第36話 交わらぬ追想
魔獣との死闘の翌日、穏やかな日差しと微風凪ぐアスローン。
街の北部、リー湖の畔。朝早くから広場で稽古をするフィオンとロンメル。
体は休息を欲していたが燻る様な感情はそうはさせず、ロンメルは話しがあるとフィオンを誘った。明言されてはいないが、昨日の一件に他ならない。
フィオンの腕にはまだ痛々しい痣が残り、老兵の体にも無数の傷。
憔悴し切っていたアメリアに治癒をさせる事は出来ず、それがなくとも、二人は自然に癒やす事を選んだ。どの道、心にも幾らかの時間が必要である。
「弓のせいか、お主は押すよりも引く力の方に長けておる。切り倒すよりも、切り上げる……突きよりも払う方に長じておる。それを念頭に立ち回るべきじゃな」
互いに手頃な木の棒を、槍に見合うものは無かったので剣に見立てたもので打ち合いながら、ロンメルはフィオンを分析し教え導く。
剣は弓の補助としか考えていなかったフィオンにとって得るものが多い。
だが、まだ肝心の話には踏み込んでいない。
夏の終わりの涼しくなってきた空気。湖面を優しく撫でる風。小気味良く木の棒が打ち合う音。乾いた音がリズム良く奏でられ消えて行く。
打ち合う二人は倒す為では無く、体の機能の確認、心の在り方を見定める為。
そして少しずつ時を刻む様に、互いの心を量る様にそれを振るう。
「……話は解るけどよ、体に染み込んだもんはどうしてもな。突くのが一番リーチあって見切られ難く、動作も早い。多用すんのはしょうがねえだろ」
フィオンも話を急がせるつもりは無い。わざわざ呼び出された以上ロンメルは腹を括っており、それは顔や仕草、気配に幾らか滲み出ている。
そしてフィオン一人を呼び出した以上は、話の内容にも想像が付く。
「リーチの話になるのなら、それこそ弓の本分であろう。剣があくまで補助と言う事は忘れてはならん。……少し休憩するか。稽古のついででは、頭が纏まらん」
湖畔に腰を落とすロンメル。
何を言われるまでも無く、フィオンも傍に座り言葉を待つ。
携えている水筒の中身はヴィッキーが調えた水薬。薬と言っても味は飲み易く、淡く澄んだ緑色。
給水と滋養を兼ねたそれを口にしつつ、ロンメルは順を追って口を開く。
「わしもそれなりに個別の討伐依頼はこなしてきたが……。昨日の奴は明らかに異常じゃった、デカさも力もな……」
個別に討伐依頼の標的となる魔物。幾ら長年を生き力を蓄えたとしても、種としての限度を越え成長や進歩をする事は無い。魔獣での限度は最大でも二倍程。
だが昨日のヘルハウンドは、ロンメルが見知っているものの五倍以上は有った。
人に当て嵌めると十メートル近くの巨人になってしまう。
当然、フィオンがレクサムで戦ったものとも余りに違い過ぎた。
「あれが何だったのかは幾ら考えても解んねえが……あれを見た途端に二人は固まっちまったな。……アメリアには、話し難い事なんだろ?」
「そうさな……少し血生臭い話じゃ。昨日の今日で譲ちゃんに話すのは……なあ。じゃが黙ったままにも出来ん。お前さんにだけでも話しておこうと思ってな」
湖面に目を走らせ考えを纏めるロンメル。
関係が有る事なのか右腕の義手の付け根、肩口をさする様に手で労わり、過ぎ去りし日に思いを馳せる。水筒に一口付けて喉を潤し、話を始める。
「わしが軍におった頃……もう新兵でもなく現場に慣れた、二十年程前かのお。まだ本土に魔物がおった頃とある救助任務に就いた。魔獣に襲われたという話でな。正直に言って……珍しいものでは無かった」
魔物がいた頃の本土での任務。魔物に襲われ軍に助けを請う村人。
襲われた側からは堪ったものではなく正に命の危機。だが助けを請われた軍からすると、数多くある任務の一つでしかなく、珍しい内容でもなかった。
「半端に現場に慣れておったわしは、舐めておった。いつもの事だとな。それこそ昨日の第一軍。あれより酷い態度の奴も……いや、わしも似た様なもんじゃった」
「……想像できねえが、まあ年齢で性格変わるのはある程度はあんだろ。二十四歳が言うのも何だけどな」
やれやれと首を振るロンメルに、若い時分で年を語るフィオン。
十八の年で酷い挫折を味わった青年の精神は、幾分かジジ臭く捻くれたものになっていた。
だが話の焦点は別にある。老兵はすぐさま舵を切り直す。
「現地に到着すると、既に先遣隊は全滅しておった。……じゃが、その時の奴らは新兵が中心の訓練部隊じゃった。報せを受けた本隊のわしらは、まだ敵を舐めて掛かり、全滅した奴らへ暢気に舌打ちなんぞをしておった。……すぐに後悔する事も知らずにな」
ロンメルは少し話を区切り、遠い目をして溜め息をつく。
若かりし日の己へ向けてか、今から話す事への躊躇いからか、判別は付かない。
そのまま遠い目でどこかを見やりながら、苦々しく口を開く。
「現場は民家じゃった、そこに魔獣が一匹押し込んだと。わしらが踏み込んだ時は……既に血の海じゃった、昨日の比にならん程にな。貪る魔獣を目にした瞬間、怖気が走ったわい。昨日の奴と同じ位か、もしかするともう少し……。漸くわしらは事の重大さに気付き武器を手に取った。死に物狂いでやり合って何とか一人だけ助ける事は出来たが……。その時、こっちを持って行かれちまったわい」
右腕、魔道の義手をロンメルは日に翳す。
鈍く黒い光を反射させる魔道の産物。無数の傷痕は老兵の戦歴を物語り、隆々とした生身の筋骨は、不覚や侮りがあった過去を微塵も感じさせない。
俄には信じ難いロンメルの過去の失敗。
耳を傾けるフィオンは無言で先を待つ。
「昨日の奴は、その時の事を彷彿とさせてな。情けない話じゃが、頭まで持って行かれちまったわい。全く……とっくに乗り越えたと思っておったんじゃがな」
「トラウマが蘇ったって事か。そういう事なら……いや、元々とやかく言うつもりはねえ、気にすんなよ。ロンメルにはいつも世話になってんだ。……ヴィッキーも、同じ様な理由かな?」
言い終え頭を下げるロンメルに、フィオンは謝罪の必要性を否定する。
昨日の戦いでもロンメルは最も危険な場に身を曝し、骨身を削って持ち堪えてくれた。元々責める気は微塵も無かったフィオンは、話は済んだと話題を変える。
適当にヴィッキーに疑問を馳せ「……さてな」と相槌を打つ老兵。
出掛け際、彼女達も今日は気晴らしに費やすという事を二人に伝えていた。
§§§
街の中央を南北に流れるリー湖と繋がるシャノン川。
川幅は百メートルに達する箇所もあり、東西を繋ぐ橋は街の中に三箇所。
川岸には荷揚げの場として幾つかの桟橋と遊歩道が整備され、植樹ではなく自然のものが残された木々が立ち並ぶ。
引っ張って来たヴィッキーと、引っ張られて来たアメリア。二人でのんびりと日陰のベンチに腰掛け、川をそよぐ風を穏やかに浴びている。
まだ少し気落ちしベッドで丸まっていたアメリアを引っ張り、自身のリフレッシュも兼ねて、今は平穏の中に心を置くヴィッキー。
放っておかれたいか構って欲しいのか、自分でもよく解らない心情のアメリア。 複雑な表情で川面を眺め、暢気にしている水鳥を眺めている。
「まだ引き摺ってんのかい? あたしが言うのも何だが、あの二人はあんたのせいじゃないよ。無関係なんて口が裂けても言えないが……。あんたが背負うべきものじゃないのは確かだよ」
自身が治癒をして助けられなかった。アメリアには初めての事であり、原因も理由も何も解らず、力が及ばなかった事に気が沈んでいる。
ヴィッキーの言葉には耳を傾けその意思も汲み取るが、複雑な少女の心は簡単には上向かない。今は時間の経過がどうしても必要だった。
難しい溜め息を返すのみで、少女の心は言葉にならない。
「まあ、ほんとにあたしが言えた事じゃないね。ぼけっと突っ立って泡吹いて……。いつも威張ってた分際で、情けないったらありゃしない。……ごめんよ」
「それは……私も、結局誰も助けられなかったから。……同じだよ」
心を喪失し何も出来なかったヴィッキー。
心を砕いたが誰も救えなかったアメリア。
結果だけを見れば二人共あの場では成果を出せず、むしろいなかった方が良かったかもしれない。
だが魔導士は結果だけを見る生き物では無い。過程無くして導き出される答えは無く、過程を追及しより良い結果を求めるのが魔道の道。
あくまで冷静な頭でヴィッキーは思考を走らせ、少女の発言を否定する。
「アメリアの治癒が働かなかった理由は解らない。そもそもあんたの力自体がどういうもんだか、あたしもあんたも解ってない。助けようとして上手く行かなかった事は、理由の解らない結果論でしか無いさ。……勝手に、ちょっと万能のもんだと誤解してたんだよ。それが上手くいかなかったのなら、次は……?」
二人の前にふわふわと漂ってくるのは、既に何度目かの精霊グラス。
揺らめく青い炎の、上の方だけをぺこっと下げてお辞儀の様に挨拶してきた。
いつもの様に軽口は開かず、二人の陰気を感じ取ったのか静々と質問する。
「お二人には珍しい気配ですが、何かありましたか? いえ、冒険者は常に何事か有るのが日常でしょうが……。それにしても似合わぬ様子でしたので」
「んー……ちょっと色々とね。うちらだけじゃなくよそも関係してる事なんだが……。アメリア、あくまであんたの意思次第だが、話してみたらどうだい? 実際に言葉に出してみると、色々整理が付いたりするもんだよ」
事はアンディール達の、更に死者達にまで及ぶ。
軽口に挙げる事は人として逸脱する行為。有り得てはならない事。
だが、最後まで力を尽くし今も心を痛めるアメリアならば、資格がある。決して遊び半分の心持ちではなく、少女が前を向く為の一助を願っての提案。
話す相手としても精霊グラスならば問題は無いだろう。
惑い口を噤むアメリアだが、ヴィッキーの真剣な眼差しとグラスの傾聴に、少しずつ口を開く。順を追って簡潔に、昨日の顛末を真摯に語る。
いつも通り依頼へ出発し、想定外の強敵と遭遇。その場になって初めて覚悟が甘かった事に気付いた。それでも成すべきを成そうとし、何も出来ず終わった事。
朝早くの川岸の一角。道行く人はちらほらといるが、盗み聞く無粋者はいない。
話を聞き終えたグラスは二人の様子に幾らか合点がいき、同時に、幾つか湧いた疑問を率直に言葉にする。精霊故の純粋さで、人とは違う心の機微で。
「死を悼んでいるという事は解りました。しかしやはり、アメリアが行く前に彼らはやられたのでしょう? それに対してまであなたが責任を感じるのは、余計なお節介というか……傲慢なのではないですか? そもそもその嘆きは、誰に対してのものですか? もしかするとそれは、彼らではなく自身を……」
「…………それは。……私、は……」
冷たく淡々とした疑問の提示。
問われたアメリアは先程とは違う葛藤で言葉に窮する。
嘆きは故人に対してか。或いは自身を儚む自己愛、エゴイズムなものなのか。
そして、これに黙っていられるほど隣人は薄情でも無い。
ヴィッキーは無遠慮とも取れる精霊グラスに対し、敵意を混ぜて言葉を返す。
「そいつは人として当たり前の心の動きだ。死者を嘆く事も自身の無力を後悔する事も、終わった後に幾らか引き摺る事もね。何も感じない奴何ざ、それこそ生き物じゃないか……どこぞの精霊様位のもんだろうね」
「……そうですね。少し踏み込みすぎました、謝罪しましょう。……お詫びといっては何ですが、何か解るかもしれません。あなたの力を使ってくれますか?」
敵意はさっと受け流しすんなりと謝罪したグラスは、アメリアの前にふよふよと浮かび、自身へ治癒の力を使う事を提案する。
魔道とは異なるものであり、ヴィッキーでさえも原理や詳細が判然としていないアメリアの力。それの解明に一肌抜くと言っている。
二人は一度頷き合って合意を交わし、アメリアは蒼い人魂の精霊へ手を翳す。
「おぉ、これは……。なるほ、ど? ……うーむむむ……これは」
「どう、だったんですか? 私のこれ……解りましたか?」
精霊グラスはぐねぐねと、人魂の体をくねらせている。よくは解らないが、言葉を探しているか悩んでいる様子。二人は逸る気持ちを抑えて待つ。
しかし答えは難しいのか、依然炎の体をぐねぐねとしながら所感を口にする。
「恐らく……傷を癒すというよりは、対象のマナを活性化させ……。自己治癒の補助を、いえ補助と言うには余りに莫大ですが……。治癒そのものではなく、相手の生きる力を増幅させているのでしょう。……死に瀕した者に効かなかったのは、既にその者の命自体が消えかかっていたのが原因かと」
「……+じゃなくて×って事か。そういう事なら瀕死の者には……。アメリア、気にするなって言っても気にするだろうが、少なくともあんたが何か間違った訳じゃない。そこだけは履き違えちゃダメだよ。あんたの為にも、彼らの為にもだ」
少しばかり前進を得て、アメリアは今出来る精一杯の笑みをする。満面の笑みとはいかない苦しい笑顔だが、後は時間の経過で心は整理されるだろう。
精霊グラスは軽い挨拶と共にまたどこかへと去って行く。こちらは何も引き摺っている様子は無く、心が有るのか無いのか今一解らない。
それを見届けた後、少し心が上向いた少女を見ながら、魔導士は昨日の謝罪と原因を口にする。普段よりも硬い唇、それを紛らわそうと言う軽い口調。
「昨日は本当にすまなかったね、肝心の所でビビっちまってさ。あたしがシャンとしてれば……いや、無意味な仮定かね」
「ヴィッキーは……。でも、何か理由が有るんでしょ? ヴィッキーが本当に怖がるなんて事は、前に何か……。気にはなるけど、無理して話さなくて……も」
ヴィッキーの様子から、話し難い事を話そうとしていると感じ取ったアメリア。
だがヴィッキーは少女の頭を撫で、金の髪をわしゃわしゃとして黙らせる。
とっくに話す腹積もりは出来ていたが、少々血生臭い故にアメリアの回復を待っていただけの事。今は大人しく話を聞けと、手で示しながら言葉を紡ぐ。
「昔ね、小さい頃に魔獣に襲われたのさ。右目はその時にね。……随分とでかい被害が出ちまって、あたしを助けてくれた兵隊さんらも結構犠牲になったらしい。それをバネにして魔導士の道を歩んできたが、昨日の奴で思い出しちまったよ。……記憶には薄いんだが、多分似た感じだったんだろう」
右だけ伸ばされた前髪、その奥の黒い眼帯を見せながら魔導士は独白した。
以前にも治癒を試した潰された右目。既に癒え切った傷や、部位欠損に効果が無いのは確認が取れている。
話を聞いたアメリアは暗い顔はせず、辛い過去を話してくれたヴィッキーへ、感謝の気持ちを表し小さく頷いた。
再びベンチに深く体を預け、ほぅっと息を漏らす。
「……それでヴィッキーは、ずっと魔導士を? 昔ってどれぐらい前の事?」
「十年以上前の事さ。魔導士のきっかけには違いないが……いや、もうよそう。辛気臭い話をしちまったね、この話はもうお終い。……遺されたもんはせめて、逝っちまった奴らの分も明るく生きよう。それが彼らの願いだと、あたしはそう思う事にしてる」
死者が最期に思う事は何か。それを綴る事は難しい。
未体験の領分は思考で補う他は無く、ヴィッキーは死者の願いは生者の幸せだと考える。少なくとも、その不幸や暗い未来を願う事は無い筈だと。
彼女が強く輝かしく立ち振る舞うのも、そういう想いが根底にあるが故。
とは言え、そんな意地っ張りにも休息は必要。今日の所はベンチと一体化し風に身を任せる。川面をなぞる赤の瞳は淡く微睡み、普段の鋭さは欠片も無い。
同じくする隣の少女は聞かされた話を反芻し、一人の老人へと疑問をもたげる。
「そういえば、ロンメルさんも同じ様になってたよね? ヴィッキーと同じ様な事、前に有ったのかな?」
アメリアの疑問に「さーてね……」と生返事を返す気だるげなヴィッキー。
声は夏の終わりを報せる涼しい風に乗り、どこかへと消える。
春が過ぎ夏が過ぎ、秋の到来を静かに待つ一行。
舞台の焦点は一時ヒベルニアから、ブリタニア南東部、王都へと移る。




