……」
ユーカは眉をひそめ、判別用の“共鳴棒”をロケットにかざす。
微弱な魔力を流し込んだ瞬間――
ピリ、と空気が震えた。
見えない壁のような反発感。けれどそれは、敵意でも防御でもない。もっとこう……感情そのもの、のような。
「“情動共鳴式”……かな。感情と魔力を連動させて、反応するタイプ……。でも、ちょっと古い編み方だ」
ユーカは机の上に広げた参考書の中から、該当する式を探し、慎重にメモを取り始める。
情動共鳴式――それは、使用者の感情が一定以上に高まったときにだけ作動する、繊細な封印技術。
記憶や想いを封じる際によく使われるが、そのぶん不安定で、外部が乱暴に解除すると、封じられた感情が一気に流れ出してしまう。
「……だから、自分で開けるのが怖かったんだ……」
ふと、マリアの表情が脳裏に浮かぶ。
静かに、でも切実に「自分じゃ開けられない」と言ったあのときの声。
ユーカは、そっとペンダントに指を添えた。
――ねえ、あなたの中には、どんな想いが入ってるの?
聞いても、答えはない。ただ、静かに鼓動のように、魔力の脈動が伝わってくる。
「……無理に開けちゃだめ。ちょっとずつ、ちょっとずつ……」
ユーカは呼吸を整え、封の一部に軽く触れて“調律”を始めた。
細工師の技術のひとつ、《共鳴移送》――共鳴を利用して、封印の感情に別の“穏やかな波”をかぶせることで、一時的に鎮めながら開封を試みる技法。
これは、ただの技術じゃない。
相手の“想い”に、自分の“想い”を重ねていく、繊細なやりとり。
……だからこそ、ユーカは慎重だった。
「今のわたしじゃ……どこまで届くかな」
* * *
作業を終えたころには、夕日が店内に長い影を落としていた。
ロケットはまだ完全には開いていない。
だが、魔法紋の一部が柔らかくほぐれ、解放への“道筋”が見え始めている。
「……明日には、きっと開けられる……と思う」
独り言のように呟いて、ユーカは背もたれに体を預けた。
椅子がきしみ、静かな余韻が部屋に広がる。
手のひらにはまだ、微かに魔石のぬくもりが残っていた。
「……恋人かぁ」
ぽつりと呟く。
あのマリアさんが言っていた「恋人」という言葉――
それは、どこか遠くの世界のようでいて、なぜか胸に引っかかる響きだった。
――誰かを失うのが怖い。
――だから、想いを閉じ込めてしまう。
そんな気持ち、ユーカにはまだよくわからない。
だけど、ほんの少しだけ、自分にも似たものがあるような気がした。
「……ねぇ、ラウルくんだったら……どうするんだろ」
ぽつりと名前を口にした瞬間、なぜか顔が熱くなる。
ラウルは、昔から自分の実験にも無理やり付き合ってくれて、失敗しても怒らずに笑ってくれるような人。
でもそれ以上の気持ちなんて、今までは意識してこなかった――はず、なのに。
「……なんで、今、思い浮かんじゃうかな……」
頭を抱えて、ふにゃっと机に突っ伏す。
自分の感情は、まだまだ未完成で、いびつで、どこかぎこちない。
でも――マリアのロケットに触れてから、どこか心の奥が揺れはじめていた。
* * *
夜、寝る前。
ユーカは、自室の棚の上に置かれた小さな細工箱をそっと開ける。
そこには、未完成の“感応式チョーカー”と、失敗作のペンダントが並んでいた。
不恰好で、でもどこか温かい、自分だけの足跡たち。
「……ねぇ、細工って、気持ちを閉じ込めるだけじゃなくて、開くこともできるんだよね」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
明日、ロケットを開ける。
その中に何があっても、ちゃんと向き合おう。
だって、それを受け取ったのは自分なのだから。
そして――“想い”を繋ぐのが、細工師の仕事なのだから。
* * *
午前十時を少し過ぎた頃、風鈴の音が静かに揺れた。
「失礼します」
その声は、昨日と変わらぬ穏やかさをたたえていたが、どこか決意のようなものが滲んでいた。
ユーカは作業机から顔を上げると、すぐに優しく会釈した。
「いらっしゃいませ、マリアさん」
店内はまだ静かで、他に客の姿はない。
リネアも今日は外回り。今この空間には、二人しかいなかった。
「……ロケット、開けられそうです」
ユーカは、小さな箱をそっと差し出した。
中には、昨日と同じ金銀のロケット――だが、魔法の封印はほとんど解け、刻印もわずかに淡く残るのみとなっていた。
「少しだけ、調整に時間がかかりました。あまり急ぐと、気持ちまで一気に出てきちゃいそうで……」
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
マリアはそっと椅子に腰を下ろし、ロケットを手に取る。
掌の中に収まる、懐かしい重み。
そして――恐る恐る、親指を添えて、カチリと蓋を開いた。
* * *
中にあったのは、古い手書きの絵と、小さな魔石。
絵には、若い男女が肩を並べて笑っていた。
風にそよぐ草原。隣に咲く花は、今はもうどこにも咲いていないという幻の花。
柔らかく色づけされたその絵は、魔法で保存されており、年月を感じさせなかった。
そして――魔石に触れた瞬間、微かな光がきらりと灯った。
《記憶保存石》。
マリアの目が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、微かな音が空気を震わせ、男性の声が響いた。
――「これを聞くとき、君はどんな顔をしているだろう」
――「ごめんね。もう、手を取ってあげられないことが、一番悔しい」
――「でも、君と出会えて、本当によかった。ありがとう」
――「これからの君の時間が、優しいものでありますように」
それだけだった。
けれど、その短い言葉がすべてだった。
静かに、マリアの頬を涙がつたう。
彼女はそれを拭おうともせず、ただ、絵と声を抱きしめるように、両手を胸元で重ねた。
「……あの人、最後まで……ずるいくらい、優しかったのよ」
笑っていた。声は震えていたけれど、確かに、笑っていた。
ユーカは、言葉が出せなかった。
ただ、そっと座り直して、マリアの目線の高さに合わせる。
「……このロケット、すごく丁寧に作られてました。想いがこもってて、ほどくのも慎重にしないと、って……だから……」
「だから?」
「――このロケットも、マリアさんも、強いなって思いました」
その言葉に、マリアは少し目を見開き、それからまた、ゆっくりと笑った。
「……ありがとう。あなたに頼んで、本当によかった」
立ち上がると、マリアはロケットを胸元にかけた。
それは、昔と同じ位置に、きっとかつての想いとともに戻ったのだろう。
彼女は扉の前で立ち止まり、振り返った。
「あなたは、細工師さん?」
「……はい。見習いですけど」
「きっと、すごく立派な細工師になるわ。そういう“手”をしていたもの」
「……えへへ、なんとか……なりますよ、きっと」
「ふふ。なら、安心ね」
最後の笑顔は、もう“寂しさ”ではなく、前を向いた“人”のそれだった。
風鈴が鳴り、彼女の背が遠ざかっていく。
* * *
夕方、作業を終えた頃。
扉が再び開いた。
「よっ。今日の試作品、また爆発でもした?」
少し軽口混じりの声。入ってきたのは、幼なじみのラウルだった。
「し、してないよ!? ……たぶん」
ユーカはむくれて言いながらも、少しだけ目を細めてラウルを見た。
その姿が、今日はどこか、違って見えた。
「……ラウルくんってさ。もし、大切な人がいて、その人が何かを託したままいなくなったら……どうする?」
「ん? 急になんだよ」
「……ううん、ちょっと聞いてみたかっただけ」
彼はしばらく考えて、それから不器用に笑った。
「そりゃあ……ちゃんと受け取るよ。逃げたら、その人が悲しむだろ? それに――」
ラウルは、まっすぐユーカを見て言った。
「大事な人だったなら、きっと……怖いくらい、ちゃんと向き合うと思う」
その言葉に、ユーカの胸が少しだけ熱くなる。
今はまだ、その感情に名前はつけられない。
けれど――
「……うん。やっぱり、なんとかなる、かもね」
照れ隠しのように笑って、ユーカは目を細めた。
細工師として。ひとりの人間として。
少しずつ、想いに触れて、紡いで、進んでいく。
今日もまた、何かを開いて、何かが心に灯る一日だった。