「フリ」をする事
徒然草に「狂人の真似をして都大路を走る人間はやっぱり狂人だ」という話がある。そうなのだろうと思う。
現代人の意識の狡知というのはどうにもならないものだと思う。彼らは、メタな位置に自分の意識を逃しておいて、何事にも『本気でない』という態度を取る。自分の決定した姿勢と共に殉ずる、というか、主体=責任の考えがない。不正があれば「あれは他人のやった事」と互いに罵り合ったりする。
私の知り合いがあるつまらない作品を褒めていたので、「あれはつまらない作品だよ」と言った事がある。その人は「いや、あれはつまらない作品だけど、それを面白がるのがいいんだ。つまらない作品をあえて面白がるのが大人なんだよ」と言った。私はそれ以上何も言わなかった。
現代はこんな調子である。つまらない作品しか理解できない人間が「あえて」それを楽しんでいるフリをしている、というポーズを取る。つまらないものをあえて楽しんでいる自分は、全然つまらなくない、と言いたいかのようだ。しかしつまらない作品しか理解できない人は、本当につまらない人ではないのか。
ネットに中傷を書き込んで捕まった大学生がどうしてそんな事をしたのかと聞かれて「冗談のつもりでした」と半笑いで答えたと言う。しかし冗談で人を殴って殺したとしても、やはりそれは殺人である。
人間は意識を二重にできる。私はある偏った思想のアカウントを見ていてふと思った事がある。それは彼らの中には「自分の言っている事は変かもしれないけど…」という留保をつけている人がちらほら見られたという事だ。彼らの内には、自分が大して考えもせず、学びもせずに発言していると無意識的に気づいている人間が存在する。しかしそこから脱却する事はできない。
その党派がもし破れれば、彼らは「自分は本気ではなかった」と言うだろう。組織に属していた人間は「上からの命令で仕方なくやりました」と言うだろう。では彼らは何だったのだろう? 何事にも本気になれず、何事にも戯れとしてしか運動できない人間もどきだったという事になるのではないか?
あらゆる事が「フリ」である。「あえて」しているわけである。つまらないものを面白がるのは、「得」だからしているのだと言う。それが「賢い」生き方らしい。彼らは確かに賢いのかもしれない。一つのものが破れれば別のものにたやすく移動する。なにせ本気ではないから、簡単に移動できる。
彼らはそうして次から次へと移動していく。今のメディアを見ればわかりやすい。我々が見ている舞台上には次から次へと流行りの人間が出てくる。彼らが問題を起こしたり、飽きられると、後ろに引っ込む。永遠に正しくある方法は、舞台上のものを褒め続ける事だ。そうすればずっと「正しい」価値観でいられる。一人の人間が全体としてどういう人生を辿ったかという事には全く興味が湧かない。ただ瞬間としての舞台だけが問題だ。
舞台に上がる人間も同じ言い訳をするだろう。「あえて」やっていると。今の人気者に話を聞けば同じような言葉が返ってくるだろう。
「確かに、自分のやっている事はくだらないかもしれない。公序良俗に反するものもあるかもしれない。だけどみんなが楽しんでくれるから、あえてやっているんです。くだらない事はわかっています。でも、それを楽しんでくれる人がいるから、やっています。こっちだって身を犠牲にしているんです!」
視聴者に聞いても同じような答えが返ってくる。
「確かに、あんなものはくだらないかもしれないですけど、それをわかってて楽しむのがいいんですよ(半笑) あなたも野暮だなあ。わからない人だなあ。いいですか、あんなのはくだらない馬鹿ですよ。でも馬鹿を楽しむのが、今の大人なんじゃないですか。人生は短いんだから、楽しまなきゃ。あれぐらいを楽しめなきゃ、どうします? 人生無駄にしているんじゃないですか? あれ? そんなに批判ばっかりは良くないなあ。もっと肩の力を抜いて、楽に生きましょうよ(笑)」
…こうなると、演者も観客も、本気ではないという事になる。実際、そうなのだろう。戦争が起きれば戦争礼賛、平和になれば平和礼賛であり、その時々の現実に屈服するのが正しく、賢い生き方のようである。
彼らは何かあった時、蜘蛛の子が散らばるように逃げ出す。なにせ本気ではないから、仕方ないのである。自分は大切だから、そうしなければならない。彼らはそういう意味では常に勝者である。
だが、これらの人にも生涯があり、死はある。彼らの陥穽は死である。
彼らは死を恐怖する。それについては考えまいとする。経済は続き、国家は、社会は続くかもしれないが、一人の人間は死ぬ。この死を国家やら経済やら同化させれば、個体の実存性からは逃げられるかもしれないと考える。そこで、彼らは死について指差されると、震えて怯えだす。
あるいはもっと悪い事に、死を社会的なものに接続させ、救済されようとするのかもしれない。臨終の時までSNSでライブ中継して、死を人々の視線に溶け込ませようとする。だがそれでも死は一人の人間にやってくる。一つの実態として、個体の上にやってくる。
意識は二重になれる。あらゆる事に大して「フリ」をする事はできよう。
ここに一人の人間がいるとしよう。言い訳ばかりの人間である。彼は金欲しさに人を殺す。
「いや、殺しが悪いのはわかってますけど、あえてやったんですよ。罰を受ける覚悟はあります。…でも本気でやったわけじゃないんです。ある種の冗談だったんです。本気じゃなかった。殺意はなかった。…もちろん、責任は引き受けますけどね(笑) でも、殺すつもりはなかった。ただ殴って金を奪う…それだけのつもりだったんですよ。だって、金ってみんな欲しいでしょ? ほんとはみんなこういうのはやりたい事なんですよ。抑圧しているのを解放しただけです。俺は。やだなあ、そんなに本気で怒らないでくださいよ。誰だって、こういう気持ち、あるでしょう?」
彼はニヤニヤして話す。支離滅裂な話し振りだが、彼の中では正当化である。彼は裁判を受け、死刑判決を受ける。裁判の時も言い訳をしている。死刑の直前でも、内心は恐怖しているが全て冗談だと思っている。
「いやだなあ、これ、何かの冗談でしょう? 死刑だなんて…だって、俺、悪い事してないんだから。人を殺すなんてそんなたいそうな…殺すつもりはなかったんだから。ただポコっと殴ったら死んじゃっただけですよ。いいですか、殺すつもりはなかった。それがあいつ勝手に死にやがって。やわだなあ。もっと鍛えとけって話ですよ(笑)。いいですか、俺はね、そんな気持ちはなかった。俺は無罪です。これは狂言でしょ? 死刑なんて嘘でしょ? 冗談でしょ? 芝居ですよね? 実は、絞首台の前で、ドッキリだってばらしてくれるんでしょ? …だって俺が死刑のわけないですもんね。俺みたいな善人が。そんなわけないよ。アハハ」
この男は実際に首を吊られるまで、自分は無罪だと信じている。自分は悪くないと本気で信じている。意識はずっと自らを二重にできる。
彼は絞首台に連れて行かれる。刑務官にニヤニヤして話しかける。首に縄をかけられる。刑務官がさがり、立たされる。それでも冗談だと思っている。足元の台が開き、首が吊られる。彼は死ぬ。死ぬまで、自分の意識の嘘に気づけない。
…意識は二重にできるかもしれないが、死体は一つしかない。一人の人間の生き方は一つでしかない。意識の上で、あらゆる事を冗談と思う事はできる。行為と意識の間には無限の深淵が開いている。あらゆる行為を言い訳できるだろう。それでも死体は一つしかない。生が二重でも、死は一つだ。そうして人生も本当は一つなのだ。
全てを二重化し、自分の正当化を計り続けている人々の人生が何であるかはいずれ正確に測定されるだろう。その時、彼らの死後、彼らの言い訳は彼らの意識内部に対してでしか正当でなかったという事が判明されるだろう。彼らに人生はなかった。行為と意識の分離に存在は解消され「道」はなかった。最後まで言い訳を続ける死刑囚のように、「正しい」だけの人生だった。残るのはただ一つの死体だけ。死体は正直である。