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一つ目少女と日記


 夏の定番と言えば花火、夏祭り、海など様々な物を上げられるだろう。その全てが友達、特に異性といれば盛り上がり、楽しめるというものだ――だがこれは、勿論の事ではあるが『夏』だから良いのだ。巡る春夏秋冬、一年に一度しか訪れないにも関わらず、その明確な線引きがされていない暑さで感じる夏だからこそ良いのだ。

 だがしかし、夏の定番ではあれど、異性と盛り上がれるかは相手を選び、『夏』である必要性を感じず、一年間話題が絶えず、それでも夏の定番として挙げられるものがある。テレビの演出を見て、偽物だと心のどこかで思いながらも驚いてしまう、怪談番組だ。

 確かに映像は作りものであったり、一瞬しか映らないので疑問に思ったまま終わる事も多い。が、一度自分が出会ってしまったらどう思うだろうか。

 ――例えば、日記帳を握り締めた一つ目少女




1

 気温三十度、雲一つない青空に赤と黒のフォルムをした鳥居はよく映える。学生の夏休みにも関わらず、こんな神社に一人立って、お祭り準備のアシスタントもしくは学業成就を願う学生に間違われそうな話だが、残念僕はそんな真面目生徒じゃない――ただ鳥居を見るのが好きなだけだ。

 とはいえ、気温が気温。ただ立って鳥居を眺めているだけでもどんどん額から汗が噴き出す。もう汗を拭っていたお気に入りの半袖も、着衣入浴直後かと思う程に濡れている。手持ちのスポーツドリンクもぬるくなり、もうぼちぼち帰っても良いと思いつつも神社に生えた樹木の陰に避難してスポーツドリンクの蓋を緩める。


「うぅ……」


 よく神社にお参りしているご老体から発せられたにしては幼い声が本殿の方から聞こえて、飲もうとした僕の動きが止まる。確かに聞こえた少女の様な声はそれ以降声が消えた。きっと気のせいだとぬるくなったスポーツドリンクを飲み干す。

 未だに残っている夏休みの宿題を頭に思い浮かべ、家への帰路がもっと長くなれば良いのになどと何の解決にもならない考えがふとよぎる。

 そんなものさっさと帰って手を動かさない限り終わる訳もないのに、僕の足は本殿へと向いていた。宿題の面倒臭さと、気のせいかもしれない悲しそうな少女の声を天秤にかけると当然の話だ。

 どうせ何もなくため息を吐きながら帰路につくのだろうと考えつつも、荒れている地面の草木を掻き分けて本殿の裏へと回る。


「気のせいかぁ」


 本殿の裏には結局少女どころか猫一匹見当たらず、僕は肩を落として鳥居へと向かう。まぁ宿題を早く終わらせてしまえばこんな風に家への帰路を面倒臭いと感じる事もなければ、何も気にせず遊べるもんだよな。


「うぅ……」


 腹をくくって階段を降りていた僕の足を止めたのはまた少女の声だった。先程よりはっきり、それでも何かをしていたら聞き逃したであろう小さな少女の泣いているような声。また本殿の方向から聞こえる。そして今、階段を降りかけていた今だからこそ思いつく少女の居場所。

 僕は悪い予感に駆られて本殿へと走った。全身にかいている汗が涼しさを感じさせる感覚に心地よさを感じつつ、本殿へと辿り着いた僕は足を止めた。一応賽銭箱の奥を確認して人の気配がない事を確認してから、思いついた場所を見るべく身をかがめた。

 体が大きくなれば入れないであろう薄暗い場所。そう、本殿の下だ。木組みが複雑にされていて体を通すなんてほとんど不可能に近い隙間だが、体が柔らかく、小さい身体なら入る事を可能にするだろう。

 怖いという感情なのか、それとも走った後だからなのか分からないが、心臓が早鐘の様に鳴り続ける。


「っ――!?」


 嫌な予感が的中し、心臓が停止したかと思った。本殿の下、影になって見え辛いその空間に、ボロボロの和服を着た少女が膝を抱えてうずくまっていた。こちらに背を向けている彼女の顔は見えないが、小刻みに震える肩が彼女が泣いている事を伝えてくれる。


「おい!」


 少女が困っていると、彼女は下に入って出れないから泣いているのだと、そう思って声を掛けてしまった。彼女を助けてやろうと、泣いているのなら救ってやろうと、彼女がそう願った訳でもないのに軽率に声をかけてしまった事を僕は心から恨む。

 僕の声に肩をビクッと震わせた彼女が、その手入れされていないのかもしれない長い髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらを振り返った。

 その顔に瞳は一つしかなかった。




2

 ――あれから何分経過しただろうか?

 彼女の顔に、普通の人間なら二つの瞳が付いているであろうところに大きな一つ目だけしか見えなかったあの顔に驚き、この年齢にもなって情けなく声を上げて逃げ出してから、何分経過しただろうか。神社の近くにある公園のベンチに座り込み、震える足を押さえて落ち着こうと試みる。当然落ち着けるわけもない。

 人間では無かった。幼女の様な体躯、少女の様に可愛らしい声、女性の魅力でもある長いストレートの黒髪に――人間とは思えない一つの大きな瞳。

 小学生の時に見た一つ目小僧と同じ見た目をした何かに体の震えが止まらなかった。日差しを浴びて火照っていた体の体温がどんどん冷めていく。と同時に、汗で濡れた服のせいか寒気がした。忘れるべきだろう。何も見なかった事にして、家に帰宅して、そして宿題をして、忘れるべきだろう。

 そう思えば思う程彼女の顔が頭をよぎる。未だに震えの収まらない足でベンチから立った僕は、頭の片隅でダメだと警報を鳴らしつつ、足は神社の方向へと向いていた。


「確認するだけだ……」


 自分に言い聞かせて神社の鳥居を抜けた。驚いて飛び退いてしまった本殿まで辿り着き、辺りを見渡す。人の気配が無い事を確認した俺は、屈む事はせずに本殿を見上げながら声を出した。


「ま、まだいるの――いますか?」


 初め聞いた彼女と同じくらい小さく、周りに聞こえない声だっただろう。出来れば返事が無く、このまま数分が経過して、勘違いだった事にしたかった。しかし、耳をすませば嫌でも聞こえてくるすすり泣きに僕は覚悟を決めた。


「……いる」


「に、逃げてしまった事を謝りたくて来ました」


 ――嘘だ。ただ怖いもの見たさ、好奇心に駆られただけだ。


「……そうなの?」


「は、はい」


「あたしが怖くないの?」


「怖く……ない」


 ――また嘘だ。今だって足が震えて、今すぐ逃げ出したいにも関わらずこんな嘘をついている。怖い。その言葉だけが脳にこびりついているにも関わらず、何故か口は嘘をついていた。


「あたし、人間じゃないんだよ?」


 心臓が縮まる感覚。悪い夢ならいっそこのまま冷めてくれと思うが、当然そんな事もない。


「分かっています」


「そうなんだ……」


 ここですみませんでしたを言えばもう逃げだせると分かっているのに言葉が喉元にまで出かかってきているのに、口から放つ事が出来ない。それに、口に出来たところで今の震えた膝では走る事はおろか、歩く事さえままならない気がする。


「……本当は無理してる」


 彼女からは僕の震えている足が丸見えなのだろう。言い当てる様に言った後、本殿の下で何かが這い歩く音が聞こえる。僕は彼女の言葉に言い返す事も、近付いてくる気配から逃げ出す事も出来ず、両手を体の横へと添えたまま動く事が出来なかった。


「膝が凄い震えて、とても無理している」


「……」


「でも、勇気を出してくれている」


「……」


 見え透いた様に言ってくるが、それにさえ返事をする事が出来ない。ごめんなさい、すみませんでしたの言葉を口から絞り出せば、口が動けば少しは気持ちが楽になると分かっていて尚、喉から声が出ない。


「ありがとう」


「え……」


 予想外の言葉に、やっと喉から声が出た。俺は人間ではない彼女の顔を見て、恐怖を感じて逃げ出した立場なのに、彼女はそんな僕に感謝を述べた。

 驚いた拍子に声の主、本殿の下を覗き込んでしまった。

 そこには、くりくりとした巨大な瞳が、下から僕を見上げていた。


「うわっ!?」


 流石に立っている膝も耐え切れなくなり、その場に腰を抜かして尻餅をつく。初めて、彼女の顔を真正面から見つめた。口や髪は人間のそれなのに――鼻は無く、大きな一つ目だけが俺の様子をじっと眺めていた。その瞳には涙を浮かべているものの、口元は嬉しそうに微笑んでいる。体から暑さとは別の、ひんやりとした汗がどっと全身から噴き出す。


「ほらやっぱり無理してた」


 恐ろしいと感じるべき生き物を前にしている。地球上に絶対存在しないと思っていた、子供の頃に見た妖怪が目の前にいる。それだけでまた僕の喉は声を発さなくなった。恐怖と暑さで喉の水分がどんどん失われる。

 彼女の瞳をとじて、もう一度微笑んだかと思うと髪の毛で顔を隠した。顔が全て見えなくなる。そうすれば――


「こうすれば、普通の人間に見える?」


「あ、うん」


 考えを読まれて素直に受け答えする事しか出来ず、彼女の様子を眺める。


「あたし、会話をするのは初めて」


「ぼ、僕も初めてだよ……」


 まず化け物を見た事自体が初めてだと言いたい所を堪える。僕から見れば確かに彼女は化け物や妖怪と例えるにふさわしい存在かもしれないが、彼女はそう呼ばれて気持ちいいものではないだろう。わざわざ喋れる様に髪の毛で顔を隠してくれているのは、そう思われて嫌厭されない為かもしれない。


「なんでさっきは声を掛けてくれたの?」


 彼女の当たり前の質問で、僕は夏の暑い日差しの中、奇妙な彼女の悩みを聞く事になる。




3

 そもそも僕が話しかけた理由が泣いていた事だというところから話が始まり、色々な彼女のプロフィールを話してくれた。戦時中にこの本殿の下で亡くなった事、父親や母親は自分を庇って死んでしまった事。その時、姉と一緒に逃げ込んでいた事。亡くなってから数年後にここで姉妹共に妖怪として目覚めた事を語ってくれた。

 勿論彼女の話だけではなく自分の話もしっかり話した。彼女は極力顔を見せない様視線を下げながらも、こっちの言っている事を理解している事を伝えるために小刻みに頷いてくれる。


「ソラ。覚えた。安佐南(あさみなみ)ソラ」


 名前を覚えてもらい、ようやく彼女に恐怖を感じず喋れる様になってきた。しかし、夏の太陽が容赦なく照り付け、飲み物も飲み干してしまった今の状況では熱中症になりかねない。彼女には悪いけれど、この場を去って飲み物を買いに行かないと最悪僕が死んでしまうかもしれない。

 彼女も少し残念そうにしていたが、地縛霊なのかそこから動く事が出来ないらしく、また来てくれるのを待っていると答えてくれた。

 彼女と別れ、階段を降りたところでまた膝が震えだし、その場に尻餅をついてしまう。道行く人がそんな僕の顔を奇異な物を見るかのように視線を送る。しかし僕から言わせれば、奇異な物の権化の様な生き物に出会い、そして会話もしてしまった。そんな事を知らない彼等からすればその生き物が今の僕だろう。

 まるで見てはいけない者を見てしまったと言いたげに目を逸らして立ち去る彼等の姿に、ようやく自分の知っている世界へと帰ってきた気がした。

 神社から自動販売機まで向かうには、一番近い場所でも往復十五分はかかる。微妙に多いと感じるその時間、現実味のない現実から飛び出した解放感に背中を押されて自販機へと向かった。

 低い起動音を立てながら中の飲み物を冷やし続ける自動販売機を前にして財布を取りだした僕は、少し迷ってから三百円を握りしめた。スポーツドリンクを二つ購入して現実味のない現実への一歩を踏み出す。

 自分の顔の頬が無意識に緩んでいる事に気がついたのは神社の階段に足を乗せた時だった。




4

 本殿の下で泣いていた一つ目少女の名前はアカメというそうだ。小学生を連想させるような体躯にボロボロの和服を身にまとい、汚れた手足が彼女を哀れに見せる。しかしながら視線をひとたび上に移動させれば息を飲むような漆黒の黒長髪が目を奪う。瞳がひとつな事と鼻がないことを除けば本当にただの少女だ。

 鳥居をくぐった時、そんな彼女が既にこちらへと身を乗り出し、期待の眼差しを向けていた。とはいえ彼女も心得ており、その顔は髪の毛で隠れていた。


「ただいま」


「おかえり!」


 よほど僕の帰りが待ち遠しかったのか、彼女は本殿の木組みから短い手を頑張って伸ばして僕と手を繋ごうとする。お化けの類は人間に触れないものだと思っていたが、これが案外そんなことも無く彼女と手を繋ぐことが出来た。ただし、そこに人肌の温もりは無く、無機物の微かに感じる温もりもない――とても、ひんやりとした手だ。


「これ、飲む?」


「ソラは優しいね。でも大丈夫。生きている時、安全に飲める時に飲んだ方がいいよ」


「あ、うん……」


 幼児とは言わないまでもそれほどの体躯を持ち合わせている彼女の口から放たれる言葉はおよそ小学生のそれとは思えぬ凄味がある。当然な話だ。

 彼女は小学生であって小学生じゃない。

 小学生として終わり小学生として始まっている。

 十数年あるいは数年の時を過ごし、数百年の無の時を経て、それから果てしない――成長のしない年月を、終わりのない年月を終わったまま過ごしているのだから。

 改めて僕を見ながらソワソワしている彼女を見返して思う。どれだけ壮絶な過去だったのだろうか。少なくともただの夏休みの課題と向き合えずこうして神社に足を運んでいる僕には想像出来るわけもないだろう。

 そんな()という存在に()()が気を遣い、自分の素性を明かしてなお、顔は隠して喋りかけてくれる。

 ――人間である僕が怖がるから

 ――人間ではない自分を怖がるから

 馬鹿らしい話だ。望んでそうなった訳でもない彼女を勝手に恐れて、彼女に気を使わせているなんて自分が第三者なら本当に馬鹿らしいと思うだろう。

 そんな事を考えていた僕の手は、いつの間にか髪の毛を必死に押えているもう一つの手へと伸びていた。彼女の肩がビクッと跳ねても構わず、その手を引き寄せる。丁寧に集められていた漆塗りの様な黒髪が、髪の毛の分け目を作って左右に分かれていく。困惑した一つしかない瞳がじっと僕を見つめていた。


「えっと……」


 自分の気持ち、タイミングで彼女の顔を見たからなのか分からないが、不思議な事に恐怖はもう感じなかった。心臓が微かに縮まる感覚も少しあれど、それは困惑して思わず力の入った彼女の冷たい手が僕を落ち着かせてくれた。


「もう、大丈夫。隠さないでいいよ」


 大きな瞳がうるうると徐々に潤み、目頭に涙が溜まる。大粒の涙が真っ直ぐ下に落ち、彼女の口の中へと入った。アカメが盛大にむせる。

 そんな彼女が落ち着くのを待ってから、ようやく本題である彼女の泣いていた理由を話してもらう事になった。


「お姉ちゃんが居なくなったの」


「お姉ちゃんが?」


 アカメにはチサトと呼ばれる姉がいる話は聞いていたが、そのチサトが本殿の下から姿を消したそうだ。


「少し前から、お姉ちゃんの姿は見えなくなっていたんだけど、それでもお話は出来たの」


「姿が見えないのに?」


「うん、これ交換日記帳。あたしが寝ている間にお姉ちゃんが書いてくれていたみたいなの」


 彼女が懐に隠していたボロボロの書物を僕に手渡してくれる。ところどころ焦げて穴が開き、すすで黒ずんだそれを破らないように丁寧に開く。一ページずつ丁寧な時で書かれた日記帳は、彼女の言う通り三日程前からアカメだけの日記帳と化していた。消える前日の内容を読んでも特に怒らせた気配等はない。

 忽然と――なんの前フリもなく姿を消している。


「お姉さんが姿を消したのはいつ?」


「三日前……」


「そうじゃなくて、彼女の姿を見なくなったのはいつ?」


「一年前の丁度この時期だよ。本当に突然消えたの」


「一年前をほんの少しだと言ってたのか……」


 何百年も生きていればそう感じるものなのかもしれない。しかし、生まれてからずっとこの付近に住み、暇があればここへ遊びに来ていたが彼女やその姉の声を聞いた事はない気がする……。元々耳を済ませても勘違いだと思ってしまう程微かな声だったのだから聞き逃していただけかもしれない。


「居なくなった時にきっかけみたいなのは無かった?」


「お姉ちゃんが消えた日はこの神社でお祭りをやっていたわ。でも、あたし達はいつも通りここに居たの。だから、きっかけとは関係ないと思う」


「お祭り……」


 それは僕も知っているお祭りだ。年に一度この神社で開かれる夏祭りの事を指しているのだろう。夏祭りと言えど神社はそれほど広くない為、四つ程の屋台が並べられ、隣町でも開かれる花火をこの神社から眺める程度のものだ。

 お祭りが行われるのは七月三十日のみ。ポケットからオーバーヒートしているんじゃないかと思うほど熱くなったケータイを取り出して画面を表示する。画面には七月二十八日と表示され、もう間もなく午後三時になる事を教えてくれた。


「ソラ、あたし、お姉ちゃんに会いたい」


「だね」


「会って、謝りたいの」


「謝る?」


「うん。きっとお姉ちゃんが居なくなったのはあたしのせいだと思う。なんでか分からないけど、どうしてもそう思うの。そうじゃないと居なくなる理由がないから――」


「それは……違うんじゃないかな」


 語尾が震え、目頭に涙を溜めた彼女の言葉を遮る。彼女達の事は今日初めて知ったし、お姉さんとお話はしたことも無いのに勝手な事を言っていると思う。それでも、これは否定するべきだと思った。

 少し話をしただけで彼女の事を理解したとカウンセラーのような事を言うつもりは無い。でも、彼女に限って姉に嫌な思いをさせて忘れているなんてことがある訳ないと思った。


「僕も調べてみるよ。お姉さんの事。一年前から今まで何があったのか、お祭り以外のきっかけが無いのかを」


「ありがとうソラ。ごめんね、頼るだけ頼って力になれなくて」


「大丈夫。アカメは、お姉さんが戻ってこないか待っててあげて欲しい」


「うん」




5

 夕方、ようやく帰宅した僕は急いで二階にある自分の部屋へ駆け上がる。両親は共働きで、休みの日以外は家にいない事の方が多い。

 部屋の電気をつけ、ベッドの上に置かれた茶色いカバーの本を手に取る。これは、僕の書いている日記帳だ。高校生になる時、親に貰った入学祝いで購入し、高校二年生の今になるまで書き続けている。ページを追加出来る作りになっている日記帳は今日迄の日記が全て残っている。

 高鳴る心臓に急かされるように日記帳を開き、震える手で夏祭りの日に書いたページを探す。勿論その日も日記帳は書いていた。


「良かった……」


 見ると、僕は高校一年生の夏も夏祭りへ参加していた。友達も誘わず一人で訪れた夏祭りで、屋台の食べ物を頬張りながら花火を鑑賞したそうだ。

 しかしそれしか記載がない。これじゃあただの夏祭りについて感想を書いたに過ぎない。何かないものかと夏祭りの過去数日を遡るが、僕の日記にヒントになるような記載は見当たらなかった。

 それでも、考察する事は出来る。いくらきっかけには関係なかったとしても、本殿の下から出ていないのであれば引き金は夏祭りのはずだ。他に去年の夏祭りで覚えている事は無いかと記憶を探るが、答えは出なかった。


「兄上よ、少し良いか?」


 必死に記憶を遡っていると、部屋の扉がノックされた。この声は僕の妹の声だ。僕には二つ下の妹が一人いる。アニメのあるキャラクターが大好きで、そのキャラクターの口調を真似している。何年も前から注意してもそうなのでもう諦めた。

 扉を開くと、腰まで伸ばした黒い髪を揺らした妹が後ろ手で何かを隠しながらもじもじとしていた。もう寝るところだったのか、可愛らしいパジャマに身につけている。もう寝るにしては早すぎる時間だけど……。


「どうしたの?」


「そ、その……眠れないのだ。心残りがあるとそればかり浮かんでしまって寝られない事、兄上にもあるだろう?」


「あるけど……」


「そんな妹と気の合う兄上に、学校より渡された夏休みの宿題とやらを手伝って貰いたくて、駄目か?」


「あぁ……」


 夏休みに入ったので、好きなアニメの遡りでもしていたのだろう。道理で眠るにしては早い時間な訳だ。夜も寝ずに見たとなれば納得も出来る。

 が、夏休み入って一週間経とうとしている現在、何も課題を手につけていない自分に焦りを覚えて頼んできたのだろう。


「ん、いいよ」


 かくして、僕は一旦アカメとその姉についての考察を中断した。




6

「そういえば、去年の夏祭りの事覚えてる?」


 夜になり、夏休みの課題が三割程終わったので晩御飯の準備を始める時、料理を作る妹の背を見ながら尋ねてみた。日記に書かれていない記憶を妹ならもしかしたら持っているかもしれない。


「なんだ藪から棒に……兄上と一緒に花火を見に行ったではないか」


「そうだよね。それ以外は?」


「記憶のテストか? そうだな、屋台の焼きそばを半分に分けようと約束したのに麺が絡まっていて七割程兄上に食べられたのも覚えているし、そのお詫びとしてあまり美味しくない綿あめをご馳走してくれたのも覚えている」


「うっ――」


 記憶力の良さは助かるが、食べ物の恨みは怖いというやつだろう。根に持たれている事とはこんなに恐ろしいことなのか……。


「夏祭りといえば……」


 料理を作っている彼女は火を止めて僕を振り返った。料理が完成したのだろう。それから、僕の瞳を見て彼女は言う。


「一昨年の夏祭りは無かったな」


「……そういえば」


 そう、一昨年の夏祭りは開催されなかった。不運にも天候が悪く、延期になった後、延期になった日の天候も恵まれなかったので夏祭りが開催されてから二度目の中止となった。そもそも隣町の巨大花火大会が中止になったのだから仕方ない事だろう。

 気を利かせた両親が持つタイプの花火を二袋購入してくれたので、翌月に家族で花火を楽しんだ。もしかしたら何か役に立つかもしれない。覚えておこう。


「ふむ、何か悩み事か兄上。課題の礼に付き合うが?」


「ん、じゃあ聞くんだけど……夏祭りで人が居なくなるなんて事あると思う?」


「あるな。人波に攫われ、目の届かぬ場所に運ばれれば居なくなっているといえるだろう? そもそも、いつ消えるかによる。祭りの後、手を繋いで帰っていたのだとすれば不可能だろう? 手首を切り落とされれば別だが」


「怖いよ」


 そう言われてみればアカメは姉が消えた時をいつとは言わなかった。夏祭りの最中忽然と姿を消したのか、それとも夏祭りの夜に消えたのか……妹の言う通り祭りの終わった夜に姿を消したのなら、寝ている状況を除けばアカメが見ているはずだ。

 

「誰か消えたのか? この地域でそんな神隠しの話聞いた事ないが……」


「あ、ただ考え事してるだけだから大丈夫だよ」


「ふむ、まぁ良い。ご飯出来たから勝手に食べてくれ。先に寝る」


「うん。ありがとう」


 そう言って欠伸をした妹は台所から姿を消した。眠気がかなり限界だったようだ。そんな時に料理を作らせてしまって申し訳ないな……。

 彼女の作った野菜炒めを皿へと盛りながら、言われた事を頭の中で繰り返す。彼女の消えたタイミング、一昨年は中止になった夏祭り、神隠しのように忽然と姿を消したアカメの姉。

 情報らしい情報ではあるけれど、全部直接理由に繋がる事が無い。そりゃあ、そんな簡単に情報が手に入ったならアカメも苦労はしていないか。濃いめの味付けがされた野菜炒めを口へと頬張った。




7

 翌日、あまり眠れなかった僕は朝から神社へと向かった。書き置きをしておいたので妹が心配する事は無いだろう。学校で貰ったこの街の地図を握りしめ、鳥居をくぐる。

 周りに注意を払いながら本殿の裏へと回り、雑草がまばらに生えた整っていない地面に座り込む。本殿の下から布の擦れる音が聞こえるという事は僕の気配に気が付いたのだろう。しばらくしてから木組みの間に綺麗な黒髪が見えた。


「お化けだぞー!」


「うわっ!?」


 ガサゴソと何かを準備しているかと思うと、アカメが目を大きく開いて驚かせてきた。いくら昨日見たからと言っても不意に現れる彼女の単眼は怖いものがある。思わず変な声を上げてしまった。

 驚かせた事が嬉しかったのか、顔の見えなくなったアカメが声を押し殺しながら笑っている声が聞こえる。


「もう……」


「ふふっ、驚かしがいのある反応をありがとうソラ」


「僕には有難くない話だよ……。それで、お姉さんからの連絡はどう?」


「残念ながら、来なかったわ」


「そっか。僕の方も手がかりといった手がかりは無かった」


「うん……」


「ただ、調べていたら色々な疑問点は浮かんできたよ」


「なんでも聞いて!」


「うん、それじゃあお姉さんってお祭りのどのタイミングで居なくなったの? お祭りの最中? それともその日の夜?」


「お祭りの最中だよ」


「え……それは目の前で突然消えたとか? それとも出掛けると言ってから?」


 お祭りの最中なのだとすれば、アカメと姉は本殿の下から出てお祭りに参加した可能性もあるけれど、お祭りには参加せず、ずっとこの場所にいたと彼女自身が言うのだから本当の事なのだろう。

 だとすると自ずと後者の可能性も消えるが――


「どちらも違う……花火を見ていたの。とても大きな花火を。過去見た事ない程綺麗なその花火に感動して、お姉ちゃんの方を見たらもう居なかった」


「花火の最中……花火がまだ打ち上がっていた時?」


「うん。お姉ちゃんが居なくなったあとも花火の音がしていたし、光が入ってきていたから、まだ花火大会の最中だと思う」


「妙なタイミングだね……」


「妙なタイミングだよ。だから尚更分からないの」


「一昨年はここにいた?」


「一昨年? うん、一昨年もお姉ちゃんとここに居た。いつものように遊んでいたよ」


「ここで遊ぶってどうやって遊ぶの? 狭いし立つことは出来ないよね?」


「おはじきしたり、めんこで遊んだりかな。花火大会の日以降はただ日記でお話するだけになっちゃったから今は道具箱にしまってあるけどね」


「一昨年のお姉さんが消えた日、つまりお祭りの日って、花火は上がってなかったよね?」


「うん。でも、凄い雷雨だったから仕方ないよ」


「その前の年ってここにいたの?」


「うーんと、ごめんね、流石に覚えてない……そ、それが分からないとお姉ちゃんの事分からない!?」


「いや、そんな事は無いよ」


 酷い雷雨だった事も言い当てている当たり、一昨年ここにいた事は間違いないと見て良いだろう。ちなみにその前の年は開催されているが、僕と妹は予定が重なって来れていない。


「じゃあ聞きたいんだけど……妖怪になった理由とかって分かる?」


「よ、妖怪になった理由?」


「うん。死んだ事がない僕には分からないけれど、アカメはこうして生き返っているでしょ? 元人間だったと言うなら、蘇った理由があると思うんだよね」


「……関係あるのか分からないけど、ここで死んじゃった時に思ったんだ。戦争の無くなった平和な時代にお姉ちゃんと生きてみたいって。ずっとこんな所に居ないで楽しく外を歩く事ができる日が来るなら良いなって」


「そうなんだ……」


 願いが叶って生まれ変われたという事だろうか? そういえば、どんな人でも背後霊に取り憑かれているけれど、それは自分の安全を願ってくれた家族だって聞いた事もある。

 願いが形となって蘇る……確かに本当かどうか妖しい怪談だ。


「お姉ちゃんに、会いたい……」




8

 そういえば朝ごはんを食べてなかったと気が付いたのは、太陽が僕の背中を照らし、熱の溜まった石畳が放熱をし始め、全身から汗が吹き出し始めた時分だ。特に何か情報が手に入るわけでもないのに彼女との弾んでいた会話が途切れた時、タイミングが良いのか悪いのか腹の虫が鳴いた。


「あ……」


「ソラ、お腹空いてるの?」


「それなりに……かな」


「食べてきなよ。待ってるよ」


「でも……」


「食べれる時に食べる! 食べたくても食べれない子だっているんだから!」


「わ、分かった……」


 アカメの勢いに負け、僕は立ち上がった。彼女に手を振って鳥居をくぐる。階段を下り、家に帰ろうとしたところで、鳥居の影に隠れていた人物が視界に入った。

 人がいる事を予想もしていなかった。アカメとのやり取りを見られたかと思わずその人物を振り返る。

 その人物は僕へお弁当と水筒を突きつけた。


「置き手紙を見て、兄上の事だから弁当を持っておらんだろうと持ってきてやった訳だが――」


 わざわざ僕の為に来てくれた妹は、本殿の方を横目で見る。

 きっとアカメとのやり取りを少しの間見ていたのだろう。


「なるほど相談出来ぬわけだ」


「……」


「しかし兄上よ。他人では無く家族だぞ? 話してくれても良かったとは思うが?」


「……ごめん」


「まぁ話されても信じられぬ話とは思ってしまうか。が、課題の礼だ。私も少し手伝わせろ」


「え――」


 口にしてからの妹は行動が早かった。僕の返事も聞かず、弁当を渡した彼女は本殿の下に滑り込むように走り込む。既に奥へと姿を消したアカメはビックリしているだろう。慌てて妹の背中を追う。


「……そう。敵じゃない、敵じゃないぞ」


「……」


「兄上、出てきてくれぬのだが?」


「そりゃそうだよ……ごめんねアカメ。この子僕の妹なんだ。お弁当を持ってきたついでにお姉さん探しを手伝ってくれるみたい」


「……本当? 悪い人じゃない?」


「大丈夫」


 怯えた声に答えると、本殿の下より布が擦れる音。

 肩を小刻みに震わせた少女が木組みの間から頭だけ見せる。

 妹はその頭へと手を伸ばし、髪の毛を乱さぬように優しく撫でた。驚いた様に彼女の肩が跳ねる。


「お前、いい髪質をしてるな。触り心地はまるでシルクのようだ」


「あぅ……」


「さぁ、私にも話してみろ。解決の糸口が見つからなくても、話すことで気が晴れることとある」


「う、うん!!」


 アカメは頭を撫でられるのが気に入ったのか、妹の手へ頭を擦り付ける。

 どこかの誰かは情けない声を出して逃げたというのに、その妹は優しく触れている。同じ血筋のはずなのに大きな差だ。

 アカメも警戒心を解いて僕に話した内容と同じ事を妹にも伝える。


「妖怪が神隠しに会うとは面白いな」


「いや、面白がるのはダメでしょ」


「この場合、隠されたと言うよりも隠れたという方が正しい気もするな」


「でも、理由がわからないよね」


「理由がわからんパターンって二つあるよな。候補が多すぎて分からないパターンと候補が見当たらずに悩むパターン。アカメは候補が見当たらないパターンだよな。その点、兄上はどうだ?」


「僕も見つかってない」


「なるほど……なら私が一つだけ思いついた可能性を言おう」


「あるの?」


「アカメが花火に見とれていた間に姉が何かに姿を消された可能性だよ」


「他の妖怪か何かってこと?」


「何かと言っただろう? 抗えない強制的な外部の力だよ。例えば、妖怪で居られる時間が過ぎたとかな。化け物とはいえ、寿命はあるものだろうからな」


「ば、化け物って……」


「安心しろ兄上アカメは寝ている。それよりもアカメが蘇った理由を探ろう」


 『化け物』というどこか生者としての立場を否定した言い回しに言い返そうとしたが、妹はそれを遮る。木組みの奥へと手を伸ばした妹は、何かを探ってから手を引っ張り出した。

 転々と焦げ跡のついたボロボロの書物を崩れないように丁寧に開く。


「これが話にあった日記か」


「うん。アカメとお姉さんが話していた日記だと思う」


「必要なのは祭りの時じゃない。むしろ日記の始まりだ」


「『お姉ちゃんどこ行ったの? 会いたいよ』だけだね」


「次のページでは、『ここにいるわ。ごめんね』か。短いな」


「お姉さんに会いたいから蘇った……とか?」


「いや、アカメの話だとこの日記を使う前から蘇っていたはずだ。それは理由にはならないだろうな。次のページではアカメが姉に対して長文を送っている」


「でもお姉さんの反応は少ない文章で返されてるね。それはほとんどのページそうだったよ」


「……待て、これはなんだ?」


 丁寧にページを開いていた妹の手が止まり、とあるページで指を指す。妹の後ろへと回り込んでページの中を覗き込む。


「いや兄上、見ただけではわからんよ。触ってみろ」


「ん……? 確かに他のページより少し厚い様な……」


「つまり二枚になっている訳だ。『今日、ちょっと怖い夢を見たの。暗い洞窟を歩いていたら、大きな虎さんが現れて私の頭を食べたわ』の後に二枚……しかも水で濡らしたのかピッタリと張り付いているな」


「一応次のページのお姉さんは怖がったアヤメに優しい言葉を返してるね」


 妹は破れないように重なった厚手のページを持ち上げ、太陽に透かした。紙自体が少し厚手に作られている日記の文字を透かす事は出来なかった。


「……ま、そんなものよな」


「いや、ちょっと待って。可能性はあると思う」


「と言うと?」


「二人が下敷きを使っているとは思えない。だから……」


「なるほど、文字を浮かすのか。だがそれはアカメに聞いてからの方が――」


「良いよ、というよりやってほしい」


 聞こえた声に二人して木組みを振り返ると、いつの間にか目を覚ましていたアカメがどこか寂しげな表情で日記に視線を送っていた。




9

 文字を浮かすのは土でも出来るという妹の意見を却下し、僕は家から鉛筆を拝借するべく妹と帰宅していた。家に着いてリビングに辿り着いた瞬間、何かが切れたように妹が床へと倒れ込み、慌てて抱き起こす。

 妹曰く、アカメと親しげに話す僕を見て、二人の邪魔をしてはいけないと無理をして平気なフリをしていたそうだ。最後に見たアカメの顔でメンタル面の限界を迎えていたらしい。道理で帰宅する時に同行すると譲らなかった訳だ。

 これ以上無理をさせる訳にもいかないので、妹をソファの上に寝かせて僕だけ家を出る事にした。


「あ、兄上……私の前から消えてくれるなよ。ちゃんと、帰ってこいよ」


 最後に聞こえた妹の声は妙に耳に残った。


「ちゃんと帰ってくるよ」


 言葉を残して玄関の扉を閉じる。

 アカメに事情を説明し、泣き出しそうになる彼女を慰めた僕は早速ポケットから鉛筆を取り出す。家で削ってあるのであとは日記の上に走らせるだけだ。

 慎重に、できる限り後ろの文字を消さないように薄く鉛筆で黒く染めていく。


「これは――」


 浮き出た文字をアカメへと見せ、他にも文字が無いか端から端まで黒く染めるが、ページの左上に記載された四文字しか浮かび上がらなかった。

 他のページに書かれた姉の文字と同じ丁寧な文字で書かれていたのは『ごめんね』の文字。二人だけの交換日記帳ということは、当然アカメの姉は妹へこれを書いた事になる。


「ごめんね……って書いてあるよね」


「怖い夢の話を書いた後にお姉さんの謝罪。……まるでお姉さんが夢を見せたみたいな?」


「でもお姉ちゃんは関係ないよ!? 夢にお姉ちゃんは出てこなかったし、本当にただ虎さんが出てきて食べられる夢だった」


「その虎がお姉さん……なんてことある訳ないもんね。なんだろう? 凄い大事な情報な気がする」


「ソラ! 他のページも探してみよ! 厚くなってるページを!」


 直接的な手がかりではないが、それでも重要な手がかりを見つけたアカメはテンションが上がっている。不穏なスタートではあるけれど、もしかしたら他にも見つかる可能性があり、僕のテンションも上がった。

 焦る気持ちをできる限り抑えて一枚一枚丁寧に厚さを確かめる。初めは一枚一枚めくる度に期待の膨らんだ作業だった。が、後半のページまで見当たらないとなれば話は別だ。どんどん焦る気持ちが増えていく。

 そして、ページのめくる手を止めた。


「……あった」


 触れた感覚でわかる。厚手になった紙。日付は――お姉さんの消えた夏祭りの日当日だった。アカメの瞳が更に大きく開かれ、お互いに目配せをする。震える手首を押さえ、姉との思い出を出来る限り塗り潰さぬ様丁寧に上から黒く染める。


「ソラ、待って。私にやらせてほしい」


「……良いよ」


 アカメのお願いを断る理由もなく、鉛筆と日記帳を彼女へ渡す。震える手でそれを受け取った彼女は木組みの中へと姿を消した。中から丁寧に塗り潰す鉛筆の音。耳を済まさなければ聞こえないその音にデジャブを感じる。

 偶然聞こえ、偶然気が付き、偶然出会っただけのアカメ。

 約一年前から姉を思い続けた彼女には、もっと僕なんかに出会う事よりも重要で大事な偶然が起こってもいいんじゃないだろうか?

 ――カラン

 鉛筆が地面に落ちる音。夏を感じさせる蝉噪。蒸し暑さを纏った風が僕の頬を撫でる音。色んな音が聞こえる。――でも聞こえない。読めたであろう彼女の次の声が、まだ聞こえない。




10

 体感ではとても長く感じる数分が経過し、ようやく求めていたものが耳に入ってきた。今度は耳をすまさなくても聞こえる押し殺した彼女の泣き声。

 待っている時間は自分の期待が重なり、とても長く感じる。数分でこれだ。彼女は一体どれだけの時間を感じたのだろうか?

 明日なら、明日ならを繰り返し、諦めさえ頭に過りかけない時間。彼女はこの暗い本殿の下で待ち続けた。それに比べればこんな時間は一瞬の出来事だ。


「……ソラ、お姉ちゃんの手がかり分かったよ」


 やがて彼女の声が聞こえ、閉じられた日記帳が震える手の上に乗って木組みの中から出てきた。落とさないように気をつけながらその日記を手に取る。

 彼女は何も言わず、木組みから顔だけ覗かせて日記を見ていた。破らないよう丁寧にページをめくる。そして厚手のページで手を止めた。


『アカメへ


 生まれ変わってかなりの年月が経過しましたね。

 成長しない体に生まれ変わって、

 それでもアカメは楽しく接してくれました。

 私が姿を消してからも日記帳で話してくれてありがとう。

 そしていきなり姿を消してごめんなさい。

 理由をちゃんと話します。

 道具箱、見てください。


 チサトより』


 前ページと同じ、書道を習っていたかの様な一角一画丁寧に書かれた文字列。小さな文字で書かれた手紙を何度も読み返した僕は、以前アカメの口から道具箱の話が出た事を思い出した。

 姉が姿消す前、アカメとよく遊んでいたおもちゃがしまわれた箱だっただろうか? 僕が手紙を読み終えるのを確認したアカメは、木組みの中から何かを差し出してきた。茶色い立方体をしたそれを受け取った僕は、太陽の下でようやく錆びた箱である事に気が付いた。ところどころ穴が開いてしまっているのは、年月が経過して風化したのだろう。

 外れるか分からない蓋に手を伸ばし、箱の穴が広がらない様に気を付けながら持ち上げてみる。壊してしまえば簡単かもしれないけれど、これはどんなに不格好でも彼女とその姉の思い出の品だ。それを破壊するのは彼女達の思い出を踏みにじる事になる。

 焼けるような熱さの日差しを背中に受けながら、慎重に蓋を外す。中には、日記帳と同じ素材の紙が折られて数枚とボロボロになった丸い紙、まだ綺麗な形を保っているガラスのおはじき。その紙は開かず、折れたまま彼女へと手渡した。

 が、彼女は瞳を閉じて首を振ると僕に読んで欲しいと頼んできた。僕は破れないように注意しながらその紙、アカメの姉が残した彼女の手がかりを開く。


『アカメへ

 あなたがこの手紙を読んでいる時、きっと私はあなたの日記から姿を消しているでしょう。

 それはあなたが嫌いになった訳でも、この生活が嫌になった訳でもありません。

 そもそも、私達が今の姿になった理由を話した事を覚えていますか?

 そう、私達はお互い食べる物も無くなり、もう動く事も出来なくなった時願ったはず。

 ≪戦争のない世界を二人で生きれたらいいのに≫

 どういう訳か、神様はそれを聞き入れてくれたのです。

 勿論お互い人の見た目はしていなかった。それでも私達は直感でお互いの正体を知る事が出来た。

 これが輪廻転生とでもいうのかもしれませんね。

 ただ、ここであなたに隠していた話をしなければいけません。

 ()()と書きましたが、実は私の願いは違う事だったのです。

 人間としての生を終えたのは僅かながらあなたの方が早く、私はあなたの亡骸を見て思いました。

 ≪あなたの元気な姿と、心からの笑顔をまた見たかった≫

 そう。私はあなたと願いが違ったのです。

 無理して笑ってくれてはいましたが、日々衰弱していくお互いの身体、ずっと空いているお腹。

 幼い体にとって、それは相当苦しいものだったでしょう。そう、笑う事も苦痛な程に。

 だからこそ先に動かなくなったあなたを見てそう願わざるを得ませんでした。

 そして神様はその願いさえも聞き入れて下さった。

 あの大きな花火が上がった祭りの日。その日になるまであなたの顔には本当の笑顔は無かった。

 でも、あの日

 あなたが花火を見て、その景色に魅了されたあの日、私はあなたの顔を見てしまいました。

 そこには、食い入るように花火を見る笑顔のアカメ、あなたがいたのです。

 その途端、笑顔を見れてしまった私の時間は終わりを迎えました。

 それが、祭りの当日消えた理由です』


「そうだったんだ。お姉ちゃんは私の笑顔を願った……」


「願いが叶うと姿が消えるなんて残酷すぎる……」


「ソラ、続き読んで?」


「あ、うん」


『ふわりと体が浮かび上がる感覚を覚え、消えてしまう可能性を考えてしまった私はまた願いました。

 ≪もっとアカメと生きたい。彼女が独りぼっちになってしまう≫

 仏の顔も三度までと言いますが、この願いも神様は聞き入れてくれました。

 文字通り()()()()生きる事の許可をくれたのです。

 あなたが寝ている間日記帳が書き進められていたのはそういう事です。

 私は、あなたの第二の人格として、あなたの身体の中で生きている。

 そのおかげで私はあなたと日記帳で話す事が出来た。

 でもある日、あなたが食べられる夢を見たと日記に書いた。

 ただの夢かもしれない。しかし、アカメの身体を私が食べてしまう夢。そう捉えました。

 そもそもこの体は私ではなくアカメの物。私がずっといていい代物ではありません。

 お祭りの日が近付くにつれ、あなたのあの笑顔を思い出し、そんな気持ちばかりが募りました。

 だから、私は消えます。あなたの体はあなたの物。私は存在してはいけない存在だったのですから。

 ありがとう。これからも愛しています。

 チサトより』


 ここで手紙は終わっていた。手紙に対する台詞も、彼女に掛けてあげるべき言葉も失い、頭が真っ白になる。どっと疲れが体を襲ってきた事もあるけれど、非現実すぎて混乱しているのが大きかった。手紙を読み終えて顔を上げると、アカメは木組みの奥へと姿を消しており、すすり泣く声だけが聞こえた。

 僕も頭の整理をつける為に手紙を箱に戻し、蓋を閉じてからふと疑問が頭をよぎって手紙をもう一度取り出す。


「願いが叶ったら消える……?」


 そう、姉はアカメが見せた本当の笑顔を見せた事で姿を消したと記載されていた。もしもそれが本当なら――それより先にアカメが消えるはずじゃないか?

 何故なら、花火を見るまでの間彼女は叶えられていたはずだ。姉との戦争のない日々を暮らすという願いを――なら何故彼女は姿を消していないのだろうか?


「ソラ……?」


 考え事をしている間にアカメは泣き止んでくれた様だ。木組みの隙間から僕の様子を心配そうに見つめている。しかし、僕の思考回路は疑問で満たされており、彼女に応える余裕はなかった。

 そもそもの話、花火があがる前からアカメが心から笑う瞬間が一度も無かったのだろうか?

 アカメは姉の話をする時いつも寂しそうな表情を浮かべていたし、それでも彼女との思い出を話す時はとても楽しそうな顔をしている。それが嘘には思えないし、彼女が心からの笑顔を浮かべるタイミングはいくらでもあったはずだ。という事は彼女は既に彼女の願いは叶っている事になる。


「……アカメ、お姉さんが姿を消したのは夏祭りである事に間違いは無いんだよね?」


「あ、うん無いよ? でも、どうして?」


「あ、いやちょっと待ってね」


 彼女がそう言うなら、きっと姉が消えたタイミングは夏祭りで正しいのだろう。

 ならやはり妙だ。姉が消えるタイミングと、アカメが今もここにいる理由が分からなくなる。

 ずっと姉と一緒にいたはずの彼女が消えず、数回目であろう彼女の笑みを見た姉が消えた理由――数回目?


「あ」


「……ソ、ソラ?」


「ねぇアカメ……お姉さんってアカメの顔を見た事はあるかな?」


「え、あ、うんあるよ?」


「あれ……それじゃあ違うか」


「何を悩んでるの? 私にも教えて?」


 僕はアカメに疑問の内容を全て話した。アカメも辛そうな表情を浮かべながら、話を最後まで聞いて同じく首を傾げた。


「うん、お姉ちゃんは確かに私の後に妖怪になったけど、いつも顔を見て喋ってくれたよ。私もそんなお姉ちゃんが大好きでいつも顔を見てた」


「そうだよね……じゃあなんでだろう?」


「首尾はどうだ兄上とアカメよ」


 二人して紙を片手に唸っている時、背後から聞き覚えのある妹の声がかかる。

 表情を見る限り未だ本調子ではなさそうだが、心配してくれたのか妹が大きなお弁当を持って僕達の元へ来てくれた。アカメは申し訳なさそうに瞳を髪の毛で隠す。


「いや、もう大丈夫だ。むしろ目に焼き付けて慣れる事にした」


「あぅ……ごめんなさい」


「いやいや、謝る事は無いだろう。それより今どんな感じだ?」


「あ、今はね……」


 僕が未だに考えている傍らで、アカメは手紙を手に持って妹へ全てを伝えた。


「はぁん……」


 対して妹は、何か納得した口調で呟くのだった。




11

「兄上よ」


 地面へお弁当を広げ、手巻き寿司を一人ずつに手渡した妹は、一つ目を食べ終わった僕を見て声を掛ける。


「兄上の顔は死んでいないな」


「はぁ!?」


「それに、健康で元気な顔をしている」


「い、いきなりだね……」


「アカメの顔はこう、言葉にし難い顔だよな」


「あ、う、うん」


「でも、私からすれば普通の顔だ。笑えば笑った顔だな」


「な、何を言いたいの?」


「じゃあ兄上、心から笑った顔を作ってみてくれ」


「えぇ!? いきなりそんな事言われても無理だよ!?」


「だろうな。アカメの姉はそれを願ったんだよ」


「そうだね。でもアカメは姉の前で心から笑っていた事もあると思うよ?」


「も、勿論ある!」


「なんなら手巻き寿司を食べているその顔が既に心から笑っている様にも見えるしな」


「あぅ……だ、だって美味しいんだもん」


「何が言いたいの?」


「兄上よ。もう一つの可能性があるのではないかと言いたいんだ。これなら疑問を二つとも解消できるところか、アカメの姉がどこに消えたかも分かる」


「えっ――」


「本当!?」


「あぁ。兄上、もう一度頭をよぎった二つの疑問を言ってくれぬか?」


「あ、うん。ずっと姉と一緒にいたはずのアカメが消えない理由。数回目の笑みを見た姉が消えた理由だよ。勿論花火の前から見ていた事はアカメ自身が言ってるから事実だね」


「そうだな。じゃあ逆にこういうのはどうだ? 願いが継続しているなら、それが終わるまで消える事がないという考え方」


「お姉ちゃんの願いが継続して、私の願いも継続してる……?」


「そう。姉は花火を見るまでアカメの笑顔を見続け、アカメは姉と生き続けているから消えないという可能性の話だ」


「それだと、お姉さんはずっとアカメの顔を見ていないと駄目なんじゃない?」


「そこだけは私も屁理屈になる事を言っていると思うが、アカメの顔を見るたびに笑顔だったら、見続けるという事になるんじゃないか? 手紙にあっただろ? アカメは優しいから飢えているても笑顔だったと」


「って事は、お姉さんはアカメの笑顔を見たからじゃなくて……花火に目を奪われて夢中になっていた顔を見たせいで?」


「集中している時や、夢中になっている時の顔はその引き締まった表情や、どこかあどけなさを感じる表情に惹かれるものがあるものだ。だが、ずっと笑っている奴はあまりいないだろう」


「その夢中になっている妹の顔を見てしまった……」


「そういう事だ。しかしその真実のままを記載してしまえば、妹は一生花火を楽しめなくなる。だからこそ嘘を書いたんだ」


「……そう、なのかもしれないね」


「そう、その仮定が正しいとするのなら、もう一つ正しい仮定があるはずだ」


 妹の言葉に目を見開き、僕はアカメを振り返った。アカメの顔は笑っておらず、大きな瞳からは涙が流れていた。




12

 もしも妹の考えが正しかったとしたら、確かにこじつけの様な仮定だけど、それが正しいのだとしたら彼女が生きている理由も仮定通り、つまり()()()()()()()()()()事になるはずだ。それは同時に、姉が彼女と一緒に生きている事を意味する。

 アカメの様子がおかしい。表情が突如暗くなり、僕達の声が聞こえていない様だ。いつでも妹を庇える様に中腰になるが、妹が僕を止めた。


「……」


「チサト……だな?」


「……はい」


 アカメの見た目、アカメの顔の少女が頷く。


「私達を恨んでいるか? 本来なら隠したかっただろう?」


「恨んでなんていません。むしろ感謝をしています。特にそちらの男性には」


「え、僕?」


 チサトはようやく顔を上げ、一つしかないその大きな瞳で僕の顔を見た。真っ直ぐな眼差しに気圧されて思わず目を伏せてしまった。頭上で彼女の言葉がかかる。


「ずっと泣いていたアカメを慰めてくれたのは彼です。彼がいなければ、アカメはもっと傷ついていた」


「あ、えっと……」


 返す言葉が見当たらない。更に彼女の言葉は続く。


「誰でも逃げ出すであろうこの見た目に、勇気を出して妹の話を聞き、相談に乗ってくれた」


「……」


「ありがとうございます」


「え……」


 ――それは、彼女が僕に対して初めて言った感謝とは少し違う重みを感じた。僕は変わらず感謝される事に驚き、顔を上げる。人ではない恐ろしいはずの一つ目の顔をまっすぐ見つめる。

 今度は背筋が凍る事も、冷や汗をかくことも無く、真っ直ぐに彼女の顔を見る事が出来た。彼女は少し笑うと、更に口を開く。


「私ではダメだった。私がまた日記を使って彼女に声を掛けてしまったら、今度は本当に私がこの体を奪ってしまうかもしれない。だからこそ助かりました」


「なるほど、我の強い人格が元の人格を食らう事があるらしいから分からなくもない意見だ。が、チサトの妹はチサトが思う程弱い人間ではないぞ?」


「えぇ。それも分かっています。でも、下の者を可愛く思えてしまうのが上の者というもの。どこかその可能性を捨てきれなかったのです」


「……これからどうする?」


「私はこれからも姿を消します。これ以上この体を奪わない為に」


「じゃ、じゃあこれからもアカメにつらい思いをさせ続けるって事ですか?」


「……」


「果たしてこれを善しと取るかそれとも悪しと取るか分からないが、ここは神社だ。神の住む家。生きるを神に願ったなら、死ぬも神にまかせてみたらどうだ?」


「……それだとアカメが!」


「姉の思い背負って、無意味にこれからをこの本殿の下で生き続ける妹の気持ちを考えろ。拷問だぞ」


「うっ――あ、あなたはアカメに死んでほしいと思っているんですか!?」


 チサトさんは、僕の方をじっと見つめた。突然そんな事を言われても現実味が無さ過ぎて困ってしまう。

 しかし、アカメがいなくなってしまう事に悲しいという気持ちを抱くのも本当の話だし、彼女とのお別れだと考えるだけで胸が痛くなる――しかしそれは僕の意見だ。彼女の気持ちを考えていない。

 どれだけ言葉を重ねても真実は妹の言う通りだ。アカメがそれを願っていなかったとしても、心を鬼にするべきところかもしれない。


「……」


 ――声が出ない。口が開けど、アカメに消えて欲しいと口から絞り出す事がどうしてもできなかった。


「ソラ……」


「――っ!?」


 突然力が抜けたかのように崩れ落ちたチサトさんが顔を上げた。そこには見覚えのある幼い雰囲気を纏った彼女がいた。彼女は僕の顔を見つめると、笑顔を浮かべた。


「聞こえてたよ。三人の会話」


「うっ……」


「妖怪だーって声出して逃げていたのに、悩んでくれるんだね」


「そりゃあそうだよ……」


「でも、もう良いんだよ。お姉ちゃんの事も分かって、私もすっきりしたよ?」


「うっ――」


「ありがとう」


「……」


 操り人形の糸が切れた様に崩れ落ちる彼女に、僕は言葉がかけられず俯いてしまった。彼女の言葉一つ一つが僕の心を抉る事を彼女は知らない。

 そりゃあ彼女の言葉が本心なら僕だって納得しただろう。でも、彼女の表情はとても辛そうだった。勿論僕に対して向けられた物だなんて自意識過剰になっている訳じゃない。でも彼女の心から願った事は違ったはずなんだ……。じゃなければあんな辛い顔はきっとしない。

 多分、姉以外の話せる人が出来て彼女は嬉しかったんだと思う。きっと彼女の本心は――本心?


「ソラさん! アカメの言葉など忘れてもう一度答えてください! あなたは本当にアカメを殺したいんですか!? 死ねばいいと思っているんですか!?」


「……チサトさんすみません、思っています」


「なっ――!?」


「しかし、そうじゃないんです。妹が言おうとした事もそうじゃないんですよ。僕達はアカメの事を一番に考えて言っているんです」


「死ぬ事があの子の幸せだと言いたいんですか!?」


「いいえ。僕達が彼女の本心を理解する事なんて出来ませんよ。だって僕達はアカメじゃ無いんですから」


「……でも」


「でもきっと死ぬ事は今のアカメにとって幸せじゃないと思います。彼女も願ってないと思っています」


「じゃあ――!」


「妹の言った事を思い出してください。生きるも死ぬも神に任せると言ったんです。あなた達が死ぬ時、願った者に任せてみようと言ったんですよ」


「あ――」


「彼女の思いは彼女と、それを聞く神様のみが知る事なんです。彼女が願うなら生き返りも死にもするのです。そこに、僕達の考えは無いですよね」


「……なるほど。それはその通りだと思います」


「最後に、彼女に対して手紙を書いてあげてはどうですか? 書くものも揃っていますから。書き終えて、お互い読み直し、心の準備が出来たら声を掛けてください」


「……何から何まで、ありがとうございます」




13(完)

 翌日、早めに目が覚めた僕は着替えを済ませて玄関のカギを開く。


「兄上ぇ、行くのかぁ?」


 準備をしている音で目が覚めたのか、リビングのソファで眠っていた妹が眠そうな目を擦りながら顔を出した。僕はその様子に頭を撫でてから、彼女に眠っててもいいと伝えた。かなり昨日疲弊したのか、素直に従って彼女はソファの上へと戻っていった。

 玄関から出ると、まだまだ夏が続くであろう事を感じさせる強い日差しが頭上に照り付ける。手を加えていない黒髪だとすぐに熱が溜まり、そこから全身に熱が伝わって全身から汗が噴き出す。

 長い道を背筋を曲げながら進み、冷気を放つ自動販売機を脇に通り抜け、そこから約八分。ようやく目的地に辿り着いた。長い石階段に足を乗せ、一呼吸置く。

 あの日、お互いの意見と主張を確認し、お互いが納得したのを確認した僕達は、自動販売機に使うつもりだった千円札を賽銭箱へ入れて手を合わせた。

 目を開いた時には妹の姿しかなく、残されていた手紙と錆びた箱は家に持ち帰り、今日また持ってきている。アカメがどんな願いを持っていたとしても、この箱は返すつもりだ。穴から中身が出ないように気をつけながら本殿へと辿り着く。

 階段から木組の中は見えなかった。少し緊張しながら本殿へと近付き、木組の前で腰を下ろす。いくら耳をすませても音は聞こえない――少し、胸が痛い。


「これ、返しに来たよ」


 ――布の擦れる音は聞こえない。悲しい気持ちを堪えながら、錆びた箱を木組にぶつけないように注意しながら中へと入れる。ギリギリまで地面に運んでから落としてあげないと箱が更に傷付いてしまう。

 その為、出来る限り腕を中へ入れるべく体を近づける。


「ふっ」


「うわぁ!?」


 暑さで汗をかいた体に突然涼しい風が当たる。ギリギリ箱を地面に置く事は出来たけれど、腕が何かに掴まれ、抜く事が出来ない。焦る僕のお腹にまた吐息が当たる。


「えへへ……」


 暗闇から漏れる笑い声に、自分の頬が緩むのを感じた。一度上を向いて表情を引き締め直し、暗闇に向かって言い放つ。


「こらアカメ!」


「えへへ、ただいまソラ」


「……もう。おかえり」


 木組みの隙間から大きな一つ目。少しだけ心臓が縮む感覚。その全てが懐かしく感じる。……彼女は何を願ったんだろうか――それを聞くのは少し先の話になるだろう。


「ソラ、色々ありがとう」


 彼女が微笑む顔を見返すのが恥ずかしくて、僕は顔を逸らしながら照れ隠しで言った。


「……そろそろ、手を離してほしいかな」


「大丈夫? どこにも行ったりしない?」


「勿論」


 こうして、夏に出会った日記帳を持つ一つ目少女の怪談は終わりを告げる。

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