第84話 ウェーマス決着戦 四将三慮
「……思い切った子だね、ここまでとは思わなかったよ。そしてこっちも……存外に忠犬だな、嬉しい誤算か」
深夜半、港町ウェーマスを北から覆い囲む森、その中に布陣する第五軍。
総帥たるトリスタン六世レーミスは天幕の下、三つの書類を確認し頭を巡らせている。一つ目は第三軍団からのクランボーンの森の報告書であり、落ち延びた残党がこちらに向かっているとの事。
残りは同地に送っていた二人の軍人から。片方は退役を願う旨と残った冒険者達に関して、もう一方は任務の続行を報せる内容。予想外に忠勤な首輪に対し、レーミスは冷たく微笑む。
「閣下、森の中の備えですが……いつでも崩せる状況を整えております。少し斬り過ぎてしまった分はロープを張っておりますが……確認しても?」
ベルナルドに問われ、レーミスは二つの報告書を手渡す。忠実な走狗に関しては、信頼を寄せてはいるが彼にさえも伏せられている。
書類に目を通したベルナルドは静かに頷き、二人は用意していた策を、大将アーノルドを含む敗残兵達に使う事を打ち合わせた。
「必死に逃げてくれれば明日の朝には間に合うだろう。街道を強行突破されたらと備えていたが……丁度良い、飛んで火に入る何とやらだ。一石二鳥……いや、今回限りは三だな」
深遠なる両名は逃げて来る首の重さ、その価値を正しく認識し勘定し、どうするべきが戦の為か既に結論を下している。
如何に軍人として高位の大将とは言え、出自は平民のアーノルド。捕虜にした所で本人の財は大した物ではなく、帝国自体と交渉しても剛将の脅威に見合った額を絞り取る事は難しい。
小金で厄介な敵を解き放つ訳にはいかないが、まともに戦をし万が一捕虜にしてしまっては、逆に殺す事は難しくなる。暗黙とは言え捕虜に関する取り決めは国家間で存在しており、それを無視して亡き者にすれば、後々の外交に多いに響く。
そんな中でのこの動向は、まさに僥倖であった。
「予定通り明日決行する、こちらの指揮と森の策はお前に任せる。私が言うよりもお前の方が余程……!」
普段は氷の様に冷たいベルナルド。その目には僅かにだがはっきりと、私憤の炎が宿っていた。
彼自身の発案により己の故郷を囮とした今回の戦。如何に感情を抑え軍人として徹しようとも、それにも限度と言うものが有り、今は炎の様な気を滾らせている。
「閣下、宜しいでしょうか? 明日の決戦に関し一つだけ……献策したい事があります」
作戦を直前に控えた上での具申。
ベルナルドにしては珍しい動きに、主であるレーミスは目を細める。その気配を危ぶみつつも部下の意を無碍にはせず、指揮官としての度量を見せる。
「……許す、申してみよ」
「有難う御座います……近衛部隊の詰めですが、東のみでは無く西からも、事前にポートランド島を押さえておくべきかと。事を上手く運べば明日上がる首級は、更に上等のものを一つ増やせます」
半島の南に構える港町ウェーマス、そこから南に位置する陸繋島ポートランド。
帝国軍はこちらにも後詰の陣を構えており、明日の作戦が上手く運んだとしても、カリング軍は完全に退路を断たれはしない。
先んじてそちらを陥としておけば完全に包囲殲滅の構えが整い、この地のカリング軍の総指揮官であるプロヴァンス公、ムアンミデルを討ち取れるとの提案。
しかし――主君たる女傑は首を横に振る。
「……いいや、完全に退路を断ちはしない。死兵と戦えばこちらの被害が大きくなる上、交渉の相手を残しておかねば泥沼に嵌まる。……解っている事を申すな」
レーミスはベルナルドの意を汲みつつも、方針を変えはしない。
逃げ場を無くした兵は絶望に染まるか、道連れを求め死を忘却し戦い抜く。逆に退路を開けておけば、生に執着し簡単に逃げ出してしまうもの。
戦争の勝利のみを求める戦の主は被害の多い敵の全滅は考えず、被害を少なく敵を撃退する道を選び取った。
「申し訳ありません出過ぎた真似でした。外の風に当たりに行きましょう、明日を計るのにも必要かと」
拒否を示され、しかしベルナルドは安心した様に胸を撫で下ろし、普段の冷静さを顔に浮かべる。
決して演技という訳では無く、主の心を慮っての問い掛け。長い滞陣と睨み合いを続ける旧敵に、溜め込んでいるものが有るのではと杞憂していた。
レーミスは試しの様な配慮に気付かぬフリをしつつ、席を立ち招きに応じる。
「謝る事では無い、故郷を大事に思う気持ちが間違いであるものか。それは軍人の本質の一つ……国と民と土を愛さぬ軍は賊と同じ、故にこそ我らが円卓は民達から支持を勝ち取れたのだ。さて……」
二人は小休止も兼ねてテントの外へ。第五軍を守り包む森の中、木々の端々から空と海に目耳を向ける。
雲一つ無い夜空には星々が輝き、穏やかなさざ波が規則正しく睡魔を誘う。森をそよぐ風はひそやかに南西から、微かに潮の香りを届けている。
金髪金眼の女傑は不敵な笑みを浮かべ、力強く拳を握る。現実主義者であり霊や祈りを信じぬ彼女は、今だけは上辺であるが、天に向けて感謝を述べる。
「我らが天地は我らに味方したか……この地を預かる者として、謝意を奉る」
夜は何事も無く更けていき、静寂のままに朝日が昇る。黎明の光は森の隅々にまで差し込み、しかし柔らかな大地に注ぐ事は無く、陽光が照らし出すのは万を越す黒冑の兵団。
第五軍の重装歩兵隊は戦列を整え、黒き波となって遂に森を進発する。
森から一キロメートル程を隔てた砦の上、黒肌の騎士ムアンミデルは迎撃の準備を整えつつ、厳しい顔で敵軍を睨む。
「動いたか……さて、アーノルド殿はどちらに転んだのか。まずはそれを見定めなければ……」
カリング側の戦略としては、内地へ浸透した大将アーノルドが目論見通りにクランボーンを確保し、橋頭堡を得たかが焦点となっている。成功したのであればそれによる波及効果を併せ、ウェーマスを囲う第五軍を挟撃し撃破する手筈だが、失敗しているのであれば落ち延びてくる彼らを迎え入れねばならない。
ドミニアと違い魔操具の通信手段が無いカリングでは、狼煙による通信が主であり、それは未だに音沙汰は無かった。
「ムアン様、敵の動き……これはどう見るべきでしょう? 焦って動いた様には見えませんが」
近衛の問いに対し、ムアンミデルは反応を抑える。第五軍の足並みは何かに駆られているという風には見えず、同時に、アーノルドが敗退したのであれば捕虜であれ戦死であれ、その結果は必ずや大々的に利用される。だがアーノルドから狼煙の類での連絡は無く、敵軍に焦りの類は見受けられず、かと言ってアーノルドが後れを取ったとドミニアからの声明も無い。
何とも不明瞭な状況に対し、指揮官は堅実に、どの様な状況になろうとも対応出来る様に兵を動かす。
「……弓兵隊に牽制させよ、見た所砦攻めの兵器も見えぬ。騎兵達はいつでも出られる様に準備させておけ。火計は有り得んだろうが水の魔操具の点検もさせよ」
盾と梯子を抱え攻め寄る黒の戦列に対し、砦のカリング軍は矢の雨を繰り出す。
対する攻め手の第五軍は、兵達に無理はさせず、ある程度の距離を保ったまま応射を行うのみで、隠す気も無く本気で攻める姿勢を見せはしない。双方の流血は最小限に、張りぼての様な矢の応酬と演技の様な雄叫びが虚しく戦場に響く。
不穏な気配は指揮官である異国の騎士のみならず、末端の兵達も感じ取り、砦内にはどこか落ち着かない空気が流れる。
「ムアン様、やつ等は一体……? 被害はそう多く無い様ですが、あれでは只の的では……砦相手に矢だけで戦って勝てる訳が」
「…………明らかにおかしいが、まだ何も先が見えん。そもそもあの女が姿を表していないというのも……馬防柵と東西の海際、全てを万遍無く確認しておけ。弓兵達には矢を大事に使わせろ、闇雲には撃たずに狙いを定めさせる様に」
不穏な気配をまざまざと放つ第五軍に対し、カリング軍は真綿で首を締め付けられる様な圧迫感を感じながら、しかし打つ手は無く迎撃の矢を続けるのみ。
指揮官であるムアンミデルは戦場と敵軍に目を凝らすが、鋭い金の慧眼を以ってしても、その深謀を暴く事は出来なかった。
森へと吸い込まれる様に伸びる街道、その街道の五キロメートル程先、銀甲冑の騎士にさえ見通せない森の北側には、とある一団が差し掛かっていた。
「これは……天は我らに味方したか……? これならば、まだ……」
クランボーンの森から追撃を受け落ち延びてきた、大将アーノルド率いる帝国軍、約三百の残党。付き従う兵達は皆一様に疲労と空腹の色が濃く、茜の甲冑は泥と血に塗れている。
損耗率は軍としての限界を遥かに越えており、急拵えで何とか隊を整えてはいるものの、まともに戦う事は考える事すら出来ない状況。
何としてでも兵達を生還させようとしていたアーノルドは、最後の好機を得て静かに闘志を滾らせる。
「……皆、そのまま楽に聞け。聞こえての通りウェーマスは正に戦闘中だ、我らが無事に生きて帰るには……その真っ只中を突き抜けるしか無い。今ならば敵の背後を突き完成している筈の砦まで駆け込むか、プロヴァンス公が機転を利かせれば挟撃の構えにもなり得る」
森の向こうから戦の音を聞きつつ、大将アーノルドは兵達を鼓舞する。
武勲を得るのみならず生き残る為にも絶好の機であり、青息吐息の部下達は藁にも縋る想いで、信を置く指揮官の言葉に耳を傾ける。
クランボーンの惨敗を受け愛想を尽かした者達は確かにいたが、それらは既に方々へ散った後であり、今この場に残る者は未だ彼に憧憬を抱く者か、敵地で逃亡兵となればどうなるかを知っている者達である。
「諸君らの状況は解っているが……逃げ出した所でドミニアもこちらの逃亡兵に網を張っておろう、身分を偽り溶け込む事は難しい。野盗になろうとも土地勘が無ければそのまま餓え死ぬだけだろう。戦闘中であれば敵の注意は必ずや前に向いている。大手を振って帰れる機会を……共に掴もうぞ」
逃亡は緩やかな死にしかならず、帰国の可能性が高まった事を説得され、兵達の顔には気力が戻る。出切れば砦の自軍と連携を取りたいが、這う這うの体で逃げ延びた彼らに既に狼煙で使う素材は残っていない。
余力の有る者は周りの者達の背を叩き活力を湧き上がらせ、肩を貸し合う者達は、互いの生存を願いながらあと一度の試練へと激励を交わし合う。
「森の中には第五軍の陣が構えられているはず……速やかに静かに、街道を一挙に抜け敵軍の背後を突くぞ。森を抜けた後は……各員思う様に生き延びよ。己が生還こそを第一に、次に守るべきは隣の者と心得よ。私を気に掛ける必要は無い」
兵達の覚悟を確認した指揮官は、もう一度だけと己が戦鎚に魂を込める。
共に掴もうととは言いつつも、既に彼には帰る場所などどこにも無い。
元より大帝の意を曲げた上での惨めな結果、帰国が叶った所で無事では済むまいと腹を括っていた剛将は、せめて最期に付き合わせてしまった兵達を永らえさせようと、それだけを願っていた。




