第51話 ワイト島 朱の海岸
ブリタニア南部中央、総面積にして三百八十キロ平米を誇るワイト島。
エクセターと王都圏の中間。双方にとって戦略上の重要地点であり、山海を問わず豊かな自然の恩恵を齎す実り多き地でもある。
だが今現在、南岸の潮騒と浜風に清涼なものは微塵も無い。
響くのはやけっぱちな怒声と激励、森に潜む敵への罵声。
風が運ぶのは張り付く様な血の臭いと、骸が放つ様々な死臭。
「腕下げるなあ!! 盾以外でも何でも……矢を防ぎ前進せよおお!」
浜辺に転がり屍塁を成すのは、茜の軍装に身を包んだカリング帝国の軍兵。
矢達磨のまま砂に伏した物、大火傷に覆われたまま波に揺られる物、失血死しても尚海を濃く染める物。
茜の装束と赤き血肉は浜を染上げ、悍ましき真紅の世界を作り出していた。
「おい魔導士共!! もっと気合を入れて火放てええ! 森を燃やせんのならお前達を焼き殺すぞお!!」
同輩の屍を踏み越え今日何度目かの突撃の、正に今が正念場。
南の浜全体を囲う様に広がる、この時の為に用意されていた森。エクセターの精鋭兵達はそこから容赦無く矢の雨を降り注がせ、茜の軍団は一歩一歩、砂浜に足を埋めながらその中を前に進む。
彼らが望むのは最早勝利でもなく島の奪取でもなく、只切実な生還のみ。
カリングがこの地を攻めだしてから早一週間余り。
夜襲は見破られ火計は迅速に対応され、残った手は愚直な数任せの力押しのみ。
しかし、未だ諦めてはいなかった。
沖の軍船から冷静に戦場を睨むのは、銀の甲冑に身を包む黒き肌。金の双眸と短い髪を備えた異国の騎士。
無数のカリング帝国の軍船。北海の民達のものとまではいかない造りだが、勇壮なロングシップが数百と荒縄で連なり、臨時的な海上の陣を形成している。
「……ムアンミデル様、今の突撃で我が方の被害は……これで三千を越して」
「無用の報告だ。犠牲者を悼む心があるのならば彼らの死を犬死ににはせぬ様に、何としてもこの地の確保に全力を尽くせ」
士官からの言にはピクリともせず、既に知っている報告を下げさせる。
ワイト島に集結しているカリングの兵は五万程。その内の三千の被害と言うのならば、まだ充分に戦闘を継続出来る。
とは言え、三千人の死というものは決して無視出来るものではない。
この場に限るものでも怨嗟の声はそこかしこで上がり、指揮官への不満は目に見えて表れている。彼の直属の兵達がいなければ、とっくに反乱が起こっていても不思議ではない。
更に後に控えている部隊再編や遺族への賠償、人口の偏りへの配慮等々……。
人の死というものは戦時においてはとても軽く当たり前に起き、そして大きな影響を与える。
「ムアン様、この地の旨味は承知しておりますが、このまま力攻めを続けるのは……。せめて我らを投入なさるべきでは?」
ムアンミデルの傍に控える近衛隊、その内の一人が進言する。
近衛の殆どは彼とは異郷、サラセン人では無くカリング帝国の臣民であり白人だが、帝国への忠誠とは別に、彼個人に対しても忠義を尽くしている。
それは主君の家名のみならず、その手腕と武技に依るもの。
「理解しているのならば今は控えていろ。私は兵達の命に対し責任を持つが故に、下らない依怙贔屓をするつもりは無い。諸君らに血を流してもらうのは浜を突破してから、島内部での陸戦だ」
この場の指揮官である彼の目からは、目の前の戦いは陸戦とは捉えていない。
波と砂に足を取られながら魔導士と弓兵の援護を受け、只管に森へと突き進むだけの作業。そもそも戦い合いになっていない。
この場で成し得る策は既に尽き、昼夜を問わずの物量作戦に切り替えて丸三日。
森へ踏み込む前に歩兵達は撃退され続け傍目には進捗は見られないが、ムアンミデル自身は勝機を掴んでいる。
報告から推察される敵の総数は多くとも一万余り、それを昼夜を問わず攻め続ければ数に勝るこちらが体力で勝る。
森に踏み込み陸地を確保出来れば、兵達を陸で休ませる事も出来る。そうなれば更にこちらが有利となり、敵がどう粘ろうとあと五日の内には橋頭堡を得られる。
そう目算を立てていた彼の元に、一人の伝令が走ってくる。
「プロヴァンス公殿、アーノルド閣下がお呼びで御座います。……至急お越し下さいます様」
顔色は変えずその報告を受け、もう一度戦場を見やってからムアンミデルは足を運ぶ。頭の中にあるのは目の前の事のみ、戦場の空気を計るのみだった。
呼ばれた先で待っていたのは茜の軍装に身を包んだ帝国大将。隆々とした筋骨を服の下から浮き上がらせ、短く揃えられた茶の髭を厳しい掌で撫でている。
「ムアンミデル殿、いつまでこの地に執着しているのかね? 貴殿の差配によって我が帝国軍は……決して少なくは無い被害を被っている。その上で得られたものが、砂粒一つも無いとはどういう事かね?」
開口一番、重々しい声で指揮官の責を問うアーノルド。
ムアンミデルは指揮権を握ってはいるが、肩書きはプロヴァンス公爵のみ。
軍籍は所持しておらず、今回の抜擢はカリング帝国の大帝直々によるもの。軍部も首脳部も異を唱える事はなかったが、面白く思っていない者は多い。
「このままの戦闘を継続すれば近い内に敵は音を上げます。矢も魔導士の体力も有限であり、こちらにはまだ余裕と本国からの助成も」
「傷病者は既に万を越えた。一刻も早く陸地を確保せねばならん。……その上で貴殿は更に数日或いはもっと長く、我々に猟虎の様な生活を強いるのかね?」
人が大勢集まり集団生活を続ければ、必然的に病やトラブルが発生する。
逃げ場の無い船上では脱走兵は抑えられるが、衛生環境は悪く病の蔓延が深刻。
戦闘以外での傷病者は犠牲者の数を遥かに上回り、全体での戦闘不能者数は切迫したものとなっていた。
突きつけられた黒人はしかし顔色一つ変えず、把握してはいるが管轄外の事であると事実をつき返す。
「私が陛下より与えられたのは最前線での指揮権のみです。兵站の管理運営や物資の差配、戦闘以外の事に関しては軍部が譲らず」
「知っているのなら我々の状況にも理解を示して頂きたい。私が言っているのはそういう事だ。……この地の重要性は理解しているが、いい加減に転戦すべきであると考える」
アーノルドは決して戦略を理解出来ていない訳ではない。ワイト島を確保できれば最良の足掛かりとなり、それだけで論功行賞の第一位にもなり得る程である。
故にこそムアンミデルの手柄にする訳にはいかず、おくびにも出さずに転戦を、攻撃目標を変えるべきだと提案する。
打診されたムアンミデルは一瞬思案を巡らせるが、頭を振って意思を示す。
既に何度か考えたことであり、愚策であると。
「ここ以上に押さえるべき場所はありません。よそへ転進しても海岸線の防備はどこも堅く、楽に取れる場所は無いかと」
「そうかね? 報告によれば西のウェーマスは……町長が軍と揉めた結果防備が手薄と報せが入っていただろう。これを逃がす手は無いと思うがね」
先年の冬頃、ウェーマスに赴任した新任の町長は軍部との折り合いが悪く、開戦した今になっても町への進駐を拒み続け、防備は無いに等しい。
当然、これはエクセター候の策であり、演技でもなく本当に軍を嫌う者を町長に就かせた身を切るものであった。
「閣下、それはウェーマスに入った我らを迎撃する罠であると既に看破されたもののはず。みすみす飛び込んで行く様な真似は……」
「ウェーマスから突破出来ればヨービルでもバースでも……上手くいけばブリストルさえ陥とせる。……迎え撃たれるのがマズいと言うのなら、あれこそマズいのでは無いのかね?」
議論の裏でも浜辺での苦戦は依然続いている。
撃退され戦意を失った部隊は浜に乗り上げた船の陰に隠れ、尚も諦めていない少数の隊は何とか矢を凌ぎ森に肉迫し、魔導士の炎に包まれる。
阿鼻叫喚が木霊する戦場を指差され、しかし銀の騎士は引き下がらない。
「ウェーマスの価値を否定はしませんが、閣下も先に仰った通り、戦術的な価値を求めるのであればワイト島以上はありません。今この地を離れれば、それこそ死んでいった者達の命が」
「言いたい事は解る。が……死者よりも生者を尊重したまえ。これ以上の船上生活を兵達に強いれば文字通りに寝込みを襲われる事になるぞ。……栄えある円卓の末裔が辿るには、悲惨過ぎる末路と思わんかね?」
円卓の一員として武名を轟かせた異邦の騎士、パロミデス。
ブリタニアから大陸に帰った後、プロヴァンスの公爵として封じられた後の子孫、それがムアンミデルである。
脅しと心配を織り交ぜ、何とか転戦の方針を飲ませようとするアーノルド。
決して全てが演技と言う訳でもなく、目の前の人物を裏切りにより海の藻屑にするのは、余りに忍びないと言うのも本心ではある。
だが、黒肌の騎士は態度を変えずに、あくまで目の前の戦場へ目を返す。
「例え闇討ちであろうと船上であろうと、我らが遅れを取る事はありません。ご厚意には感謝しますが、戦略へのご意見は却下させて頂きます。この地を得るまであと数日、どうかご協力の程を……」
自身の船へ去って行く銀の騎士。その足取りに迷いは無く、傍を固める近衛達も整然とそれに続く。
しかし、アーノルドが動いたのは決してお人好しの心からでは無く、滾る野心によるもの。みすみす武功を明け渡す気は無く、陣中の忍耐が限界なのも事実。
揺ぎ無い騎士の背に聞こえる様に、わざとらしく強権を振るうと宣言する。
「ならば仕方あるまい……私は大将としての権限を使い、この場にいる兵を我が指揮下に収める。命令に従わぬ者はプロヴァンス公に任せるが……果たしてどれだけの数が残るだろうな」
「……ッ!」
君主であるカリング帝が与えたムアンミデルへの指揮権。アーノルドは真っ向からそれに対抗し、実質的にこの場での権限を彼から奪い取る。
当然重罪であり帝国の法に照らせば極刑であるが、それも時と場合による。
例え君命を破る事になろうとも、それによって功を上げればその罪は軽減され、皇帝の機嫌次第によっては丸々免除になった事も、過去幾つかの事例がある。
カリング帝国が強大な版図を築くに至った原動力の一つであり、同時に、国としての安定期に入った今では悪習と見做している者もいる。
帝国で代々軍の高官として名を成してきたアーノルドの家系。
決して父祖からのコネクションや七光りでは無く、実力によってのみ名を残してきた輝かしい歴々。それは軍内部で広く人気を博しており、今この場で事を起こせばどうなるか、自身の予想にムアンミデルの目は鋭くなる。
「貴殿の直参の兵達は私には従わんだろうが……三千だったかな? それだけで島を攻めるのは自殺行為であろう、大人しく付いて来ると良い。……ウェーマスへ転進する、怪我人と病人の移送を……」
金眼に血走りを走らせる銀の騎士。
それを相手にはせずにアーノルドは全軍への指示を飛ばす。
自身の野望の為にも兵の暴走を抑える為にも、座して待つ訳には行かなかった。
翌日、アーノルド率いるカリング帝国の本軍は、労せずしてウェーマスを奪う。
住民の避難はほぼ完了しており、避難命令に従わなかった少数のみがその犠牲となった。
フィオン達がその地に赴くまでは、まだ僅かばかりの時が有る。




