第85話 報復の業炎
「……そうか、では準備を始めろ。放った後も本格的な攻勢は機を待つ様に、被害を少なく終える事こそ肝要だ。……後は任せる」
砦に攻める第五軍、その中央後列で指揮を執るベルナルド。主君たるレーミスの姿は無く今は彼が一手に引きうけ、秘策の仕上げに指を掛けていた。
兵達は紐を付けた壷の配備を進め、弓兵達は――鏃に油布を巻き始める。
それを遠目に視認した砦の上から戦場を俯瞰する騎士。火を放てば南西の風は第五軍の後方の森に飛び火する事は必定と、ムアンミデルは微かに眉を顰めた。
「バカな……奴ら火計を……? そんな事をすれば向こうの頼みの森を焼くのみ……何かの陽動か?」
黒肌の騎士は敵軍のみに捉われず、戦場の方々に警戒の目を向ける。
僅かな雲が流れるのみの快晴、海面をゆるやかに凪ぐ風は変調の兆しは無く、砦に火を放てば間違い無く、飛び火は第五軍の防衛の要、森を焼く事に繋がる。
目の前の光景を疑いはすれど己の芯までは揺らさせず、ムアンミデルは銀の兜を被りながら兵達に命を下す。万が一の備えを使う時が来たと。
「敵は火計の準備をしている、水の魔操具を駆使しこれを防げ! 今の内から水を撒きまくっておけッ!!」
カリング軍は砦の上からあちこちに、幾ら汲めども清水を湛える魔道の大釜、水の魔操具から放水を開始する。本国から持ち込んできた分とウェーマスの町で得た物を合わせその数は十二分。第五軍が森を炎から守っていた手口同様に、今度はカリング軍が砦を炎から守らんと万全を期す。
それを見止めた第五軍は、一切構わずに油壺と火矢を仕掛ける。
褐色の壷は砦に向けて投げ放たれ、壁面に油をばら撒きながら破砕する。火矢の大半は落ちるか刺さるかの直後に消火されるが、幾つかは撒き散らされた油に引火し、少なからず砦に炎を広げる。
「ッチ……消火活動を急げ、絶対に延焼させるな! 敵はこれを機に攻め寄せてくるはずだ、弓兵隊は持ち場を……?」
火計を仕掛けた第五軍は変わらず火矢と油壺を放つのみで、砦に押し寄せてくる気配は微塵も無く、距離を隔てたままだった。炎は互いの火計と消火で一定の勢いを保つだけに留まり、砦を燃やし落とす程の勢いは無い。
帝国軍は更なる違和感に疑問を擡げはするが、放っておけば砦は炎に巻かれ陥とされる事だけは確実。
今はバケツに水を汲みながら、不吉な冷や汗を拭う事しか出来なかった。
§§§
森の中の街道を南に進む一団、三百程の敗残兵の帝国軍。
損傷の酷い石畳の街道には馬避けの柵が設置されているのみで、森の中の第五軍の陣には人っ子一人いない。
率いる茜の大鎧、大将アーノルドは兵達を急がせながら、戦場の様子もつぶさに感じ取る。
「この臭いそれにあの黒煙……。砦攻めに相当参っておる様だな、この時節の風ならば飛び火して森に燃え移り、ドミニアの隠れ蓑を焼くのみでは無いか。地元の者を囲い込まなかったか?」
木々の隙間から垣間見える戦場の様子。アーノルドは敵軍の失策に首を傾げながら足を進める。
兵達の体力は限界に近いが、幸い敵陣は無人であり今の所遭遇戦は起こっていない。道行は丁度折り返し、森の出口まではあと二キロメートル程。
兵の一人は飛び火を心配し声を掛けてくるが、アーノルドは肩を叩きながら頼もしい声で、不安を払拭させようとする。
「将軍、大丈夫でしょうか? もしもこちらに燃え移ってしまえば……我らは炎に巻かれて……一網打尽に」
「案ずる事は無い。海は近く湿り気が強い、少々の飛び火で直ぐにどうにかなりはせんさ。しかし空腹に油の臭いは、中々どうして……?」
風向きはこちらに吹いているとは言え、戦場から運ばれて来る油の臭いにしては、余りにも濃く纏わり付く空気。海からの潮を加味しても少々異質な程に。
アーノルドは兜を取り、高く大きな鼻をスンスンといわせる。気付けば周りの兵達も同様に、余りに濃い油の臭いにざわざわとしていた。
不思議に思った兵の一人が街道沿いの木に触れてみると、手の平はぬるりとした感触に覆われ、よく見れば幹は目立たぬ様に、半ばまで切り込まれており――
「――今だ! 一斉に切り倒せッ!!」
森に轟くのは、第五軍大佐ベルナルドの毅然とした号令。
帝国軍の残党は敵の奇襲かと身を強張らせるが、殺到してくる敵軍は無く耳へと届くものは、四方八方からの木こりの音。甲高く余韻を残す斧の音が茜の兵達を包囲し尽くし、大将アーノルドは最悪の未来に背筋を凍らせる。
「ッ゛……奴ら本気か!? なんという鬼畜……全員走れええ!! ここは既に死地になっておるぞおお!!!!」
必死の叫びは虚しく響き、街道はミシミシとした破滅の音に埋もれる。
森の中を南北に伸びる街道、その東西三十メートル程の予め切り倒される寸前だった木々は、外側からドミノの様に街道へ倒れ伏して行く。
第三軍の援軍を動員し、開戦時から進められていた街道の整備を兼ねた防衛策。
ウェーマスの町に篭もるカリング軍が街道の強行突破を計った時に備えてのものだったが、そこに飛び込んできた敗残兵達に、今正に発動された。
逃げる間も無く帝国兵達は幹と枝葉の生き埋めとなり、死にはしないものの体の自由は絡め取られる。そこから背に伝わる油の感触は、阿鼻叫喚を呼ぶには十分な予兆となった。
「降伏する!! 帝国軍大将アーノルドは我が命を以って兵達の助命を求……」
「後は私達が見張っておく、残りは砦攻めに戻り近衛隊から指示を仰げ。閣下は既に出張っていよう、遅れぬ様にな」
大将アーノルドは形振り構わず助命を請うが、氷の様な男は粛々と指示を出す。
切り倒された木々には既に砦の攻防からの飛び火が燃え移っており、それはパチパチとした爆ぜる音を広げながら、炎を辺りに走らせていく。油を充填された樹木は瞬く間に、南西の風にそよぐ赤い海となった。
殆どの者は煙に飲まれ一酸化炭素により苦しまずに逝くものの、運の悪い者は生きたまま熱と炎を肌で感じる事になり、自責の念に苛まれる剛将は最後まで、諦める事だけはしなかった。
「許さぬ……許さぬぞドミニアアア!! 必ずや我らの怨念はこの小島を……破滅に落としてくれようぞおおぉ……ッ」
ベルナルド率いる一隊は、消え逝く呪詛から耳を逸らし、炎が余計に燃え広がらぬ様に辺りへ目を向ける。
感情を滅多に表さない男は眼鏡越しに、焼き討たれていく敵兵達を眉一つ動かさず見つめるのみだったが、双眸の奥にはほんの僅かに、私怨の炎も宿っていた。
「……周囲警戒へ注力せよ、これ以上の飛び火は大事になる。鎮火作業にのみ集中していれば良い、放っておけばすぐに静かになる」
兵達は粛々と、用意していた水の魔操具によって周りの森への飛び火を対応していく。潮風に湿った森への飛び火は手間も掛からず、そのまま事は進められた。
余計な延焼は起こらず切り倒された木々は粗方燃え尽くし、役目は終えたと弛緩した空気が流れた刹那、復讐に滾る亡将が炎の中から立ち上がる。
「ッ゛……ドミ゛ニ゛ア゛ア゛! 赦すまじ……赦せるものッ――ガアァァ!!」
木々が燃え崩れ自由を得たアーノルドは、身を爛れさせながら大戦鎚を振り被り炎の中を突進する。狙いは丁度背を見せているこの場の指揮官、ベルナルド。
せめて一人でも道連れをと、恩讐のみによって五体を駆動させる。
「!? 大佐、後ろに! お逃げ下さ――」
「諸共ニ゛来゛オ゛オ゛オ゛オ゛イ゛ッ!!!!」
既に死に体となろうとも、剛将の肉体は焼け崩れながら執念により支えられ、生涯最後の一撃は黒炎を纏い薙ぎ払われ――
「――しつこい、敗軍の将ならばせめて……潔く静かに逝けッ」
無機質で突き放すような声と共に、振り向き様に軍刀が投げ放たれる。
兜を外していたアーノルド。その頭は深々と刃によって断ち切られ、力無く崩れ落ちる巨体は炎の中に消えていった。再度立ち上がる事は無く、帝国の意思を体現した剛将はその軍歴を閉ざす。
ベルナルドは何事も無かったかの様に場を後にし、冷たい双眸を東へ向ける。
順調に事は進んでいるがまだ戦は終わっておらず、その目が案じるのは自身の身では無かった。
§§§
森の南側、砦の上からは、雪崩の様に崩れた森とそれに飲み込まれた茜の一団、その後彼らがどの様な末路を辿ったかがはっきりと、見えてしまっていた。
万が一の場合には街道から逃げて来る自軍を迎え入れる為であった砦。
造りや配置の思惑は完全に裏目となり第五軍に利用され、砦に篭もる帝国軍の士気は、完全に地に落ちている。
「アーノルド……殿…………ッ……消火の手を休めるなッ!! 砦が燃え落ちれば絶望に落ちる事すら出来なくなるぞ! 帝国兵の意地を見せよおお!!」
指揮官ムアンミデルは声を張り上げるものの、殆どの兵は生気を無くし動こうとはしない。兵達が今まで踏ん張ってきたのは、彼らが真に敬意を抱く大将の為になればと思っての事であり、心の糸は完全に途絶えてしまった。
消火活動に当たっているのはムアンミデルの近衛隊と、一部の兵のみ。皮肉にもアーノルドに対し畏敬を抱いていなかった者達は、動きに翳りは無い。
「ムアン様、火消しの方は何とかなっていますが……一体奴らは何を待っているんでしょう? 正直な所今攻め寄せられては……」
不気味な気配を放ち距離を置く第五軍。油壺はもう投げてきてはいないが、火矢を放つだけで依然攻めてくる動きを見せず、帝国兵達は最早気が気では無い。
ムアンミデルは敵に良い様に転がされている事を自覚しつつ、それでも自暴自棄にはならず、指揮官としての責を何とか全うしようとしている。
「ッ……解らん、だが…………敵が猶予を与えると言うのであれば遠慮無くそれを利用するのみ。町に待機している兵達と総入れ替えを行え、アーノルド殿の事は緘口令を敷き――!?」
対応すべく動こうとした矢先、銀甲冑の騎士は己の目を疑う。思わずバイザーを上げて東の海上を見やるが、既に幾人かの兵達も同様に気付いており、絶望に染まった砦にはざわめきが広がっていく。
異国の騎士は驚愕と焦燥を何とか抑え込み、砦の後方、ウェーマスの港町に向けて狼煙を上げさせる。赤く真っ直ぐ立ち上る煙は緊急時にのみ使用される魔獣の糞を加工したものであり、意味するものは『敵の襲来に注意せよ』であった。
海上を疾走する黒冑の軍勢、第五軍の最強兵団である装甲騎兵隊。五百の全騎が魔操具の馬鎧を纏い、無人の海原をひた走り戦場の裏を取りに行く。
一団は真っ直ぐに砦の後方、港町ウェーマスの波止場へ猛進し、先頭を執り指揮を握る彼らの主、エクセター候レーミスは鬨の声を響かせさざ波を引き裂く。
「全軍奮起せよ! 我らの一撃を以ってこの戦を終わらせる! 砦に篭もる臆病者達に吠え面掻かせ――ウェーマスの町を奴らの血で洗い流してくれようぞッ!!」




