第63話 急告、暗転
ウェーマスでの攻防は依然膠着状態が続き、徒労にも似た時間が続いていた。
敵が森に入って来るのを待ち構える第五軍に対し、カリング側は悠長にも見える砦の建設に専念し、森への攻撃は散発的なもののみ。
この日も何事も無く陽は落ち既に森は夕闇に包まれ、レーミスと数人の官吏達は天幕の中で机仕事をこなしていた。幾ら戦闘が膠着しようともエクセター候としての政務や陣中での案件、更にはサルクームでの戦線の把握等、やるべき事は幾らでも有る。
「うむ……ブリストルの修道会には既に連絡を済ませている。そっちの返答次第だが……親父殿に投げておけば良い、エクセターで暇を潰しているはずだ」
戦果は稼げないまでもレーミス達にとっては悪い状況では無いが、余りに張り合いが無く疑問は消えないままでいた。敵将ムアンミデルならば長期滞陣はマズイと気付いている筈、にも関わらずの長期戦の構え。
しかし各地からの報告に目立ったものは上がってこない以上、防衛線に隙を作る訳にもいかずウェーマスの町との睨み合いは続いていた。――この時までは。
「閣下、第一軍からの使いです。通信では無く直接、やけに急いでる様子です」
「直接だと? 魔操具で寄越さない、か…………通せ」
取次ぎを経てテントに入って来た大佐のベルナルド。平時と変わらぬ無機質で冷静な面持ちだが、持って来た案件は火急であると言う。
設備に不足しているのなら珍しくも無いが、魔操具の通信機が有るのであれば専らそちらが使われる。滞陣中の庶務や王都とのやり取りにも使われており、通常の書面や誰かが実際に出向くというのは、それ相応の意味を持つものだった。
許可を得て入ってくる第一軍団の兵士、鎧は身に付けていないが確かに白地に赤の軍装は彼の所属を表している。呼吸と汗を荒くし挨拶も軍礼も取らず懐から書類を取り出す様には、焦りと疲労がまざまざと見える。
書類を受け取ったベルナルドは主に渡す前に中を検めようとするが、レーミスは無言で手を伸ばし受け取る。兵士の様子と直接の書類、明らかに良からぬ事が起こっていると既に覚悟していた。
手早く開封し書面に目を通すレーミスの顔は微動だにしないが、書状を持つ手には微かに力が入り、爪の食い込みは不快な感情を表す。
「…………仔細把握した。だがクランボーンの森には明らかにそちらの方が近い。その上で尚、我らに流血を求めるのが……ウォーレンティヌスの決定か?」
殺気の迸る言葉と共に、レーミスは書状をベルナルドへと渡す。
普段は氷の様に動じない男は、自身の落ち度に顔を顰め、音が成る程に顎に力が篭もる。
書面にははっきりと、カリング帝国の軍が王都圏ウィンチェスターの直ぐ西の森、エクセター領であるクランボーンの森に攻め入っていると記載されていた。
最初の報告は偶々近くを通り掛かった猟師から、次いで報せを受けた軍の者は、帝国軍とダークエルフ達が戦闘を繰り広げている様を目撃したとある。
それに対しドミニア王ウォーレンティヌスが下した決断は『あくまでもエクセター領であるからには、その地の主が責任を取れ』と明記されていた。
「ッ……クランボーンはエクセター領であるからして……王都から兵を出す事は……出来ませんッ」
一見正論にも見える判断だが、問い詰められる急使の顔は苦しい。
辺境伯であるならまだしも、候の役割とは本来であればそこまで広く深いものでは無く、ましてや自主防衛の義務等も無い。ここまで各地の候が政務や軍事に根強くなったのは、円卓内での力関係が殆どでは有るが、それは王家の不甲斐無さの影響でもある。
現王ウォーレンティヌスの執政は粗の目立つものでもなく、魔操具開発や本土からの魔獣掃討等の格別の功績も有るが、彼より以前の父祖達は余り誇れる様な統治では無かった。
更に今回の戦争ではまだ第一軍と第二軍は、王都圏に籠り海岸線を警戒したまま、一滴の血も流していない。戦争が始まる前から王が決定していた事であり、各地の候や伯の反応は言うまでも無い。
件の地であるクランボーンのすぐ東には王都圏の一大都市ウィンチェスターが座し、相当数の兵が守備に就いている事も、エクセター候レーミスは掴んでいる。
「ここでカリングを縫い止めている我らに、更に重荷を背負えと言うのか? 随分と偉くなったものだな……王の冠とは、それほど重いものだったか?」
おもむろに席を立ち、レーミスは手を伸ばさないまでも傍に立てられた軍刀に目をやる。憂さ晴らしにも近い事は承知しつつ、天幕は静かな殺気で満たされる。
官吏達はそそくさと気配を殺し、見据えられた急使は胸が早鐘を打ちながらも、前言を撤回する事も新たに何かを言い出す事もせず、ただひたすらに耐え忍ぶ。
「閣下、これは私の落ち度かと……。この者にも決定権など有りますまい、今は対策を考える事が急務です」
厳しい面持ちのベルナルドは主の八つ当たりを咎めつつ、己が失態であると明言する。依然どこの海岸線にも敵が上陸したという報告は無い以上、恐らくはこの地からの浸透であり、ウェーマスの町周辺の斥候は彼の管轄だった。
苦言を受けたレーミスは一息吐き、急使を手で下がらせ自身も椅子に座る。
部下の手落ちを責めるでもなく頭を巡らすのは今すべき事、クランボーンの森への派兵とその特異性への配慮。そもそもウェーマスの地を任せるのにベルナルド以上の存在はおらず、人選をしたのも彼女であればその責はそもそも自らに有る。
「……軍はダメだ、下手をすれば状況を悪化させるだけになる。最悪の場合には、カリングとの戦どころでは無くなってしまいかねん」
クランボーンの森はダークエルフ達の領域、そこに無理に軍を入れれば、カリングだけでなく彼らをも敵に回しかねない。
仮に軍を差し向けカリング軍とダークエルフ達を全て倒したとしても、それが他の地のダークエルフや亜人達に広まれば、カリングに侵略される以前にドミニアの全土が戦火に包まれる事さえあり得る。
「傭兵として雇っている冒険者達を向かわせましょう、亜人も組合を通して彼らに依頼する事はままあります。軍よりは受け入れる可能性が高く、この戦線に与える影響も抑えられるかと」
ベルナルドの提案にレーミスは頷くが、それだけでは余りに足りない。
敵の詳細な軍容は解らないが少なくとも二千はいると報告に有る。対する雇っている冒険者達は二百程、ダークエルフ達と協力を取るとしても無勢に過ぎる。
レーミスは瞬時に己の持ち得る手と周辺の情勢、現実的に出来得る策と博打にも似た一手を思考で走らせる。軍は使えないが冒険者達だけでは心許ない、その上でどうにか軍を使うならば、最早これしか道は無い。
判断は鈍らせず即断即決。今は一分一秒も惜しいと、軍の主は夜闇を切り裂き指令を飛ばす。
「ヨービルのウェールズ候に送れ、地元民でない彼らなら偽装をすれば騙せる可能性は有る、バレたとしてもあの御仁ならばどうにかなろう。冒険者達の監督にはクライグとシャルミラを付かせろ、それらしい装備を工面してやれ。今すぐに叩き起こして行動を開始せよ!!」
陣中に大喝が響き、夜半の第五軍は俄に慌しくなる。
これに乗じて攻め込んで来る恐れの有るウェーマスへの備えと共に、クランボーンへ向かわせる傭兵達への説明、彼らが抜ける事での裏方や脇の備えの再編。
黒き軍勢はここ数日の昼間よりも活発に動き、久方振りの活性に森が揺れ動く。
方々へ駆け回り仕事を捌きつつ、すっかり普段の冷静さを取り戻したベルナルドはぽつりと一つ漏らす。
「しかし、あのご老人が冒険者に偽装か……大丈夫か?」
§§§
明け方一歩手前、ヨービルの町の傍に構える第三軍の陣中。
警備の者だけが起きている深閑とした、まだ寒気のする空気の中、魔操具から届いた火急の報せを受けた下士官が、軍の主の天幕を訪れている。
「閣下、起きて下さい! ウェーマスから緊急の報せが入りました!! 至急ご裁可を仰ぎたく……」
陣に響く焦燥の声。微かにそこらのテントから目を擦り出て来る者達がちらほら出張る中、叫ばれた大天幕からははっきりとした返答が響く。
「何? エクセターのからか? はよう入って来い、朝方はまだ寒かろう」
テントから漏れ出るのは気怠げな寝起きの声ではなく、既にすっかりと覚醒している低い男の声。年季と高齢を感じさせる音でありながらも、太く強い大樹の様な重々しい響きが有る。
下士官が入った天幕の下には、彼らのよく見知った主の姿。
琥珀色の生地に黒の刺繍は兵団と揃いのデザインであり、彼の心が兵達と常に同じく有る事を示している。
無数のすり傷が入った太い指で報告書を受け取り、白い豊かな髭を撫でつつさらさらと書面に目を通す。
「……すまんが、ちょろっと読み上げてくれるか? 魔操具の文字はどうにも掠れが多くて字も細々と小さ過ぎる、老人には厳しいわい」
少しばかりムスッとして書類を返し、目を瞑って下士官の言葉に耳を傾ける。
内容はクランボーンの森に関しての諸々。ダークエルフ達の事情を考慮し偽装を施した上で派兵し、更に各戦線への増援をエクセター候が要請している。
既に第三軍はウェーマスとサルクームに対し五千ずつを投じており、今ヨービルに残る三万は万が一の為の備え。ウェーマスを抜かれたとしても第三軍が対応する構えではあるが、今までは何事も無く彼らは英気を養っていた。
「クランボーン、一体どこから……いや、詮索は後じゃな。今は一刻も早く……少なくとも敵は二千か、ならば三千いると考えよう……」
腕を組んで思案し、軍の勘案を全て頭の中で錯綜させる老骨の将。
長い白髪と白髭を備えた彫りの深い顔立ち、目を瞑りじっとしているだけであるにも関わらず、隆々とした肉体から発する気は柔らかく天幕の中を覆い尽くす。
ゆっくりと開かれる暗緑の瞳は、落ち着きと安堵を周囲に齎す。
「サルクームとウェーマスには一万ずつ送る、ここの穀潰しは三千もいれば良い。クランボーン近くに五千を潜ませておけ、万が一の場合は使いを走らせる。森に乗り込むのはわし自身が二千を率いて行く、これが騙せる限界ってとこじゃろう」
「ベドウィル様が……直々ですか? ……お言葉ではありますが、閣下が冒険者や傭兵に化けるというのは……」
ウェールズ候にして第三軍の主、ベドウィル。
隻腕にして常人の九倍の強さを成したと言われる円卓の騎士ベディヴィエールの裔にして、その渾名をそのまま拝命している偉丈夫の武人。
今でこそ現在の円卓最強の座を第二軍の主に譲ったが、七十に近い高齢となっても依然現役の将帥である。
問われたベドウィルは首を傾げ自身を見やるが、質問の意図が伝わっていない。
余りにも長大の巨躯と老人に似つかわしくない筋骨と佇まい。一介の冒険者や傭兵と幾ら言った所で、それを飲み込む者などいる訳が無い生粋の武人であった。
顔をまずくする下士官の頭をぽんぽんと叩き、今は急ぐべきであると柔和な態度で急がせる。まるで孫か何かに言い聞かせる様に。
「わしが率いていかんと数の差を埋めれんじゃろうが? 今すぐに全軍を起こし、二口ずつ酒を振舞ってやれ。急いては事を仕損じるとも言うが、兵は拙速を尊ぶもんじゃ。若いもんは少し駆け足くらいが丁度良いぞ」




