「なんとかなる朝」
王都の東側。石畳が続く通りの一角に、小さな細工屋がひっそりと佇んでいる。
名を《シルヴァリス細工店》。
白い石造りの外壁に、木製の軒と看板。控えめな文字で店名が彫られたプレートの上には、小さな魔石の飾りが埋め込まれ、朝の光を反射してきらりと輝いていた。扉の上に吊るされた風鈴の音が、時おり静かな通りに柔らかく響く。
中に入れば、すぐ目に飛び込んでくるのは、色とりどりの魔石細工たち。棚にはアクセサリーや魔法の小物、旅人向けの護符や冒険者用の小型魔具が所狭しと並び、いずれも手作業で丁寧に作られたものばかりだ。
けれど――その工房の一番奥、カウンターの中。
そこには、店番を任されているはずの一人の少女が、半分沈みかけた姿勢で座っていた。
「……ん……んぅ……」
灰色の肩までの髪が、ゆらりと揺れる。
彼女の名前はユーカ・シルヴァリス。この店の娘であり、魔法細工師の見習いでもある十八歳だ。
いつものように丸い眼鏡をかけているが、その奥の瞳はとろんと眠たげ。腕を組んで頬杖をついたまま、いかにも“夢の入り口”といった風情で、時折うとうとと身体を揺らしている。
傍らには試作品のノートと、まだ温かい薬草茶のカップ。ノートには「反応式チョーカー音量制御テスト失敗」と走り書きが残され、隅に「原因:たぶん眠気」とすら書かれていた。
時間は午前九時半過ぎ。
店内には柔らかな朝の日差しが差し込み、空気は穏やかそのもの。静かで、落ち着いていて、心地よくて――それが眠気を誘うには十分だった。
「……今日は……人も少ないし……魔石の在庫、あとで確認して……ふぁ……」
小さくあくびを漏らして、カウンターに突っ伏しかける。
「お昼になったら……クロエ、冷やかしに来るかな……それともラウルくんが……試作品……」
そんなふうに呟いて、意識がふわりと浮きかけた、その時だった。
――チリン。
扉の上の風鈴が、控えめに鳴った。
「……あ……」
ユーカの肩がびくっと跳ねる。夢と現実の狭間から引き戻された彼女が顔を上げると、店の入り口にはひとりの女性が立っていた。
「ユーカちゃん、いるかい?」
やや背の低い年配の女性。腰に太い帯を巻き、厚手の外套を羽織っている。魔法細工店の常連にして、ご近所の元気なお婆さん――フローラだった。
「あっ……おはようございます、フローラさん……!」
慌てて椅子から立ち上がったユーカは、寝ぼけた表情のまま眼鏡を押し上げる。
「うわ……ノートの跡ついてる……」
「ふふ、まさか開店早々で夢の中とはねえ。まぁ、今日みたいな陽気なら仕方ないかもねえ」
フローラ婆さんは苦笑しながら、店内の椅子に腰を下ろす。ぎくっと背を丸めたその動作から、どこか不調があるのは明らかだった。
「……腰、大丈夫ですか?」
ユーカはすぐに顔を引き締める。
「うん、それなんだよ。こないだ作ってもらった《腰楽チャーム》、ちょっと前から調子が悪くってさ。今朝もつけてたのに、階段降りたとたんズシーンときてね……」
「あ、あれ……! えっと、確認しますっ!」
ユーカは道具箱と帳面を素早く手に取り、カウンターを回って婆さんの側へと寄る。首から提げた銀鎖の先、小ぶりな青緑の魔石が揺れている。確かに、彼女が作った《腰楽チャーム》だ。
これは、魔石に封じた“軽量化の補助魔法”によって、腰回りの負担を軽減するアクセサリー。主に腰痛持ちの人に向けた人気商品で、常連の中でも特にフローラ婆さんは愛用者だった。
「お借りして、ちょっと見ますね」
「うん、お願い」
そっと魔石に触れ、ユーカは軽く目を閉じて集中する。石に残る魔力の“響き”を感じるのだ。これは、細工師ならではの感覚――素材や細工物の状態を“共鳴”で読み取る力だ。
「……うん、やっぱり。魔力の流れがちょっと引っかかってる。もしかして最近、落としたりしました?」
「ああ、したした。昨日の朝、市場の石畳でころんとね。派手に転んじゃった」
「それですね。衝撃で、内部の魔導路がちょっとズレたかも……」
ユーカはメモ用紙にさらさらと状態を書き留めると、ピンセットと研磨布を取り出した。
「大丈夫です。ちょっと時間をもらえれば、ここで直せますから」
「そりゃ助かるよ。あたし、腰が重いと一日中、顔も暗くなるんだよ」
「……それは、困りますね」
にこっと笑いながら、ユーカは椅子を引いて魔石の調整作業に入った。小さな魔石を手に取り、繊細な動作で表面を研磨し、金属枠の接点を整える。細工のための道具を使いながら、ひとつひとつの動きを丁寧に進めていく。
眠気は――もうどこかへ消えていた。
この時間。この集中。
誰かのために、手を動かすということ。
それが、ユーカにとってはとても“自然な朝の風景”なのだった。
ユーカは慎重に、魔石と金属枠の間に挟まった砂粒を取り除いていった。魔力の導管がほんのわずかに詰まるだけで、流れが滞り、効果が下がってしまう。小さなズレが、大きな不調に繋がるのだ。
「……うん。これで……よし」
確認用の魔力石を近づけると、魔石の中にほのかな光が宿った。内部で魔力がスムーズに循環している証拠だ。
ユーカは軽く頷いて、魔石を銀の留め具に戻す。
「フローラさん、お待たせしました。これで、たぶん元通りのはずです」
「ほんとに? じゃあ、つけてみてもいいかい?」
「もちろん」
チャームを手渡し、フローラ婆さんが首元に装着する。少し身をよじって、立ち上がる。
「……ああ、軽い! すごいねえ、ほんとに! さっきまでの“ずーん”が“すーっ”と消えたよ!」
「よかったぁ……」
ユーカは、自然と顔をほころばせた。お礼や報酬以上に、こうして“効いた”と言われることが、何よりの喜びだった。
「いやいや、たいしたもんだよ、ユーカちゃん。前は母さんが手直ししてくれてたけど、最近はあんたのがしっかりしてるんだから」
「うぅ、そんな……でも、ありがと、ございます……」
眼鏡の奥の瞳が、ちょっと潤んだように揺れる。
「なんていうか……まだまだ失敗も多いけど……。でも、“なんとかなる”って思ってやってて……今日は、ちゃんと“なった”気がする、かも……」
「ふふっ、立派に“なんとかなって”るじゃないか」
フローラ婆さんがにこにこと笑いながら、背筋を伸ばす。
「よし、これで今日も元気に市場を歩けるねぇ。あとでまた噂しておくよ、『若いのに腕がいい』ってさ」
「えっ、それはちょっと……恥ずかしいかも……」
苦笑するユーカの頬がほんのり染まった、その時だった。
――チリン。
もう一度、風鈴が鳴った。
「ただいま〜。……おや、珍しいお客さんね?」
扉の向こうから入ってきたのは、ユーカの母――リネア・シルヴァリスだった。
軽く肩にかかるケープを翻しながら、細身の体で小さな包みを抱えている。職人気質でしっかり者の彼女は、この細工店の制作主任のような存在だ。今日の午前中は素材の仕入れに出ていたはずだった。
「あらあら、腰の人。チャーム、また調子悪くなったの?」
「うん、でもユーカちゃんがその場で直してくれたよ。ほんとに助かったわ」
「へえ……」
リネアは、ちらりと娘を見る。
ユーカはというと、母の視線に気づいて、そわそわと視線を泳がせた。
「えっと、ちょっとだけ不調だったから……調整しただけで……」
「ふーん?」
にやり、と口の端を上げる。
それは、リネアが何か“茶々を入れる気満々”な時の顔だった。
「じゃあ、今度は“お代は婿の紹介で”とか言ったの?」
「い、言ってないしっ!」
「そうかしら〜?」
「お、お母さんっ、からかわないで〜っ……!」
「ふふっ、かわいい反応」
フローラ婆さんも一緒になってくすくす笑っている。
「でもまあ……あたしから見ても、ユーカちゃん、ほんとに頼れるようになってきたよ。店、安心して任せられるねえ」
「……そうね。ちょっと前までは研磨しすぎて石を割っちゃったり、刻印ずらして魔力が暴走しかけたりしたのにねぇ」
「うぅ、あの話はもうしないで……!」
顔を覆うユーカ。そんな姿を見ながら、母娘と常連客の間に、やわらかくあたたかな空気が流れていた。
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フローラ婆さんが去っていったあと、店内には再び静かな空気が戻っていた。
ただ、さっきまでの眠気はもうどこかへ吹き飛んでいて、代わりに残っているのは、ほんのりとした達成感と、少しの照れくささ。
ユーカはカウンターの内側に戻り、先ほどのノートを開き直す。
「えっと……“腰楽チャーム、使用者報告あり。振動による接点ズレで効果減退。再調整で回復”……っと」
「ちゃんと記録までつけるなんて、えらいじゃない」
そう言いながら、リネアが棚から小さな布包みを取り出してきた。中には、さまざまな色の魔石が並んでいる。午前中の仕入れ品だ。
「さっき言ったとおり、今日入ったのはこのくらい。青系と紫系が中心だけど、ちょっと色ムラがあるから、仕分けと判別頼める?」
「うん、任せて。今なら……たぶん集中できると思う」
「“たぶん”?」
「……気分次第、かも?」
そう言って笑うユーカに、リネアもふっと口元を緩めた。
「気分屋だけど、やるときはやるんだから。あんたはそれでいいのよ」
「……うん」
作業台に魔石を広げ、ユーカは小さなピンセットと判別用の共鳴棒を手に取る。石に微弱な魔力を流し込み、反応の光と揺らぎを見て、用途や安定性を判断する作業だ。
ぱっと見では分からない細かな違いに目を凝らし、慎重に手を動かす。
「これは……ちょっと歪んでる。研磨で使えるかも……。こっちは……反応が鈍いけど、封印細工には合いそう」
ぶつぶつと小さく呟きながら、次々と石を分けていく。
静かに流れる時間の中で、指先はまるで楽器のように軽やかに動いていた。
リネアはそんな娘の姿を横目で見ながら、自分の帳面をつけ始める。作業中のユーカに、特に口を挟むことはない。ただ、そっと見守っている。
――その沈黙が、親子にとってちょうどいい。
そして。
ふと手を止めたユーカが、小さく呟いた。
「……さっきさ」
「ん?」
「フローラさんが“助かった”って言ってくれたとき……ちょっと、嬉しかった」
ぽつりと、そう言った。
「最初は、細かい作業が楽しいってだけだったけど……うん、やっぱり“役に立てた”って実感があると、違うんだなぁって」
「……あんたも、やっと分かってきたのね」
リネアが呟く。決して大げさには褒めない。けれど、その声には確かな温かみがあった。
ユーカは頷く。
「うん。まだまだだけど、でも……今日みたいな日が積み重なったら、もっといいもの作れるようになる気がする」
「そうね。最初から完璧な職人なんていないもの。……でも、あんたなら、ちゃんと“届くもの”を作れると思ってるよ」
「えへへ……ありがと」
照れ笑いしながら、ユーカはもう一度、作業に向き直った。
指先に集中し、ひとつひとつ丁寧に見ていく。作業の音だけが、静かに響く。
そして――ふと、いつもの口癖が自然とこぼれた。
「……ま、きっと、なんとかなるよね」
その一言に、リネアは笑いながらこう返した。
「そうそう。あんたがそう言うと、本当に“なる”気がしてくるんだから、不思議よね」
「ふふ……“言霊”かも?」
「だったらその言霊、大事に使いなさいよ。あんまり適当に言ってると、効き目なくなるわよ」
「ええ〜っ、じゃあ今の、今日の一回にする〜」
母娘のそんなやりとりが、店内に柔らかく響いていた。
* * *
こうして、《シルヴァリス細工店》の一日は、のんびりと、でも確かな一歩を刻みながら始まっていく。
いつも通りの朝。
いつも通りの作業。
でも、その中に、少しずつ“成長”と“自信”が積み上がっていく。
灰色の髪の少女は、今日も言う。
「――なんとかなる!」と、笑って。