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野寺坊と幻の獺

 0

 夏の暑さが過ぎ去り、木々が緑から黄色、中には既に赤く染る葉まで現れる過ごしやすい時期になった。

『秋は夕暮れ』と有名な清少納言は残しているけれど、僕はむしろ昼頃がいいと思っている。この色鮮やかで綺麗な葉を見るには明るい方がいいからだ。

 道路に舞い降りた黄色のイチョウや赤い紅葉の踏みしめる音を楽しみながら、また、吹き抜ける温かな風を肌で感じながら、そうして見上げる色とりどりの景色は最高だと思う。これは秋にしか見れない景色だろう。

 そんな中に非現実な物があると人は興味を持つ。

 ――例えば、赤い紅葉の中に一本だけ生える満開の桜の木


 1

 そのニュースが流れたのは、妹に今日あった事を話していた時だった。二人とも学校から帰宅し、夕食の準備をしながら話をしていた。


「っていう事で、社会科見学は来週からに決まったよ。やっぱり班長を擦り付けられたのは納得出来ないけど」


「それ二度目だぞ兄上。じゃんけんで負けたのなら仕方の無い事だろうよ。妹に愚痴を言ったところで事実は変わらんさ」


「そうなんだけどさ……」


『続いてのニュースです』


 互いにテレビを見ながらご飯を食べていると、ニュースキャスターが今度行く社会科見学先の地名を口にした。


「噂をすればなんとやらだな」


『紅葉の中に一つ生えているのはなんと桜です!近付いて触ってみたのですが人工物ではなさそうでした!』


 興奮した面持ちでカメラに伝えるニュースキャスターは、落ちてしまった桜の花びらをカメラの前に突き出す。じっくり眺めた事は無いけれど、画面越しで見る限りは本物の花びらに見える。

 ニュースキャスターの背後にも珍しそうに桜の木を叩いたり写真で撮ったりしている人がいる。


「変わった事もあるんだね」


「ま、秋に咲く桜もあると聞いた事がある」


「でも一本だけ生えるって不思議じゃない?」


「まぁ確かに、それよりも気になるのは……」


「ん?」


「桜の木を叩かんで欲しいな全く」


「桜よりもそれが気になるんだ……」


 植物に優しい妹だった。桜の話題はまだ続き、専門家も現れて不思議だと語っているのを横目に、妹がまた口を開く。


「兄上が行動班のリーダーになったのなら、ついでに見に行ってみてはどうだ?レポート提出等言われた時に良いネタだと思うが」


「それは確かに」


「行く前にアカメへ話すのを忘れぬようにな」


「勿論」


 アカメとは、僕が夏に出会った女の子。神社の下で暮らしている彼女は人間ではなく一つ目の妖怪だ。偶然の出会いをきっかけに仲良くなった。

 家に招いて遊んだりしたいけれど、彼女は神社の下から出る事は出来ないそうだ。だから少なくとも二日に一度、僕らのどちらかがアカメに逢いに行く。

 明日は休みだし、逢いに行く予定だったから丁度いい。


 2

 翌日、図書館に行く予定がある妹と途中で別れてアカメのいる神社へと向かう。薄い長袖を着ても涼しさを感じる気温になり、階段を登るのも苦ではなくなった。無駄に長い階段なのでお年寄りが参拝に来るくらいしかない。

 今朝ここに来る前、偶然同じニュースがテレビでやっていたので、アカメに話せる話題になるだろうと録画をしてきた。


「アカメ、来たよ」


 神社の下、暗くて先が見えない場所に腰を下ろして声をかける。僕の声に反応したその先にいる人物がこちらへとゆっくり近寄ってくる。


「ばぁ! おはようソラ!」


「アカメ、おはよう」


 癖一つないまっすぐ揃った黒髪、小さな体躯にまとった和服。そして、大きな顔の中央に大きな巨大な目玉が一つ。僕の顔を見て嬉しそうに目を輝かせているこの子がアカメだ。今年の夏、偶然出会った一つ目の少女。偶然出会い、偶然相談に乗り、偶然助ける事が出来た。そんな偶然が重なった出会いをした少女アヤメだ。


「今日のお話は?」


「今日は面白いニュースの話をしに来たよ」


 夏に出会って以降、少なくとも二日に一度はアカメに逢いに来て色々な話をする。当然そんな頻度で逢いに来れば、話題が被ったり今日あった事を話すくらいしかない日もある。しかし、アカメは嫌な顔一つせずに話を聞き続けてくれる。


「面白いニュース?」


「うん、これ今朝のニュースなんだけどね、とっても珍しい桜が咲いたってニュースになっていたからアカメにも見せてあげようかなって」


「珍しい桜……? どれどれ?」


 アカメは神社の下にある木組みから目玉を覗かせてスマホの映像を覗き込む。目を細め、首を捻っているところを見る限り、アカメにとっても不思議なニュースなのだろう。

 動画を最後まで見せた後、自分もこの地域に社会科見学をする旨を伝えた。アヤメは終始不思議そうな顔をしていたけれど、探索班の班長をさせられる事になった話、それを妹にも二度伝えて呆れられた話をしたら楽しそうに笑った。


「そっかそっか! ソラが調査しに行くんだね。まぁリーダーに選ばれたのはソラが優秀なのが皆に認められているって事だから、喜んだら良いんじゃないかな?」


「そ、そういうものかなぁ……とりあえず、僕のいない三日間は毎日じゃないかもしれないけど妹が顔を出してくれると思うよ。今日は学校行事があるみたいだけど」


「そういえば私、あの人の名前を知らないや……」


「え、あ、そういえばそうだね。じゃあ明日は自己紹介をお互いにするとかどうかな? 妹も何を話そうかって凄く悩むだろうし」


「それも良いね! 私も自己紹介をちゃんと考えておかないと」


「それにしても……」


 僕はそこで言葉を止めて振り返る。この境内へと入る鳥居、敷地内に生えた紅葉の木、少しの雲と青い空。キャンバスが手元にあったらスケッチをしたくなる映えた景色が広がっていた。この神社に奉仕する神主さんに出会った事はないけれど、昼頃アカメに逢いに行くと既に落ち葉がまとめられている。早朝神社に来て掃除をしているのだろうか?

 アカメに訊いた事があるけれど、彼女も出会った事はないらしく、彼女が寝ている間に掃除をしているらしい。

 アカメは僕の真似をして木組みの隙間から外の景色を見る。


「本当に――」


「綺麗だよね。季節によって変わるこの光景、私は大好き」


「うん、僕もだよ」


「……ソラ、帰ってきてね?」


「えぇ?」


 突然の心配にアカメを振り返る。さっきまで笑顔だった彼女は何故かとても不安げな表情となっている。……いや、むしろ当然かもしれない。彼女がこうして話せるのは僕と妹位のものなのだから、遠くに行ってしまうと考えると不安になるのだろう。

 僕は彼女の頭を撫でて微笑み返した。彼女はなにか言いたそうな顔をしていたけれど、しばらくして気持ち良さそうに目を閉じた。


 3

 と、ここで翌週の今日に時間は戻る。兄上は今朝、私に行ってきますを告げて玄関から姿を消した。私は土曜日に学校行事があった為、本日は振替休日だ。

 兄上を見送った後一眠りをしてしまい、家事をしていたら夕方になってしまった。夕日に照らされながら例の神社の前にいるのだが……階段を登るに登れないまま数分過ごしていた。

 正直な話、顔面に大きな眼一つしかない少女に会いに行くというのは相当な覚悟が必要だ。兄上はもう慣れたと行って何度も会いに行っているが、私は久方ぶりの再会となる。深呼吸は何度も行った。


「……よし」


 すれ違う者から見れば私はずっとストレッチをしている不思議な人に見えるだろう。しかし、このまま深呼吸を続けていたところで何かが変わるわけでもなければアカメが出てくる事も無い。覚悟を決めて階段を登った。

 一段一段上に上がる度姿を見せ始める神社。兄上は神社の前にある鳥居を見るのが好きだというが何がいいのか分からない。……まぁ、趣味は人それぞれか。

 階段を登りきった私は、覚悟が揺らぐ前に本殿まで足を進める。木組みの下は相変わらず暗くて中が見えない。覗き込もうにも木組みが丁度いい感じで中を見せないように組まれているのだ。


「アカメ、おるか?」


 木組みの前に座り込み、作ってきた弁当を地面に置いた。参拝客は周りにおらず、静かな時間が流れる。

 声をかけて数秒後、中の見えない暗闇からガサゴソと音が聞こえ始めた。心臓が高鳴るのを自覚しながら、出来る限り不安を顔に見せないよう努める。

 やがて、木組みの隙間から見覚えのある癖ひとつない髪型をした頭が見えた。その顔が上を向き、私と目が合う。一つ目の大きな眼だ。動揺を隠しつつ、片手を上げて挨拶をした。アカメもそれを真似る。


「久方ぶりだな」


「うん、あの時はありがとう。……大丈夫?」


 大丈夫?とは当然私の内心について訊いているのだろう。動揺を隠しているつもりだが、彼女には見破られているのかもしれない。そういえば、元々アカメは人間だったのだから、こちらの気持ちも分かっているのだろう。


「目を隠した方が話しやすい?」


「……ふっ」


 挙句の果てに気遣いまでされてしまえば世話が無い。

 私は首を横へと振った。

 そもそも初めて見た訳でもない。ひと夏の思い出を共にした友人を見た目だけで怖がるのは失礼というものだろう。そう思うといつの間にか怖いという感情は消えていた。


「大丈夫だ」


「本当?」


「あぁ本当だ。それよりも折角二人きりになったのだし、自己紹介でもするか?」


「うん!」


 これは本日、兄上が玄関から出る時に言っていた話だ。アカメは私の名前を知らないと呟いていたと。言われてみれば私は彼女に名乗ったことがなかった。名刺でも渡して現代にはこんな物があると驚かせてみたかったが、学生にそんな大層なものは無い。

 代わりにポケットから学生証を取り出した。アカメにそれを手渡す。


「安佐南……メイ?」


「あぁ、私は五月生まれだからメイと名付けられたそうだ。五月やら皐月と書いてメイと読ませる選択肢もあったそうだが、まぁキラキラネームみたいで嫌だと母上が文句を言ったらしくてな、カタカナでメイだ」


「メイ、覚えた。ところでキラキラネームってなぁに?」


「ん、あぁキラキラネームっていうのは漢字の名前なのにとんでもない読み方をする名前の事だ。例えばアニメーションキャラクターの名前にしたり、無理矢理英語みたいな読み方をしたりとかな。知っているので言えば刃って漢字なのに名前はブレードって読む奴とかがいるみたいだな」


「ふむふむ……」


「まぁ、大抵の子供は名前に不満を覚えるそうだ。折角もらった名前なのだからと言いたいが、まぁ気持ちはわからない訳でもない。さて、じゃあ知ってはいるが改めて。お主の名前は?」


「私はアカメ!」


「ふふ、知っているさ。兄上とよく話してくれるものな。帰宅した兄上が、アカメと今日はこんな話をしたんだよと楽しそうに話している」


「そ、ソラったら……」


「そうそう、今朝兄上が出掛けた後にテレビを見ていたらな、兄上が出掛けた場所のニュースがやっていた。動画を撮ってきたから見るか?」


「……ふふっ」


「ん?」


 学生証を受け取り、スマホで撮った今朝のニュースを見せようとしたところでアカメが笑った。


「やっぱり兄妹だなって。ソラもそのニュースを見せてくれたからさ」


「あぁ、そういえば兄上もニュースを撮っていたな」


「でも見る見る!」


 アカメは興味津々といった様子で私のスマホを覗き込もうとする。私は今朝撮影したニュースを画面いっぱいに拡大してアカメへと見せた。

 先日兄上と見たニュースと同じようにニュースキャスターが桜の木を触ったりして紹介している。


「あれ?」


 と、不意にアカメが不思議そうな声を出した。


「ん?」


 おかしなところでもあったかと一度動画を止めてアカメを振り返る。すると、アカメはおかしな事を口にした。


「人が変わってるね?」


「何?」


 兄上がアカメに見せたニュースのチャンネルが違うのなら有り得る話ではあるが、私達は決まって同じニュース番組を見ている。

 そもそも、私と一緒にニュースを見たのだから番組を間違えるはずもない。ニュースが流れている間にスマホを取り出して話題になりそうだと撮っていたのを自分の目で見ている。ここ一年程ニュースキャスターが変わっている覚えなどないが……


「本当に変わっているか?」


「うん。この前の女性と別の人だね」


「うーん?」


 自信満々に答えている所を見るとアカメの気のせいって訳でもないみたいだ。前回見たニュースを見たいところだが、残念ながら撮影したスマホは兄上と社会科見学に行っている。まぁ、大きな問題でもないか。


「あ、あとさ……」


 しかし、この後が大きな問題となる。アカメは流れた動画の途中で木組みの隙間から指を指した。動画真ん中に大きく見えている桜の木だ。そして一言――


「これ、紅葉の木だよ?」


 4

「……へ?」


 一言漏れたのはそんな声だった。アカメの表情を見ると、やはり冗談を言っている訳では無さそうだ。私は何度も動画を巻き戻してアカメが指さしているものが桜の木である事を確認する。


「も、もう一度訊くが……この桜の花びらは見えておらんと?」


「う、うん。全部紅葉だよ」


「んんんん?どうなっている?」


 私も何度か見直すが、どう見ても桜の木だ。画面を擦ったりしても特に変わる様子は無い。動画を最後まで見たアカメは、ニュースキャスターがずっと紅葉の木を桜の木だと言っていると私に言った。

 スマホを再起動しても、動画を開き直しても、画面を拭いても彼女の答えは変わらない。それどころかアカメはこうも言った。


「実はね、ソラが前に見せてくれた動画にも桜なんて映ってなかったの。今は紅葉のような桜の木もあるんだってその時は納得したんだけど……やっぱりあの時もそうだったんだ」


「えぇ?」


 アカメの瞳から見えている光景が全く分からない為、桜の木を紅葉だと言い張っているようにしか思えない。そこでふと、先程アヤメの言っていた前の人と変わっているという話を思い出した。

 アカメが妖怪だから映像をちゃんと見えない……なら分かる。まだ納得出来るが、そもそも桜の木は一度も見ていないのだと彼女は言った。ならニュースキャスターだけ変わって見えるというのもおかしな話だ。

 思わず動画配信サービスを開き、先日のニュースを探す。件の日にやっていたニュースの一覧からいつも見ている番組を発見してアカメと一緒に見てみた。


「……」


「ね?さっきと違う人」


「……誰だこいつ」


 ニュースキャスターは先日のニュースと同じく桜の木を叩き、興奮した面持ちで喋っている。が、その顔に見覚えがない。というか、そもそも動画に映っている人物の顔全てに見覚えがない。数人くらい覚えていてもおかしくないだろうに、本当に誰一人覚えがない。

 思わずニュースの時間を再度確認するが、兄上と見た夕方の時間だ。朝夕でキャスターが変わるのは有り得る話かもしれないが、毎日見ているからこそ知っている。この番組が朝夕でキャスターを変えることは無い。

 見慣れないキャスターの映像が終わり、料理紹介のコーナーへと画面が変わる。


「ど、どういう事だ?」


「うーん、メイが分からないなら私はもっと分からないなぁ」


「にゅ、ニュースは見たはずなんだ。私も。この目ではっきり見たし、桜を叩いていたのも覚えている。その事に文句を言った覚えがあるからな。だけど、何故キャスターに見覚えがない……」


「あ、あの……」


「ん?」


「この、他の桜に触っている人にも覚えがないって言ったよね?」


「あぁ、一人二人くらい覚えていても良いものだが……」


「私、そこに映ってる子供を抱っこしている親に覚えがあるよ。それに、後ろで写真を撮っている姉妹がいるでしょ?そうそうその人達。その二人も見覚えがある」


「……ということはやはり私が忘れているだけなのか?」


 もしそうなのだとすると、先日別の人が喋っていたという私の記憶は何なのだろうか?私の記憶では確かに今日のキャスターが先日にも喋っている。

 しかしながら、姉という存在に思い入れの強いアカメが見間違えるのもおかしな話だ。


「も、もしかしてだけど――」


「ま、まさか――」


「桜に触れたら人の記憶から存在が消されるのか?」


「桜に触っちゃダメとか?」


 私達は同時にひとつの結論へと辿り着いた。あまりに非現実的な考察ではあるが、それくらいしか納得のいく説明ができない。


「……メイ」


「あぁ」


 そして現状に合わせた考察の()()は、もう一つの仮定を生み出す。


「や、やだよ……ソラの存在が消えちゃう!」


「ま、まだ決まった訳じゃない」


 瞳に涙が溜まっていくアカメの頭を安心させるように撫でる。口ではそう否定したものの、その可能性に気が付いてしまった私の手は無意識に震えていた。

 不安げな表情で私を見上げるアカメの頭をもう一度撫でると私は立ち上がった。


「い、行くの?」


「行かなきゃいけないだろうさ。兄上は私の大切な家族だ」


「じゃ、じゃあ待って!」


「ん?」


 アカメは私を止めると、中の見えない本殿の下へと姿を消した。兄上の話だとアカメはこの木組みから出る事は出来ないそうだが……

 しばらく待っていると、布を地面に擦る音がしてアカメが顔を見せた。手には何かを握っている。


「これを……」


「……分かった、有難く預かろう」


 アカメが私に手渡したのはボロボロになった赤い御守りだった。布が解れている箇所が幾つもあるそれを学生証の内側へ仕舞う。


「メイ、絶対帰ってきてね?ソラと一緒に、必ず、必ず戻ってきてね?」


「あぁ。土産を持って兄上と帰ってくる。それまでに泣き止んで笑顔で出迎えてくれ」


 5

 アカメには申し訳ないが、その日はすぐに帰宅した。兄上の話だと二泊三日の二日目が行動班で動く日と聞いている。となれば、時間はあまりに少ない。更に、社会科見学のパンフレットを見せてもらった訳じゃないのでどういう行動をするかも全く分からない状況だ。

 自分の安易な提案をとても悔やむ。


『兄上が行動班のリーダーになったのなら、ついでに見に行ってみてはどうだ?レポート提出等言われた時に良いネタだと思うが』


 私が兄上に言った言葉だ。何が良いネタになるだ……。それに、夕方まで寝ておらず朝に神社へ行っていればこんな慌てる必要も無い。

 準備をしている間自分を責める事ばかりが思いつくが、全てが後の祭りだ。言ってしまった言葉は消えないし、やってしまったことは戻ってこない。

 往復分の交通費、土産用のお金、ご飯を食べる時のお金を計算し、そこに少しのお金をプラスして財布へと入れた。両親は今週末まで帰宅予定は無いし、学校には明日体調不良だと連絡すれば良いだろう。あまり周りを巻き込む訳にもいかない。

 ネットで目的地までの所要時間を調べたら明日の朝に到着するルートしか見当たらなかったが、急げば何とかなるだろう。キャスターバッグに着替え等の必要な物を入れ、移動用の小さなバッグを脇に抱える。

 アカメにも隠した不安な気持ちと、兄上を失う恐怖心を胸の奥へとしまって玄関の扉を開いた。冷たい冷気が肌を撫でる。

 家を出てからはキャスターバックを抱えるようにして走った。赤信号も見て見ぬふりで走り抜け、最寄り駅の階段を一段飛ばしに上りきる。

 夜遅い時間にも関わらず眠そうなサラリーマンがホームに立っている。キャスターバックにもたれかかって息を荒らげている私はさぞおかしく見えただろう。

 しかし、今の私にはそんな周りの様子を見る余裕は無かった。人生に余裕が無い者は空を見ないとはよく言ったものだ。


 6

 電車ではなく夜行バスを当日券で購入する事にした。

 幸い連休シーズンという訳でも無いためか夜行バスの当日券はすんなり購入出来た。バスの時間が噛み合い、十分も待つ事無く乗車する。

 乗客は寝ている人ばかりだ。それらを起こさぬように気をつけながら指定席へと荷物を運んで座り込む。

 アカメに無事を連絡してやりたいものだが、電子機器を持たない彼女への連絡手段を持ち合わせていない。仕方なく席にもたれ掛かって目を閉じると、すぐに眠気が私を襲った――


 ――サマッ


「お客様!」


「んぁ?」


 眠っていた私は肩を揺らされて目を覚ます。暗かった車内には陽の光が差し込み、車内を明るく照らしている。

 隣を見ると疲れた表情を浮かべる車掌が私の肩に触れていた。寝起きの頭では状況が呑み込めず、辺りを見回す。


「最後の駅です……降りられますか?」


「はっ!すすす、すまない!」


「いえいえ、余程お疲れだった様子でしたので……」


「じ、時間は?」


「着いてから五分程ですね」


「分かった、迷惑をかけて申し訳ない。起こしてくれてありがとう!」


 車掌が上から降ろしてくれたキャスターバックを抱えてバスを降りる。五分程度の寝坊であれば問題は無いかもしれないが、私にとってその五分はとても大きい。一秒でも遅れれば家族を失う危険があるからだ。

 すぐに手元の携帯機器で地図を開き、自分のいる場所から桜の場所までを調べる。


「徒歩だと一時間か……」


 流石にその距離を走る訳にはいかない。それに、キャスターバックを持ったまま移動していてはあまりに動きにくい。となれば何処かに預けるか宿泊施設の一部屋を借りるしか無いのだが……と、考えていたところでふと鼻腔をくすぐる甘い匂いに足を止める。

 いつの間にか駅の中を通っていたようだ。駅中にあるパン屋から優しそうな顔立ちをした御老人が顔を出した。


「おやお姉さん旅行者かい?駅のお土産にうちのパンはどうかな?」


「いや、すまない。先を急いでいる」


「ふむ……もしかして君もあの一本桜を見に行くのかな?」


 先を急ごうとしたところで彼の言葉に足を止めた。


「一本桜……まぁ、そうだな」


「そんな大きな荷物を抱えていたら歩きにくいだろう。ほら、あそこに白い棚があるだろう?」


「ん、あれの事か」


「あれは荷物を預けられる有料ロッカーさ。ただ、ホテルを借りるよりも安くなるよ」


「そ、そんな物があるのか」


 うちの最寄り駅はそこまで栄えていない為かコインロッカーなど駅には置いていない。駅員が使用するロッカーなのだと思っていた。

 彼は周りに人が居ない事を確認すると丁寧に棚の使い方を教えてくれた。彼の指示に従って電子パネルを操作して荷物を仕舞う。


「た、助かった。ありがとう」


「いやいや、気にしないで」


「御礼という訳では無いが……まだ朝ご飯を食べていないものでな。千円で買えるパンのおすすめを買わせて貰えないだろうか?千円以内であればいくらでも貰おう」


「……分かった」


 私の手元から千円を受け取った御老人は店の中に戻っていくと、しばらくして中のもので今にもはち切れそうな袋を持って現れた。明らかに10個以上入っている。


「待て待て待て、本当にこれ千円か?いくら何でも冗談だろう?」


「おや?最近耳が遠くてね……『千円あげるから袋パンパンにして持ってこい』と言っていたような?」


「いやいやいや……」


「焦った時、困った時、悩んでいる時は甘いものが良い。リラックスをして一本桜を見ないと綺麗に見えないよ」


「はっ!」


 御老人はそう言って私へとその袋を渡してくれた。人目で心配になるほど私の表情は暗かったのかもしれない。一本桜の名前を聞いた時にはぐらかしたのも心配させる要因になっただろうか?

 とにかく彼の真意は分からないが、その優しさに甘える事にした。彼の手から袋を受け取りもう一度頭を下げる。

 ロッカーの存在と御老人の優しさによって随分とスケジュールに余裕が生まれた。とはいえ、それに甘えている訳にもいかない。兄上がいつ来ても良いように動かないと……間に合いませんでしたで済む話では無い。

 電車に揺られて一本桜へと急ぐ。道中、ふと気になってアカメの為に録画したニュースを再生してみると、また見覚えのないキャスターが桜を叩いて解説をしていた。

 彼女の出たニュースを録画した覚えなど無いが、記録として残っているのだから確かなのだろう。やはり桜には触れた者の存在を消す力があるようだ。目的の駅までは遠い事を確認し、アラームをセットして目を閉じた。

 この時、私はアカメの言葉を思い出すべきだった。そうすれば私の推理が間違えている事に気が付けたのに……


 7

 イヤホンから漏れ出る程大音量のアラームで最悪な目覚めをした私は、忘れ物が無いかを確認して席を立ち上がった。電車は遅延する事もなく快適に走行していたようで、間もなく目的地に到着する旨をアナウンスしていた。

 本当に一分か疑いたくなる程長い時間の後、駅のホームへと降りる事が出来た。右も左も分からない初めてのホームだったが、乗客の流れに乗じて階段を登る。団体客の口から一本桜の話がちらちら出ている為、彼らも恐らく目的地は同じなのだろう。とはいえ、同じだから彼らについて行けば到着できるなんて考えでは兄上よりも先に辿り着ける訳がない。

 一段飛ばしで彼らの背中を追い越し、改札口を通り過ぎる。一本桜へのルートをスマートフォンに打ち込み、マップに従って歩き出す。駅から歩いて数分の距離にあるようだ。


「はぁはぁっ!」


 まだ時間は朝の八時過ぎ、心のどこかで余裕があると思いながらも足は駆け足で一本桜を目指していた。二人で並び歩く恋人の脇を通り抜け、日本の景色に感動している外国人の背後を走り抜ける。そして――


「いやぁ、本当に咲くのが楽しみだな」


 目的地付近について桜を探している時、観光客の一人が一本の木を見上げてそう呟いた。思わずその場で立ち止まり、彼の視線の先を見上げる。そこで、私がしている第二の勘違いに気が付いた。

 焦燥で思考が鈍っているとはいえ、気が付くべきだった。何故最近ニュースになり始めただけの桜に最寄り駅が出来るだろうか? ニュースでは確かに一本だけ大きな桜が咲いていたが、周りにも目を見張るほど綺麗な紅葉の木が生えていたではないか。地名、一本桜と調べれば当然昔からある既存の桜が出てくる。

 走り回っていた自分の体から熱さがどんどん抜けていくのを自覚する。

 ――額から流れる汗が本当の汗か冷や汗なのかも分からない。

 ――喉がどんどん水分を失い、呼吸の方法すらも危うくなる。

 ――視界が暗くなり、意識を失いそうになったところで手に持った袋がカサリと音を立てた。

 真っ白な頭で袋へと視線を落とし、沢山詰まった袋の中からひとつのパンを取り出す。兄を失ってしまう焦りと目的地を失った喪失感、失敗による混乱でいっぱいいっぱいだった私は、そのひとつを袋から取り出して頬張った。

 甘さが口いっぱいに広がり、あまりの美味しさにパンを味わう事に意識が集中する。自分が手に取って食べた物がクリームパンである事も気が付かない程余裕がなかったようだ。

 動き出した頭脳は停止していた思考回路の処理に動き出す。握っていたスマホの画面を操作し、観光案内所までの道のりを検索する。最近見つかったとはいえ、ニュースになっているくらいだ。観光案内所にいけば職員が何かを知っているだろう。

 幸い観光案内所は今いる場所からバスで十分程の距離らしい。しかもバスは数分で来るようだ。

 最寄りのバス停まで駆け足で移動し、ベンチに座り込む。もうひとつパンを取り出し、袋の封を開いた。

 今度はメロンパン。市販のメロンパンとは違い、パンの上にメロンパンの生地を被せたような形をしている。市販のメロンパンは大きすぎて口の横が汚れるが、小さめに作られたこのメロンパンはそんな心配もない。

 一口生地を頬張ると、口内がメロンの風味でいっぱいになる。正直市販のメロンパンより数倍美味しく感じる。

 メロンパンを食べ終わる頃にバスが坂の下から現れた。袋が飛ばないように自分のカバンの方へと入れてバスへと乗り込む。


 8

「あぁ、あのニュースでやっていた桜の事ですね!」


「そう。あれはここからどのくらいになる?」


「そうですね、表から出発するバスに乗って頂き、駅に向かってください。その後、電車を使って赤山という駅で降りてください。乗り換えなく行けるのですが、時間は合計で一時間程になります。赤山駅の宿泊施設をご利用する予定はありますか?」


「いや無い」


「承知致しました。それでは赤山駅で降りたら北口へ向かってください。その目の前に大きな山があります。その中腹に仰っていた桜があります」


「一時間……分かった、ありがとう」


「お気を付けて行ってらっしゃいませ」


 観光案内所を出て目の前のバス停に座り込む。スマホで赤山という駅を検索してみると、何とか十時までには到着出来るようだ。兄上の班行動が何時からスタートして、赤山駅に何時に到着するのか分からない。出来るだけ早く桜に近付きたいが、私一人の意見でバスがアクセル全開にするはずもなく、それからまた十分程経過した後バスが現れた。

 バスに揺られて数分、駅に到着する。改札を走り抜け、赤山駅が終点となっている電車へと乗り込んだ。乗客は私を不思議そうな顔で見ているが、周りに気を使う余裕は無い。目的地が近くなるにつれ、間に合ったかという不安と助けられるという期待で胸がいっぱいだった。乗客に学生がいるかどうかを確認出来れば良かったが、それすらも忘れた。

 赤山駅に到着する頃には終点という事もあり、電車の中は人で溢れ返っていた。異様な熱気に気持ち悪くなりながら、流されるようにして電車を降りる。


「こ、これが満員電車か……」


 田舎育ちなので満員電車に乗り込んだ事はない。体の自由も効かなくなる程押しつぶされ、疲れがどっと押し寄せる。しかし足を止めている時間も余裕もない。そもそも人の流れが激しい為、立ち止まる事すら出来ない。

 後ろから押されながら改札を抜け、左右を見渡して息を飲んだ。

 紅葉で色付いた山々が風に吹かれて揺れている。窓の近くにも紅葉があるのか、吹かれ落ちる桜のように赤い葉が風に舞う。見慣れている青い空、白い雲さえも紅葉に混ざり合い、一言で言えば圧倒される程の絶景が広がっていた。

 神秘的にも感じる秋景色に心を奪われていた私は、観光客が持つカメラの音で我に返った。窓に寄り、桜の木が見えるか確かめる。しかし、左右どちらの窓からも確認することは出来なかった。偶然観光客の中に桜の話をしている人を見つけ、彼らの背を追うように階段を降りた。

 楽しそうに桜の話をしている目の前のカップルも明日には存在を忘れてしまうのだろうか?わざわざニュースを見て遠い場所から観光に来た外国人カメラマンも、体全体で期待を表現し、それを笑顔で見守る家族も皆忘れられてしまうのだろうか?

 そんな事を考えていた時、子供連れの家族が立ち止まり、父親が山の中腹を指さした。子供も母親も驚いた顔をして指の先を見ている。私も顔を上げてその方向に目を向けた。

 赤い紅葉が風に揺れている中央で、自分の存在をアピールする花、探していた桜があった。人の流れもその桜の方向へと向かっている。


 ――ところで、私は何故ここに来たのだろうか?


 9

 突然虚無感に襲われ、心に大きな穴が空いた感覚を味わう。何か重大な事を忘れてしまったような、謎の不安が全身を駆け巡る。


「……」


 道路の脇に移動した私は手元の袋からひとつパンを取り出す。このパンは心優しい老人が渡してくれた物だ。


『土産にうちのパンはどうかな?』


 と声をかけてきて、私は何かに焦って断ったはずだ。何を焦っていたのだろうか……?


「土産……?」


 そうだ、私はここに来る前にアカメと出会って約束をした筈だ。あの時、アカメは泣きながらソラを連れて帰るように言った。それに対して私は……


「必ず兄上を連れて帰る……そう、だから泣き止んでいろと言ったはずだ。土産を持って帰るとも言った……」


 指を折り、一つずつ覚えている事を数えていく。抜けていた記憶がジグゾーパズルのように明確化される。


「そうだ、ニュースを見て、喋った奴が違ったから、兄上が消えてしまうという話をした筈だ。私には兄上がいるはずだ」


 思い出そうとしても兄の顔を思い出す事は出来なかった。恐らく兄であった人物と過ごした日々は黒塗りされ、無かったことになっている。

 自分の頬を叩いて喪失感から立ち直ると、駆け足で山を昇る。先程まで楽しそうだった外国人や家族の目からは光が消え、桜を目指して進むだけの人形となっている。

 恐らく隣にいる人物が何者かも思い出せないだろう。

 行列には並ばず整備された道を駆け上るが、それを止める者は誰もいない。恐らく私と同じように喪失感が脳内を支配しているのだろう。

 ここまで来ると逸る気持ちを抑えること等出来ない。一段飛ばしに階段を上り、目的の桜の元へと近寄る。


「兄上!!」


 記憶にない、存在するかも疑わしい兄の名を叫ぶ。その場にいる誰もが足を止めて私を振り返る。この中の誰かが私の兄なのだろうか……?

 記憶もない、存在すら忘れているであろう私に気付いてくれるだろうか?

 数分待ったが、やがて全員の視線は私から桜の方へと移る。興味深そうに誰もが桜へと手を伸ばそうとする。

 その光景を見て嫌な予感が脳内を支配した。

 桜に触れた人物はどこに行くのだろうか?そのまま山を降りる……とは思えない。もし降りるなら登る人と降りる人の割合が釣り合わない。行列を乱して登れたのは山を降りる人物が居ないからだ。しかし、この間にも人々は登り続ける。となれば答えは……


「おいその桜に――!」


 振り返って間もなく、人の形をした花びらが空へと舞った。桜の木に手を伸ばすような形をした桜の花びら。偶然大量に木から落ちてその形になる訳がない。

 そして直後、頭の中から触れようとしていた人物が消えた。一瞬過ぎった警戒心と共に忘却の彼方へと姿を消した。


「……桜、に?」


 自分で喋った言葉にも関わらず何を言っているのか理解出来なくなり、伸ばした手を下ろした。

 自分が自分で無くなる感覚。そのような表現が丁度当てはまる喪失感。気を抜けば何故ここまで上がって来たのかさえ忘れてしまいそうだ。

 周りの人間の顔を見るに、彼らは私より重度の症状が出ている。恐らく自分が何者かさえ怪しくなっているだろう。このような状態で顔を知らない兄を探せるだろうか……。


 10

「……いや手はある」


 自問自答をした私はポケットから学生証を取り出した。表紙を捲り、ボロボロの赤い御守りを中から引っ張り出す。姉が縫ったのだろうか?アカメという文字が縫い込まれている。


「ふっ、気を使わせるわ助けられるわ……全く、お土産は一つじゃ足りないな」


 記憶にはっきり残っている者へ感謝を述べ、御守りを掲げた。別にこれできっかけになるとは思っていない。単なる願掛けのようなものだ。

 肺いっぱいに息を吸い込み、全員に聞こえるように叫ぶ。


「この中に!一つ目少女のアカメという女を知っているものは手を挙げてくれ!」


 もう一度全員が足を止めた。異物を見るかのような視線が私を刺す。それでも諦めずに辺りを見回した。手は上がらず、近寄ってくる人物もいない。

 体温が一気に下がり、喉から水分が消える。

 しかし、今の状態は私にとってプラスに働いた。本来なら焦っている筈なのに、脳内はパニックでヒートアップせずとてもクールだ。

 確かに桜に触れた人物が死んだとは限らない。それに、兄上がまだここに到着していない可能性だって十分ある。

 今やるべきは兄上を探す事よりこの場にいる人々を出来る限り桜に近付けない事だろう。幸い、山の中腹には深夜登山者が登らないように足止めするチェーンがある。

 既に桜に近付いている人々の手を握り、階段の手前まで連れ戻す。それに抵抗する様子が無い事から、自分の事を忘れた者達は人形同然と化しているのだろう。

 全員を階段の入口まで戻してチェーンをかける。これで被害はだいぶ抑えられると信じたい……。幸いチェーンを乗り越えて桜に触れようとはしないようだ。

 まだ自分を失っていない後ろの人達が私を見あげて何か言っているが、同時に言われると何も分からない。再度肺いっぱいに息を吸う。


「聞け!この桜は記憶を奪う危険な桜なんだ!まだ意識のある者は急いで下山してくれ!嘘だと思うなら、今まで家族と過ごしてきた時間、友人と紡いだ日々、隣にいる人物の正体を考えてみてくれ!」


 幾人に響くかも分からない言葉を叫んだ時、足に何かがぶつかった。

 足元に視線を下げ、それの顔を見る。


「カワウソ……?何故こんな所に?」


 茶色の毛に覆われ、可愛らしい丸目のカワウソが私の顔をじっと見つめていた。生気のある瞳を見るに、この生き物は桜の影響を受けていないようだ。

 危ないから逃がしてやろうと手を伸ばしたところで、ふと昔見たニュースを思い出す。茶色の体毛に覆われたニホンカワウソとやらは絶滅したと言っていたような……


 11


「おい」


「なっ――!?」


 ――鋭い牙。

 すぐに目に入ったのはそれだった。小さな顔にどうやって収まったのか分からない程長く、鋭い牙が開いた口内にあった。

 その口も恐ろしい程に裂け、顔の長さが倍になる程下顎が伸びている。可愛さの欠けらも無い。警戒心を抱かずに手を伸ばしていたら、手首から噛みちぎられていただろう。


「何故効かない、人よ」


 相手は敵意を剥き出しにしてこちらを睨んでいる。

『何故効かない』というのは桜の事を指しているのだとすぐに察した。飛びかかって来た時、すぐに回避出来るように距離を離す。


「……ある知り合いが桜が偽物である事を教えてくれた」


「幻の見えぬ知り合いか」


「あぁ、どう見ても桜にしか見えないが、彼女はこれが紅葉だと言っていた」


「そうか」


「……何故こんな真似をした?食料か?」


「私は魚しか食わん、馬鹿か?」


「……」


 敵として認識されているから仕方ないとはいえ、偉そうな態度と悪態は腹が立つ。何か言い返してやりたいが、まず明らかに私の知るカワウソでは無い事は確かだ。怒らせれば危険な目に会うのはこっちである以上、怒り任せの行動は取れない。


「それと勘違いしていないか?私達は別に殺しなどしていない」


「え――いや、だって記憶から存在が……って、私達?」


 警戒心が高ぶっている為か、カワウソの言葉にすぐ引っかかった。殺していないという真実も重要だが、そもそも私になにかあれば兄を助ける事が出来ない。敵がまだいるなら警戒するべきだろう。


「ふむ、本当に自我を保てているようだな」


 敵の姿をいち早く見つけようと地面に気を配っていると、ペタペタと歩く音が耳に入ってきた。

 慌てて声の主を探すと、桜の生えた中腹から山頂へと続く階段を降りてくる人物が姿を見せる。

 髪が全て抜け落ち、水分の無いしわがれた皮膚、身に纏う袈裟は穴だらけでボロボロになっている。何より目に付くのは手足に生える先の鋭い爪だ。わざと手入れしない限りは尖ったりしないだろう。


「獺や、戻っておいで」


 開いた口から見える歯も不揃いだ。状況を理解して尚この落ち着き、確実に何かを知っているだろう。

 名前を呼ばれたカワウソは低い唸り声を私に放つと、老人の方に駆け寄って肩に乗りあがった。


「人間よ、殺しを行っていないという獺の言葉は真実だ。偽りない」


「……それを信用しろと?」


「まぁ出来ないのだろうね。とはいえ、殺していると言って信じないし、信じたくないだろう?」


「だからこそ信用させる――」


「だからこそ信用させるべく騙る必要が無い。騙したところで敵意を煽るだけなのだから」


「……」


 既に警戒心は最高潮だ。最高潮だからこそ前の人物だけでなく、背後の列が動きを停めているのも気が付いている。進行も退行もせず、何故かその場に留まり続けている状態。

 あくまで予想ではあるが、私と対峙しているこの状況のせいでどちらかが行動させられないのだろう。それなら尚更こちらに都合が良い。


「……何故こんな事をした?そもそもお前、人間か?」


「いや、私は野寺坊という妖怪だ。こちらの獺も同じくな。そして人間の君よ、気になっているのは消えた人々の安否かな?」


「……あぁ」


 妖怪だと名乗る割に話は聞いてくれる様だ。そういえばアヤメも私と仲良く話していたか……。

 とはいえ警戒は怠らず、何時でも逃げる準備をしておく。


「正義の味方になりたいと語る歳でもない……となれば目的は家族か恋人、友人だろう。当たっているかな?」


「答える必要はあるか?」


「それが答えだ人間。人間はイエスかノーの答えをはぐらかした場合、自分に都合の悪い回答である可能性が高い。本物を混ぜた嘘はバレにくいと言うが、はぐらかすのは分かり易いと覚えておくといい」


「……」


「敵意は鎮まらないな。では人間よ、ゲームをしよう。これがクリア出来たなら人間は全員返すと約束する。どうかな?」


「必ず返す保証がない。却下だ」


「では人々を返さないし記憶も戻さない。君の愛する人、それ相応の人々は戻らない」


「なっ――」


「これは選択肢を与えている訳ではなく、チャンスが欲しいか聞いているだけ。立場を理解するといい」


「……」


「愛する人を助けたいならそれ相応の事をするべきだと思うのだけれどもね」


「……」


 ――私は無力だ。

 ――兄を助ける為にここで来て、他の人々を助けようと声を発した結果、出来る事は敵に縋る事なのか。

 自分への失望と悔しさ、孤独感。兄を目の前で失う恐怖。様々な感情が入り交じって泣き出しそうだ。

 自らの肉に爪を立てるように手を握りしめても事態が好転する事はない。

 敵に頭を下げる屈辱感が私を制限する。

 頭では理解している。

 今するべき事は既に分かっている。

 もうそれしかないのだろうと。

 あと一つ、何か相手から条件が提示されてしまえばその場に膝をついて懇願するだろう。

 ――私は無力だ。


『そんな事ない!』


 何者かが私を否定した気がした。

 地面に手を付けようとしたところで、その何者かの声が私の動きを止める。

 地面へと伸ばしていた手をゆっくりと開く。

 ボロボロになった赤い御守り。持ち主の名前が縫い込まれている。


『メイは一人じゃない!無力じゃない!』


 何故だろうか?御守りが喋らないという常識はまだ頭に残っている筈なのに、アカメの声が聞こえる気がする。


『メイ!負けちゃダメだよ!』


 ……


『顔を上げて!頭を下げちゃダメ!』


 ……


『メイ!』



「ダメだアカメ。堪えていたのに、我慢していたのに……御守り、濡らしてしまうじゃないか」


 聞こえる筈もない幻聴だと分かっている。追い詰められ、苦しくなった私の心が逃げる為に作り出した声だと分かっているのに、その声に救われる。

 ぽっかりと開いていた心の穴を埋めていた無力感が洗い流され、自信と勇気が芽生える。心に溢れ出した()()は折れやすい私の心で収まるはずも無く、瞳から涙となって頬を伝った。

 袖で涙を拭い、御守りをポケットへとしまう。


「野寺坊、こいつ雰囲気が――」


「……記憶が戻らない?返さない?お前達こそ何から目線で言っている。お前達の力なんて借りずに探せば、解決すればいいだけの事だろう。チャンス?不要だ」


「何も分かっていない――」


「一つ」


「?」


「考えたくなかったが、私の探している兄上は既に桜に触れている。桜を叩いてから桜になるまでの間、その人間を見ていた記憶は残るからだ」


 忘却の恐怖から過去を振り返る事を忘れていた。

『桜の木を叩かんで欲しいな全く』

 過去に私が言った事だ。叩いた人物は思い出せないが、自分の記憶ならある。私は確かに誰かにそれを言った。いや、独り言だったかもしれない。しかし、確実に言ってはいる。忘れてしまったなら叩いた事さえも忘れる筈だ。

 そして、私は先程自分の口で記憶を奪うと口にした。誰かに伸ばしていた手の先には桜の花びらの束があった。

 とするならば答えは出る。私は不用意に桜に触れた人物に声をかけようとしていたのだ。そして、桜になったその人物を忘れた。そして――


「二つ、恐らく消えた人々はこの周辺に存在しない。アカメと見たニュースを思い出した。あの時既に人は集まっていたし、今もこんなに人が増えている。これら全ての人を収容する場所が必要だ」


「馬鹿だなお前。俺が桜の花びらに変えて桜に吸収させている――」


「それは無い。これは紅葉だからだ」


 獺の声は出来る限り聞きたくない。狙ってか無意識にか、見下した喋り方は私の神経を逆撫でる。

 言葉を遮られた獺は不満を顕にした顔で私を睨む。


「しかし人間。それが分かってどうする?救いたい兄はここにいない。それが分かって何になる?探すのか?顔も知らないのに」


「分かりきった事を聞くなよ。兄上がいないまま過ごすくらいなら探すさ。有難い事に手掛かりはここにある」


 真っ直ぐ桜へと手を伸ばした。

 私はもう迷わない。

 すまないアヤメ、帰れなくなるかもしれない。

 それでも私は兄上を助けたい。

 お前の御守りはボロボロになりながら、私に力をくれた。

 そうだな、帰る事が出来たら美味しいパンを土産に持っていこう。

 木の幹の感触を指先で感じた。


 12


「……こ、これは」


 指先にザラザラとした幹の感触を感じた途端、数え切れない桜の花びらが私の視界全てを遮った。

 地面にさえ桜の花びらが飛び回り、今私がどこに立っているのかも見失いそうだ。

 立ち止まる訳にもいかず、手探りで進める場所がないか探す。木の幹へと伸ばしていた手は空を切る辺り、その場に残っているという訳ではないようだ。

 冷静に周辺を分析していると、桜の花びらがある一点に向けて螺旋状の回転をしている事が分かった。螺旋の先を見てみると、先の見えない通路が伸びている。一面桜まみれのせいで気が付けなかったらしい。

 平衡感覚を失いそうな景色に酔いそうだ。それでも足を止める訳にいかない。正直、桜の木に居た時より意識を失わせようとする力が強い。気を抜けば一瞬で廃人化するだろう。握り拳の痛みにも限度がある。

 時折目を閉じる事で込み上げる吐き気を堪える。


「兄上、兄上どこだ!」


 返答はない。しかし気を落とさない。

 心の隙が生んだ穴に滑り込まれるだろうから。

 先程涙を流したからか、それほど苦ではない。


「兄上!聞こえたら返事をしてくれ!」


 そもそも記憶を失っているであろう兄が返答できる筈もない。それでも不安を誤魔化したくて名前を呼び続ける。

 螺旋状に流れる桜の花びらに導かれるまま先へと進む。どうやら足場はいつの間にか傾いていたらしく、坂道を昇るように誘導されている。

 空気で出来た透明な足場がどこで無くなるか見えない今、急いで進む事は出来ない。坂道が突然終わって落とされる可能性があるからだ。

 摺り足になりながら一歩一歩足を進める。


『ふむ、なかなか頑張るな。それほど兄が大事か』


 どこからか野寺坊の声がした。

 わざわざ答える必要は無い。分かりきった答えを言う理由は無い。


「……ふぅ」


 視覚情報と傾いた足場、いつまで続くか分からない道。意識しなければならない事が多く、すぐに疲れてしまう。

 膝に手を付き、目を開かないようにして体力回復に努める。次に目を開いたら兄上が目の前にいるなんて理想を何度も抱くが、その度自分の頬を叩いた。こういう気持ちにも相手は漬け込んでくる可能性があるからだ。

 目を開き、更に一歩ずつ足を進める。

 もう何十分歩いたのだろうか?休憩を挟んでも疲労は溜まるし筋肉は痛む。立ち止まれば足が吊ってしまいそうだ。


 こういう時人は過去の思い出から勇気を貰うのだろう。私にはそれもない。今あるのは『兄上』という言葉だけの存在。アカメが名前を呼んでいた気がするのに、それすらも思い出せない。

 そもそも私自身の名前もあやふやだ。苗字はどんな漢字を書いて、名前はなんだったか?そもそもあの子はアカメという名前だっただろうか?

 なんでこんなに孤独で頑張っているのだろう。


 ――口に出してしまいたい。

 それらを胸いっぱいに抱えて誰かに甘えたい。

 人の温もりを、優しさを、肯定を。

 でも、それは許されない。

 ポケットにしまったボロボロの御守りを握りしめ、それを支えに足を進める。坂道は緩やかになり、いつの間にか下り坂へと変わっていた。

 もう拳は握れなくなってしまった。逆の手を握って同じ事をしたいが、そうすると御守りを持てなくなってしまう。

 しかし手の痛みはもう不要だ。手よりも足の筋肉、足の筋肉より心の痛みが強い。


『人間、君はよく頑張った。君の兄を助けよう』


「……」


 野寺坊が分かり易い餌を投げ掛けてきた。

 すぐに揺らぎそうになり、自分の痛む足を叩く。

 ここは敵陣だ。甘えるな。

 そもそも兄の名前も見た目も覚えていないのに、見ただけで思い出せる筈が無い。

 相手は私を揺さぶる餌が欲しいのだ。私が動揺し、一瞬でも隙を見せるのを待っている。相手はその刹那を見逃さないだろう。

 たちまち抗う術もなく心の穴を広げて廃人にするだろう。


「……」


 動きを止めたら動揺がバレてしまう。

 足の痛みを堪えながらなんとか一歩一歩足を前に出す。


『獺や、もう良いだろう。あの人間は無理だ』


『い、いやもうすぐだ!もうすぐなんだよ野寺坊!』


『いや、もう終わりにしよう』


 何やら獺と野寺坊で揉めているようだ。

 出来る限り話を聞き流し、兄上の姿を探す。

 今日の修学旅行に不満を述べていた兄上を。

 楽しそうにアカメとの会話を教えてくれる兄上、安佐南ソラを……?


「あ、あれ?」


 自分の異変にようやく気が付いた。

 あれだけ黒塗りにされていた筈の記憶に、大好きな兄がいる。名前も、声も、表情も全てを思い出せる。


「うっ」


 ――ダメだ!これは揺さぶりだ。


「うぅぅ……」


 心の中で何度も唱える。












 ――無理だ。


「うわぁぁぁ!兄上ぇぇぇえ!!」


 溢れかえった感情が心中で収まることを知らず、叫びとなって飛び出す。

 今まで堪えてきた涙が、感情が、疲れが、私を包み込んだ。瞳から涙が溢れるのを止められず、拭いても拭いてもどんどん溢れてくる。

 孤独感から突然解放された私に、動揺を隠す事は不可能だった。御守りが濡れてしまう事も構わず、何度も涙を拭く。


『人間。私達の負けだ。振り返るといい。約束しよう。誓ってもう騙すような真似はしない』


「兄上、兄上ぇ……」


 騙される可能性なんてもう考慮していられなかった。言われるがまま背後を振り返り、桜の流れに逆らって一歩一歩前へと進む。

 それから幾分歩いただろうか?もうそれすらも考えられない。

 そして、いつの間にか私は石畳に立っていた。


 13


 紅葉の木が一本、中央にポツンと置かれた広間。周りには赤い葉が散りばめられ、視線を動かした先には階段が一つ。何故か複数人がキョロキョロと辺りを見回している。

 突然の変化にパニックとなるが、更に視線を動かした先で固まる。人とは思えない爪、ボロボロの袈裟、肩には敵意を放つ獺。すぐに野寺坊である事を思い出し、二匹から距離を離した。


「人間よ待て。もう敵意は無い。言葉に嘘偽りもない」


「……」


「隣にある木を見ても信用するに足らないかね?一度深呼吸する事をおすすめしよう」


「……あ」


 隣にある巨大な紅葉の木。頂上へと伸びる石の階段、どこか見覚えのある明るい表情をした観光客。

 ここは、桜の木が生えていた場所だ。帰って来れたのだろうか?


「……な、んで?」


 結局パニックとなり、発する事が出来たのはたったそれだけの言葉だ。


「なんで……か。私達は君に負けた。ただそれだけだ」


「負けた?」


「あぁ。あれだけの妖気を受け、それでも心を折らなかったんだ。私達の負けだろう。人間も記憶も元に戻したし、姿を消した彼等も返すと約束しよう。そもそも私達は人間を襲って危害を加えたい等思っていないからな」


「え、えぇ?じゃ、じゃあ幾人もを記憶から消していたのは?」


「あれは作戦が済むまでの間邪魔しない為だ。作戦という程でもないがね。君も気になっていただろう。何故こんな事をしたかと」


「あ、あぁ……」


「答えは【ただの悪戯】だ」


「はっ――」


 思わず言葉を詰まらせてしまった。ここまで大事になった現状がただの悪戯……?


「ふ、ふざけるなよ。今までの全部、ただの悪戯?兄上の事も?そんな馬鹿げた話が……」


「君は蟻をクモの巣に入れた事は無いかね?空を飛ぶハエや蚊を潰した事は?釣りをした事は?全て人間が違う種族に行う行為だ。それも命を伴う。それに比べたら遥かに優しいと思うがね」


「うっ……」


「初めは獺の提案から始まった。獺は幻を見せる妖怪だ。人から姿を隠す為、幻を使い記憶から姿を消す事が出来る。私は野寺坊。寺から寺へと瞬間移動をして、子供達を小さくしてさらう妖怪。二人で組めば人間への面白い悪戯が出来るのではないかと話したのだ。そして思い付いたのが今回の桜。桜の幻は私から妖気を借りた獺の力だ。消えたように見えた彼らは私の能力で飛ばしてある。君の兄もいるだろう」


「飛ばした……って寺にか?」


「あぁ。頂上にある廃寺にいる。まだ大きくはしていないがね。いやそんな怖い顔しないでいい。何しろ数が多いのでね。階段の人間達が消えてから一人ずつ帰すさ」


「ほ、本当に……?」


「悪戯をして怒られたらやめるのは人間もそうだろう。大丈夫、獺は妖気が無いと自分の姿を消すくらいしか出来る事は無いし、私はもう満足した。改めて、済まなかった人間よ」


「……一つ頼みがある」


「それをしなければ許さないと?」


「いや、兄上を返してくれるならそこは大丈夫だ。ただ、返してもらう時に……という話だ」


「聞こう」


 14


「い、今なんて?」


「一万円渡すからこの袋をいっぱいにして欲しいと頼んだのさ。そしてお釣りはいらない」


 優しそうな顔立ちをした御老人が私の言葉に目を丸くしている。まだパンが残った袋を持って何を言っているのだろうと言いたいのだろう。


「い、いやそんな……」


「そういえば最近耳が遠いんだったな。心が折れるまで言おうか?お土産用に頼むよ二袋分」


「……わ、分かりました」


 心が折れるまでという文句が効いたのだろう。御老人はそれ以上言い返す事はなく、店の中へと姿を消した。出来る限り高いパンを探している辺り、やはり彼は相当なお人好しなのだろう。


「御老人。ありがとう」


「……何かあったようですな。暗い顔が今はすっきりした明るい表情になっておりますよ」


「あぁ。このパンに何度も助けられた。またきっと買いに来る」


「そう言われると嬉しいですよ。これが袋です。中身は同じですので迷わず渡せるかと」


「本当にありがとう。元気でな。ロッカーの使い方覚えておくよ」


 御老人は私の冗談に微笑むと、店の中へと姿を消した。頂いたお土産を潰れないようにキャリーケースへと仕舞い、帰路を辿る電車へと足を向けた。


 ***


「……って事があった」


「そっか……そっか!じゃあソラは無事なんだね!メイ本当にありがとう!それとおかえり!」


 長い長い旅を終え、私はアカメのいる神社へと遊びに来ていた。兄は修学旅行最後の日を現在満喫中だろう。

 お土産のパンをアカメに渡すと、意外にも大喜びで受け取ってくれた。兄上からはあまり食べ物を欲しがらないと聞いたのだが……


「それと……一つ謝りたい事がある」


「なぁに?」


「これの事だ」


 私が取り出したのはボロボロになった御守り。中に入っている紙製の御神璽は私の汗と涙でボロボロになってしまっている。私に手渡した時より更にボロボロとなった御守りを見たアカメは驚いた顔をしていた。


「すまないボロボロにしてしまった。縫って返すという方法も考えたが、やはり人の物に手を加えるのは気が引けた。姉のチサトとの思い出の品だっただろう?本当に申し訳ない」


「……んーん。確かに大事な物だけど、私にとってソラとメイはもっと大事だから。これは私が縫えばいいし、大丈夫だよ」


「……ありがとう。そのお守りからな、アカメの声が聞こえた気がしたんだ。もうどうしようも無くなって右も左も、自分の事も分からなくなりそうになった時にアカメの声に助けられた。すごく気持ちが込められた物なんだろうな」


「うん!ずっと大事な物!あ、でもそんな顔しないでメイ。大丈夫、ちゃんと縫うから。ね?それより貰ったお土産のパンと髪飾りの方が私には嬉しいよ」


「その……なんだ、布とか必要なものはこっちで揃える。いや、揃えさせてくれ」


「あ、確かに無いかも……いいの?」


「あぁ。そんな事しか出来ないからな」


 お土産の二つ目はシンプルな髪飾りにした。顔が隠れる程長い髪の毛を分ける時に便利だろうと思ったからだ。しかし、そんなお土産と姉との思い出では天と地程の差があるだろう。

 気を使わせてしまっている事は自覚して胸が痛くなる。否、アカメにとって私達の命の方がずっと重いのだろう。

 しかし、私は思う。

 過去の思い出を失う事と命を失う事。天秤に掛れば釣り合うのではないだろうか?もう取り戻せない思い出なのだから。


「もう!またそんな暗い顔して!」


「ん、あ、あぁ申し訳ない」


「御守りは!無くなってないから!別に良いのー!」


「っ!」


「ボロボロになっても残っているなら立派な思い出!それに!お姉ちゃんとの思い出は日記もあるでしょ!」


「わ、分かった分かった!そんな大声出すな。な?」


「むー、本当に分かった?」


「わ、分かった分かった。悩んでた方がアカメを悩ませるものな。もう大丈夫だ」


「うん!それなら良い!」


「ふっ、やはり敵わないなアカメには」


「……ねぇメイ、最後に教えて欲しいんだけど、野寺坊に何をお願いしたの?」


「ん?あぁ、お願いか」


「言い難いこと?」


「いや言える。『兄上を含む今回の悪戯の被害者に私の事は言わない事』と『階段に残っていた観光客の記憶から私を消す事』、『悪戯に関する記憶を消す事』だ」


「えぇ!?なんでなんで!?」


「いや、兄上が知ったらきっと怒るだろうからな。無茶するなって。それに、他の者は成り行きで助けただけ。感謝を言われる理由は無い。まぁそんなところだ」


「で、でもメイの頑張りが……」


「良い。兄上を心配させるより数倍マシだ。アカメも言った通りこうして私達は助かったのだからな」


「……じゃあ私はずっと覚えとく!桜の木が隣に生えても忘れない!」


「ははは、その時は野寺坊と獺を叩きに来るさ」


 ……そうして、私が秋に体験した摩訶不思議な思い出は桜の木の幻と共に消えた。いや、そもそも秋に桜なんて咲かないのだから、この話自体無かったのかもしれない。


「あったもん!覚えておくもん!」

だ、段落の前に自動で空白を入れるとか神機能が追加されている∑(゜д゜)


同じ話ですが、段落がおかしかったので打ち直そうとしたら見つかった……くそぅ!

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